史記 / 斉悼恵王世家
齊王聞之,乃西取其故濟南郡,亦屯兵於齊西界以待約。呂祿、呂產欲作亂關中,朱虛侯與太尉勃、丞相平等誅之。朱虛侯首先斬呂產,於是太尉勃等乃得盡誅諸呂。而瑯邪王亦從齊至長安。大臣議欲立齊王,而瑯邪王及大臣曰:「齊王母家駟鈞,惡戾,虎而冠者也。方以呂氏故幾亂天下,今又立齊王,是欲復為呂氏也。代王母家薄氏,君子長者;且代王又親高帝子,於今見在,且最為長。以子則順,以善人則大臣安。」於是大臣乃謀迎立代王,而遣朱虛侯以誅呂氏事告齊王,令罷兵。灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王反,既誅呂氏,罷齊兵,使使召責問魏勃。勃曰:「失火之家,豈暇先言大人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能為乎!」乃罷魏勃。魏勃父以善鼓琴見秦皇帝。及魏勃少時,欲求見齊相曹參,家貧無以自通,乃常獨早夜埽齊相舍人門外。相舍人怪之,以為物,而伺之,得勃。勃曰:「願見相君,無因,故為子埽,欲以求見。」於是舍人見勃曹參,因以為舍人。一為參御,言事,參以為賢,言之齊悼惠王。悼惠王召見,則拜為內史。始,悼惠王得自置二千石。
新字:斉王聞之,乃西取其故済南郡,亦屯兵於斉西界以待約。呂禄、呂産欲作乱関中,朱虚侯与太尉勃、丞相平等誅之。朱虚侯首先斬呂産,於是太尉勃等乃得尽誅諸呂。而瑯邪王亦従斉至長安。大臣議欲立斉王,而瑯邪王及大臣曰:「斉王母家駟鈞,悪戻,虎而冠者也。方以呂氏故幾乱天下,今又立斉王,是欲復為呂氏也。代王母家薄氏,君子長者;且代王又親高帝子,於今見在,且最為長。以子則順,以善人則大臣安。」於是大臣乃謀迎立代王,而遣朱虚侯以誅呂氏事告斉王,令罷兵。灌嬰在滎陽,聞魏勃本教斉王反,既誅呂氏,罷斉兵,使使召責問魏勃。勃曰:「失火之家,豈暇先言大人而後救火乎!」因退立,股戦而栗,恐不能言者,終無他語。灌将軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能為乎!」乃罷魏勃。魏勃父以善鼓琴見秦皇帝。及魏勃少時,欲求見斉相曹参,家貧無以自通,乃常独早夜埽斉相舎人門外。相舎人怪之,以為物,而伺之,得勃。勃曰:「願見相君,無因,故為子埽,欲以求見。」於是舎人見勃曹参,因以為舎人。一為参御,言事,参以為賢,言之斉悼恵王。悼恵王召見,則拝為内史。始,悼恵王得自置二千石。
書き下し
斉王之を聞き、乃ち西のかた其の故の済南郡を取り、亦た兵を斉の西界に屯して以て約を待つ。呂禄・呂産関中に乱を作さんと欲す、朱虚侯太尉勃・丞相平等と之を誅す。朱虚侯首め先づ呂産を斬る、是に於て太尉勃等乃ち尽く諸呂を誅するを得たり。而して瑯邪王も亦た斉より長安に至る。大臣議して斉王を立てんと欲す、而して瑯邪王及び大臣曰く、「斉王の母家駟鈞は、悪戻にして、虎にして冠する者なり。方に呂氏の故を以て幾ど天下を乱さんとす、今又斉王を立つるは、是れ復た呂氏を為さんと欲するなり。代王の母家薄氏は、君子長者なり。且つ代王は又親しく高帝の子なり、今に於て見在し、且つ最も長と為す。子を以てすれば則ち順なり、善人を以てすれば則ち大臣安し」と。是に於て大臣乃ち代王を迎立せんと謀り、而して朱虚侯を遣はして呂氏を誅するの事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰滎陽に在り、魏勃の本斉王に反くことを教ふるを聞き、既に呂氏を誅し、斉の兵を罷め、使をして魏勃を召して責問せしむ。勃曰く、「失火の家、豈に先づ大人に言ひて而る後に火を救ふに暇あらんや」と。因りて退きて立ち、股戦きて栗へ、言ふ能はざらんことを恐るる者のごとく、終に他語無し。灌将軍熟視して笑ひて曰く、「人魏勃を勇と謂ふ、妄庸の人なるのみ、何ぞ能く為さんや」と。乃ち魏勃を罷む。魏勃の父は鼓琴を善くするを以て秦の皇帝に見ゆ。魏勃少き時に及び、斉の相曹参に見えんことを求むるも、家貧しくして以て自ら通ずる無く、乃ち常に独り早夜に斉の相の舎人の門外を埽ふ。相の舎人之を怪しみ、以て物と為し、而して之を伺ひ、勃を得たり。勃曰く、「相君に見えんことを願へども、因無し、故に子の為に埽ひ、以て見えんことを求めんと欲す」と。是に於て舎人勃を曹参に見えしめ、因りて以て舎人と為す。一たび参の御と為り、事を言ふ、参以て賢と為し、之を斉の悼恵王に言ふ。悼恵王召し見て、則ち拝して内史と為す。始め、悼恵王自ら二千石を置くを得たり。
現代語訳
斉王はこれを聞くと、西へ進んでもとの済南郡を取り戻し、兵を斉の西の国境に駐屯させて約束の時を待った。呂禄と呂産が関中で反乱を起こそうとすると、朱虚侯は太尉周勃・丞相陳平らとともに彼らを誅した。朱虚侯が真っ先に呂産を斬り、それによって太尉周勃らは呂氏一族をことごとく誅することができた。瑯邪王もまた斉から長安に着いた。大臣たちは協議して斉王を帝に立てようとしたが、瑯邪王と大臣たちは言った。「斉王の母方の駟鈞は凶悪で、冠をかぶった虎のような男だ。いま呂氏のせいで天下が乱れかけたばかりなのに、また斉王を立てるのは、再び呂氏のような外戚を生むことになる。代王の母方の薄氏は、君子であり長者だ。しかも代王は高帝の実の子で、今も健在であり、しかも最年長である。子という点から言えば順当であり、善良な外戚という点から言えば大臣たちも安心できる」。そこで大臣たちは代王を迎えて立てることを謀り、朱虚侯を遣わして呂氏誅滅のことを斉王に告げさせ、兵を引かせた。灌嬰は滎陽にいたが、もともと魏勃が斉王に挙兵をそそのかしたと聞き、呂氏が誅されて斉の兵が引き揚げると、使者を遣わして魏勃を呼びつけ、責任を問いただした。魏勃は言った。「火事になった家が、まず主人に報告してから火を消すような暇があるものか」。そう言うと、退いて立ったまま、足をがくがく震わせ、恐ろしさのあまり物も言えない様子で、ついにそれ以上は何も言わなかった。灌将軍はじっと見つめて笑い、言った。「人は魏勃を勇敢だと言うが、でたらめな凡人にすぎない。何ができようか」。そこで魏勃を放免した。魏勃の父は琴の名手として秦の始皇帝に目通りしたことがあった。魏勃は若いころ、斉の相国曹参に会いたいと願ったが、家が貧しくて伝手がなかったので、いつもひとりで朝早くや夜遅くに斉の相国の舎人(家臣)の家の門の外を掃除していた。舎人は不思議に思い、何かの物の怪ではないかと様子をうかがっていて、魏勃を見つけた。魏勃は言った。「相国にお目にかかりたいのだが、伝手がない。そこであなたのために掃除をして、お目通りを願おうと思ったのだ」。そこで舎人は魏勃を曹参に会わせ、曹参は彼を舎人とした。あるとき曹参の御者を務めて意見を述べると、曹参は賢いと思い、斉の悼恵王に推薦した。悼恵王は召し出して会うと、内史に任じた。もともと悼恵王は二千石の高官を自分で任命することができたのである。
解説
関連する章句
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史記 斉悼恵王世家瑯邪王之を信じ、以て然りと為し、[迺ち]馳せて斉王に見ゆ。斉王魏勃等と因りて瑯邪王を留め、而して祝午をして尽く瑯邪国を発して并せて其の兵を将ゐしむ。瑯邪王劉沢既に欺かれ、国に反るを得ず、乃ち斉王に説きて曰く、「斉の悼恵王は高皇帝の長子なり、本を推して之を言へば、而して大王は高皇帝の適長孫なり、当に立つべし。今諸大臣狐疑して未だ定まる所有らず、而して沢は劉氏に於て最も長年為り、大臣固より沢の決計を待つ。今大王臣を留むるも為す無きなり、我をして関に入りて事を計らしむるに如かず」と。斉王以て然りと為し、乃ち益々車を具へて瑯邪王を送る。瑯邪王既に行き、斉遂に兵を挙げて西のかた呂国の済南を攻む。是に於て斉の哀王諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王を斉に王とす。悼恵王薨じ、恵帝留侯張良をして臣を立てて斉王と為さしむ。恵帝崩じ、高后事を用ひ、春秋高く、諸呂の擅に高帝の立つる所を廃するを聴し、又三趙王を殺し、梁・燕・趙を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉国を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、皇帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸[侯]を恃む。今諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚め威を厳にし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。今寡人兵を率ゐて入りて当に王為るべからざる者を誅せん」と。漢斉の兵を発して西するを聞き、相国呂産乃ち大将軍灌嬰を遣はして東のかた之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を将ゐて関中に居り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。我今斉を破りて還報せば、是れ呂氏の資を益すなり」と。乃ち兵を留めて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に喩さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて共に之を誅せんとす。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
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史記 斉悼恵王世家章曰く、「深く耕し穊く種ゑ、苗を立つるは疏らならんことを欲す、其の種に非ざる者は、鉏きて之を去る」と。呂后默然たり。頃之くして、諸呂に一人酔ひて、酒を亡るる有り、章追ひ、剣を抜きて之を斬り、而して還りて報じて曰く、「酒を亡るる者一人有り、臣謹んで法を行ひて之を斬る」と。太后の左右皆大いに驚く。業已に其の軍法を許す、以て罪する無きなり。因りて罷む。是より後、諸呂朱虚侯を憚り、大臣と雖も皆朱虚侯に依る、劉氏益々彊しと為す。其の明年、高后崩ず。趙王呂禄上将軍と為り、呂王産相国と為り、皆長安中に居り、兵を聚めて以て大臣を威し、乱を為さんと欲す。朱虚侯章呂禄の女を以て婦と為し、其の謀を知り、乃ち人をして陰かに出でて其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめんと欲す、朱虚侯・東牟侯は内応を為し、以て諸呂を誅し、因りて斉王を立てて帝と為さんとす。斉王既に此の計を聞き、乃ち其の舅父駟鈞・郎中令祝午・中尉魏勃と陰かに兵を発せんと謀る。斉の相召平之を聞き、乃ち卒を発して王宮を衛る。魏勃召平を紿きて曰く、「王兵を発せんと欲するも、漢の虎符の験有るに非ざるなり。而して相君王を囲むは、固より善し。勃請ふ君の為に兵を将ゐて衛りて王を衛らん」と。召平之を信じ、乃ち魏勃をして兵を将ゐて王宮を囲ましむ。勃既に兵を将ゐ、相府を囲ましむ。召平曰く、「嗟乎、道家の言に『当に断ずべくして断ぜざれば、反りて其の乱を受く』と、乃ち是なり」と。遂に自殺す。是に於て斉王駟鈞を以て相と為し、魏勃を将軍と為し、祝午を内史と為し、悉く国中の兵を発す。祝午をして東のかた瑯邪王を詐らしめて曰く、「呂氏乱を作す、斉王兵を発して西して之を誅せんと欲す。斉王自ら児子にして、年少く、兵革の事に習はざるを以て、国を挙げて大王に委ねんことを願ふ。大王は高帝より将たり、戦事に習ふ。斉王敢へて兵を離れず、臣をして大王に請ひて臨菑に幸して斉王に見えて事を計り、并せて斉の兵を将ゐて以て西のかた関中の乱を平らげしめんとす」と。
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史記 呂太后本紀列侯群臣自ら其の命を堅くする莫し。太尉絳侯勃軍中に入りて兵を主るを得ず。曲周侯酈商老い病み、其の子寄呂禄と善し。絳侯乃ち丞相陳平と謀り、人をして酈商を劫かさしむ。其の子寄をして往きて紿(あざむ)きて呂禄に説かしめて曰く、「高帝呂后と共に天下を定む、劉氏の立つる所の九王、呂氏の立つる所の三王、皆大臣の議なり、事已に諸侯に布告し、諸侯皆以て宜しと為す。今太后崩じ、帝少し、而して足下趙王の印を佩び、急ぎ国に之きて藩を守らず、乃ち上将と為り、兵を将ゐて此に留まる、大臣諸侯の疑ふ所と為る。足下何ぞ印を帰し、兵を以て太尉に属せざる。請ふ梁王をして相国の印を帰し、大臣と盟ひて国に之かしめば、斉の兵必ず罷め、大臣安んずるを得、足下枕を高くして千里に王たらん、此れ万世の利なり。」と。呂禄信に其の計を然りとし、将の印を帰し、兵を以て太尉に属せんと欲す。人をして呂産及び諸呂の老人に報ぜしむ、或いは以て便と為し、或いは便ならずと曰ひ、計猶予して未だ決する所有らず。呂禄酈寄を信じ、時に与に出でて游猟す。其の姑呂嬃を過ぐ、嬃大いに怒りて、曰く、「若将と為りて軍を棄つ、呂氏今に処無からん。」と。乃ち悉く珠玉宝器を出だして堂下に散じて、曰く、「他人の為に守る毋からん。」と。左丞相食其免ぜらる。八月庚申の旦、平陽侯窋御史大夫の事を行ひ、相国産に見えて事を計る。郎中令賈寿使ひして斉より来り、因りて産を数めて曰く、「王蚤く国に之かず、今行かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。」と。具に灌嬰の斉楚と合従し、諸呂を誅せんと欲するを以て産に告げ、乃ち産を趣して急ぎ宮に入らしむ。平陽侯頗る其の語を聞き、乃ち馳せて丞相・太尉に告ぐ。太尉北軍に入らんと欲す、入るを得ず。襄平侯通符節を尚(つかさど)る。乃ち節を持して矯りて太尉を北軍に内(い)れしむ。
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