史記 / 趙世家
位尊而無功,奉厚而無勞,而挾重器多也。今媼尊長安君之位,而封之以膏腴之地,多與之重器,而不及今令有功於國,一旦山陵崩,長安君何以自託於趙?老臣以媼爲長安君之計短也,故以爲愛之不若燕后。」太后曰:「諾,恣君之所使之。」於是爲長安君約車百乘,質於齊,齊兵乃出。子義聞之,曰:「人主之子,骨肉之親也,猶不能持無功之尊,無勞之奉,而守金玉之重也,而況於予乎?」齊安平君田單將趙師而攻燕中陽,拔之。又攻韓注人,拔之。二年,惠文后卒。田單爲相。四年,王夢衣偏裻之衣,乘飛龍上天,不至而墜,見金玉之積如山。明日,王召筮史敢占之,曰:「夢衣偏裻之衣者,殘也。乘飛龍上天不至而墜者,有氣而無實也。見金玉之積如山者,憂也。」後三日,韓氏上黨守馮亭使者至,曰:「韓不能守上黨,入之於秦。其吏民皆安爲趙,不欲爲秦。有城市邑十七,願再拜入之趙,財王所以賜吏民。」王大喜,召平陽君豹告之曰:「馮亭入城市邑十七,受之何如?」對曰:「聖人甚禍無故之利。」王曰:「人懷吾德,何謂無故乎?」對曰:「夫秦蠶食韓氏地,中絶不令相通,固自以爲坐而受上黨之地也。韓氏所以不入於秦者,欲嫁其禍於趙也。
新字:位尊而無功,奉厚而無労,而挟重器多也。今媼尊長安君之位,而封之以膏腴之地,多与之重器,而不及今令有功於国,一旦山陵崩,長安君何以自託於趙?老臣以媼為長安君之計短也,故以為愛之不若燕后。」太后曰:「諾,恣君之所使之。」於是為長安君約車百乗,質於斉,斉兵乃出。子義聞之,曰:「人主之子,骨肉之親也,猶不能持無功之尊,無労之奉,而守金玉之重也,而況於予乎?」斉安平君田単将趙師而攻燕中陽,抜之。又攻韓注人,抜之。二年,恵文后卒。田単為相。四年,王夢衣偏裻之衣,乗飛竜上天,不至而墜,見金玉之積如山。明日,王召筮史敢占之,曰:「夢衣偏裻之衣者,残也。乗飛竜上天不至而墜者,有気而無実也。見金玉之積如山者,憂也。」後三日,韓氏上党守馮亭使者至,曰:「韓不能守上党,入之於秦。其吏民皆安為趙,不欲為秦。有城市邑十七,願再拝入之趙,財王所以賜吏民。」王大喜,召平陽君豹告之曰:「馮亭入城市邑十七,受之何如?」対曰:「聖人甚禍無故之利。」王曰:「人懐吾徳,何謂無故乎?」対曰:「夫秦蠶食韓氏地,中絶不令相通,固自以為坐而受上党之地也。韓氏所以不入於秦者,欲嫁其禍於趙也。
書き下し
位尊くして功無く、奉厚くして労無く、而して重器を挟むこと多ければなり。今媼、長安君の位を尊くして、之を封ずるに膏腴の地を以てし、多く之に重器を与へて、今に及びて国に功有らしめず。一旦山陵崩れば、長安君何を以てか自ら趙に託せん。老臣以為へらく、媼の長安君の為に計ること短しと。故に以為へらく、之を愛すること燕后に若かずと」と。太后曰く、「諾。君の之を使ふ所を恣にせよ」と。是に於て長安君の為に車百乗を約し、斉に質とす。斉の兵乃ち出づ。子義之を聞きて曰く、「人主の子は、骨肉の親なり。猶ほ無功の尊、無労の奉を持して、金玉の重きを守ること能はず。而るを況んや予に於てをや」と。斉の安平君田単、趙の師に将として燕の中陽を攻め、之を抜く。又韓の注人を攻め、之を抜く。二年、恵文后卒す。田単相と為る。四年、王夢に偏裻の衣を衣、飛龍に乗りて天に上り、至らずして墜ち、金玉の積むこと山の如きを見る。明日、王筮史敢を召して之を占はしむ。曰く、「夢に偏裻の衣を衣る者は、残なり。飛龍に乗りて天に上り至らずして墜つる者は、気有りて実無きなり。金玉の積むこと山の如きを見る者は、憂ひなり」と。後三日、韓氏の上党の守馮亭の使者至りて曰く、「韓上党を守ること能はず、之を秦に入れんとす。其の吏民皆趙と為るに安んじ、秦と為るを欲せず。城市邑十七有り。願はくは再拝して之を趙に入れん。財めて王の吏民に賜ふ所を以てせよ」と。王大いに喜び、平陽君豹を召して之に告げて曰く、「馮亭、城市邑十七を入る。之を受くること何如」と。対へて曰く、「聖人は甚だ無故の利を禍とす」と。王曰く、「人吾が徳に懐く。何ぞ無故と謂はんや」と。対へて曰く、「夫れ秦は韓氏の地を蚕食し、中ごろ絶えて相通ぜしめず。固より自ら以為へらく坐して上党の地を受けんと。韓氏の秦に入れざる所以の者は、其の禍を趙に嫁せんと欲すればなり。
現代語訳
(触龍は続けた。)「それは、地位は高いのに功績がなく、俸禄は厚いのに苦労がなく、しかも貴重な宝物をたくさん持っていたからである。今、あなた様は長安君の地位を高くし、肥えた土地を与えて封じ、貴重な宝物もたくさん与えておられるが、今のうちに国のために功を立てさせてはおられない。ひとたびあなた様がお亡くなりになったら、長安君はどうやって趙で身を立てていけよう。わたくしは、あなた様が長安君のためにお考えになっていることは、あまりに短い先しか見ていないと思う。だから、長安君への愛は燕后への愛に及ばないと申し上げたのだ」。太后は言った。「分かった。あなたの思うように長安君を使ってよい」。そこで長安君のために車百台を用意し、斉に人質として送った。斉の兵はようやく出動した。子義(しぎ)がこれを聞いて言った。「君主の子は骨肉の親族である。それでさえ、功績のない高い地位や、苦労のない俸禄によって、金玉の宝を守り通すことはできない。ましてわたしのような者ならなおさらだ」。斉の安平君田単(でんたん)が趙の軍を率いて燕の中陽(ちゅうよう)を攻め落とした。また韓の注人(ちゅうじん)を攻め落とした。(孝成王の)二年、恵文后が死んだ。田単が宰相となった。四年、王は夢を見た。左右の色の違う衣を着て飛龍に乗り天に昇ろうとしたが、たどり着けずに墜ち、金玉が山のように積まれているのを見た。翌日、王は占いの官の敢(かん)を呼んで占わせた。敢は言った。「左右の色の違う衣を着る夢は、損なわれることを表す。飛龍に乗って天に昇りきれずに墜ちる夢は、勢いはあっても実がないことを表す。金玉が山のように積まれているのを見る夢は、憂いを表す」。三日後、韓の上党の太守馮亭(ふうてい)の使者がやって来て言った。「韓は上党を守りきれず、秦に差し出そうとしている。しかし上党の役人も民もみな趙の民となることを望み、秦の民になることを望んでいない。城市や邑は十七ある。どうか再拝してこれを趙に献上したい。王が役人や民に賜るものをお決めいただきたい」。王は大いに喜び、平陽君趙豹を呼んで告げた。「馮亭が城市や邑を十七も献上してきた。受け取ってはどうか」。趙豹は答えた。「聖人は、理由のない利益を禍として深く恐れるものだ」。王は言った。「人々がわたしの徳を慕ってくるのだ。どうして理由がないなどと言えよう」。趙豹は答えた。「秦は韓の地を蚕が桑を食べるように侵し、途中で断ち切って上党と韓本国とを通じさせないようにした。秦はもともと、座っていても上党の地が手に入ると思っている。韓が上党を秦に差し出さないのは、その禍を趙に押しつけようとしているからだ。
解説
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史記 趙世家秦其の労に服して趙其の利を受く。彊大と雖も之を小弱に得ること能はず。小弱顧って能く之を彊大に得んや。豈に無故の利に非ずと謂ふべけんや。且つ夫れ秦は牛田の水を以て糧を通じて蚕食し、上乗倍戦する者、上国の地を裂く。其の政行はる、与に難を為すべからず。必ず受くる勿かれ」と。王曰く、「今百万の軍を発して攻むるも、年を踰え歳を歴て未だ一城をも得ず。今城市邑十七を以て吾が国に幣す。此れ大利なり」と。趙豹出づ。王、平原君と趙禹とを召して之に告ぐ。対へて曰く、「百万の軍を発して攻むるも、歳を踰えて未だ一城をも得ず。今坐して城市邑十七を受く。此れ大利なり、失ふべからざるなり」と。王曰く、「善し」と。乃ち趙勝をして地を受けしめ、馮亭に告げて曰く、「敝国の使者臣勝、敝国の君勝をして命を致さしむ。万戸の都三を以て太守を封じ、千戸の都三をもて県令を封じ、皆世世侯と為さん。吏民皆爵三級を益し、吏民能く相安んずれば、皆之に六金を賜はん」と。馮亭涕を垂れて使者に見えずして曰く、「吾は三不義に処らざるなり。主の為に地を守りて、死固すること能はざるは、不義の一なり。之を秦に入れよとあるに、主の令を聴かざるは、不義の二なり。主の地を売りて之を食むは、不義の三なり」と。趙遂に兵を発して上党を取る。廉頗将軍、長平に軍す。七月、廉頗免ぜられて趙括代はりて将たり。秦人趙括を囲む。趙括軍を以て降る。卒四十余万皆之を阬にす。王、趙豹の計を聴かざりしを悔ゆ。故に長平の禍有り。王還り、秦に聴かず。秦邯鄲を囲む。武垣の令傅豹・王容・蘇射、燕の衆を率ゐて燕の地に反す。趙、霊丘を以て楚の相春申君を封ず。八年、平原君楚に如きて救ひを請ふ。還りて、楚来り救ひ、及び魏の公子無忌も亦来り救ふ。秦の邯鄲を囲むこと乃ち解く。十年、燕昌壮を攻め、五月之を抜く。
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戦国策・秦王謂公子他秦王公子他に謂いて曰く、「昔歲殽下の事、韓中軍と爲り、以て諸侯と秦を攻む。韓秦と境壤を接し、其の地千里なる能わず、展轉して約す可からず。日者秦・楚藍田に戰い、韓銳師を出だして以て秦を佐く、秦戰いて利あらず、因りて轉じて楚に與し、信盟を固めず、唯便のみ是れ從う。韓の我に在るや、心腹の疾なり。吾將に之を伐たんとす、何如。」公子他曰く、「王兵を韓に出だせば、韓必ず懼れん、懼るれば則ち戰わずして深く割を取る可し。」王曰く、「善し。」乃ち兵を起こし、一軍熒陽に臨み、一軍太行に臨む。韓恐れ、陽城君をして秦に入りて謝せしめ、上黨の地を效して以て和と爲さんことを請う。韓陽をして上黨の守靳𪏘に告げしめて曰く、「秦二軍を起こして以て韓に臨み、韓有つ能わず。今王韓に令じて兵を興して上黨を以て秦に入りて和せしむ、陽をして之を太守に言わしむ、太守其れ之を效せ。」靳𪏘曰く、「人言えること有り、挈瓶の知も、守器を失わずと。王則ち令有り、而れども臣太守たり、王と子と雖も、亦其れ猜わん。臣請う悉く守を發して以て秦に應ぜん、若し卒う能わずんば、則ち之に死せん。」韓陽趨りて以て王に報ず、王曰く、「吾始め已に應侯に諾せり、今與えずんば、是れ之を欺くなり。」乃ち馮亭をして靳𪏘に代わらしむ。馮亭守ること三十日、陰かに人をして趙王に請いて曰く、「韓上黨を守る能わず、且に以て秦に與えんとす、其の民皆秦の爲にすることを欲せず、而して趙の爲にせんことを願う。今城市の邑七十有り、願わくは拜して之を王に內れん、唯だ王之を才せよ。」趙王喜び、平原君を召して之に告げて曰く、「韓上黨を守る能わず、且に以て秦に與えんとす、其の吏民秦の爲にすることを欲せず、而して皆趙の爲にせんことを願う。今馮亭使者をして以て寡人に與えしむ、何如。」趙豹對えて曰く、「臣聞く、聖人は甚だ無故の利を禍とすと。」王曰く、「人吾が義を懷く、何ぞ無故と謂わんや。」對えて曰く、「秦韓氏の地を蠶食し、中絕して相通ぜしめず、故に自ら以て坐して上黨を受くと爲すなり。且つ夫れ韓の趙に內るる所以の者は、其の禍を嫁がんと欲すればなり。秦其の勞を被り、而して趙其の利を受く、强大なりと雖も之を小弱に得る能わずして、小弱顧って之を强大に得んや。今王之を取らば、故有りと謂う可きか。且つ秦牛田を以て、水糧を通じ、其の死士皆之を上地に列す、令嚴に政行われ、與に戰う可からず。王自ら之を圖れ。」王大いに怒りて曰く、「夫れ百萬の眾を用い、攻戰すること年を踰え歲を歷るも、未だ一城をも見ざるなり。今兵を用いずして城七十を得ん、何の故にか爲さざる。」趙豹出づ。王趙勝・趙禹を召して之に告げて曰く、「韓上黨を守る能わず、今其の守以て寡人に與う、城市の邑七十有り。」二人對えて曰く、「兵を用いて年を踰ゆるも、未だ一城をも見ず、今坐して城を得るは、此れ大利なり。」乃ち趙勝をして往きて地を受けしむ。趙勝至りて曰く、「敝邑の王、使者臣勝をして、太守に詔有り、臣勝をして謂わしめて曰く、『請う三萬戶の都を以て太守に封じ、千戶を縣令に封じ、諸吏皆爵三級を益し、民能く相集まる者は、家に六金を賜わん。』と。」馮亭涕を垂れて勉めて曰く、「是れ吾三不義に處るなり。主の爲に地を守りて死する能わずして、以て人に與う、不義の一なり。主之を秦に內れんとするに、主の命に順わず、不義の二なり。主の地を賣りて之を食む、不義の三なり。」封を辭して韓に入り、韓王に謂いて曰く、「趙韓上黨を守る能わざるを聞き、今兵を發して已に之を取れり。」韓秦に告げて曰く、「趙兵を起こして上黨を取る。」秦王怒り、公孫起・王齮をして兵を以て趙に長平に遇わしむ。
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史記 趙世家是に於て趙乃ち輟め、秦に謝して斉を撃たず。王燕王と遇ふ。廉頗将として、斉の昔陽を攻め、之を取る。十七年、楽毅趙の師に将として魏の伯陽を攻む。而して秦、趙の己と斉を撃たざるを怨み、趙を伐ち、我が両城を抜く。十八年、秦我が石城を抜く。王再び衛の東陽に之き、河水を決し、魏氏を伐つ。大いに潦し、漳水出づ。魏冉来りて趙に相たり。十九年、秦我が二城を取る。趙魏に伯陽を与ふ。趙奢将として、斉の麦丘を攻め、之を取る。二十年、廉頗将として斉を攻む。王秦の昭王と西河の外に遇ふ。二十一年、趙漳水を武平の西に徙す。二十二年、大いに疫す。公子丹を置きて太子と為す。二十三年、楼昌将として、魏の幾を攻むるも、取ること能はず。十二月、廉頗将として、幾を攻め、之を取る。二十四年、廉頗将として、魏の房子を攻め、之を抜き、因りて城きて還る。又安陽を攻め、之を取る。二十五年、燕周将として、昌城・高唐を攻め、之を取る。魏と共に秦を撃つ。秦の将白起我を華陽に破り、一将軍を得たり。二十六年、東胡の代を欧ひし地を取る。二十七年、漳水を武平の南に徙す。趙豹を封じて平陽君と為す。河水出で、大いに潦す。二十八年、藺相如斉を伐ち、平邑に至る。城北の九門の大城を罷む。燕の将成安君公孫操其の王を弑す。二十九年、秦・韓相攻めて、閼与を囲む。趙、趙奢をして将として秦を撃たしめ、大いに秦軍を閼与の下に破り、号を賜ひて馬服君と為す。三十三年、恵文王卒し、太子丹立つ、是を孝成王と為す。孝成王元年、秦我を伐ち、三城を抜く。趙王新たに立ち、太后事を用ふ。秦急に之を攻む。趙氏救ひを斉に求む。斉曰く、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん」と。太后肯ぜず。大臣彊く諫む。
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戦国策・趙太后新用事趙の太后新たに用事す、秦急に之を攻む。趙氏斉に救いを求む。斉曰わく、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん。」太后肯んぜず、大臣強いて諫む。太后明らかに左右に謂いて曰わく、「復た長安君を質と為さしめんと言う者有らば、老婦必ず其の面に唾せん。」左師触詟、太后に見えんことを願う。太后気を盛んにして之を揖す。入りて徐(おもむ)ろに趨(はし)り、至りて自ら謝して曰わく、「老臣足を病み、曾て疾く走る能わず、見えざること久し。竊かに自ら恕すも、太后の玉体の郄(げき)有る所を恐る、故に太后を望見せんことを願う。」太后曰わく、「老婦輦を恃みて行く。」曰わく、「日に食飲衰うること無きを得るか。」曰わく、「鬻(かゆ)を恃むのみ。」曰わく、「老臣今者殊に食を欲せず、乃ち自ら強いて歩し、日に三四里、少しく耆食(ししょく)を益し、身に和す。」太后曰わく、「老婦は能わず。」太后の色少しく解く。左師公曰わく、「老臣の賤息舒祺、最も少にして、不肖なり。而して臣衰う、竊かに之を愛憐す。願わくは黒衣の数に補うを得て、以て王宮を衛らしめんことを、死を没して以て聞す。」太后曰わく、「敬んで諾す。年幾何ぞ。」対えて曰わく、「十五歳なり。少しと雖も、未だ溝壑を填(うず)めざるに及びて之を託せんことを願う。」太后曰わく、「丈夫も亦其の少子を愛憐するか。」対えて曰わく、「婦人より甚だし。」太后笑いて曰わく、「婦人は異(こと)に甚だし。」対えて曰わく、「老臣竊かに以為えらく、媼(おう)の燕后を愛するは長安君より賢れりと。」曰わく、「君過てり、長安君の甚だしきに若かず。」左師公曰わく、「父母の子を愛するや、則ち之が為に計ること深遠なり。媼の燕后を送るや、其の踵(かかと)を持して之が為に泣き、其の遠きを念い悲しみ、亦之を哀しめり。已に行きて、思わざるに非ざるも、祭祀には必ず之を祝し、祝いて曰わく、『必ず反らしむること無かれ』と。豈に久長を計り、子孫相継ぎて王為るを有せんと欲するに非ざらんや。」太后曰わく、「然り。」左師公曰わく、「今三世より以前、趙の趙為るに至るまで、趙主の子孫の侯たる者、其の継ぐ者在る有りや。」曰わく、「有る無し。」曰わく、「独り趙のみに非ず、諸侯に在る者有りや。」曰わく、「老婦聞かざるなり。」「此れ其の近き者は禍い身に及び、遠き者は其の子孫に及ぶ。豈に人主の子孫は則ち必ず不善ならんや。位尊くして功無く、奉厚くして労無くして、重器を挟むこと多ければなり。今媼長安君の位を尊くして、之に封ずるに膏腴の地を以てし、多く之に重器を予え、今に及びて国に功有らしめず。一旦山陵崩れなば、長安君何を以て自ら趙に託せんや。老臣媼の長安君の為に計るを短しと以為う、故に以為えらく其の愛燕后に若かず、と。」太后曰わく、「諾。君の之を使う所に恣(まか)せん。」是に於いて長安君の為に車百乗を約して斉に質とす、斉の兵乃ち出づ。子義之を聞きて曰わく、「人主の子や、骨肉の親なるすら、猶お功無きの尊、労無きの奉を恃みて、金玉の重きを守る能わず、而るを況んや人臣をや。」
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史記 趙世家太后明らかに左右に謂ひて曰く、「復た長安君を質と為すと言ふ者有らば、老婦必ず其の面に唾せん」と。左師触龍、太后に見えんことを願ふと言ふ。太后盛気して之を胥つ。入りて、徐ろに趨りて坐し、自ら謝して曰く、「老臣足を病み、曾て疾く走ること能はず、見ゆることを得ざること久し。窃かに自ら恕すも、而も太后の体の苦しむ所有らんことを恐る。故に太后に望見せんことを願ふ」と。太后曰く、「老婦は輦に恃りて行くのみ」と。曰く、「食衰ふること得る毋きか」と。曰く、「粥に恃るのみ」と。曰く、「老臣閒者殊に食を欲せず。乃ち彊ひて歩むこと、日に三四里、少しく食を嗜むを益し、身に和せり」と。太后曰く、「老婦は能はず」と。太后の和せざるの色少しく解く。左師公曰く、「老臣の賤息舒祺最も少く、不肖なり。而して臣衰へ、窃かに之を憐愛す。願はくは黒衣の欠を補ひて以て王宮を衛ることを得ん。昧死して以て聞す」と。太后曰く、「敬んで諾す。年幾何ぞ」と。対へて曰く、「十五歳なり。少しと雖も、願はくは未だ溝壑を塡めざるに及びて之を託せん」と。太后曰く、「丈夫も亦少子を愛憐するか」と。対へて曰く、「婦人より甚だし」と。太后笑ひて曰く、「婦人は異に甚だし」と。対へて曰く、「老臣窃かに以為へらく、媼の燕后を愛するは長安君より賢れりと」と。太后曰く、「君過てり。長安君の甚だしきに若かず」と。左師公曰く、「父母の子を愛するは則ち之が為に計ること深遠なり。媼の燕后を送るや、其の踵を持ち、之が為に泣き、其の遠きを念ふ。亦之を哀しめり。已に行きて、思はざるに非ざるなり。祭祀には則ち之を祝して曰く『必ず反らしむる勿かれ』と。豈に長久を計り、子孫相継ぎて王と為るが為に非ずや」と。太后曰く、「然り」と。左師公曰く、「今三世以前、趙主の子孫の侯為る者に至るまで、其の継ぐもの在る者有りや」と。曰く、「有る無し」と。曰く、「微だ趙のみならず、諸侯に在る者有りや」と。曰く、「老婦は聞かず」と。曰く、「此れ其の近き者は禍其の身に及び、遠き者は其の子孫に及ぶ。豈に人主の子の侯たるもの則ち不善ならんや。
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史記 趙世家五年、韓の女を娶りて夫人と為す。八年、韓秦を撃つも、勝たずして去る。五国相王とす。趙独り否とし、曰く、「其の実無くして、敢へて其の名に処らんや」と。国人をして己を謂ひて「君」と曰はしむ。九年、韓・魏と共に秦を撃つ。秦我を敗り、首を斬ること八万級。斉我を観沢に敗る。十年、秦我が中都及び西陽を取る。斉燕を破る。燕の相子之君と為り、君反りて臣と為る。十一年、王公子職を韓より召し、立てて以て燕王と為し、楽池をして之を送らしむ。十三年、秦我が藺を抜き、将軍趙荘を虜にす。楚・魏の王来り、邯鄲を過る。十四年、趙何魏を攻む。十六年、秦の恵王卒す。王大陵に遊ぶ。他日、王夢に処女の琴を鼓して詩を歌ふを見る。曰く、「美人熒熒たり、顔は苕の栄の若し。命なるかな命なるかな、曾て我が嬴無し」と。異日、王酒を飲みて楽しみ、数々夢みし所を言ひ、其の状を想見す。呉広之を聞き、夫人に因りて其の女娃嬴を内る。孟姚なり。孟姚甚だ王に寵有り、是を恵后と為す。十七年、王九門に出で、野台を為り、以て斉・中山の境を望む。十八年、秦の武王孟説と龍文の赤鼎を挙げ、臏を絶ちて死す。趙王、代の相趙固をして公子稷を燕に迎へしめ、送り帰して、立てて秦王と為す、是を昭王と為す。十九年春正月、大いに信宮に朝す。肥義を召して与に天下を議し、五日にして畢る。王北のかた中山の地を略し、房子に至り、遂に代に之き、北のかた無窮に至り、西のかた河に至り、黄華の上に登る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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