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史記 / 趙世家

趙武服齊衰三年,爲之祭邑,春秋祠之,世世勿絶。趙氏復位十一年,而晉厲公殺其大夫三郤。欒書畏及,乃遂弒其君厲公,更立襄公曾孫周,是爲悼公。晉由此大夫稍彊。趙武續趙宗二十七年,晉平公立。平公十二年,而趙武爲正卿。十三年,吳延陵季子使於晉,曰:「晉國之政卒歸於趙武子、韓宣子、魏獻子之後矣。」趙武死,諡爲文子。文子生景叔。景叔之時,齊景公使晏嬰於晉,晏嬰與晉叔向語。嬰曰:「齊之政後卒歸田氏。」叔向亦曰:「晉國之政將歸六卿。六卿侈矣,而吾君不能恤也。」趙景叔卒,生趙鞅,是爲簡子。趙簡子在位,晉頃公之九年,簡子將合諸侯戍于周。其明年,入周敬王于周,辟弟子朝之故也。晉頃公之十二年,六卿以法誅公族祁氏、羊舌氏,分其邑爲十縣,六卿各令其族爲之大夫。晉公室由此益弱。後十三年,魯賊臣陽虎來奔,趙簡子受賂,厚遇之。趙簡子疾,五日不知人,大夫皆懼。醫扁鵲視之,出,董安于問。扁鵲曰:「血脈治也,而何怪!在昔秦繆公嘗如此,七日而寤。寤之日,告公孫支與子輿曰:『我之帝所甚樂。吾所以久者,適有學也。帝告我:「晉國將大亂,五世不安;其後將霸,未老而死;霸者之子且令而國男女無別。」』

新字:趙武服斉衰三年,為之祭邑,春秋祠之,世世勿絶。趙氏復位十一年,而晋厲公殺其大夫三郤。欒書畏及,乃遂弒其君厲公,更立襄公曽孫周,是為悼公。晋由此大夫稍彊。趙武続趙宗二十七年,晋平公立。平公十二年,而趙武為正卿。十三年,呉延陵季子使於晋,曰:「晋国之政卒帰於趙武子、韓宣子、魏献子之後矣。」趙武死,諡為文子。文子生景叔。景叔之時,斉景公使晏嬰於晋,晏嬰与晋叔向語。嬰曰:「斉之政後卒帰田氏。」叔向亦曰:「晋国之政将帰六卿。六卿侈矣,而吾君不能恤也。」趙景叔卒,生趙鞅,是為簡子。趙簡子在位,晋頃公之九年,簡子将合諸侯戍于周。其明年,入周敬王于周,辟弟子朝之故也。晋頃公之十二年,六卿以法誅公族祁氏、羊舌氏,分其邑為十県,六卿各令其族為之大夫。晋公室由此益弱。後十三年,魯賊臣陽虎来奔,趙簡子受賂,厚遇之。趙簡子疾,五日不知人,大夫皆懼。医扁鵲視之,出,董安于問。扁鵲曰:「血脈治也,而何怪!在昔秦繆公嘗如此,七日而寤。寤之日,告公孫支与子輿曰:『我之帝所甚楽。吾所以久者,適有学也。帝告我:「晋国将大乱,五世不安;其後将覇,未老而死;覇者之子且令而国男女無別。」』

書き下し

趙武斉衰を服すること三年、之が為に祭邑し、春秋に之を祠り、世々絶つこと勿からしむ。趙氏位に復して十一年にして、晋の厲公其の大夫三郤を殺す。欒書及ばんことを畏れ、乃ち遂に其の君厲公を弑し、更に襄公の曾孫周を立つ、是を悼公と為す。晋此に由りて大夫稍く彊し。趙武趙の宗を続ぐこと二十七年にして、晋の平公立つ。平公十二年にして、趙武正卿と為る。十三年、呉の延陵の季子晋に使ひして曰く、「晋国の政は卒に趙武子・韓宣子・魏献子の後に帰せん」と。趙武死し、諡して文子と為す。文子、景叔を生む。景叔の時、斉の景公晏嬰を晋に使はす。晏嬰、晋の叔向と語る。嬰曰く、「斉の政は後に卒に田氏に帰せん」と。叔向も亦曰く、「晋国の政将に六卿に帰せんとす。六卿侈り、而して吾が君恤ふること能はず」と。趙景叔卒し、趙鞅を生む、是を簡子と為す。趙簡子位に在り。晋の頃公の九年、簡子将に諸侯を合して周に戍らんとす。其の明年、周の敬王を周に入る。弟子朝を辟くるの故なり。晋の頃公の十二年、六卿法を以て公族の祁氏・羊舌氏を誅し、其の邑を分ちて十県と為し、六卿各々其の族をして之が大夫と為らしむ。晋の公室此に由りて益々弱し。後十三年、魯の賊臣陽虎来奔す。趙簡子賂を受け、厚く之を遇す。趙簡子疾み、五日人を知らず。大夫皆懼る。医の扁鵲之を視て出づ。董安于問ふ。扁鵲曰く、「血脈治まれり。而るを何ぞ怪しまん。在昔秦の繆公嘗て此の如し。七日にして寤む。寤むるの日、公孫支と子輿とに告げて曰く、『我帝の所に之きて甚だ楽しむ。吾が久しき所以の者は、適々学ぶこと有ればなり。帝我に告ぐ、「晋国将に大いに乱れんとし、五世安からず。其の後将に霸たらんとし、未だ老いずして死せん。霸者の子且に而の国の男女をして別無からしめんとす」と』と。

現代語訳

趙武は(程嬰のために)斉衰(しさい、喪服)を三年間着て喪に服し、程嬰のために祭祀の邑を設け、春と秋に祀らせ、代々絶やさないようにした。趙氏が地位を回復して十一年後、晋の厲公は大夫の三郤(さんげき、郤氏の三人)を殺した。欒書(らんしょ)は自分にも累が及ぶことを恐れ、ついに主君の厲公を殺し、代わって襄公の曾孫の周(しゅう)を立てた。これが悼公である。晋はこれ以来、大夫の力が次第に強くなった。趙武が趙の家を継いで二十七年、晋の平公が即位した。平公の十二年、趙武は正卿となった。十三年、呉の延陵の季子(季札)が晋に使いして言った。「晋国の政治は結局、趙武子・韓宣子・魏献子の子孫のものになるだろう」。趙武が死に、文子と諡された。文子は景叔(けいしゅく)を生んだ。景叔の時、斉の景公が晏嬰(あんえい)を晋に遣わした。晏嬰は晋の叔向と語り合った。晏嬰は言った。「斉の政治はいずれ田氏のものになるだろう」。叔向もまた言った。「晋の政治は六卿のものになろうとしている。六卿は驕り高ぶっているのに、わが君はそれを憂えることができない」。趙景叔が死んだ。景叔は趙鞅(ちょうおう)を生んでいた。これが簡子である。趙簡子が位にあった時のこと。晋の頃公の九年、簡子は諸侯を集めて周の守りにつかせようとした。その翌年、周の敬王を周に帰還させた。弟の子朝(しちょう)の乱を避けていたからである。晋の頃公の十二年、六卿は法によって公族の祁(き)氏・羊舌(ようぜつ)氏を誅し、その邑を分けて十の県とし、六卿はそれぞれ自分の一族をその県の大夫とした。晋の公室はこれによってますます弱くなった。その十三年後、魯の逆臣の陽虎(ようこ)が亡命してきた。趙簡子は賄賂を受け取って、彼を厚く遇した。趙簡子が病気になり、五日間意識がなかった。大夫たちはみな恐れた。医者の扁鵲(へんじゃく)が診察して出てくると、董安于(とうあんう)が様子を尋ねた。扁鵲は言った。「血脈は正常だ。何を怪しむことがあろう。昔、秦の繆公も同じようになり、七日で目を覚ました。目覚めた日、公孫支(こうそんし)と子輿(しよ)に告げてこう言った。『わたしは天帝のところへ行って、とても楽しかった。長くかかったのは、ちょうど学ぶことがあったからだ。天帝はわたしに告げた。「晋の国は大いに乱れ、五代の間安定しない。その後、覇者が出るが、老いないうちに死ぬ。覇者の子は、おまえの国の男女の別をなくしてしまうだろう」と』。

解説

復活した趙氏が、晋の実権を握る六卿の一角として台頭していく段です。趙武は命の恩人程嬰のために三年の喪に服し、祭祀を代々続けさせました。その後、欒書による厲公殺害などを経て晋では大夫の力が強まり、季札は晋の政治が趙・韓・魏に帰すと予言し、晏嬰と叔向は斉は田氏に、晋は六卿に政権が移ると語り合います。のちの三晋の分立と田氏の斉簒奪を見通した会話で、司馬遷はここに時代の大きな流れを示しています。六卿が公族を滅ぼしてその領地を分け合う様子も、公室の弱体化を物語ります。後半は趙簡子が昏睡し、名医扁鵲が秦の繆公の前例を語る場面へ入ります。組織の実権が名目上のトップから実務を握る幹部層へ移っていく過程は、どの時代にも見られる現象です。

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