史記 / 鄭世家
子産謂韓宣子曰:「爲政必以德,毋忘所以立。」六年,鄭火,公欲禳之。子産曰:「不如修德。」八年,楚太子建來奔。十年,太子建與晉謀襲鄭。鄭殺建,建子勝奔呉。十一年,定公如晉。晉與鄭謀,誅周亂臣,入敬王于周。十三年,定公卒,子獻公蠆立。獻公十三年卒,子聲公勝立。當是時,晉六卿彊,侵奪鄭,鄭遂弱。聲公五年,鄭相子産卒,鄭人皆哭泣,悲之如亡親戚。子産者,鄭成公少子也。爲人仁愛人,事君忠厚。
新字:子産謂韓宣子曰:「為政必以徳,毋忘所以立。」六年,鄭火,公欲禳之。子産曰:「不如修徳。」八年,楚太子建来奔。十年,太子建与晋謀襲鄭。鄭殺建,建子勝奔呉。十一年,定公如晋。晋与鄭謀,誅周乱臣,入敬王于周。十三年,定公卒,子献公蠆立。献公十三年卒,子声公勝立。当是時,晋六卿彊,侵奪鄭,鄭遂弱。声公五年,鄭相子産卒,鄭人皆哭泣,悲之如亡親戚。子産者,鄭成公少子也。為人仁愛人,事君忠厚。
書き下し
子産、韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てし、立つ所以を忘るる毋かれ」と。六年、鄭火あり。公之を禳はんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。八年、楚の太子建来奔す。十年、太子建、晋と謀りて鄭を襲はんとす。鄭、建を殺す。建の子勝呉に奔る。十一年、定公晋に如く。晋、鄭と謀りて周の乱臣を誅し、敬王を周に入る。十三年、定公卒し、子献公蠆立つ。献公十三年に卒し、子声公勝立つ。是の時に当たり、晋の六卿彊く、鄭を侵奪す。鄭遂に弱し。声公五年、鄭の相子産卒す。鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡へるが如し。子産は鄭の成公の少子なり。人と為り仁にして人を愛し、君に事へて忠厚なり。
現代語訳
子産は(晋の執政)韓宣子(かんせんし)に言った。「政治を行うには必ず徳をもってし、自分が拠って立つものを忘れてはならない」。六年、鄭で火災があった。定公はお祓いでこれを払おうとした。子産は「徳を修めるに越したことはない」と言った。八年、楚の太子建が鄭に亡命してきた。十年、太子建は晋と謀って鄭を襲おうとした。鄭は建を殺し、建の子の勝(しょう)は呉に逃れた。十一年、定公は晋に赴いた。晋は鄭と謀って周の乱臣を誅し、敬王を周に帰還させた。十三年、定公が死に、子の献公蠆(たい)が立った。献公は即位十三年で死に、子の声公勝が立った。このころ、晋の六卿が強くなり、鄭の領土を侵し奪ったので、鄭はついに弱くなった。声公の五年、鄭の宰相子産が死んだ。鄭の人々はみな声をあげて泣き、肉親を亡くしたかのように悲しんだ。子産は鄭の成公の末子である。人柄は仁愛に満ちて人を愛し、主君には誠実で手厚く仕えた。
解説
この章句が説くこと
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史記 鄭世家十四年、成公卒し、子惲立つ。是を釐公と為す。釐公五年、鄭の相子駟、釐公に朝す。釐公礼せず。子駟怒り、廚人をして釐公を薬殺せしめ、諸侯に赴げて曰く「釐公暴かに病みて卒す」と。釐公の子嘉を立つ。嘉時に年五歳、是を簡公と為す。簡公元年、諸公子謀りて相子駟を誅せんと欲す。子駟之を覚り、反りて尽く諸公子を誅す。二年、晋鄭を伐つ。鄭与に盟ひ、晋去る。冬、又楚と盟ふ。子駟誅を畏る、故に両つながら晋・楚に親しむ。三年、相子駟自ら立ちて君と為らんと欲す。公子子孔、尉止をして相子駟を殺さしめて之に代はる。子孔又自ら立たんと欲す。子産曰く、「子駟不可を為す、之を誅す。今又之に効ふ。是れ乱の息む時無きなり」と。是に於て子孔之に従ひて鄭の簡公に相たり。四年、晋、鄭の楚と盟ふを怒り、鄭を伐つ。鄭与に盟ふ。楚の共王鄭を救ひ、晋の兵を敗る。簡公晋と平がんと欲す。楚又鄭の使者を囚ふ。十二年、簡公、相子孔の国権を専らにするを怒り、之を誅して、子産を以て卿と為す。十九年、簡公晋に如きて衛君の還らんことを請ふ。而して子産を封ずるに六邑を以てす。子産譲りて、其の三邑を受く。二十二年、呉、延陵の季子を鄭に使はす。子産を見ること旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政者侈る。難将に至らんとし、政将に子に及ばんとす。子政を為さば、必ず礼を以てせよ。然らずんば、鄭将に敗れんとす」と。子産厚く季子を遇す。二十三年、諸公子寵を争ひて相殺し、又子産を殺さんと欲す。公子或いは諫めて曰く、「子産は仁人なり。鄭の存する所以の者は子産なり。殺す勿かれ」と。乃ち止む。二十五年、鄭、子産を晋に使はし、平公の疾を問はしむ。平公曰く、「卜して曰く、実沈・台駘祟りを為すと。史官知る莫し。敢へて問ふ」と。対へて曰く、「高辛氏に二子有り。長を閼伯と曰ひ、季を実沈と曰ふ。曠林に居り、相能くせず、日に干戈を操りて以て相征伐す。
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史記 鄭世家孔子嘗て鄭を過り、子産と兄弟の如しと云ふ。子産の死を聞くに及び、孔子為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。八年、晋の范・中行氏晋に反き、急を鄭に告ぐ。鄭之を救ふ。晋鄭を伐ち、鄭の軍を鉄に敗る。十四年、宋の景公曹を滅ぼす。二十年、斉の田常其の君簡公を弑して、常斉に相たり。二十二年、楚の恵王陳を滅ぼす。孔子卒す。三十六年、晋の知伯鄭を伐ち、九邑を取る。三十七年、声公卒し、子哀公易立つ。哀公八年、鄭人哀公を弑して声公の弟丑を立つ、是を共公と為す。共公三年、三晋知伯を滅ぼす。三十一年、共公卒し、子幽公已立つ。幽公元年、韓の武子鄭を伐ち、幽公を殺す。鄭人幽公の弟駘を立つ、是を繻公と為す。繻公十五年、韓の景侯鄭を伐ち、雍丘を取る。鄭京に城く。十六年、鄭韓を伐ち、韓の兵を負黍に敗る。二十年、韓・趙・魏列して諸侯と為る。二十三年、鄭韓の陽翟を囲む。二十五年、鄭君其の相子陽を殺す。二十七、子陽の党共に繻公駘を弑して幽公の弟乙を立てて君と為す、是を鄭君と為す。鄭君乙立ちて二年、鄭の負黍反き、復た韓に帰す。十一年、韓鄭を伐ち、陽城を取る。二十一年、韓の哀侯鄭を滅ぼし、其の国を并す。
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史記 循吏列伝孫叔敖三たび相を得るも喜ばず、其の材の自ら之を得たるを知ればなり。三たび相を去るも悔いず、己の罪に非ざるを知ればなり。子産は、鄭の列大夫なり。相と為りて一年、豎子戯狎せず、斑白提挈せず、僮子畔を犁かず。二年、市豫賈せず。三年、門夜に関さず、道遺を拾はず。四年、田器帰さず。五年、士に尺籍無く、喪期令せずして治まる。鄭を治むること二十六年にして死す、丁壮号哭し、老人児のごとく啼きて曰く、「子産我を去りて死せるか、民将た安くにか帰せん」と。
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『春秋左氏伝』襄公八年 子産、武功を喜ばず八年春、公、晉に如きて朝し、且つ朝聘の數を聽く。鄭の群公子、僖公の死を以てや、子駟を謀る。子駟之に先んず。夏、四月、庚辰、辭(つみ)して子狐・子熙・子侯・子丁を殺す。孫擊・孫惡、出でて衛に奔る。庚寅、鄭の子國・子耳、蔡を侵し、蔡の司馬公子燮を獲たり。鄭人皆喜ぶ。唯だ子產のみ順はずして曰く、「小國にして文德無くして武功有るは、禍焉より大なるは莫し。楚人來り討たば、能く從ふこと勿からんや。之に從はば、晉の師必ず至らん。晉・楚、鄭を伐たば、今より鄭國、四五年ならずして寧きを得ざらん」と。子國之を怒りて曰く、「爾何をか知らん。國に大命有りて、正卿有り。童子焉を言はば、將に戮せられんとす」と。五月、甲辰、邢丘に會し、以て朝聘の數を命じ、諸侯の大夫をして命を聽かしむ。季孫宿・齊の高厚・宋の向戌・衛の甯殖・邾の大夫、之に會す。鄭伯、捷を會に獻ず。故に親ら命を聽く。大夫書せざるは、晉侯を尊ぶなり。莒人、我が東鄙を伐ち、以て鄫の田を疆(さかひ)す。秋、九月、大いに雩す。旱なればなり。
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孔子家語・正論解鄭の子産、疾有り。子太叔に謂いて曰く、「我死せば、子必ず政を為さん。唯だ徳有る者のみ能く寛を以て民を服せしむ。其の次は猛に如くは莫し。夫れ火烈しければ民望みて之を畏る、故に死する者鮮し。水は濡弱にして、民狎れて之を翫ぶ、則ち死する者多し。故に寛は難し。」子産卒す。子太叔政を為す。猛にするに忍びずして寛にす、鄭国掠盗多し。太叔之を悔いて曰く、「吾早く夫子に従わば、必ず此に及ばざりしならん。」孔子之を聞きて曰く、「善いかな。政寛なれば則ち民慢る、慢れば則ち猛を以て之を糾す。猛なれば則ち民残なわる、民残なわれば則ち之を施すに寛を以てす。寛以て猛を済い、猛以て寛を済う、寛猛相済いて、政是を以て和す。詩に曰く、『民亦た労れたり、汔んど小康なるべし。此の中国を恵み、以て四方を綏んぜよ。』寛を以て之を施し、詭随を縦にする毋かれ。以て無良を謹み、寇虐を式め遏め、慘として明を畏れざるを、之を糾すに猛を以てするなり。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定む、之を平らかにするに和を以てするなり。」又曰く、「競わず絿がず、剛ならず柔ならず。政を布くこと優優たり、百禄是れ遒まる。和の至りなり。」子産の卒するや、孔子之を聞き、涕を出して曰く、「古の遺愛なり。」
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『春秋左氏伝』襄公二十二年 子産、晋の徴朝に対う二十二年春、臧武仲晉に如く。雨ふる。御叔に過(よぎ)る。御叔其の邑に在り、將に酒を飲まんとす。曰く、「焉んぞ聖人を用ゐん。我は將に酒を飲まんとするのみ。雨に行く、何ぞ聖を以って為さん」と。穆叔之を聞きて曰く、「使ふ可からざるなり。而も使人に傲る、國の蠹なり」と。其の賦を倍せしむ。夏、晉人朝を鄭に徵す。鄭人少正公孫僑をして對へしめて曰く、「晉の先君悼公の九年に在りて、我が寡君是に於いて位に即く。位に即きて八月にして、我が先大夫子駟、寡君に從ひて以って執事に朝す。執事寡君に禮せず。寡君懼る。是の行に因りて、我が二年六月、楚に朝す。晉是を以って戲の役有り。楚人猶ほ競ひて禮を敝邑に申ぶ。敝邑執事に從はんと欲すれども、大尤と為らんことを懼る。曰く、『晉其れ我を有禮に共せずと謂はん』と。是を以って敢へて楚に攜貳せず。我が四年三月、先大夫子蟜又寡君に從ひて以って釁を楚に觀る。晉是に於いてか蕭魚の役有り。我が敝邑を謂ふ、『晉國に邇く在り。諸を草木に譬ふれば、吾が臭味なり。而るに何ぞ敢へて差池せん』と。楚も亦た競はず。寡君其の土實を盡し、之に重ぬるに宗器を以ってし、以って齊盟を受く。遂に群臣を帥ゐて執事に隨ひ、以って歲終に會す。楚に貳する者、子侯・石盂は、歸りて之を討ず。溴梁の明年、子蟜老いたり。公孫夏寡君に從ひて以って君に朝し、嘗酎に見え、燔を執るに與る。間くこと二年、君將に東夏を靖んぜんとすと聞く。
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