史記 / 鄭世家
孔子嘗過鄭,與子産如兄弟云。及聞子産死,孔子爲泣曰:「古之遺愛也!」八年,晉范、中行氏反晉,告急於鄭,鄭救之。晉伐鄭,敗鄭軍於鐵。十四年,宋景公滅曹。二十年,齊田常弒其君簡公,而常相於齊。二十二年,楚惠王滅陳。孔子卒。三十六年,晉知伯伐鄭,取九邑。三十七年,聲公卒,子哀公易立。哀公八年,鄭人弒哀公而立聲公弟丑,是爲共公。共公三年,三晉滅知伯。三十一年,共公卒,子幽公已立。幽公元年,韓武子伐鄭,殺幽公。鄭人立幽公弟駘,是爲繻公。繻公十五年,韓景侯伐鄭,取雍丘。鄭城京。十六年,鄭伐韓,敗韓兵於負黍。二十年,韓、趙、魏列爲諸侯。二十三年,鄭圍韓之陽翟。二十五年,鄭君殺其相子陽。二十七,子陽之黨共弒繻公駘而立幽公弟乙爲君,是爲鄭君。鄭君乙立二年,鄭負黍反,復歸韓。十一年,韓伐鄭,取陽城。二十一年,韓哀侯滅鄭,并其國。
新字:孔子嘗過鄭,与子産如兄弟云。及聞子産死,孔子為泣曰:「古之遺愛也!」八年,晋范、中行氏反晋,告急於鄭,鄭救之。晋伐鄭,敗鄭軍於鉄。十四年,宋景公滅曹。二十年,斉田常弒其君簡公,而常相於斉。二十二年,楚恵王滅陳。孔子卒。三十六年,晋知伯伐鄭,取九邑。三十七年,声公卒,子哀公易立。哀公八年,鄭人弒哀公而立声公弟丑,是為共公。共公三年,三晋滅知伯。三十一年,共公卒,子幽公已立。幽公元年,韓武子伐鄭,殺幽公。鄭人立幽公弟駘,是為繻公。繻公十五年,韓景侯伐鄭,取雍丘。鄭城京。十六年,鄭伐韓,敗韓兵於負黍。二十年,韓、趙、魏列為諸侯。二十三年,鄭囲韓之陽翟。二十五年,鄭君殺其相子陽。二十七,子陽之党共弒繻公駘而立幽公弟乙為君,是為鄭君。鄭君乙立二年,鄭負黍反,復帰韓。十一年,韓伐鄭,取陽城。二十一年,韓哀侯滅鄭,并其国。
書き下し
孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
現代語訳
孔子はかつて鄭に立ち寄り、子産と兄弟のように親しかったという。子産の死を聞くと、孔子は子産のために泣いて言った。「古の人の慈しみを今に残した人であった」。(声公の)八年、晋の范氏・中行氏が晋に背き、鄭に急を告げた。鄭は彼らを救った。晋は鄭を討ち、鄭軍を鉄(てつ)で破った。十四年、宋の景公が曹を滅ぼした。二十年、斉の田常が主君の簡公を殺し、自ら斉の宰相となった。二十二年、楚の恵王が陳を滅ぼした。孔子が死んだ。三十六年、晋の知伯が鄭を討ち、九つの邑を取った。三十七年、声公が死に、子の哀公易(えき)が立った。哀公の八年、鄭の人々は哀公を殺して声公の弟の丑(ちゅう)を立てた。これが共公である。共公の三年、韓・趙・魏の三晋が知伯を滅ぼした。三十一年、共公が死に、子の幽公已(い)が立った。幽公の元年、韓の武子が鄭を討ち、幽公を殺した。鄭の人々は幽公の弟の駘(たい)を立てた。これが繻公(じゅこう)である。繻公の十五年、韓の景侯が鄭を討ち、雍丘(ようきゅう)を取った。鄭は京に城を築いた。十六年、鄭は韓を討ち、韓軍を負黍(ふしょ)で破った。二十年、韓・趙・魏が正式に諸侯に列せられた。二十三年、鄭は韓の陽翟を包囲した。二十五年、鄭君は宰相の子陽(しよう)を殺した。二十七年、子陽の一党が共謀して繻公駘を殺し、幽公の弟の乙(いつ)を君に立てた。これが鄭君である。鄭君乙が立って二年、鄭の負黍が背いて再び韓に帰属した。十一年、韓が鄭を討ち、陽城を取った。二十一年、韓の哀侯が鄭を滅ぼし、その国を併合した。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家子産、韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てし、立つ所以を忘るる毋かれ」と。六年、鄭火あり。公之を禳はんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。八年、楚の太子建来奔す。十年、太子建、晋と謀りて鄭を襲はんとす。鄭、建を殺す。建の子勝呉に奔る。十一年、定公晋に如く。晋、鄭と謀りて周の乱臣を誅し、敬王を周に入る。十三年、定公卒し、子献公蠆立つ。献公十三年に卒し、子声公勝立つ。是の時に当たり、晋の六卿彊く、鄭を侵奪す。鄭遂に弱し。声公五年、鄭の相子産卒す。鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡へるが如し。子産は鄭の成公の少子なり。人と為り仁にして人を愛し、君に事へて忠厚なり。
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史記 鄭世家十四年、成公卒し、子惲立つ。是を釐公と為す。釐公五年、鄭の相子駟、釐公に朝す。釐公礼せず。子駟怒り、廚人をして釐公を薬殺せしめ、諸侯に赴げて曰く「釐公暴かに病みて卒す」と。釐公の子嘉を立つ。嘉時に年五歳、是を簡公と為す。簡公元年、諸公子謀りて相子駟を誅せんと欲す。子駟之を覚り、反りて尽く諸公子を誅す。二年、晋鄭を伐つ。鄭与に盟ひ、晋去る。冬、又楚と盟ふ。子駟誅を畏る、故に両つながら晋・楚に親しむ。三年、相子駟自ら立ちて君と為らんと欲す。公子子孔、尉止をして相子駟を殺さしめて之に代はる。子孔又自ら立たんと欲す。子産曰く、「子駟不可を為す、之を誅す。今又之に効ふ。是れ乱の息む時無きなり」と。是に於て子孔之に従ひて鄭の簡公に相たり。四年、晋、鄭の楚と盟ふを怒り、鄭を伐つ。鄭与に盟ふ。楚の共王鄭を救ひ、晋の兵を敗る。簡公晋と平がんと欲す。楚又鄭の使者を囚ふ。十二年、簡公、相子孔の国権を専らにするを怒り、之を誅して、子産を以て卿と為す。十九年、簡公晋に如きて衛君の還らんことを請ふ。而して子産を封ずるに六邑を以てす。子産譲りて、其の三邑を受く。二十二年、呉、延陵の季子を鄭に使はす。子産を見ること旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政者侈る。難将に至らんとし、政将に子に及ばんとす。子政を為さば、必ず礼を以てせよ。然らずんば、鄭将に敗れんとす」と。子産厚く季子を遇す。二十三年、諸公子寵を争ひて相殺し、又子産を殺さんと欲す。公子或いは諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以の者は子産なり。殺す勿かれ」と。乃ち止む。二十五年、鄭、子産を晋に使はし、平公の疾を問はしむ。平公曰く、「卜して曰く、実沈・台駘祟りを為すと。史官知る莫し。敢へて問ふ」と。対へて曰く、「高辛氏に二子有り。長を閼伯と曰ひ、季を実沈と曰ふ。曠林に居り、相能くせず、日に干戈を操りて以て相征伐す。
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史記 韓世家十六年、武子卒し、子景侯立つ。景侯虔の元年、鄭を伐ち、雍丘を取る。二年、鄭我を負黍に敗る。六年、趙・魏と倶に列して諸侯と為るを得たり。九年、鄭我が陽翟を囲む。景侯卒し、子列侯取立つ。列侯三年、聶政韓の相俠累を殺す。九年、秦我が宜陽を伐ち、六邑を取る。十三年、列侯卒し、子文侯立つ。是の歳魏の文侯卒す。文侯二年、鄭を伐ち、陽城を取る。宋を伐ち、彭城に到り、宋君を執ふ。七年、斉を伐ち、桑丘に至る。鄭晋に反く。九年、斉を伐ち、霊丘に至る。十年、文侯卒し、子哀侯立つ。哀侯元年、趙・魏と晋国を分つ。二年、鄭を滅ぼし、因りて都を鄭に徙す。六年、韓厳其の君哀侯を弑す。而して子懿侯立つ。懿侯二年、魏我を馬陵に敗る。五年、魏の恵王と宅陽に会す。九年、魏我を澮に敗る。十二年、懿侯卒し、子昭侯立つ。昭侯元年、秦我を西山に敗る。二年、宋我が黄池を取る。魏朱を取る。六年、東周を伐ち、陵観・邢丘を取る。
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史記 晋世家季平子私かに范献子に賂ふ。献子之を受け、乃ち晋君に謂ひて曰く、「季氏罪無し」と。果たして魯君を入れず。十二年、晋の宗家祁傒の孫、叔向の子、君に相悪しとせらる。六卿公室を弱めんと欲し、乃ち遂に法を以て尽く其の族を滅ぼす。而して其の邑を分かちて十県と為し、各々其の子をして大夫と為らしむ。晋益々弱く、六卿皆大なり。十四年、頃公卒し、子の定公午立つ。定公の十一年、魯の陽虎晋に奔る。趙鞅簡子之を捨(やど)す。十二年、孔子魯に相たり。十五年、趙鞅邯鄲の大夫午に使ふも、信ならず、午を殺さんと欲す。午中行寅・范吉射と親ら趙鞅を攻む。鞅走りて晋陽を保つ。定公晋陽を囲む。荀櫟・韓不信・魏侈范・中行と仇為り。乃ち兵を移して范・中行を伐つ。范・中行反す。晋君之を撃ち、范・中行を敗る。范・中行朝歌に走り、之を保つ。韓・魏趙鞅の為に晋君に謝す。乃ち趙鞅を赦し、位に復す。二十二年、晋范・中行氏を敗り、二子斉に奔る。三十年、定公呉王夫差と黄池に会し、長を争ふ。趙鞅時に従ひ、卒に呉を長とす。三十一年、斉の田常其の君簡公を弑し、而して簡公の弟驁を立てて平公と為す。三十三年、孔子卒す。三十七年、定公卒し、子の出公鑿立つ。出公の十七年、知伯趙・韓・魏と共に范・中行の地を分かちて以て邑と為す。出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。四卿恐れ、遂に反って出公を攻む。出公斉に奔り、道に死す。故に知伯乃ち昭公の曾孫驕を立てて晋君と為す。是を哀公と為す。哀公の大父雍は、晋の昭公の少子なり。号して戴子と為す。戴子忌を生む。忌知伯に善し。蚤く死す。故に知伯尽く晋を并せんと欲するも、未だ敢てせず。乃ち忌の子驕を立てて君と為す。
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史記 陳杞世家是の年、恵公卒し、子の懐公柳立つ。懐公の元年、呉楚を破り、郢に在りて、陳侯を召す。陳侯往かんと欲す。大夫曰く、「呉新たに意を得たり。楚王亡ぐと雖も、陳と故有り、倍くべからず」と。懐公乃ち疾を以て呉に謝す。四年、呉復た懐公を召す。懐公恐れて呉に如く。呉其の前に往かざるを怒り、之を留む。因りて呉に卒す。陳乃ち懐公の子越を立つ。是を湣公と為す。湣公の六年、孔子陳に適く。呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。十三年、呉復た来たりて陳を伐つ。陳急を楚に告ぐ。楚の昭王来たり救ひ、城父に軍す。呉の師去る。是の年、楚の昭王城父に卒す。時に孔子陳に在り。十五年、宋曹を滅ぼす。十六年、呉王夫差斉を伐ち、之を艾陵に敗り、人をして陳侯を召さしむ。陳侯恐れて呉に如く。楚陳を伐つ。二十一年、斉の田常其の君簡公を弑す。二十三年、楚の白公勝令尹子西・子綦を殺し、恵王を襲ふ。葉公攻めて白公を敗る。白公自殺す。二十四年、楚の恵王国を復し、兵を以て北のかた伐ち、陳の湣公を殺し、遂に陳を滅ぼして之を有つ。是の歳、孔子卒す。杞の東楼公は、夏后禹の後の苗裔なり。殷の時或いは封ぜられ或いは絶ゆ。周の武王殷の紂に克ち、禹の後を求め、東楼公を得て、之を杞に封じ、以て夏后氏の祀を奉ぜしむ。東楼公西楼公を生み、西楼公題公を生み、題公謀娶公を生む。謀娶公は周の厲王の時に当たる。謀娶公武公を生む。武公立ちて四十七年にして卒し、子の靖公立つ。靖公二十三年にして卒し、子の共公立つ。共公八年にして卒し、子の徳公立つ。徳公十八年にして卒し、弟の桓公姑容立つ。桓公十七年にして卒し、子の孝公丐立つ。孝公十七年にして卒し、弟の文公益姑立つ。文公十四年にして卒し、弟の平公郁立つ。
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史記 周本紀定王の元年、楚の荘王陸渾の戎を伐ち、洛に次り、人をして九鼎を問はしむ。王王孫満をして応へて設くるに辞を以てせしむ。楚の兵乃ち去る。十年、楚の荘王鄭を囲む。鄭伯降り、已にして之を復す。十六年、楚の荘王卒す。二十一年、定王崩じ、子簡王夷立つ。簡王の十三年、晋其の君厲公を殺し、子周を周より迎へ、立てて悼公と為す。十四年、簡王崩じ、子霊王泄心立つ。霊王の二十四年、斉の崔杼其の君荘公を弒す。二十七年、霊王崩じ、子景王貴立つ。景王の十八年、后の太子聖にして蚤く卒す。二十年、景王子朝を愛し、之を立てんと欲す。会崩ず。子丐の党与に立つを争ふ。国人長子猛を立てて王と為す。子朝攻めて猛を殺す。猛を悼王と為す。晋人子朝を攻めて丐を立つ。是を敬王と為す。敬王の元年、晋人敬王を入る。子朝自立し、敬王入るを得ず、沢に居る。四年、晋諸侯を率ゐて敬王を周に入る。子朝臣と為り、諸侯周に城く。十六年、子朝の徒復た乱を作し、敬王晋に奔る。十七年、晋の定公遂に敬王を周に入る。三十九年、斉の田常其の君簡公を殺す。四十一年、楚陳を滅ぼす。孔子卒す。四十二年、敬王崩じ、子元王仁立つ。元王八年にして崩じ、子定王介立つ。定王の十六年、三晋智伯を滅ぼし、分かちて其の地を有つ。二十八年、定王崩じ、長子去疾立つ。是を哀王と為す。哀王立つこと三月、弟叔襲ひて哀王を殺して自立す。是を思王と為す。思王立つこと五月、少弟嵬攻めて思王を殺して自立す。是を考王と為す。此の三王は皆定王の子なり。考王十五年にして崩じ、子威烈王午立つ。考王其の弟を河南に封ず。是を桓公と為し、以て周公の官職を続がしむ。
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