史記 / 斉悼恵王世家
章曰:「深耕穊種,立苗欲疏,非其種者,鉏而去之。」呂后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之,而還報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之。」太后左右皆大驚。業已許其軍法,無以罪也。因罷。自是之後,諸呂憚朱虛侯,雖大臣皆依朱虛侯,劉氏為益彊。其明年,高后崩。趙王呂祿為上將軍,呂王產為相國,皆居長安中,聚兵以威大臣,欲為亂。朱虛侯章以呂祿女為婦,知其謀,乃使人陰出告其兄齊王,欲令發兵西,朱虛侯、東牟侯為內應,以誅諸呂,因立齊王為帝。齊王既聞此計,乃與其舅父駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平聞之,乃發卒衛王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王,固善。勃請為君將兵衛衛王。」召平信之,乃使魏勃將兵圍王宮。勃既將兵,使圍相府。召平曰:「嗟乎!道家之言『當斷不斷,反受其亂』,乃是也。」遂自殺。於是齊王以駟鈞為相,魏勃為將軍,祝午為內史,悉發國中兵。使祝午東詐瑯邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以兒子,年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王自高帝將也,習戰事。齊王不敢離兵,使臣請大王幸之臨菑見齊王計事,并將齊兵以西平關中之亂。」
新字:章曰:「深耕穊種,立苗欲疏,非其種者,鉏而去之。」呂后黙然。頃之,諸呂有一人酔,亡酒,章追,抜剣斬之,而還報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之。」太后左右皆大驚。業已許其軍法,無以罪也。因罷。自是之後,諸呂憚朱虚侯,雖大臣皆依朱虚侯,劉氏為益彊。其明年,高后崩。趙王呂禄為上将軍,呂王産為相国,皆居長安中,聚兵以威大臣,欲為乱。朱虚侯章以呂禄女為婦,知其謀,乃使人陰出告其兄斉王,欲令発兵西,朱虚侯、東牟侯為内応,以誅諸呂,因立斉王為帝。斉王既聞此計,乃与其舅父駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀発兵。斉相召平聞之,乃発卒衛王宮。魏勃紿召平曰:「王欲発兵,非有漢虎符験也。而相君囲王,固善。勃請為君将兵衛衛王。」召平信之,乃使魏勃将兵囲王宮。勃既将兵,使囲相府。召平曰:「嗟乎!道家之言『当断不断,反受其乱』,乃是也。」遂自殺。於是斉王以駟鈞為相,魏勃為将軍,祝午為内史,悉発国中兵。使祝午東詐瑯邪王曰:「呂氏作乱,斉王発兵欲西誅之。斉王自以児子,年少,不習兵革之事,願舉国委大王。大王自高帝将也,習戦事。斉王不敢離兵,使臣請大王幸之臨菑見斉王計事,并将斉兵以西平関中之乱。」
書き下し
章曰く、「深く耕し穊く種ゑ、苗を立つるは疏らならんことを欲す、其の種に非ざる者は、鉏きて之を去る」と。呂后默然たり。頃之くして、諸呂に一人酔ひて、酒を亡るる有り、章追ひ、剣を抜きて之を斬り、而して還りて報じて曰く、「酒を亡るる者一人有り、臣謹んで法を行ひて之を斬る」と。太后の左右皆大いに驚く。業已に其の軍法を許す、以て罪する無きなり。因りて罷む。是より後、諸呂朱虚侯を憚り、大臣と雖も皆朱虚侯に依る、劉氏益々彊しと為す。其の明年、高后崩ず。趙王呂禄上将軍と為り、呂王産相国と為り、皆長安中に居り、兵を聚めて以て大臣を威し、乱を為さんと欲す。朱虚侯章呂禄の女を以て婦と為し、其の謀を知り、乃ち人をして陰かに出でて其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめんと欲す、朱虚侯・東牟侯は内応を為し、以て諸呂を誅し、因りて斉王を立てて帝と為さんとす。斉王既に此の計を聞き、乃ち其の舅父駟鈞・郎中令祝午・中尉魏勃と陰かに兵を発せんと謀る。斉の相召平之を聞き、乃ち卒を発して王宮を衛る。魏勃召平を紿きて曰く、「王兵を発せんと欲するも、漢の虎符の験有るに非ざるなり。而して相君王を囲むは、固より善し。勃請ふ君の為に兵を将ゐて衛りて王を衛らん」と。召平之を信じ、乃ち魏勃をして兵を将ゐて王宮を囲ましむ。勃既に兵を将ゐ、相府を囲ましむ。召平曰く、「嗟乎、道家の言に『当に断ずべくして断ぜざれば、反りて其の乱を受く』と、乃ち是なり」と。遂に自殺す。是に於て斉王駟鈞を以て相と為し、魏勃を将軍と為し、祝午を内史と為し、悉く国中の兵を発す。祝午をして東のかた瑯邪王を詐らしめて曰く、「呂氏乱を作す、斉王兵を発して西して之を誅せんと欲す。斉王自ら児子にして、年少く、兵革の事に習はざるを以て、国を挙げて大王に委ねんことを願ふ。大王は高帝より将たり、戦事に習ふ。斉王敢へて兵を離れず、臣をして大王に請ひて臨菑に幸して斉王に見えて事を計り、并せて斉の兵を将ゐて以て西のかた関中の乱を平らげしめんとす」と。
現代語訳
劉章は歌った。「深く耕して種を密にまき、苗を育てるには間をまばらにしたい。種類の違う苗は、鍬で抜き取ってしまえ」。呂后は黙ってしまった。しばらくして、呂氏の一人が酔って宴席から逃げ出した。劉章は追いかけ、剣を抜いて斬り殺し、戻ってきて報告した。「酒席から逃げた者が一人いたので、謹んで軍法を執行して斬った」。太后の側近たちはみな大いに驚いた。しかしすでに軍法による取り締まりを許していたので、罪に問うことはできなかった。そこで宴はお開きとなった。これ以後、呂氏の者たちは朱虚侯を恐れ、大臣たちでさえみな朱虚侯を頼りにするようになり、劉氏の勢いはますます強まった。その翌年、高后が崩じた。趙王呂禄は上将軍となり、呂王呂産は相国となって、ともに長安にいて兵を集めて大臣たちを威圧し、反乱を起こそうとした。朱虚侯劉章は呂禄の娘を妻としていたのでその陰謀を知り、ひそかに人を都から出して兄の斉王に告げさせ、兵を発して西へ攻め上らせようとした。朱虚侯と東牟侯が内応して呂氏一族を誅し、そのまま斉王を帝に立てるという計画であった。斉王はこの計画を聞くと、母方の叔父の駟鈞(しきん)、郎中令の祝午、中尉の魏勃とひそかに挙兵を謀った。斉の宰相召平(しょうへい)はこれを聞くと、兵を出して王宮を包囲し、守りを固めた。魏勃は召平を欺いて言った。「王は兵を発しようとしているが、漢の虎符(兵を動かす割り符)の証がない。宰相が王宮を囲むのはもっともなことだ。どうか私にあなたの代わりに兵を率いて王宮を見張らせていただきたい」。召平はこれを信じ、魏勃に兵を率いて王宮を囲ませた。ところが魏勃は兵を手にすると、逆に宰相府を囲ませた。召平は言った。「ああ、道家の言葉に『断ずべきときに断じなければ、かえって乱を受ける』とあるが、まさにこのことだ」。そして自殺した。こうして斉王は駟鈞を宰相、魏勃を将軍、祝午を内史とし、国中の兵をことごとく動員した。そして祝午を東へ遣わし、瑯邪王を欺いて言わせた。「呂氏が乱を起こしたので、斉王は兵を発して西へ攻め上り、これを誅そうとしている。斉王は自分がまだ子どもで年若く、戦のことに慣れていないので、国を挙げて大王に委ねたいと願っている。大王は高帝の時代から将軍として戦に慣れておられる。斉王は軍を離れるわけにはいかないので、私を遣わして、大王に臨菑(りんし)へお越しいただき、斉王と会って事を計り、斉の兵も合わせて率いて西へ向かい、関中の乱を平らげていただきたいとお願いする次第だ」。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀高后已に葬る、左丞相審食其を以て帝の太傅と為す。朱虚侯劉章気力有り、東牟侯興居は其の弟なり。皆斉の哀王の弟にして、長安に居る。是の時に当たりて、諸呂事を用ゐて権を擅にし、乱を為さんと欲す、高帝の故の大臣絳・灌等を畏れ、未だ敢へて発せず。朱虚侯の婦は、呂禄の女なり、陰かに其の謀を知る。誅せられんことを恐れ、乃ち陰かに人をして其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめ、諸呂を誅して立たしめんと欲す。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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史記 斉悼恵王世家斉の悼恵王劉肥は、高祖の長庶男なり。其の母は外婦なり、曹氏と曰ふ。高祖六年、肥を立てて斉王と為し、七十城を食ましめ、諸民の能く斉言する者は皆斉王に予ふ。斉王は、孝恵帝の兄なり。孝恵帝二年、斉王入朝す。恵帝斉王と燕飲し、亢礼すること家人の如し。呂太后怒り、且に斉王を誅せんとす。斉王懼れて脱るるを得ざらんとし、乃ち其の内史勲の計を用ひ、城陽郡を献じ、以て魯元公主の湯沐邑と為す。呂太后喜び、乃ち辞して国に就くを得たり。悼恵王即位して十三年、恵帝六年を以て卒す。子襄立つ、是れを哀王と為す。哀王元年、孝恵帝崩じ、呂太后制を称し、天下の事皆高后に決す。二年、高后其の兄の子酈侯呂台を立てて呂王と為し、斉の済南郡を割きて呂王の奉邑と為す。哀王三年、其の弟章入りて漢に宿衛す、呂太后封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。後四年、章の弟興居を封じて東牟侯と為し、皆長安中に宿衛す。哀王八年、高后斉の瑯邪郡を割きて営陵侯劉沢を立てて瑯邪王と為す。其の明年、趙王友入朝し、邸に幽死す。三趙王皆廃せらる。高后諸呂を立て諸呂を三王と為し、権を擅にし事を用ふ。朱虚侯年二十、気力有り、劉氏の職を得ざるを忿る。嘗て入りて高后の燕飲に侍す、高后朱虚侯劉章をして酒吏為らしむ。章自ら請ひて曰く、「臣は、将種なり、請ふ軍法を以て酒を行ふを得ん」と。高后曰く、「可なり」と。酒酣にして、章進みて飲み歌舞す。已にして曰く、「請ふ太后の為に耕田の歌を言はん」と。高后之を児子として畜ひ、笑ひて曰く、「顧ふに而の父は田を知るのみ。若は生まれて王子為り、安んぞ田を知らんや」と。章曰く、「臣之を知る」と。太后曰く、「試みに我が為に田を言へ」と。
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史記 斉悼恵王世家斉王之を聞き、乃ち西のかた其の故の済南郡を取り、亦た兵を斉の西界に屯して以て約を待つ。呂禄・呂産関中に乱を作さんと欲す、朱虚侯太尉勃・丞相平等と之を誅す。朱虚侯首め先づ呂産を斬る、是に於て太尉勃等乃ち尽く諸呂を誅するを得たり。而して瑯邪王も亦た斉より長安に至る。大臣議して斉王を立てんと欲す、而して瑯邪王及び大臣曰く、「斉王の母家駟鈞は、悪戻にして、虎にして冠する者なり。方に呂氏の故を以て幾ど天下を乱さんとす、今又斉王を立つるは、是れ復た呂氏を為さんと欲するなり。代王の母家薄氏は、君子長者なり。且つ代王は又親しく高帝の子なり、今に於て見在し、且つ最も長と為す。子を以てすれば則ち順なり、善人を以てすれば則ち大臣安し」と。是に於て大臣乃ち代王を迎立せんと謀り、而して朱虚侯を遣はして呂氏を誅するの事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰滎陽に在り、魏勃の本斉王に反くことを教ふるを聞き、既に呂氏を誅し、斉の兵を罷め、使をして魏勃を召して責問せしむ。勃曰く、「失火の家、豈に先づ大人に言ひて而る後に火を救ふに暇あらんや」と。因りて退きて立ち、股戦きて栗へ、言ふ能はざらんことを恐るる者のごとく、終に他語無し。灌将軍熟視して笑ひて曰く、「人魏勃を勇と謂ふ、妄庸の人なるのみ、何ぞ能く為さんや」と。乃ち魏勃を罷む。魏勃の父は鼓琴を善くするを以て秦の皇帝に見ゆ。魏勃少き時に及び、斉の相曹参に見えんことを求むるも、家貧しくして以て自ら通ずる無く、乃ち常に独り早夜に斉の相の舎人の門外を埽ふ。相の舎人之を怪しみ、以て物と為し、而して之を伺ひ、勃を得たり。勃曰く、「相君に見えんことを願へども、因無し、故に子の為に埽ひ、以て見えんことを求めんと欲す」と。是に於て舎人勃を曹参に見えしめ、因りて以て舎人と為す。一たび参の御と為り、事を言ふ、参以て賢と為し、之を斉の悼恵王に言ふ。悼恵王召し見て、則ち拝して内史と為す。始め、悼恵王自ら二千石を置くを得たり。
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史記 斉悼恵王世家城陽の景王章は、斉の悼恵王の子なり、朱虚侯を以て大臣と共に諸呂を誅す、而して章身づから首め先づ相国呂王産を未央宮に斬る。孝文帝既に立ち、章を益封すること二千戸、金千斤を賜ふ。斉の城陽郡を以て章を立てて城陽王と為す。立ちて二年にして卒し、子喜立つ、是れを共王と為す。共王八年、徙りて淮南に王たり。四年にして、復た還りて城陽に王たり。凡そ三十三年にして卒し、子[建]延立つ、是れを頃王と為す。頃王二十八年にして卒し、子義立つ、是れを敬王と為す。敬王九年にして卒し、子武立つ、是れを恵王と為す。恵王十一年にして卒し、子順立つ、是れを荒王と為す。荒王四十六年にして卒し、子恢立つ、是れを戴王と為す。戴王八年にして卒し、子景立つ、至りて、十五歳にして、卒す。済北王興居は、斉の悼恵王の子なり、東牟侯を以て大臣を助けて諸呂を誅す、功少なし。文帝の代より来たるに及び、興居曰く、「請ふ太仆嬰と入りて宮を清めん」と。少帝を廃し、共に大臣と孝文帝を尊立す。孝文帝二年、斉の済北郡を以て興居を立てて済北王と為し、城陽王と倶に立つ。立ちて二年にして、反く。始め大臣の呂氏を誅する時、朱虚侯の功尤も大なり、尽く趙の地を以て朱虚侯を王とし、尽く梁の地を以て東牟侯を王とせんことを許す。孝文帝立つに及び、朱虚・東牟の初め斉王を立てんと欲せしを聞き、故に其の功を絀く。二年に及び、諸子を王とし、乃ち斉の二郡を割きて以て章・興居を王とす。章・興居自ら職を失ひ功を奪はると以へり。章死し、而して興居匈奴の大いに漢に入り、漢多く兵を発し、丞相灌嬰をして之を撃たしめ、文帝親ら太原に幸するを聞き、以為へらく天子自ら胡を撃つと、遂に兵を済北に発して反く。天子之を聞き、丞相及び行兵を罷め、皆長安に帰らしむ。
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史記 呂太后本紀列侯群臣自ら其の命を堅くする莫し。太尉絳侯勃軍中に入りて兵を主るを得ず。曲周侯酈商老い病み、其の子寄呂禄と善し。絳侯乃ち丞相陳平と謀り、人をして酈商を劫かさしむ。其の子寄をして往きて紿(あざむ)きて呂禄に説かしめて曰く、「高帝呂后と共に天下を定む、劉氏の立つる所の九王、呂氏の立つる所の三王、皆大臣の議なり、事已に諸侯に布告し、諸侯皆以て宜しと為す。今太后崩じ、帝少し、而して足下趙王の印を佩び、急ぎ国に之きて藩を守らず、乃ち上将と為り、兵を将ゐて此に留まる、大臣諸侯の疑ふ所と為る。足下何ぞ印を帰し、兵を以て太尉に属せざる。請ふ梁王をして相国の印を帰し、大臣と盟ひて国に之かしめば、斉の兵必ず罷め、大臣安んずるを得、足下枕を高くして千里に王たらん、此れ万世の利なり。」と。呂禄信に其の計を然りとし、将の印を帰し、兵を以て太尉に属せんと欲す。人をして呂産及び諸呂の老人に報ぜしむ、或いは以て便と為し、或いは便ならずと曰ひ、計猶予して未だ決する所有らず。呂禄酈寄を信じ、時に与に出でて游猟す。其の姑呂嬃を過ぐ、嬃大いに怒りて、曰く、「若将と為りて軍を棄つ、呂氏今に処無からん。」と。乃ち悉く珠玉宝器を出だして堂下に散じて、曰く、「他人の為に守る毋からん。」と。左丞相食其免ぜらる。八月庚申の旦、平陽侯窋御史大夫の事を行ひ、相国産に見えて事を計る。郎中令賈寿使ひして斉より来り、因りて産を数めて曰く、「王蚤く国に之かず、今行かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。」と。具に灌嬰の斉楚と合従し、諸呂を誅せんと欲するを以て産に告げ、乃ち産を趣して急ぎ宮に入らしむ。平陽侯頗る其の語を聞き、乃ち馳せて丞相・太尉に告ぐ。太尉北軍に入らんと欲す、入るを得ず。襄平侯通符節を尚(つかさど)る。乃ち節を持して矯りて太尉を北軍に内(い)れしむ。
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