史記 / 孔子世家
魯世世相傳以歲時奉祠孔子冢,而諸儒亦講禮鄉飲大射於孔子冢。孔子冢大一頃。故所居堂弟子內,後世因廟藏孔子衣冠琴車書,至于漢二百餘年不絕。高皇帝過魯,以太牢祠焉。諸侯卿相至,常先謁然後從政。孔子生鯉,字伯魚。伯魚年五十,先孔子死。伯魚生伋,字子思,年六十二。嘗困於宋。子思作《中庸》。子思生白,字子上,年四十七。子上生求,字子家,年四十五。子家生箕,字子京,年四十六。子京生穿,字子高,年五十一。子高生子慎,年五十七,嘗為魏相。子慎生鮒,年五十七,為陳王涉博士,死於陳下。鮒弟子襄,年五十七。嘗為孝惠皇帝博士,遷為長沙太守。長九尺六寸。子襄生忠,年五十七。忠生武,武生延年及安國。安國為今皇帝博士,至臨淮太守,蚤卒。安國生卬,卬生驩。《詩》有之:「高山仰止,景行行止。」雖不能至,然心鄉往之。余讀孔氏書,想見其為人。適魯,觀仲尼廟堂車服禮器,諸生以時習禮其家,余祗回留之不能去云。
新字:魯世世相伝以歳時奉祠孔子冢,而諸儒亦講礼郷飲大射於孔子冢。孔子冢大一頃。故所居堂弟子内,後世因廟蔵孔子衣冠琴車書,至于漢二百余年不絶。高皇帝過魯,以太牢祠焉。諸侯卿相至,常先謁然後従政。孔子生鯉,字伯魚。伯魚年五十,先孔子死。伯魚生伋,字子思,年六十二。嘗困於宋。子思作《中庸》。子思生白,字子上,年四十七。子上生求,字子家,年四十五。子家生箕,字子京,年四十六。子京生穿,字子高,年五十一。子高生子慎,年五十七,嘗為魏相。子慎生鮒,年五十七,為陳王渉博士,死於陳下。鮒弟子襄,年五十七。嘗為孝恵皇帝博士,遷為長沙太守。長九尺六寸。子襄生忠,年五十七。忠生武,武生延年及安国。安国為今皇帝博士,至臨淮太守,蚤卒。安国生卬,卬生驩。《詩》有之:「高山仰止,景行行止。」雖不能至,然心郷往之。余読孔氏書,想見其為人。適魯,観仲尼廟堂車服礼器,諸生以時習礼其家,余祗回留之不能去云。
書き下し
魯世世相伝へて歳時を以て孔子の冢を奉祠す、而して諸儒も亦た礼を講じ郷飲大射を孔子の冢に於てす。孔子の冢は大いさ一頃。故の居る所の堂弟子の内、後世因りて廟とし孔子の衣冠琴車書を蔵す、漢に至るまで二百余年絶えず。高皇帝魯を過ぎ、太牢を以て焉を祠る。諸侯卿相至れば、常に先づ謁して然る後に政に従ふ。孔子鯉を生む、字は伯魚。伯魚年五十、孔子に先だちて死す。伯魚伋を生む、字は子思、年六十二。嘗て宋に困しむ。子思中庸を作る。子思白を生む、字は子上、年四十七。子上求を生む、字は子家、年四十五。子家箕を生む、字は子京、年四十六。子京穿を生む、字は子高、年五十一。子高子慎を生む、年五十七、嘗て魏の相と為る。子慎鮒を生む、年五十七、陳王渉の博士と為り、陳下に死す。鮒の弟子襄、年五十七。嘗て孝恵皇帝の博士と為り、遷りて長沙の太守と為る。長九尺六寸。子襄忠を生む、年五十七。忠武を生む、武延年及び安国を生む。安国は今の皇帝の博士と為り、臨淮の太守に至り、蚤く卒す。安国卬を生み、卬驩を生む。詩に之有り、「高山は仰ぎ、景行は行く」と。至る能はずと雖も、然れども心之に郷往す。余孔氏の書を読み、其の為人を想見す。魯に適き、仲尼の廟堂の車服礼器を観る、諸生時を以て礼を其の家に習ふ、余祗回して之に留まりて去る能はずと云ふ。
現代語訳
魯では代々受け継いで、季節ごとに孔子の墓を祭り、儒者たちも孔子の墓のそばで礼を講じ、郷飲酒の礼や大射の礼を行った。孔子の墓の広さは一頃(約百畝)である。孔子が生前住んでいた堂や弟子たちの部屋は、後世そのまま廟とされ、孔子の衣冠・琴・車・書物を納め、漢の時代に至るまで二百余年絶えることがなかった。高祖皇帝は魯を通ったとき、太牢(牛・羊・豚そろった最高の供え物)で孔子を祭った。諸侯や大臣は魯に赴任すると、いつもまず孔子の廟に参拝してから政務に就いた。孔子は鯉(り)を生んだ。字は伯魚。伯魚は五十歳で、孔子より先に死んだ。伯魚は伋(きゅう)を生んだ。字は子思、六十二歳まで生きた。かつて宋で苦しんだことがある。子思は『中庸』を作った。子思は白を生んだ。字は子上、四十七歳まで生きた。子上は求を生んだ。字は子家、四十五歳まで生きた。子家は箕を生んだ。字は子京、四十六歳まで生きた。子京は穿(せん)を生んだ。字は子高、五十一歳まで生きた。子高は子慎を生んだ。五十七歳まで生き、かつて魏の宰相となった。子慎は鮒(ふ)を生んだ。五十七歳まで生き、陳王(陳渉)の博士となり、陳のほとりで死んだ。鮒の弟の子襄(しじょう)は五十七歳まで生きた。孝恵皇帝の博士となり、長沙の太守に転じた。身の丈は九尺六寸であった。子襄は忠を生んだ。五十七歳まで生きた。忠は武を生み、武は延年と安国を生んだ。安国は今上皇帝(武帝)の博士となり、臨淮の太守にまで至ったが、早く亡くなった。安国は卬(ごう)を生み、卬は驩(かん)を生んだ。『詩経』にこうある。「高い山は仰ぎ見るもの、大きな道は歩み行くもの」。たとえそこに至れなくても、心はそちらへ向かい憧れる。私は孔子の書を読み、その人となりを思い描いた。魯へ行き、仲尼の廟堂や車・衣服・礼器を見た。儒生たちが時節ごとにその家で礼を習っていた。私はつつしんで立ち去りがたく、そこに留まって去ることができなかったのである。
解説
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史記 孔子世家孔子は魯の昌平郷陬邑に生まる。其の先は宋人なり、孔防叔と曰ふ。防叔、伯夏を生み、伯夏、叔梁紇を生む。紇、顔氏の女と野合して孔子を生む、尼丘に禱りて孔子を得たり。魯の襄公二十二年にして孔子生まる。生まれながらにして首上圩頂なり、故に因りて名づけて丘と曰ふと云ふ。字は仲尼、姓は孔氏。丘生まれて叔梁紇死し、防山に葬る。防山は魯の東に在り、是に由りて孔子其の父の墓処を疑ふ、母之を諱めばなり。孔子児たりしとき嬉戯するに、常に俎豆を陳ね、礼容を設く。孔子の母死するや、乃ち五父の衢に殯す、蓋し其の慎みなり。郰人輓父の母、孔子に父の墓を誨へ、然る後に往きて防に合葬す。孔子要絰するとき、季氏士を饗す、孔子与に往く。陽虎絀けて曰く、「季氏は士を饗す、敢へて子を饗するに非ざるなり」と。孔子是に由りて退く。孔子年十七、魯の大夫孟釐子病みて且に死せんとし、其の嗣懿子を誡めて曰く、「孔丘は聖人の後なり、宋に滅ぶ。其の祖弗父何、始め宋を有ちて厲公に嗣を譲る。正考父の戴・武・宣公を佐くるに及び、三たび命ぜられて茲に益々恭し、故に鼎の銘に云ふ、『一命にして僂し、再命にして傴し、三命にして俯す、牆に循ひて走る、亦た敢へて余を侮る莫し。是に饘し、是に粥して、以て余が口を餬す』と。其の恭しきこと是くの如し。吾聞く、聖人の後は、世に当たらずと雖も、必ず達者有りと。今孔丘年少くして礼を好む、其れ達者か。吾即し没せば、若必ず之を師とせよ」と。釐子卒するに及び、懿子と魯人南宮敬叔と往きて礼を学ぶ。是の歳、季武子卒し、平子代はりて立つ。孔子貧しくして且つ賤し。長ずるに及び、嘗て季氏の史と為り、料量平らかなり。嘗て司職の吏と為りて畜蕃息す。是に由りて司空と為る。已にして魯を去り、斉に斥けられ、宋・衛に逐はれ、陳蔡の間に困しみ、是に於て魯に反る。
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史記 孔子世家故に呉楚の君自ら王と称するも、春秋之を貶して「子」と曰ふ。践土の会は実は周の天子を召せるも、春秋之を諱みて「天王河陽に狩す」と曰ふ。此の類を推して以て当世を縄す。貶損の義は、後に王者有りて挙げて之を開かん。春秋の義行はるれば、則ち天下の乱臣賊子懼る。孔子位に在りて訟を聴くに、文辞の人と共にすべき者有れば、独り有せざるなり。春秋を為るに至りては、筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削る、子夏の徒も一辞を賛する能はず。弟子春秋を受く、孔子曰く、「後世丘を知る者は春秋を以てし、而して丘を罪する者も亦た春秋を以てせん」と。明歳、子路衛に死す。孔子病む、子貢見えんことを請ふ。孔子方に杖を負ひて門に逍遥し、曰く、「賜、汝来たること何ぞ其れ晩きや」と。孔子因りて歎じ、歌ひて曰く、「太山壊れんか、梁柱摧けんか、哲人萎まんか」と。因りて以て涕下る。子貢に謂ひて曰く、「天下道無きこと久し、能く予を宗とする莫し。夏人は東階に殯し、周人は西階に於てし、殷人は両柱の間にす。昨暮予夢に両柱の間に坐奠せらる、予は始め殷人なり」と。後七日にして卒す。孔子年七十三、四月己丑を以て卒す。哀公之を誄して曰く、「旻天弔まず、一老を愸遺せず、余一人を屏けて以て位に在らしめ、煢煢として余疚に在り。嗚呼哀しいかな、尼父、自ら律すること毋し」と。子貢曰く、「君其れ魯に没せざらんか。夫子の言に曰く、『礼失へば則ち昬く、名失へば則ち愆る。志を失ふを昬と為し、所を失ふを愆と為す』と。生きては用ふる能はず、死して之を誄するは、礼に非ざるなり。『余一人』と称するは、名に非ざるなり」と。孔子魯城の北の泗上に葬らる、弟子皆服すること三年。三年心喪畢はり、相訣れて去る、則ち哭し、各々復た哀しみを尽くす。或いは復た留まる。唯子貢のみ冢上に廬すること、凡そ六年、然る後に去る。弟子及び魯人の往きて冢に従ひて家する者百有余室、因りて命じて孔里と曰ふ。
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史記 孔子世家「徳の脩まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能はざる、不善改むる能はざる、是れ吾が憂ひなり」と。人をして歌はしめ、善なれば、則ち之を復せしめ、然る後に之に和す。子は怪・力・乱・神を語らず。子貢曰く、「夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の天道と性命とを言ふは、得て聞くべからざるのみ」と。顔淵喟然として嘆じて曰く、「之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し。之を瞻れば前に在り、忽焉として後に在り。夫子は循循然として善く人を誘ふ、我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす、罷めんと欲すれども能はず。既に我が才を竭くすに、立つ所有りて、卓爾たるが如し。之に従はんと欲すと雖も、由る蔑きのみ」と。達巷党の人童子曰く、「大なるかな孔子、博く学びて名を成す所無し」と。子之を聞きて曰く、「我何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか。我は御を執らん」と。牢曰く、「子云ふ『試ひられず、故に芸あり』と」。春、大野に狩す。叔孫氏の車子鉏商獣を獲たり、以て不祥と為す。仲尼之を視て曰く、「麟なり」と。之を取る。曰く、「河図を出さず、雒書を出さず、吾已んぬるかな」と。顔淵死す、孔子曰く、「天予を喪ぼせり」と。西狩して麟を見るに及び、曰く、「吾が道窮まれり」と。喟然として嘆じて曰く、「我を知る莫きかな」と。子貢曰く、「何為れぞ子を知る莫からん」と。子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す、我を知る者は其れ天か」と。「其の志を降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か」と。「柳下恵・少連は志を降し身を辱めたり」と謂ふ。「虞仲・夷逸は隠居して放言し、行ひ清に中り、廃権に中る」と謂ふ。「我は則ち是に異なり、可も無く不可も無し」と。子曰く、「弗なるかな弗なるかな、君子は世を没して名の称せられざるを病む。吾が道行はれず、吾何を以てか自ら後世に見はさんや」と。乃ち史記に因りて春秋を作る、上は隠公に至り、下は哀公十四年に訖る、十二公なり。魯に拠り、周を親とし、殷を故とし、之を三代に運らす。其の文辞を約にして指博し。
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孔子家語・本姓解孔子の先は、宋の後なり。微子啟は、帝乙の元子、紂の庶兄にして、圻内の諸侯を以て入りて王の卿士と為る。微は、国名、子爵なり。初め武王殷に克つや、紂の子武庚を朝歌に封じ、湯の祀りを奉ぜしむ。武王崩じて、管・蔡・霍の三叔と難を作す。周公成王を相け、東のかたこれを征す。二年にして、罪人斯に得られ、乃ち微子を殷に命ず。後に微子の命を作り、これに由りて国を宋に与え、殷の子孫を徙す。唯だ微子は先に周に仕えたれば、故にこれを封ずるに賢なりとす。その弟を仲思と曰い、名は衍、或いは泄と名づく。微の後を嗣ぐ、故に微仲と号す。宋公稽という胄子を生む。爵を遷し位を易うと雖も、班級その故きに及ばざれば、故官を以て称と為すを得。故に二微は宋公と為ると雖も、猶お微の号を以て自ら終う。稽に至りて乃ち公と称す。宋公、丁公申を生む。申公、緡公共及び襄公熙を生む。熙、弗父何及び厲公方祀を生む。方祀より以下、世々宋の卿と為る。弗父何、宋父周を生む。周、世子勝を生む。勝、正考甫を生む。考甫、孔父嘉を生む。五世にして親尽き、別れて公族と為る、故に後に孔を以て氏と為す。一に曰く、孔父とは、生時に賜う所の号なり、是を以て子孫遂に氏族とす。孔父、子木金父を生む。金父、睪夷を生む。睪夷、防叔を生む、華氏の禍を避けて魯に奔る。方叔、伯夏を生む。伯夏、叔梁紇を生む、曰く九女ありと雖も、是れ子無し。その妾、孟皮を生む、孟皮は一に伯尼と字す、跛足あり。ここに於て乃ち婚を顔氏に求む。顔氏に三女あり、その小を徴在と曰う。顔父、三女に問いて曰く、「陬大夫は父祖士たりと雖も、然れどもその先は聖王の裔なり。今その人身の長十尺、武力絶倫にして、吾甚だこれを貪る。年長け性厳しと雖も、疑いを為すに足らず。三子孰れかよくこれが妻と為らん」と。二女対うる莫し。徴在進みて曰く、「父の制する所に従わん、将た何ぞ問わんや」と。父曰く、「即ち爾よくせん」と。遂に以てこれに妻せしむ。徴在既に廟見するや、夫の年の大なるを以て、時に勇あらざるを懼れ、私かに尼丘の山に禱りて以て祈る。孔子を生む、故に名を丘とし、字を仲尼とす。孔子三歳にして叔梁紇卒す、防に葬る。十九に至りて、宋の亓官氏に娶る、一歳にして伯魚を生む。魚の生まるるや、魯の昭公、鯉魚を以て孔子に賜う。君の貺を栄とし、故に因りて名づけて鯉と曰い、字を伯魚とす。魚、年五十にして、孔子に先だちて卒す。
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史記 儒林列伝太史公曰く、余功令を読み、学官の路を広厲するに至りて、未だ嘗て書を廃して嘆ぜずんばあらざるなり。曰く、嗟乎、夫れ周室衰へて関雎作り、幽厲微にして礼楽壊れ、諸侯恣に行ひ、政彊国に由る。故に孔子王路の廃れて邪道の興るを閔み、是に於て詩書を論次し、礼楽を修起す。斉に適きて韶を聞き、三月肉の味を知らず。衛より魯に返り、然る後に楽正しく、雅頌各々其の所を得たり。世混濁を以て能く用ふる莫し、是を以て仲尼七十余君に干むるも遇ふ所無し、曰く「茍も我を用ふる者有らば、期月のみにして可なり」と。西に狩りて麟を獲、曰く「吾が道窮まれり」と。故に史記に因りて春秋を作り、以て王法に当つ、其の辞微にして指博し、後世の学者多く焉を録す。孔子卒してより後、七十子の徒諸侯に散游し、大なる者は師傅卿相と為り、小なる者は士大夫を友教し、或いは隠れて見はれず。故に子路は衛に居り、子張は陳に居り、澹台子羽は楚に居り、子夏は西河に居り、子貢は斉に終はる。田子方・段干木・呉起・禽滑釐の属の如きは、皆業を子夏の倫に受け、王者の師と為る。是の時独り魏の文侯のみ学を好む。後陵遅して以て始皇に至り、天下并びに戦国に争ひ、儒術既に絀けらる、然れども斉魯の間、学者独り廃れざるなり。威・宣の際に於て、孟子・荀卿の列、咸夫子の業に遵ひて之を潤色し、学を以て当世に顕る。秦の季世に至るに及び、詩書を焚き、術士を阬にし、六芸此より欠く。陳渉の王たるや、魯の諸儒孔氏の礼器を持して往きて陳王に帰す。是に於て孔甲陳渉の博士と為り、卒に渉と倶に死す。
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史記 仲尼弟子列伝孔子易を瞿に伝へ、瞿楚人馯臂子弘に伝へ、弘江東の人矯子庸疵に伝へ、疵燕人周子家豎に伝へ、豎淳于の人光子乗羽に伝へ、羽斉人田子荘何に伝へ、何東武の人王子中同に伝へ、同菑川の人楊何に伝ふ。何元朔中に易を治むるを以て漢の中大夫と為る。高柴、字は子羔。孔子より少きこと三十歳。子羔長五尺に盈たず、業を孔子に受く、孔子以て愚と為す。子路子羔をして費郈の宰と為らしむ、孔子曰く、「夫の人の子を賊ふ」と。子路曰く、「民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん」と。孔子曰く、「是の故に夫の佞者を悪む」と。漆彫開、字は子開。孔子開をして仕へしめんとす、対へて曰く、「吾斯を之れ未だ信ずる能はず」と。孔子説ぶ。公伯繚、字は子周。周子路を季孫に訴ふ、子服景伯以て孔子に告げて、曰く、「夫子固より惑志有り、繚や、吾が力猶ほ能く諸を市朝に肆さん」と。孔子曰く、「道の将に行はれんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯繚其れ命を如何せん」と。司馬耕、字は子牛。牛多言にして躁なり。仁を孔子に問ふ、孔子曰く、「仁者は其の言や訒」と。曰く、「其の言や訒、斯に之を仁と謂ふべきか」と。子曰く、「之を為すこと難し、之を言ふに訒なること無きを得んや」と。君子を問ふ、子曰く、「君子は憂へず懼れず」と。曰く、「憂へず懼れず、斯に之を君子と謂ふべきか」と。子曰く、「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂へ何をか懼れん」と。樊須、字は子遅。孔子より少きこと三十六歳。樊遅稼を学ばんことを請ふ、孔子曰く、「吾老農に如かず」と。圃を学ばんことを請ふ、曰く、「吾老圃に如かず」と。樊遅出づ、孔子曰く、「小人なるかな樊須や。上礼を好めば、則ち民敢へて敬せざる莫し。上義を好めば、則ち民敢へて服せざる莫し。上信を好めば、則ち民敢へて情を用ひざる莫し。夫れ是くの如くんば、則ち四方の民其の子を襁負して至らん、焉んぞ稼を用ひん」と。樊遅仁を問ふ、子曰く、「人を愛す」と。智を問ふ、曰く、「人を知る」と。有若は孔子より少きこと四十三歳。
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