史記 / 趙世家
當道者曰:「主君之子將克二國於翟,皆子姓也。」簡子曰:「吾見兒在帝側,帝屬我一翟犬,曰『及而子之長以賜之』。夫兒何謂以賜翟犬?」當道者曰:「兒,主君之子也。翟犬者,代之先也。主君之子且必有代。及主君之後嗣,且有革政而胡服,并二國於翟。」簡子問其姓而延之以官。當道者曰:「臣野人,致帝命耳。」遂不見。簡子書藏之府。異日,姑布子卿見簡子,簡子遍召諸子相之。子卿曰:「無爲將軍者。」簡子曰:「趙氏其滅乎?」子卿曰:「吾嘗見一子於路,殆君之子也。」簡子召子毋卹。毋卹至,則子卿起曰:「此眞將軍矣!」簡子曰:「此其母賤,翟婢也,奚道貴哉?」子卿曰:「天所授,雖賤必貴。」自是之後,簡子盡召諸子與語,毋卹最賢。簡子乃告諸子曰:「吾藏寶符於常山上,先得者賞。」諸子馳之常山上,求,無所得。毋卹還,曰:「已得符矣。」簡子曰:「奏之。」毋卹曰:「從常山上臨代,代可取也。」簡子於是知毋卹果賢,乃廢太子伯魯,而以毋卹爲太子。後二年,晉定公之十四年,范、中行作亂。明年春,簡子謂邯鄲大夫午曰:「歸我衞士五百家,吾將置之晉陽。」午許諾,歸而其父兄不聽,倍言。趙鞅捕午,囚之晉陽。乃告邯鄲人曰:「我私有誅午也,諸君欲誰立?」遂殺午。趙稷、渉賓以邯鄲反。
新字:当道者曰:「主君之子将克二国於翟,皆子姓也。」簡子曰:「吾見児在帝側,帝属我一翟犬,曰『及而子之長以賜之』。夫児何謂以賜翟犬?」当道者曰:「児,主君之子也。翟犬者,代之先也。主君之子且必有代。及主君之後嗣,且有革政而胡服,并二国於翟。」簡子問其姓而延之以官。当道者曰:「臣野人,致帝命耳。」遂不見。簡子書蔵之府。異日,姑布子卿見簡子,簡子遍召諸子相之。子卿曰:「無為将軍者。」簡子曰:「趙氏其滅乎?」子卿曰:「吾嘗見一子於路,殆君之子也。」簡子召子毋卹。毋卹至,則子卿起曰:「此真将軍矣!」簡子曰:「此其母賤,翟婢也,奚道貴哉?」子卿曰:「天所授,雖賤必貴。」自是之後,簡子尽召諸子与語,毋卹最賢。簡子乃告諸子曰:「吾蔵宝符於常山上,先得者賞。」諸子馳之常山上,求,無所得。毋卹還,曰:「已得符矣。」簡子曰:「奏之。」毋卹曰:「従常山上臨代,代可取也。」簡子於是知毋卹果賢,乃廃太子伯魯,而以毋卹為太子。後二年,晋定公之十四年,范、中行作乱。明年春,簡子謂邯鄲大夫午曰:「帰我衛士五百家,吾将置之晋陽。」午許諾,帰而其父兄不聴,倍言。趙鞅捕午,囚之晋陽。乃告邯鄲人曰:「我私有誅午也,諸君欲誰立?」遂殺午。趙稷、渉賓以邯鄲反。
書き下し
道に当たる者曰く、「主君の子将に二国を翟に克たんとす。皆子姓なり」と。簡子曰く、「吾児の帝の側に在るを見る。帝我に一翟犬を属して曰く『而の子の長ずるに及びて以て之に賜へ』と。夫れ児何ぞ翟犬を賜ふと謂ふや」と。道に当たる者曰く、「児は主君の子なり。翟犬は代の先なり。主君の子且に必ず代を有たんとす。主君の後嗣に及びて、且に政を革めて胡服し、二国を翟に并せんとする有らん」と。簡子其の姓を問ひて之を延くに官を以てせんとす。道に当たる者曰く、「臣は野人なり。帝の命を致すのみ」と。遂に見えず。簡子書して之を府に蔵す。異日、姑布子卿簡子に見ゆ。簡子遍く諸子を召して之を相せしむ。子卿曰く、「将軍と為る者無し」と。簡子曰く、「趙氏其れ滅びんか」と。子卿曰く、「吾嘗て一子を路に見る。殆ど君の子ならん」と。簡子、子毋卹を召す。毋卹至る。則ち子卿起ちて曰く、「此れ真の将軍なり」と。簡子曰く、「此れ其の母賤しく、翟の婢なり。奚ぞ貴しと道はんや」と。子卿曰く、「天の授くる所は、賤しと雖も必ず貴し」と。是より後、簡子尽く諸子を召して与に語る。毋卹最も賢なり。簡子乃ち諸子に告げて曰く、「吾宝符を常山の上に蔵す。先に得る者は賞せん」と。諸子常山の上に馳せて求むれども、得る所無し。毋卹還りて曰く、「已に符を得たり」と。簡子曰く、「之を奏せよ」と。毋卹曰く、「常山の上より代に臨めば、代取るべきなり」と。簡子是に於て毋卹の果たして賢なるを知り、乃ち太子伯魯を廃して、毋卹を以て太子と為す。後二年、晋の定公の十四年、范・中行乱を作す。明年の春、簡子邯鄲の大夫午に謂ひて曰く、「我に衛の士五百家を帰せ。吾将に之を晋陽に置かんとす」と。午許諾す。帰りて其の父兄聴かず、言に倍く。趙鞅、午を捕へ、之を晋陽に囚ふ。乃ち邯鄲の人に告げて曰く、「我私に午を誅すること有り。諸君誰をか立てんと欲する」と。遂に午を殺す。趙稷・渉賓、邯鄲を以て反す。
現代語訳
道に立った者は言った。「ご主君の子が翟の地で二つの国を打ち破る。どちらも子(し)姓の国である」。簡子は言った。「わたしは天帝のそばに子どもがいるのを見た。天帝はわたしに翟の犬を一匹託して『おまえの子が成長したら、これを与えよ』と言った。子どもに翟の犬を与えるとは、どういうことか」。道に立った者は言った。「その子どもはご主君の子である。翟の犬とは代(だい)の国の祖先である。ご主君の子は必ず代の国を手に入れるだろう。そしてご主君の子孫の代になると、政治を改めて胡服(北方騎馬民族の服)を着用し、翟の地の二国を併合する者が現れるだろう」。簡子はその者の姓を尋ね、官職を与えて招こうとした。道に立った者は言った。「わたしは田舎者で、天帝の命令を伝えに来ただけだ」。そのまま姿を消した。簡子はこれを書き記して府庫に納めた。別の日、人相見の姑布子卿(こふしけい)が簡子に会った。簡子は息子たちを皆呼んで人相を見させた。子卿は言った。「将軍になる方はおられない」。簡子は言った。「趙氏は滅びるのか」。子卿は言った。「以前、道で一人の若者を見たことがある。おそらくあなたのお子だろう」。簡子が子の毋卹(ぶじゅつ)を呼ぶと、毋卹がやって来た。すると子卿は立ち上がって言った。「この方こそ真の将軍だ」。簡子は言った。「この子の母は身分が低く、翟の出の下女だ。どうして貴いなどと言えよう」。子卿は言った。「天が授けたものは、身分が低くとも必ず貴くなる」。それ以来、簡子は息子たちを皆呼んでは話をしたが、毋卹が最も賢かった。簡子はそこで息子たちに告げた。「わたしは常山の上に宝の割符を隠しておいた。最初に見つけた者に褒美をやろう」。息子たちは常山の上に駆けつけて探したが、何も見つからなかった。毋卹が帰ってきて言った。「もう割符を見つけた」。簡子が「差し出してみよ」と言うと、毋卹は言った。「常山の上から代を見下ろせば、代は取ることができる」。簡子はこれで毋卹がやはり賢いと知り、太子の伯魯(はくろ)を廃して、毋卹を太子とした。その二年後、晋の定公の十四年、范氏と中行氏が乱を起こした。翌年の春、簡子は邯鄲(かんたん)の大夫の午(ご)に言った。「衛から得た五百家の民をわたしに返せ。晋陽に移すつもりだ」。午は承諾したが、帰ると一族の父兄たちが反対したので、約束を破った。趙鞅(簡子)は午を捕らえて晋陽に閉じ込め、邯鄲の人々に告げた。「わたしは個人的な理由で午を誅する。諸君は誰を後継ぎに立てたいか」。そしてついに午を殺した。趙稷(ちょうしょく)と渉賓(しょうひん)が邯鄲に拠って反乱を起こした。
解説
関連する章句
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史記 趙世家簡子、陽虎と衛の太子蒯聵を衛に送る。衛内れず、戚に居る。晋の定公二十一年、簡子邯鄲を抜く。中行文子柏人に奔る。簡子又柏人を囲む。中行文子・范昭子遂に斉に奔る。趙竟に邯鄲・柏人を有つ。范・中行の余邑晋に入る。趙は名は晋の卿なるも、実は晋の権を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。晋の定公三十年、定公、呉王夫差と長を黄池に争ふ。趙簡子晋の定公に従ひ、卒に呉に長たり。定公三十七年に卒す。而して簡子三年の喪を除き、期のみ。是の歳、越王句践呉を滅ぼす。晋の出公十一年、知伯鄭を伐つ。趙簡子疾む。太子毋卹をして将として鄭を囲ましむ。知伯酔ひ、酒を以て毋卹に灌ぎ撃つ。毋卹の群臣之に死せんことを請ふ。毋卹曰く、「君の毋卹を置く所以は、能く訽を忍ぶが為なり」と。然れども亦知伯を慍む。知伯帰り、因りて簡子に謂ひ、毋卹を廃せしめんとす。簡子聴かず。毋卹此に由りて知伯を怨む。晋の出公十七年、簡子卒し、太子毋卹代はりて立つ、是を襄子と為す。趙襄子の元年、越呉を囲む。襄子喪食を降し、楚隆をして呉王を問はしむ。襄子の姊前に代王の夫人為り。簡子既に葬られ、未だ服を除かず、北のかた夏屋に登り、代王を請ふ。廚人をして銅枓を操りて以て代王及び従者に食はしめ、行斟して、陰かに宰人をして各々枓を以て代王及び従官を撃殺せしめ、遂に兵を興して代の地を平ぐ。其の姊之を聞き、泣きて天を呼び、笄を摩して自殺す。代人之を憐み、死せし所の地を之に名づけて摩笄の山と為す。遂に代を以て伯魯の子周を封じて代の成君と為す。伯魯は襄子の兄、故の太子なり。太子蚤く死す、故に其の子を封ず。襄子立ちて四年、知伯、趙・韓・魏と尽く其の范・中行の故地を分つ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。
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史記 趙世家公孫支書して之を蔵す。秦の讖是に於て出づ。献公の乱、文公の霸、而して襄公秦の師を殽に敗りて帰りて淫を縦にす。此れ子の聞く所なり。今主君の疾は之と同じ。三日を出でずして疾必ず閒えん。閒ゆれば必ず言有らん」と。居ること二日半にして、簡子寤む。大夫に語りて曰く、「我帝の所に之きて甚だ楽しむ。百神と鈞天に游び、広楽九奏萬舞す。三代の楽に類せず、其の声人の心を動かす。一熊有り来りて我を援らんと欲す。帝我に命じて之を射しむ。熊に中り、熊死す。又一羆有り来る。我又之を射る。羆に中り、羆死す。帝甚だ喜び、我に二笥を賜ふ。皆副有り。吾児の帝の側に在るを見る。帝我に一翟犬を属して曰く、『而の子の壮なるに及びて、以て之に賜へ』と。帝我に告ぐ、『晋国且に世々衰へんとし、七世にして亡びん。嬴姓将に大いに周人を范魁の西に敗らんとするも、亦有つこと能はざらん。今余、虞舜の勲を思ひ、適々余将に其の胄女孟姚を以て而の七世の孫に配せんとす』と」と。董安于言を受けて書して之を蔵す。扁鵲の言を以て簡子に告ぐ。簡子扁鵲に田四万畝を賜ふ。他日、簡子出づ。人有り道に当たる。之を辟くれども去らず。従者怒り、将に之を刃せんとす。道に当たる者曰く、「吾主君に謁する有らんと欲す」と。従者以て聞す。簡子之を召して曰く、「譆、吾子を見る所有ること晣かなり」と。道に当たる者曰く、「左右を屏けよ。願はくは謁する有らん」と。簡子人を屏く。道に当たる者曰く、「主君の疾のとき、臣帝の側に在り」と。簡子曰く、「然り、之有り。子の我を見る、我何をか為す」と。道に当たる者曰く、「帝主君をして熊と羆とを射しめ、皆死す」と。簡子曰く、「是なり。且つ何ぞや」と。道に当たる者曰く、「晋国且に大難有らんとし、主君之に首たらん。帝主君をして二卿を滅ぼさしめんとす。夫れ熊と羆とは皆其の祖なり」と。簡子曰く、「帝我に二笥の皆副有るを賜ふ、何ぞや」と。
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史記 趙世家趙武斉衰を服すること三年、之が為に祭邑し、春秋に之を祠り、世々絶つこと勿からしむ。趙氏位に復して十一年にして、晋の厲公其の大夫三郤を殺す。欒書及ばんことを畏れ、乃ち遂に其の君厲公を弑し、更に襄公の曾孫周を立つ、是を悼公と為す。晋此に由りて大夫稍く彊し。趙武趙の宗を続ぐこと二十七年にして、晋の平公立つ。平公十二年にして、趙武正卿と為る。十三年、呉の延陵の季子晋に使ひして曰く、「晋国の政は卒に趙武子・韓宣子・魏献子の後に帰せん」と。趙武死し、諡して文子と為す。文子、景叔を生む。景叔の時、斉の景公晏嬰を晋に使はす。晏嬰、晋の叔向と語る。嬰曰く、「斉の政は後に卒に田氏に帰せん」と。叔向も亦曰く、「晋国の政将に六卿に帰せんとす。六卿侈り、而して吾が君恤ふること能はず」と。趙景叔卒し、趙鞅を生む、是を簡子と為す。趙簡子位に在り。晋の頃公の九年、簡子将に諸侯を合して周に戍らんとす。其の明年、周の敬王を周に入る。弟子朝を辟くるの故なり。晋の頃公の十二年、六卿法を以て公族の祁氏・羊舌氏を誅し、其の邑を分ちて十県と為し、六卿各々其の族をして之が大夫と為らしむ。晋の公室此に由りて益々弱し。後十三年、魯の賊臣陽虎来奔す。趙簡子賂を受け、厚く之を遇す。趙簡子疾み、五日人を知らず。大夫皆懼る。医の扁鵲之を視て出づ。董安于問ふ。扁鵲曰く、「血脈治まれり。而るを何ぞ怪しまん。在昔秦の繆公嘗て此の如し。七日にして寤む。寤むるの日、公孫支と子輿とに告げて曰く、『我帝の所に之きて甚だ楽しむ。吾が久しき所以の者は、適々学ぶこと有ればなり。帝我に告ぐ、「晋国将に大いに乱れんとし、五世安からず。其の後将に霸たらんとし、未だ老いずして死せん。霸者の子且に而の国の男女をして別無からしめんとす」と』と。
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史記 趙世家晋君、籍秦をして邯鄲を囲ましむ。荀寅・范吉射、午と善し。秦を助くるを肯ぜずして乱を作さんと謀る。董安于之を知る。十月、范・中行氏趙鞅を伐つ。鞅晋陽に奔る。晋人之を囲む。范吉射・荀寅の仇人魏襄等、荀寅を逐ひて梁嬰父を以て之に代へ、吉射を逐ひて范皋繹を以て之に代へんと謀る。荀櫟、晋侯に言ひて曰く、「君、大臣に命ず、乱を始むる者は死せんと。今三臣乱を始むるに、而も独り鞅を逐ふ。刑を用ふること均しからず。請ふ皆之を逐はん」と。十一月、荀櫟・韓不佞・魏哆、公の命を奉じて以て范・中行氏を伐つも、克たず。范・中行氏反りて公を伐つ。公之を撃ち、范・中行敗走す。丁未、二子朝歌に奔る。韓・魏、趙氏を以て請ふを為す。十二月辛未、趙鞅絳に入り、公宮に盟ふ。其の明年、知伯文子、趙鞅に謂ひて曰く、「范・中行信に乱を為すと雖も、安于之を発す。是れ安于与に謀るなり。晋国に法有り、乱を始むる者は死す。夫れ二子已に罪に伏して、而も安于独り在り」と。趙鞅之を患ふ。安于曰く、「臣死して、趙氏定まり、晋国寧からば、吾が死晩し」と。遂に自殺す。趙氏以て知伯に告げ、然る後に趙氏寧し。孔子、趙簡子の晋君に請はずして邯鄲の午を執へ、晋陽を保つを聞く。故に春秋に書して曰く「趙鞅晋陽を以て畔く」と。趙簡子に臣有り、周舍と曰ふ。直諫を好む。周舍死す。簡子朝を聴く毎に、常に悦ばず。大夫罪を請ふ。簡子曰く、「大夫罪無し。吾聞く、千羊の皮は一狐の腋に如かずと。諸大夫朝するも、徒だ唯唯を聞き、周捨の鄂鄂を聞かず。是を以て憂ふるなり」と。簡子此に由りて能く趙の邑を附けて晋人を懐けしむ。晋の定公十八年、趙簡子、范・中行を朝歌に囲む。中行文子邯鄲に奔る。明年、衛の霊公卒す。
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史記 趙世家乃ち二人謀りて他人の嬰児を取りて之を負ひ、衣するに文葆を以てし、山中に匿す。程嬰出で、謬りて諸将軍に謂ひて曰く、「嬰不肖にして、趙の孤を立つること能はず。誰か能く我に千金を与へん、吾趙氏の孤の処を告げん」と。諸将皆喜び、之を許し、師を発して程嬰に随ひて公孫杵臼を攻む。杵臼謬りて曰く、「小人なるかな程嬰。昔下宮の難に死すること能はず、我と謀りて趙氏の孤児を匿す。今又我を売る。縦ひ立つること能はずとも、而も之を売るに忍びんや」と。児を抱きて呼びて曰く、「天か天か。趙氏の孤児何の罪かある。請ふ之を活かせ。独り杵臼を殺さば可なり」と。諸将許さず、遂に杵臼と孤児とを殺す。諸将以為へらく趙氏の孤児良に已に死せりと。皆喜ぶ。然れども趙氏の真の孤は乃ち反りて在り。程嬰卒に与に倶に山中に匿る。居ること十五年、晋の景公疾む。之を卜す。大業の後の遂げざる者祟りを為す。景公韓厥に問ふ。厥、趙の孤の在るを知る。乃ち曰く、「大業の後の晋に在りて祀を絶つ者は、其れ趙氏か。夫れ中衍よりの者は皆嬴姓なり。中衍は人面鳥噣、降りて殷の帝大戊を佐け、周の天子に及ぶまで、皆明徳有り。下りて幽・厲の無道に及び、而して叔帯周を去りて晋に適き、先君文侯に事へ、成公に至るまで、世々功を立つる有り、未だ嘗て祀を絶たず。今吾が君独り趙の宗を滅ぼす。国人之を哀しむ。故に亀策に見はる。唯だ君之を図れ」と。景公問ふ、「趙尚ほ後の子孫有りや」と。韓厥具に実を以て告ぐ。是に於て景公乃ち韓厥と趙の孤児を立てんことを謀り、召して之を宮中に匿す。諸将入りて疾を問ふ。景公、韓厥の衆に因りて以て諸将を脅かして趙の孤を見えしむ。趙の孤、名を武と曰ふ。諸将已むを得ず、乃ち曰く、「昔下宮の難は、屠岸賈之を為し、君命を矯りて、并せて群臣に命ず。然るに非ずんば、孰か敢へて難を作さん。君の疾微かりせば、群臣固より且に趙の後を立てんことを請はんとす。今君命有り、群臣の願ひなり」と。是に於て趙武・程嬰を召して遍く諸将を拝せしめ、遂に反りて程嬰・趙武と屠岸賈を攻め、其の族を滅ぼす。復た趙武に田邑を与ふること故の如し。
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呂氏春秋・長攻④趙簡子病み、太子を召して、之に告げて曰く、「我死して已に葬むらば、衰を服して夏屋の山に上り、以て望め。」太子敬みて諾す。簡子死し、已に葬る。衰を服し、大臣を召して之に告げて曰く、「願わくは夏屋に登りて以て望まん。」大臣皆諫めて曰く、「夏屋に登りて以て望むは、是れ游なり。衰を服して以て游ぶは、不可なり。」襄子曰く、「此れ先君の命なり。寡人敢て廢せず。」群臣敬みて諾す。襄子、夏屋に上りて、以て代の俗を望むに、其の樂しみは甚だ美なり。是に於て襄子曰く、「先君必ず此を以て之を教えしなり。」歸るに及びて、代を取る所以を慮かり、乃ち先づ之に善くす。代君色を好む。其の姉を以て之に妻せんと請う。代君許諾す。姉已に往く。代を善みする所以の者は乃ち萬故なり。馬郡は馬に宜し。代君、善馬を以て襄子に奉ず、馬郡盡く。襄子、代君に謁げて、之を觴せんと請う。先づ舞う者をして兵を其の羽中に置かしむること、數百人。先づ大金斗を具う。代君至り、酒酣なり。斗を反して之を擊ち、一成にして、腦、地に塗る。舞う者兵を操りて以て鬭い、盡く其の從者を殺す。因りて代君の車を以て、其の妻を迎う。其の妻遙かに之の状を聞き、笄を磨して以て自ら刺せり。故に趙氏、今に至るまで、刺笄の證と反斗の號と有り。
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