史記 / 呂太后本紀
列侯群臣莫自堅其命。太尉絳侯勃不得入軍中主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商。令其子寄往紿說呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已布告諸侯,諸侯皆以為宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守藩,乃為上將,將兵留此,為大臣諸侯所疑。足下何不歸印,以兵屬太尉?請梁王歸相國印,與大臣盟而之國,齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲歸將印,以兵屬太尉。使人報呂產及諸呂老人,或以為便,或曰不便,計猶豫未有所決。呂祿信酈寄,時與出游獵。過其姑呂嬃,嬃大怒,曰:「若為將而棄軍,呂氏今無處矣。」乃悉出珠玉寶器散堂下,曰:「毋為他人守也」左丞相食其免。八月庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相國產計事。郎中令賈壽使從齊來,因數產曰:「王不蚤之國,今雖欲行,尚可得邪?」具以灌嬰與齊楚合從,欲誅諸呂告產,乃趣產急入宮。平陽侯頗聞其語,乃馳告丞相、太尉。太尉欲入北軍,不得入。襄平侯通尚符節。乃令持節矯內太尉北軍。
新字:列侯群臣莫自堅其命。太尉絳侯勃不得入軍中主兵。曲周侯酈商老病,其子寄与呂禄善。絳侯乃与丞相陳平謀,使人劫酈商。令其子寄往紿説呂禄曰:「高帝与呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已布告諸侯,諸侯皆以為宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之国守藩,乃為上将,将兵留此,為大臣諸侯所疑。足下何不帰印,以兵属太尉?請梁王帰相国印,与大臣盟而之国,斉兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此万世之利也。」呂禄信然其計,欲帰将印,以兵属太尉。使人報呂産及諸呂老人,或以為便,或曰不便,計猶予未有所決。呂禄信酈寄,時与出游猟。過其姑呂嬃,嬃大怒,曰:「若為将而棄軍,呂氏今無処矣。」乃悉出珠玉宝器散堂下,曰:「毋為他人守也」左丞相食其免。八月庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相国産計事。郎中令賈寿使従斉来,因数産曰:「王不蚤之国,今雖欲行,尚可得邪?」具以灌嬰与斉楚合従,欲誅諸呂告産,乃趣産急入宮。平陽侯頗聞其語,乃馳告丞相、太尉。太尉欲入北軍,不得入。襄平侯通尚符節。乃令持節矯内太尉北軍。
書き下し
列侯群臣自ら其の命を堅くする莫し。太尉絳侯勃軍中に入りて兵を主るを得ず。曲周侯酈商老い病み、其の子寄呂禄と善し。絳侯乃ち丞相陳平と謀り、人をして酈商を劫かさしむ。其の子寄をして往きて紿(あざむ)きて呂禄に説かしめて曰く、「高帝呂后と共に天下を定む、劉氏の立つる所の九王、呂氏の立つる所の三王、皆大臣の議なり、事已に諸侯に布告し、諸侯皆以て宜しと為す。今太后崩じ、帝少し、而して足下趙王の印を佩び、急ぎ国に之きて藩を守らず、乃ち上将と為り、兵を将ゐて此に留まる、大臣諸侯の疑ふ所と為る。足下何ぞ印を帰し、兵を以て太尉に属せざる。請ふ梁王をして相国の印を帰し、大臣と盟ひて国に之かしめば、斉の兵必ず罷め、大臣安んずるを得、足下枕を高くして千里に王たらん、此れ万世の利なり。」と。呂禄信に其の計を然りとし、将の印を帰し、兵を以て太尉に属せんと欲す。人をして呂産及び諸呂の老人に報ぜしむ、或いは以て便と為し、或いは便ならずと曰ひ、計猶予して未だ決する所有らず。呂禄酈寄を信じ、時に与に出でて游猟す。其の姑呂嬃を過ぐ、嬃大いに怒りて、曰く、「若将と為りて軍を棄つ、呂氏今に処無からん。」と。乃ち悉く珠玉宝器を出だして堂下に散じて、曰く、「他人の為に守る毋からん。」と。左丞相食其免ぜらる。八月庚申の旦、平陽侯窋御史大夫の事を行ひ、相国産に見えて事を計る。郎中令賈寿使ひして斉より来り、因りて産を数めて曰く、「王蚤く国に之かず、今行かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。」と。具に灌嬰の斉楚と合従し、諸呂を誅せんと欲するを以て産に告げ、乃ち産を趣して急ぎ宮に入らしむ。平陽侯頗る其の語を聞き、乃ち馳せて丞相・太尉に告ぐ。太尉北軍に入らんと欲す、入るを得ず。襄平侯通符節を尚(つかさど)る。乃ち節を持して矯りて太尉を北軍に内(い)れしむ。
現代語訳
列侯や群臣は誰も自分の命の安全を確信できなかった。太尉の絳侯周勃は、軍中に入って兵を指揮することができなかった。曲周侯酈商は年老いて病気だったが、その子の酈寄は呂禄と親しかった。絳侯はそこで丞相陳平と謀り、人をやって酈商を人質に取って脅し、その子の酈寄に呂禄のもとへ行かせ、だまして説かせた。「高帝は呂后とともに天下を平定された。劉氏が立てた九人の王も、呂氏が立てた三人の王も、皆大臣たちの議によるもので、事はすでに諸侯に布告され、諸侯も皆妥当だと考えている。いま太后が崩御され、帝は幼い。それなのにあなたは趙王の印を帯びながら、急いで自国に赴いて藩屏を守ろうとせず、上将軍となって兵を率いてここにとどまっている。これでは大臣や諸侯に疑われる。あなたはどうして将軍の印を返し、兵を太尉に預けないのか。梁王(呂産)にも相国の印を返させ、大臣たちと盟約を結んで自国に赴けば、斉の兵は必ず引き揚げ、大臣たちも安心し、あなたは枕を高くして千里四方の国の王でいられる。これこそ万世の利益だ」。呂禄はその計略を本当にもっともだと思い、将軍の印を返して兵を太尉に預けようとした。人をやって呂産や呂氏一族の長老たちに知らせると、よいと言う者もいれば、よくないと言う者もいて、計画はぐずぐずと決まらなかった。呂禄は酈寄を信じ、ときどき一緒に狩りに出かけた。あるとき叔母の呂嬃のもとに立ち寄ると、呂嬃は大いに怒って言った。「お前は将軍でありながら軍を捨てるのか。呂氏はいまに身の置き所もなくなるだろう」。そして珠玉や宝物をすべて取り出して堂の下にばらまき、「他人のためにこんなものを守っていられるか」と言った。左丞相審食其が免職となった。八月庚申の日の朝、平陽侯曹窋は御史大夫の職務を代行していたが、相国呂産に会って政務を相談していた。郎中令の賈寿が斉への使者から戻ってきて、呂産を責めて言った。「王(呂産)は早く自国に赴かなかった。いまさら行こうとしても、もう間に合うまい」。そして灌嬰が斉・楚と手を結び、呂氏一族を誅そうとしていることを詳しく呂産に告げ、急いで宮中に入るよう促した。平陽侯はその話をかなり聞きつけ、馬を走らせて丞相と太尉に知らせた。太尉は北軍に入ろうとしたが、入ることができなかった。襄平侯紀通は符節(天子の命令を示す割り符)を管理していたので、符節を持たせ、天子の命令と偽って太尉を北軍に入れさせた。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀太尉復た酈寄と典客劉掲とをして先づ呂禄に説かしめて曰く、「帝太尉をして北軍を守らしめ、足下の国に之かんことを欲す、急ぎ将の印を帰して辞し去れ、然らずんば、禍且に起こらんとす。」と。呂禄以為へらく酈兄己を欺かずと、遂に印を解きて典客に属し、而して兵を以て太尉に授く。太尉之を将ゐて軍門に入り、軍中に行令して曰く、「呂氏の為にする者は右袒せよ、劉氏の為にする者は左袒せよ。」と。軍中皆左袒して劉氏の為にす。太尉行きて至る、将軍呂禄も亦已に上将の印を解きて去る、太尉遂に北軍に将たり。然れども尚ほ南軍有り。平陽侯之を聞き、呂産の謀を以て丞相平に告ぐ、丞相平乃ち朱虚侯を召して太尉を佐けしむ。太尉朱虚侯をして軍門を監せしむ。平陽侯をして衛尉に告げしむ、「相国産を殿門に入るる毋かれ。」と。呂産呂禄の已に北軍を去るを知らず、乃ち未央宮に入り、乱を為さんと欲す、殿門入るを得ず、裴回(はいくわい)往来す。平陽侯勝たざらんことを恐れ、馳せて太尉に語る。太尉尚ほ諸呂に勝たざらんことを恐れ、未だ敢へて訟(おほやけ)に之を誅せんと言はず、乃ち朱虚侯を遣はして謂はしめて曰く、「急ぎ宮に入りて帝を衛れ。」と。朱虚侯卒を請ふ、太尉卒千余人を予ふ。未央宮の門に入り、遂に産を廷中に見る。日餔(にちほ)の時、遂に産を撃つ。産走る、天風大いに起こる、故を以て其の従官乱れ、敢へて鬬ふ莫し。産を逐ひ、之を郎中府の吏の廁中に殺す。朱虚侯已に産を殺す、帝謁者をして節を持して朱虚侯を労はしむ。朱虚侯節信を奪はんと欲す、謁者肯ぜず、朱虚侯則ち従ひて与に載り、節信に因りて馳走し、長楽の衛尉呂更始を斬る。還り、馳せて北軍に入り、太尉に報ず。太尉起ち、朱虚侯を拝賀して曰く、「患ふる所は独り呂産のみ、今已に誅す、天下定まれり。」と。遂に人を遣はして部を分かちて悉く諸呂の男女を捕へ、少長と無く皆之を斬る。辛酉、呂禄を捕へて斬り、而して呂嬃を笞殺す。人をして燕王呂通を誅せしめ、而して魯王偃を廃す。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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