史記 / 鄭世家
太史公曰:語有之,「以權利合者,權利盡而交疎」,甫瑕是也。甫瑕雖以劫殺鄭子内厲公,厲公終背而殺之,此與晉之裏克何異?
新字:太史公曰:語有之,「以権利合者,権利尽而交疎」,甫瑕是也。甫瑕雖以劫殺鄭子内厲公,厲公終背而殺之,此与晋之裏克何異?
書き下し
太史公曰く、「語に之れ有り、『権利を以て合ふ者は、権利尽きて交疏し』と、甫瑕是なり。甫瑕鄭子を劫殺して厲公を内るると雖も、厲公終に背きて之を殺す」と。
現代語訳
太史公は言う。「ことわざにこう言う。『権勢や利によって結びついた者は、権勢や利が尽きれば交わりも疎くなる』と。甫瑕がそれである。甫瑕は鄭子を脅して殺し、厲公を迎え入れた。それなのに厲公は、ついに彼に背いて殺した」。
解説
「利害で結びついた関係は、その利害が尽きたとき、あっけなく壊れる」——司馬遷が、裏切りの連鎖を、冷徹に総括した、この篇の結びです。司馬遷は、鄭の歴史を振り返り、一つの、古い格言を、引きます。「言葉に、こうある。——『権勢や、利益によって、(互いに)結びついた者たちは、その、権勢と利益が、尽きたときには、(たちまち、)その交わりも、疎遠になる(以權利合者、權利盡而交疏)』と」。打算で結ばれた関係は、打算が消えれば、消える、という、冷徹な、人間関係の法則です。そして、司馬遷は、その、生々しい実例として、鄭の家臣・甫瑕(ほか)を、挙げます。甫瑕は、(自らの、権勢と利益のために、)当時の君主であった、鄭子を、脅して殺害し、(追放されていた)厲公を、国に迎え入れて、君主の座に、就けました。厲公にとっては、(自分を、君主に、返り咲かせてくれた、)最大の功労者です。——ところが。司馬遷は、記します。「甫瑕は、(そのように、)鄭子を、脅し殺してまで、厲公を、(君主として)迎え入れたにもかかわらず——厲公は、(君主の座に就くと、)ついに、(その恩人である甫瑕を、)裏切って、彼を、殺してしまったのだ(厲公終背而殺之)」と。(「主君を、殺すような男は、いずれ、自分をも、殺しかねない」と、恐れたのでしょう。)利益のために、手を組んだ二人は——その利益が、達成された途端、(信頼など、どこにもなかったために、)一方が、他方を、あっさりと、殺したのです。司馬遷は、(この、裏切りの連鎖を、)「これは、(かつて、同じように、主君を殺して、新しい君主を立てながら、その君主に殺された、)晋の裏克と、いったい、何が、違うだろうか」と、嘆じています。ここに、人間関係についての教訓があります。第一に、「権勢」や「利益」だけで、結びついた関係は——その、権勢と利益が、尽きたとき(=目的が達成されたとき、あるいは、うまみが、なくなったとき)、あっけなく、崩れ去るということ(權利盡而交疏)。打算の関係に、信義は、ない。第二に、そして、(甫瑕のように、)不正な手段(裏切り・殺害)を用いて、誰かを、助けた者は——「この男は、(利益のためなら、)平気で、人を裏切る」と、(助けられた側からも、)けっして、信用されず、かえって、(危険視されて、)切り捨てられる、ということ。不正な手段で作った関係は、必ず、自分に、返ってくる。第三に、だからこそ——長く続く、信頼できる関係は、「打算」ではなく、「信義」によって、結ばれなければならない、ということ。組織や人間関係で、権勢や利益だけで結びついた関係が利害の消滅とともに崩れると知ること、不正な手段で人を助けた者はかえって信用されず切り捨てられると理解すること、そして長く続く関係は打算でなく信義によって結ばれるべきだと自覚すること——司馬遷の「権利を以て合ふ者」の総括は、打算の関係の脆さを、冷徹に教えます。
この章句が説くこと
鄭世家太史公評以権利合者権利尽而交疏打算の関係は利害が尽きれば崩れる甫瑕の裏切りと最期不正な手段で作った関係は自分に返る
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