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史記 / 孔子世家

故吳楚之君自稱王,而春秋貶之曰「子」;踐土之會實召周天子,而春秋諱之曰「天王狩於河陽」:推此類以繩當世。貶損之義,後有王者舉而開之。春秋之義行,則天下亂臣賊子懼焉。孔子在位聽訟,文辭有可與人共者,弗獨有也。至於為春秋,筆則筆,削則削,子夏之徒不能贊一辭。弟子受春秋,孔子曰:「後世知丘者以春秋,而罪丘者亦以春秋。」明歲,子路死於衞。孔子病,子貢請見。孔子方負杖逍遙於門,曰:「賜,汝來何其晚也?」孔子因歎,歌曰:「太山壞乎!梁柱摧乎!哲人萎乎!」因以涕下。謂子貢曰:「天下無道久矣,莫能宗予。夏人殯於東階,周人於西階,殷人兩柱間。昨暮予夢坐奠兩柱之間,予始殷人也。」後七日卒。孔子年七十三,以四月己丑卒。哀公誄之曰:「旻天不弔,不愸遺一老,俾屏余一人以在位,煢煢余在疚。嗚呼哀哉!尼父,毋自律!」子貢曰:「君其不沒於魯乎!夫子之言曰:『禮失則昬,名失則愆。失志為昬,失所為愆。』生不能用,死而誄之,非禮也。稱『余一人』,非名也。」孔子葬魯城北泗上,弟子皆服三年。三年心喪畢,相訣而去,則哭,各復盡哀;或復留。唯子貢廬於冢上,凡六年,然後去。弟子及魯人往從冢而家者百有餘室,因命曰孔里。

新字:故呉楚之君自称王,而春秋貶之曰「子」;践土之会実召周天子,而春秋諱之曰「天王狩於河陽」:推此類以縄当世。貶損之義,後有王者舉而開之。春秋之義行,則天下乱臣賊子懼焉。孔子在位聴訟,文辞有可与人共者,弗独有也。至於為春秋,筆則筆,削則削,子夏之徒不能賛一辞。弟子受春秋,孔子曰:「後世知丘者以春秋,而罪丘者亦以春秋。」明歳,子路死於衛。孔子病,子貢請見。孔子方負杖逍遥於門,曰:「賜,汝来何其晩也?」孔子因嘆,歌曰:「太山壊乎!梁柱摧乎!哲人萎乎!」因以涕下。謂子貢曰:「天下無道久矣,莫能宗予。夏人殯於東階,周人於西階,殷人両柱間。昨暮予夢坐奠両柱之間,予始殷人也。」後七日卒。孔子年七十三,以四月己丑卒。哀公誄之曰:「旻天不弔,不愸遺一老,俾屏余一人以在位,煢煢余在疚。嗚呼哀哉!尼父,毋自律!」子貢曰:「君其不没於魯乎!夫子之言曰:『礼失則昏,名失則愆。失志為昏,失所為愆。』生不能用,死而誄之,非礼也。称『余一人』,非名也。」孔子葬魯城北泗上,弟子皆服三年。三年心喪畢,相訣而去,則哭,各復尽哀;或復留。唯子貢廬於冢上,凡六年,然後去。弟子及魯人往従冢而家者百有余室,因命曰孔里。

書き下し

故に呉楚の君自ら王と称するも、春秋之を貶して「子」と曰ふ。践土の会は実は周の天子を召せるも、春秋之を諱みて「天王河陽に狩す」と曰ふ。此の類を推して以て当世を縄す。貶損の義は、後に王者有りて挙げて之を開かん。春秋の義行はるれば、則ち天下の乱臣賊子懼る。孔子位に在りて訟を聴くに、文辞の人と共にすべき者有れば、独り有せざるなり。春秋を為るに至りては、筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削る、子夏の徒も一辞を賛する能はず。弟子春秋を受く、孔子曰く、「後世丘を知る者は春秋を以てし、而して丘を罪する者も亦た春秋を以てせん」と。明歳、子路衛に死す。孔子病む、子貢見えんことを請ふ。孔子方に杖を負ひて門に逍遥し、曰く、「賜、汝来たること何ぞ其れ晩きや」と。孔子因りて歎じ、歌ひて曰く、「太山壊れんか、梁柱摧けんか、哲人萎まんか」と。因りて以て涕下る。子貢に謂ひて曰く、「天下道無きこと久し、能く予を宗とする莫し。夏人は東階に殯し、周人は西階に於てし、殷人は両柱の間にす。昨暮予夢に両柱の間に坐奠せらる、予は始め殷人なり」と。後七日にして卒す。孔子年七十三、四月己丑を以て卒す。哀公之を誄して曰く、「旻天弔まず、一老を愸遺せず、余一人を屏けて以て位に在らしめ、煢煢として余疚に在り。嗚呼哀しいかな、尼父、自ら律すること毋し」と。子貢曰く、「君其れ魯に没せざらんか。夫子の言に曰く、『礼失へば則ち昬く、名失へば則ち愆る。志を失ふを昬と為し、所を失ふを愆と為す』と。生きては用ふる能はず、死して之を誄するは、礼に非ざるなり。『余一人』と称するは、名に非ざるなり」と。孔子魯城の北の泗上に葬らる、弟子皆服すること三年。三年心喪畢はり、相訣れて去る、則ち哭し、各々復た哀しみを尽くす。或いは復た留まる。唯子貢のみ冢上に廬すること、凡そ六年、然る後に去る。弟子及び魯人の往きて冢に従ひて家する者百有余室、因りて命じて孔里と曰ふ。

現代語訳

だから、呉や楚の君主は自ら王と称していたが、『春秋』はこれを貶めて「子(子爵)」と記した。践土(せんど)の会盟では実は晋が周の天子を呼びつけたのだが、『春秋』はそれを憚って「天王が河陽で狩りをした」と記した。このような書き方を推し広げて、当時の世を正す基準とした。貶め損なう書法に込められた道理は、後に王者が現れれば取り上げて広めるだろう。『春秋』の道理が行われれば、天下の乱臣や賊子は恐れるのである。孔子は官職にあって訴訟を裁いたとき、判決文に他人と共同で練るべきところがあれば、独り占めしなかった。しかし『春秋』を作るにあたっては、書くべきことは書き、削るべきことは削り、子夏らの弟子でも一言も付け加えることができなかった。弟子たちが『春秋』を授けられると、孔子は言った。「後世、私を理解する者は『春秋』によるだろう。そして私を罪する者もまた『春秋』によるだろう」。翌年、子路が衛で死んだ。孔子が病気になり、子貢が面会を求めた。孔子はちょうど杖を背に負って門の辺りをぶらぶらしていたが、言った。「賜よ、お前はなぜこんなに遅く来たのか」。孔子はそこで嘆き、歌った。「泰山が崩れるのか。梁や柱が砕けるのか。哲人がしおれてしまうのか」。そして涙を流した。子貢に言った。「天下に道が行われなくなって久しい。誰も私を師と仰いで用いてはくれなかった。夏の人は遺体を東の階段に、周の人は西の階段に、殷の人は二本の柱の間に安置する。昨夜、私は二本の柱の間に座って供え物を受ける夢を見た。私はもともと殷の人(の子孫)なのだ」。それから七日後に亡くなった。孔子は七十三歳、四月己丑の日に亡くなった。哀公は弔辞を述べた。「天は情けをかけず、一人の長老も残してくれず、私一人を見捨てて位に就かせ、私はひとり寂しく悲しみの中にある。ああ悲しいかな、尼父(じほ)よ。私は自らを律する手本を失った」。子貢は言った。「わが君は魯で安らかな最期を迎えられないのではないか。先生はこう言っていた。『礼を失えば道理に暗くなり、名を失えば過ちを犯す。志を失うのが暗さであり、分を失うのが過ちである』と。生きているうちは用いることができず、死んでから弔辞を捧げるのは礼にかなわない。(諸侯の身で天子の自称である)『余一人』と称するのは名にかなわない」。孔子は魯の都の北、泗水のほとりに葬られた。弟子たちはみな三年の喪に服した。三年の心の喪が終わると、互いに別れて去ることになり、泣いて、それぞれ改めて哀しみを尽くした。そのまま留まる者もいた。ただ子貢だけは墓のそばに庵を結んで、およそ六年を過ごし、それから去った。弟子や魯の人々で墓のそばに移り住んだ者は百余軒にのぼり、そこで孔里(こうり)と名づけられた。

解説

『春秋』の書法と孔子の最期を描く段です。呉楚の王を「子」と記し、天子を呼びつけた事実を「天王狩す」と書き換える。一字の用い方で是非を判断する「春秋の筆法」は、乱臣賊子を恐れさせる力を持つとされました。弟子の子夏さえ一字も加えられなかったという厳しさです。「後世わたしを理解する者も、罪する者も春秋による」という言葉には、評価を後世に委ねる覚悟がにじみます。病床では「泰山崩れんか、哲人萎まんか」と歌って涙し、七日後に七十三歳で世を去りました。生前に用いなかった哀公の弔辞を子貢が「礼に非ず」と批判し、自らは墓のそばで六年喪に服したことは、子貢の師への深い敬愛を伝えます。生きているうちに人を用いよ、という司馬遷の静かな批判も読み取れます。

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