史記 / 越王句践世家
故輕棄之,非所惜吝。前日吾所爲欲遣少子,固爲其能棄財故也。而長者不能,故卒以殺其弟,事之理也,無足悲者。吾日夜固以望其喪之來也。」故范蠡三徙,成名於天下,非茍去而已,所止必成名。卒老死于陶,故世傳曰陶朱公。太史公曰:禹之功大矣,漸九川,定九州,至于今諸夏艾安。及苗裔句踐,苦身焦思,終滅彊呉,北觀兵中國,以尊周室,號稱霸王。句踐可不謂賢哉!蓋有禹之遺烈焉。范蠡三遷皆有榮名,名垂後世。臣主若此,欲毋顯得乎!
新字:故軽棄之,非所惜吝。前日吾所為欲遣少子,固為其能棄財故也。而長者不能,故卒以殺其弟,事之理也,無足悲者。吾日夜固以望其喪之来也。」故范蠡三徙,成名於天下,非苟去而已,所止必成名。卒老死于陶,故世伝曰陶朱公。太史公曰:禹之功大矣,漸九川,定九州,至于今諸夏艾安。及苗裔句践,苦身焦思,終滅彊呉,北観兵中国,以尊周室,号称覇王。句践可不謂賢哉!蓋有禹之遺烈焉。范蠡三遷皆有栄名,名垂後世。臣主若此,欲毋顕得乎!
書き下し
故に軽く之を棄て、惜吝する所に非ず。前日吾の少子を遣らんと欲せし所以は、固より其の能く財を棄つるが為の故なり。而るに長者は能はず、故に卒に以て其の弟を殺す。事の理なり、悲しむに足る者無し。吾日夜固より以て其の喪の来るを望めり」と。故に范蠡三たび徙り、名を天下に成す。苟くも去るのみに非ず、止まる所必ず名を成す。卒に陶に老死す。故に世伝へて陶朱公と曰ふ。太史公曰く、禹の功大なるかな。九川を漸し、九州を定め、今に至るまで諸夏艾安す。苗裔の句践に及び、身を苦しめ思ひを焦がし、終に彊呉を滅ぼし、北のかた兵を中国に観し、以て周室を尊び、号して霸王と称す。句践賢と謂はざるべけんや。蓋し禹の遺烈有り。范蠡三たび遷りて皆栄名有り、名後世に垂る。臣主此の若くんば、顕るること毋からんと欲すとも得んや。
現代語訳
だから軽々と財を捨て、少しも惜しまない。先日わたしが末の子を遣わそうとしたのは、まさにあれなら財を捨てられるからだった。ところが長男にはそれができず、結局弟を死なせてしまった。これは物事の道理であって、悲しむには及ばない。わたしは初めから、日夜あの子の亡骸が届くのを待っていたのだ」。このように范蠡は三度住まいを移し、天下に名を成した。ただ去っただけではなく、とどまった所では必ず名を成した。最後は陶で老いて死んだ。それで世に陶朱公と言い伝えられている。太史公(司馬遷)は言う。禹の功績はなんと大きいことか。多くの川を治めて水を流し、九州を定め、今日に至るまで中国の国々は安らかである。その子孫の句践に及んで、身を苦しめ心を焦がし、ついに強大な呉を滅ぼし、北へ兵を進めて中原に威勢を示し、周王室を尊んで、覇王と称された。句践を賢者と言わずにいられようか。思うに、禹の残した功業の余光があったのであろう。范蠡は三度移り住んで、いずれの地でも栄誉ある名を得て、その名を後世に残した。臣下と君主がこのようであれば、名が世に現れまいとしても、それは無理というものである。
解説
関連する章句
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史記 越王句践世家且つ夫れ天与ふるに取らざれば、反りて其の咎を受く。『柯を伐る者は其の則遠からず』と。君、会稽の蚯を忘るるか」と。句践曰く、「吾子の言を聴かんと欲するも、吾其の使者に忍びず」と。范蠡乃ち鼓して兵を進めて曰く、「王已に政を執事に属せり。使者去れ。不ずんば且に罪を得んとす」と。呉の使者泣きて去る。句践之を憐み、乃ち人をして呉王に謂はしめて曰く、「吾王を甬東に置き、百家に君たらしめん」と。呉王謝して曰く、「吾老いたり。君王に事ふること能はず」と。遂に自殺す。乃ち其の面を蔽ひて曰く、「吾面の以て子胥に見ゆる無し」と。越王乃ち呉王を葬りて太宰嚭を誅す。句践已に呉を平げ、乃ち兵を以て北のかた淮を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、貢を周に致す。周の元王、人をして句践に胙を賜ひ、命じて伯と為さしむ。句践已に去り、淮の南を渡り、淮上の地を以て楚に与へ、呉の侵す所の宋の地を宋に帰し、魯に泗東方百里を与ふ。是の時に当たり、越の兵江・淮の東に横行し、諸侯畢く賀し、号して霸王と称す。
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史記 越王句践世家越王曰く、「奈何」と。曰く、「楚の三大夫九軍を張り、北のかた曲沃・於中を囲み、以て無仮の関に至る者三千七百里。景翠の軍、北のかた魯・斉・南陽に聚まる。分つこと此より大なる者有らんや。且つ王の求むる所の者は、晋・楚を闘はしむるなり。晋・楚闘はずんば、越の兵起たず。是れ二五を知りて十を知らざるなり。此の時楚を攻めずんば、臣是を以て越の大は王たらず、小は伯たらざるを知る。復讎・龐・長沙は楚の粟なり。竟沢陵は楚の材なり。越、兵を窺はせて無仮の関を通ぜば、此の四邑の者は上りて郢に貢事せざらん。臣之を聞く、王を図りて王たらざるも、其の敝は以て伯たるべしと。然り而して伯たらざる者は、王道失へばなり。故に願はくは大王の転じて楚を攻めんことを」と。是に於て越遂に斉を釈きて楚を伐つ。楚の威王兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故の呉の地を取りて浙江に至り、北のかた斉を徐州に破る。而して越此を以て散じ、諸族子立つを争ひ、或いは王と為り、或いは君と為り、江南の海上に浜し、楚に服朝す。後七世にして、閩君搖に至り、諸侯を佐けて秦を平ぐ。漢の高帝復た搖を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。范蠡、越王句践に事へ、既に身を苦しめ力を戮せ、句践と深く謀ること二十余年、竟に呉を滅ぼし、会稽の恥に報い、北のかた兵を淮に渡して以て斉・晋に臨み、中国に号令し、以て周室を尊ぶ。句践以て霸たり、而して范蠡は上将軍と称せらる。還りて国に反り、范蠡以為へらく、大名の下には以て久しく居り難く、且つ句践の人と為りは与に患ひを同じくすべきも、与に安きに処り難しと。書を為りて句践に辞して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣労し、主辱めらるれば臣死すと。昔者君王会稽に辱めらる。死せざりし所以は、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ。臣請ふ会稽の誅に従はん」と。句践曰く、「孤将に子と国を分ちて之を有たんとす。然らずんば、将に誅を子に加へんとす」と。
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史記 貨殖列伝范蠡既に会稽の恥を雪ぎ、乃ち扁舟に乗りて江湖に浮かび、名を変へ姓を易へ、陶に之きて朱公と為る。朱公陶は天下の中、諸侯四通し、貨物の交易する所と為すと以為し、乃ち産を治め居を積む。時と与に逐ひて人に責めず。故に善く生を治むる者は、能く人を択びて時に任す。十九年の中三たび千金を致し、再び分散して貧交疏昆弟に与ふ。此れ所謂富みて好んで其の徳を行ふ者なり。後年衰老して子孫に聴す、子孫業を修めて之を息し、遂に巨萬に至る。
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史記 越王句践世家范蠡曰く、「君は令を行ひ、臣は意を行ふ」と。乃ち其の軽宝珠玉を装ひ、自ら其の私の徒属と舟に乗り海に浮かびて以て行き、終に反らず。是に於て句践、会稽山を表して以て范蠡の奉邑と為す。范蠡海に浮かびて斉に出で、姓名を変じ、自ら鴟夷子皮と謂ひ、海畔に耕し、身を苦しめ力を戮せ、父子産を治む。居ること幾何も無くして、産数十万を致す。斉人其の賢を聞き、以て相と為す。范蠡喟然として嘆じて曰く、「家に居りては則ち千金を致し、官に居りては則ち卿相に至る。此れ布衣の極なり。久しく尊名を受くるは、不祥なり」と。乃ち相印を帰し、尽く其の財を散じ、以て分ちて知友郷党に与へ、而して其の重宝を懐きて、閒行して以て去り、陶に止まる。以為へらく、此れ天下の中にして、交易有無の路通じ、生を為すに以て富を致すべしと。是に於て自ら陶朱公と謂ふ。復た約して父子耕畜し、廃居し、時を候ひて物を転じ、什一の利を逐ふ。居ること何も無くして、則ち貲を致すこと巨万を累ぬ。天下陶朱公を称す。朱公陶に居り、少子を生む。少子壮に及びて、朱公の中男人を殺し、楚に囚はる。朱公曰く、「人を殺して死するは、職なり。然れども吾聞く、千金の子は市に死せずと」と。其の少子に告げて往きて之を視しむ。乃ち黄金千溢を装ひ、褐器の中に置き、載するに一牛車を以てす。且に其の少子を遣らんとす。朱公の長男固く請ひて行かんと欲す。朱公聴かず。長男曰く、「家に長子有るを家督と曰ふ。今弟罪有り、大人遣らずして、乃ち少弟を遺る。是れ吾不肖なればなり」と。自殺せんと欲す。其の母為に言ひて曰く、「今少子を遣るも、未だ必ずしも能く中子を生かさず。而るに先づ空しく長男を亡ふは、奈何」と。朱公已むを得ずして長子を遣り、一封の書を為りて故の善くする所の荘生に遺る。曰く、「至らば則ち千金を荘生の所に進め、其の為す所を聴け。慎みて与に事を争ふこと無かれ」と。長男既に行き、亦自ら私に数百金を齎す。
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史記 陳杞世家禹に至りて、周に於ては則ち杞なり、微なること甚だしく、数ふるに足らざるなり。楚の恵王杞を滅ぼし、其の後越王句践興る。
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史記 越王句践世家子胥大いに笑ひて曰く、「我、而の父をして霸たらしめ、我又若を立つ。若初め呉国の半ばを分ちて我に予へんと欲するも、我受けず。已にして、今若反りて讒を以て我を誅す。嗟乎、嗟乎、一人固より独り立つこと能はず」と。使者に報じて曰く、「必ず吾が眼を取りて呉の東門に置け、以て越兵の入るを観ん」と。是に於て呉、嚭に政を任ず。居ること三年、句践、范蠡を召して曰く、「呉已に子胥を殺し、導諛する者衆し。可なるか」と。対へて曰く、「未だ可ならず」と。明年の春に至り、呉王北のかた諸侯に黄池に会し、呉国の精兵王に従ひ、惟だ独り老弱と太子と留守す。句践復た范蠡に問ふ。蠡曰く「可なり」と。乃ち習流二千人、教士四万人、君子六千人、諸御千人を発し、呉を伐つ。呉の師敗れ、遂に呉の太子を殺す。呉、急を王に告ぐ。王方に諸侯に黄池に会す。天下の之を聞かんことを懼れ、乃ち之を秘す。呉王已に黄池に盟ひ、乃ち人をして厚礼して以て成を越に請はしむ。越自ら度るに亦未だ呉を滅ぼすこと能はず、乃ち呉と平ぐ。其の後四年、越復た呉を伐つ。呉の士民罷弊し、軽鋭は尽く斉・晋に死す。而して越大いに呉を破り、因りて留まりて之を囲むこと三年、呉の師敗れ、越遂に復た呉王を姑蘇の山に棲ましむ。呉王、公孫雄をして肉袒膝行して前ましめ、成を越王に請ひて曰く、「孤臣夫差敢へて腹心を布く。異日嘗て罪を会稽に得たり。夫差敢へて命に逆らはず、君王と成すことを得て以て帰れり。今君王玉趾を挙げて孤臣を誅す。孤臣惟だ命を是れ聴かん。意ふに亦会稽の孤臣の罪を赦せしが如くせんと欲するか」と。句践忍びず、之を許さんと欲す。范蠡曰く、「会稽の事は、天、越を以て呉に賜ふも、呉取らず。今天、呉を以て越に賜ふ。越其れ天に逆らふべけんや。且つ夫れ君王蚤く朝し晏く罷むるは、呉の為に非ずや。之を謀ること二十二年、一旦にして之を棄つ、可ならんや。
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