史記 / 田敬仲完世家
陳完者,陳厲公他之子也。完生,周太史過陳,陳厲公使卜完,卦得觀之否:「是爲觀國之光,利用賓于王。此其代陳有國乎?不在此而在異國乎?非此其身也,在其子孫。若在異國,必姜姓。姜姓,四嶽之後。物莫能兩大,陳衰,此其昌乎?」厲公者,陳文公少子也,其母蔡女。文公卒,厲公兄鮑立,是爲桓公。桓公與他異母。及桓公病,蔡人爲他殺桓公鮑及太子免而立他,爲厲公。厲公旣立,娶蔡女。蔡女淫於蔡人,數歸,厲公亦數如蔡。桓公之少子林怨厲公殺其父與兄,乃令蔡人誘厲公而殺之。林自立,是爲莊公。故陳完不得立,爲陳大夫。厲公之殺,以淫出國,故《春秋》曰「蔡人殺陳他」,罪之也。莊公卒,立弟杵臼,是爲宣公。宣公二十一年,殺其太子御寇。御寇與完相愛,恐禍及己,完故奔齊。齊桓公欲使爲卿,辭曰:「羈旅之臣幸得免負檐,君之惠也,不敢當髙位。」桓公使爲工正。齊懿仲欲妻完,卜之,占曰:「是謂鳳皇于蜚,和鳴鏘鏘。有媯之後,將育于姜。五世其昌,并于正卿。八世之後,莫之與京。」卒妻完。完之奔齊,齊桓公立十四年矣。完卒,諡爲敬仲。仲生稚孟夷。敬仲之如齊,以陳字爲田氏。田稚孟夷生湣孟莊,田湣孟莊生文子須無。田文子事齊莊公。
新字:陳完者,陳厲公他之子也。完生,周太史過陳,陳厲公使卜完,卦得観之否:「是為観国之光,利用賓于王。此其代陳有国乎?不在此而在異国乎?非此其身也,在其子孫。若在異国,必姜姓。姜姓,四嶽之後。物莫能両大,陳衰,此其昌乎?」厲公者,陳文公少子也,其母蔡女。文公卒,厲公兄鮑立,是為桓公。桓公与他異母。及桓公病,蔡人為他殺桓公鮑及太子免而立他,為厲公。厲公既立,娶蔡女。蔡女淫於蔡人,数帰,厲公亦数如蔡。桓公之少子林怨厲公殺其父与兄,乃令蔡人誘厲公而殺之。林自立,是為荘公。故陳完不得立,為陳大夫。厲公之殺,以淫出国,故《春秋》曰「蔡人殺陳他」,罪之也。荘公卒,立弟杵臼,是為宣公。宣公二十一年,殺其太子御寇。御寇与完相愛,恐禍及己,完故奔斉。斉桓公欲使為卿,辞曰:「羈旅之臣幸得免負檐,君之恵也,不敢当高位。」桓公使為工正。斉懿仲欲妻完,卜之,占曰:「是謂鳳皇于蜚,和鳴鏘鏘。有媯之後,将育于姜。五世其昌,并于正卿。八世之後,莫之与京。」卒妻完。完之奔斉,斉桓公立十四年矣。完卒,諡為敬仲。仲生稚孟夷。敬仲之如斉,以陳字為田氏。田稚孟夷生湣孟荘,田湣孟荘生文子須無。田文子事斉荘公。
書き下し
陳完は、陳の厲公他の子なり。完生まる。周の太史陳に過る。陳の厲公をして完を卜せしむ。卦、観の否に之くを得たり。「是れ国の光を観る、用て王に賓たるに利しと為す。此れ其れ陳に代はりて国を有たんか。此に在らずして異国に在らんか。此の其の身に非ず、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は四岳の後なり。物能く両つながら大なること莫し。陳衰へば、此れ其れ昌えんか」と。厲公は、陳の文公の少子なり。其の母は蔡の女なり。文公卒し、厲公の兄鮑立つ、是を桓公と為す。桓公は他と母を異にす。桓公病むに及び、蔡人他の為に桓公鮑及び太子免を殺して他を立つ、厲公と為す。厲公既に立ち、蔡の女を娶る。蔡の女蔡人に淫し、数々帰る。厲公も亦数々蔡に如く。桓公の少子林、厲公の其の父と兄とを殺せしを怨み、乃ち蔡人をして厲公を誘ひて之を殺さしむ。林自ら立つ、是を荘公と為す。故に陳完立つことを得ず、陳の大夫と為る。厲公の殺さるるは、淫を以て国を出づればなり。故に春秋に曰く「蔡人陳他を殺す」と。之を罪するなり。荘公卒し、弟杵臼を立つ、是を宣公と為す。宣公二十一年、其の太子御寇を殺す。御寇、完と相愛す。禍の己に及ばんことを恐れ、完故に斉に奔る。斉の桓公卿と為さんと欲す。辞して曰く、「羈旅の臣幸ひに負檐を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢へて高位に当たらず」と。桓公工正と為す。斉の懿仲完に妻はせんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に蜚び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と与に京なる莫し」と。卒に完に妻はす。完の斉に奔るとき、斉の桓公立ちて十四年なり。完卒し、諡して敬仲と為す。仲、稚孟夷を生む。敬仲の斉に如くや、陳の字を以て田氏と為す。田稚孟夷、湣孟荘を生み、田湣孟荘、文子須無を生む。田文子、斉の荘公に事ふ。
現代語訳
陳完(ちんかん)は陳の厲公他(た)の子である。完が生まれたとき、周の太史が陳に立ち寄った。陳の厲公は太史に完の将来を占わせた。卦は観(かん)の卦が否(ひ)の卦に変わるものであった。太史は言った。「これは国の光を観るというもので、王の賓客となるのによい。この子は陳に代わって国を持つのではないか。それもこの国ではなく、よその国においてではないか。この子自身ではなく、その子孫においてであろう。もしよその国であるなら、必ず姜姓の国であろう。姜姓は四岳(しがく)の子孫である。物事は二つながら大きくなることはない。陳が衰えれば、この子孫が栄えるのではないか」。厲公は陳の文公の末子で、その母は蔡の娘であった。文公が死ぬと、厲公の兄の鮑(ほう)が立った。これが桓公である。桓公と他とは母が違った。桓公が病気になると、蔡の人々は他のために桓公鮑と太子免(めん)を殺して他を立てた。これが厲公である。厲公は即位すると、蔡の娘を娶った。蔡の娘は蔡の男と密通し、たびたび蔡に帰った。厲公もまたたびたび蔡に出かけた。桓公の末子の林は、厲公が自分の父と兄を殺したことを恨み、蔡の人に厲公をおびき寄せさせて殺した。林は自ら立った。これが荘公である。そのため陳完は君主になれず、陳の大夫となった。厲公が殺されたのは、淫らなことのために国を出たからである。だから『春秋』に「蔡人、陳他を殺す」と書いて、その罪を責めたのである。荘公が死ぬと、弟の杵臼(しょきゅう)が立てられた。これが宣公である。宣公の二十一年、宣公は太子の御寇(ぎょこう)を殺した。御寇は完と親しかったので、完は禍が自分に及ぶことを恐れて斉に亡命した。斉の桓公は完を卿にしようとしたが、完は辞退して言った。「旅の身の臣が、幸いにも重い荷を負う苦役を免れているのは、君のお恵みである。とても高い位には就けない」。桓公は完を工正(こうせい、工人を管理する官)とした。斉の懿仲(いちゅう)は完に娘を嫁がせようと思って占った。その占いに言う。「これは鳳凰が飛び、雌雄が声を合わせて美しく鳴くというものである。有媯(ゆうき)氏の子孫が、姜姓の国で育つであろう。五代で栄えて正卿に並び、八代の後には、これに並ぶほど大いなる者はいなくなるだろう」。こうしてついに完に娘を嫁がせた。完が斉に亡命したのは、斉の桓公が即位して十四年目のことであった。完が死ぬと、敬仲と諡された。敬仲は稚孟夷(ちもうい)を生んだ。敬仲は斉に来てから、陳の字を田氏と改めた。田稚孟夷は湣孟荘(びんもうそう)を生み、田湣孟荘は文子須無(しゅむ)を生んだ。田文子は斉の荘公に仕えた。
解説
関連する章句
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史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
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史記 陳杞世家陳の胡公満は、虞帝舜の後なり。昔舜庶人為りし時、堯之に二女を妻(めあは)せ、媯汭(きぜい)に居らしむ。其の後因りて氏姓と為し、媯氏を姓とす。舜已に崩じ、禹に天下を伝ふ。而して舜の子商均封国と為る。夏后の時、或いは失ひ或いは続く。周の武王殷の紂に克つに至りて、乃ち復た舜の後を求め、媯満を得て、之を陳に封じ、以て帝舜の祀を奉ぜしむ。是を胡公と為す。胡公卒し、子の申公犀侯立つ。申公卒し、弟の相公皋羊立つ。相公卒し、申公の子突を立つ。是を孝公と為す。孝公卒し、子の慎公圉戎立つ。慎公は周の厲王の時に当たる。慎公卒し、子の幽公寧立つ。幽公の十二年、周の厲王彘に奔る。二十三年、幽公卒し、子の釐公孝立つ。釐公の六年、周の宣王即位す。三十六年、釐公卒し、子の武公霊立つ。武公十五年にして卒し、子の夷公説立つ。是の歳、周の幽王即位す。夷公三年にして卒し、弟の平公燮立つ。平公の七年、周の幽王犬戎の殺す所と為り、周東に徙る。秦始めて列して諸侯と為る。二十三年、平公卒し、子の文公圉立つ。文公の元年、蔡の女を取り、子佗を生む。十年、文公卒し、長子の桓公鮑立つ。桓公の二十三年、魯の隠公初めて立つ。二十六年、衛其の君州吁を殺す。三十三年、魯其の君隠公を弑す。三十八年正月甲戌己丑、桓公鮑卒す。桓公の弟佗、其の母は蔡の女なり。故に蔡人佗の為に五父及び桓公の太子免を殺して佗を立つ。是を厲公と為す。桓公病みて乱作(おこ)り、国人分散す。故に再び赴(ふ)す。厲公の二年、子敬仲完を生む。周の太史陳を過ぐ。陳の厲公之をして周易を以て之を筮せしむ。卦、観の否に之くを得たり。「是れ観国の光、用て王に賓たるに利し、と為す。此れ其れ陳に代はりて国を有たんか。
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史記 田敬仲完世家宣公四十三年、晋を伐ち、黄城を毀ち、陽狐を囲む。明年、魯・葛及び安陵を伐つ。明年、魯の一城を取る。荘子卒し、子太公和立つ。田太公斉の宣公に相たり。宣公四十八年、魯の城を取る。明年、宣公鄭人と西城に会す。衛を伐ち、毋丘を取る。宣公五十一年に卒す。田会廩丘より反す。宣公卒し、子康公貸立つ。貸立ちて十四年、酒・婦人に淫し、政を聴かず。太公乃ち康公を海上に遷し、一城を食ましめ、以て其の先祀を奉ぜしむ。明年、魯斉を平陸に敗る。三年、太公魏の文侯と濁沢に会し、諸侯と為らんことを求む。魏の文侯乃ち使をして周の天子及び諸侯に言はしめ、斉の相田和を立てて諸侯と為さんことを請ふ。周の天子之を許す。康公の十九年、田和立ちて斉侯と為り、周室に列し、元年を紀す。斉侯太公和立ちて二年、和卒し、子桓公午立つ。桓公午五年、秦・魏韓を攻む。韓救ひを斉に求む。斉の桓公大臣を召して謀りて曰く、「蚤く之を救ふと晩く之を救ふと孰れぞ」と。騶忌曰く、「救ふこと勿きに若かず」と。段干朋曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。之を救ふに若かず」と。田臣思曰く、「過てり君の謀や。秦・魏韓・楚を攻めば、趙必ず之を救はん。是れ天燕を以て斉に予ふるなり」と。桓公曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓自ら以為へらく斉の救ひを得たりと。因りて秦・魏と戦ふ。楚・趙之を聞き、果たして兵を起こして之を救ふ。斉因りて兵を起こして燕国を襲ひ、桑丘を取る。六年、衛を救ふ。桓公卒し、子威王因斉立つ。是の歳、故の斉の康公卒し、絶えて後無し。奉邑皆田氏に入る。斉の威王元年、三晋斉の喪に因りて来りて我が霊丘を伐つ。三年、三晋晋の後を滅ぼして其の地を分つ。六年、魯我を伐ち、陽関に入る。晋我を伐ち、博陵に至る。七年、衛我を伐ち、薛陵を取る。九年、趙我を伐ち、甄を取る。威王初めて位に即きて以来、治めず、政を卿大夫に委ぬ。九年の閒、諸侯并びに伐ち、国人治まらず。
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史記 田敬仲完世家晋の大夫欒逞、乱を晋に作し、来りて斉に奔る。斉の荘公厚く之を客とす。晏嬰と田文子と諫むれども、荘公聴かず。文子卒し、桓子無宇を生む。田桓子無宇力有り。斉の荘公に事へ、甚だ寵有り。無宇卒し、武子開と釐子乞とを生む。田釐子乞、斉の景公に事へて大夫と為る。其の賦税を民に収むるには小斗を以て之を受け、其の稟を民に予ふるには大斗を以てし、陰徳を民に行ふ。而るに景公禁ぜず。此に由りて田氏斉の衆心を得、宗族益々彊く、民田氏を思ふ。晏子数々景公を諫むれども、景公聴かず。已にして晋に使ひし、叔向と私かに語りて曰く、「斉国の政は卒に田氏に帰せん」と。晏嬰卒して後、范・中行氏晋に反く。晋之を攻むること急なり。范・中行、粟を斉に請ふ。田乞乱を為さんと欲し、党を諸侯に樹つ。乃ち景公に説きて曰く、「范・中行数々斉に徳有り。斉救はざるべからず」と。斉田乞をして之を救ひて之に粟を輸らしむ。景公の太子死す。後に寵姫有り芮子と曰ふ。子荼を生む。景公病み、其の相国恵子と高昭子とに命じて子荼を以て太子と為さしむ。景公卒す。両相の高・国、荼を立つ、是を晏孺子と為す。而るに田乞説ばず、景公の他の子陽生を立てんと欲す。陽生素より乞と歓ぶ。晏孺子の立つや、陽生魯に奔る。田乞偽りて高昭子・国恵子に事ふる者、朝する毎に参乗に代はり、言ひて曰く、「始め諸大夫孺子を立つるを欲せず。孺子既に立ち、君之に相たり。大夫皆自ら危ぶみ、乱を作さんと謀る」と。又大夫を紿きて曰く、「高昭子畏るべきなり。未だ発せざるに及びて之に先んぜよ」と。諸大夫之に従ふ。田乞・鮑牧、大夫と兵を以て公室に入り、高昭子を攻む。昭子之を聞き、国恵子と公を救ふ。公の師敗る。田乞の衆国恵子を追ふ。恵子莒に奔る。遂に返りて高昭子を殺す。
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史記 陳杞世家二十九年、陳楚の盟に倍(そむ)く。三十年、楚の共王陳を伐つ。是の歳、成公卒し、子の哀公弱立つ。楚陳の喪を以て、兵を罷めて去る。哀公の三年、楚陳を囲み、復た之を釈す。二十八年、楚の公子囲其の君郟敖を弑して自立し、霊王と為る。三十四年、初め、哀公鄭に娶る。長姫悼太子師を生み、少姫偃を生む。二嬖妾あり、長妾は留を生み、少妾は勝を生む。留哀公に寵有り、哀公之を其の弟司徒招に属す。哀公病む。三月、招悼太子を殺し、留を立てて太子と為す。哀公怒り、招を誅せんと欲す。招兵を発して哀公を囲み守る。哀公自ら経(くび)れて殺す。招卒に留を立てて陳君と為す。四月、陳使ひをして楚に赴せしむ。楚の霊王陳の乱るるを聞き、乃ち陳の使者を殺し、公子棄疾をして兵を発して陳を伐たしむ。陳君留鄭に奔る。九月、楚陳を囲む。十一月、陳を滅ぼし、棄疾をして陳公と為らしむ。招の悼太子を殺すや、太子の子名は呉、出でて晋に奔る。晋の平公太史趙に問ひて曰く、「陳は遂に亡びんか」と。対へて曰く、「陳は顓頊の族なり。陳氏政を斉に得て、乃ち卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふこと無し。舜之を重ぬるに明徳を以てす。遂に至るまで、世々之を守る。胡公に及びて、周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。且つ盛徳の後は、必ず百世祀らる。虞の世未だし。其れ斉に在らんか」と。楚の霊王陳を滅ぼして五歳、楚の公子棄疾霊王を弑して代はり立つ。是を平王と為す。平王初めて立ち、諸侯を和するを得んと欲し、乃ち故の陳の悼太子師の子呉を求め、立てて陳侯と為す。是を恵公と為す。恵公立ち、探りて哀公の卒せし時の年に続けて元と為す。空籍五歳なり。十年、陳火あり。十五年、呉王僚公子光をして陳を伐たしめ、胡・沈を取りて去る。二十八年、呉王闔閭子胥と楚を敗りて郢に入る。
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史記 田敬仲完世家簡公、婦人と檀台に飲み、将に田常を撃たんと欲す。太史子余曰く、「田常敢へて乱を為すに非ず。将に害を除かんとするなり」と。簡公乃ち止む。田常出で、簡公の怒るを聞き、誅せられんことを恐れ、将に出でて亡げんとす。田子行曰く、「需つは、事の賊なり」と。田常是に於て子我を撃つ。子我其の徒を率ゐて田氏を攻むれども、勝たず、出でて亡ぐ。田氏の徒追ひて子我及び監止を殺す。簡公出でて奔る。田氏の徒追ひて簡公を徐州に執ふ。簡公曰く、「蚤く御鞅の言に従はば、此の難に及ばざりしに」と。田氏の徒、簡公の復た立ちて己を誅せんことを恐れ、遂に簡公を殺す。簡公立ちて四年にして殺さる。是に於て田常、簡公の弟驁を立つ、是を平公と為す。平公位に即き、田常相と為る。田常既に簡公を殺し、諸侯の共に己を誅せんことを懼れ、乃ち尽く魯・衛の侵地を帰し、西のかた晋の韓・魏・趙氏と約し、南のかた呉・越の使を通じ、功を修め賞を行ひ、百姓に親しむ。故を以て斉復た定まる。田常、斉の平公に言ひて曰く、「徳施は人の欲する所なり。君其れ之を行へ。刑罰は人の悪む所なり。臣請ふ之を行はん」と。之を行ふこと五年、斉国の政皆田常に帰す。田常是に於て尽く鮑・晏・監止及び公族の彊き者を誅し、而して斉の安平より以東瑯邪に至るまでを割きて、自ら封邑と為す。封邑は平公の食む所より大なり。田常乃ち斉国中の女子の長七尺以上なるを選びて後宮と為す。後宮百を以て数ふ。而して賓客舎人をして後宮に出入せしむる者禁ぜず。田常の卒するに及び、七十余男有り。田常卒し、子襄子盤代はりて立ち、斉に相たり。常諡して成子と為す。田襄子既に斉の宣公に相たり。三晋知伯を殺し、其の地を分つ。襄子其の兄弟宗人をして尽く斉の都邑の大夫と為らしめ、三晋と使を通じ、且に以て斉国を有たんとす。襄子卒し、子荘子白立つ。田荘子斉の宣公に相たり。
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