史記 / 越王句践世家
且夫天與弗取,反受其咎。『伐柯者其則不遠』,君忘會稽之蚯?」句踐曰:「吾欲聽子言,吾不忍其使者。」范蠡乃鼓進兵,曰:「王已屬政於執事,使者去,不者且得罪。」呉使者泣而去。句踐憐之,乃使人謂呉王曰:「吾置王甬東,君百家。」呉王謝曰:「吾老矣,不能事君王!」遂自殺。乃蔽其面,曰:「吾無面以見子胥也!」越王乃葬呉王而誅太宰嚭。句踐已平呉,乃以兵北渡淮,與齊、晉諸侯會於徐州,致貢於周。周元王使人賜句踐胙,命爲伯。句踐已去,渡淮南,以淮上地與楚,歸呉所侵宋地於宋,與魯泗東方百里。當是時,越兵橫行於江、淮東,諸侯畢賀,號稱霸王。
新字:且夫天与弗取,反受其咎。『伐柯者其則不遠』,君忘会稽之蚯?」句践曰:「吾欲聴子言,吾不忍其使者。」范蠡乃鼓進兵,曰:「王已属政於執事,使者去,不者且得罪。」呉使者泣而去。句践憐之,乃使人謂呉王曰:「吾置王甬東,君百家。」呉王謝曰:「吾老矣,不能事君王!」遂自殺。乃蔽其面,曰:「吾無面以見子胥也!」越王乃葬呉王而誅太宰嚭。句践已平呉,乃以兵北渡淮,与斉、晋諸侯会於徐州,致貢於周。周元王使人賜句践胙,命為伯。句践已去,渡淮南,以淮上地与楚,帰呉所侵宋地於宋,与魯泗東方百里。当是時,越兵横行於江、淮東,諸侯畢賀,号称覇王。
書き下し
且つ夫れ天与ふるに取らざれば、反りて其の咎を受く。『柯を伐る者は其の則遠からず』と。君、会稽の蚯を忘るるか」と。句践曰く、「吾子の言を聴かんと欲するも、吾其の使者に忍びず」と。范蠡乃ち鼓して兵を進めて曰く、「王已に政を執事に属せり。使者去れ。不ずんば且に罪を得んとす」と。呉の使者泣きて去る。句践之を憐み、乃ち人をして呉王に謂はしめて曰く、「吾王を甬東に置き、百家に君たらしめん」と。呉王謝して曰く、「吾老いたり。君王に事ふること能はず」と。遂に自殺す。乃ち其の面を蔽ひて曰く、「吾面の以て子胥に見ゆる無し」と。越王乃ち呉王を葬りて太宰嚭を誅す。句践已に呉を平げ、乃ち兵を以て北のかた淮を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、貢を周に致す。周の元王、人をして句践に胙を賜ひ、命じて伯と為さしむ。句践已に去り、淮の南を渡り、淮上の地を以て楚に与へ、呉の侵す所の宋の地を宋に帰し、魯に泗東方百里を与ふ。是の時に当たり、越の兵江・淮の東に横行し、諸侯畢く賀し、号して霸王と称す。
現代語訳
それに、天が与えるのに取らなければ、かえってその咎めを受けるという。『斧の柄を切り出す者は、その手本を遠くに求めない(手に持つ斧の柄が手本になる)』といいます(呉の前例を手本にすべきです)。君は会稽の恥を忘れたのですか」。句践は言った。「わたしはそなたの言葉に従いたいが、あの使者を思うと忍びないのだ」。范蠡はそこで太鼓を打って兵を進めさせ、(呉の使者に)言った。「王はすでに政務を担当の者に委ねられた。使者は立ち去れ。さもなければ罰を受けることになるぞ」。呉の使者は泣きながら去った。句践はこれを哀れに思い、人を遣わして呉王にこう伝えた。「王を甬東(ようとう、今の舟山の地)に住まわせ、百家の主としよう」。呉王は辞退して言った。「わたしはもう老いた。君王にお仕えすることはできない」。そしてついに自殺した。その際、顔を覆って「わたしには子胥に合わせる顔がない」と言った。越王は呉王を葬り、太宰嚭を誅殺した。句践は呉を平定すると、兵を率いて北へ淮水を渡り、斉・晋の諸侯と徐州で会盟し、周王室に貢ぎ物を献じた。周の元王は使者を遣わして句践に祭祀の肉を賜り、伯(諸侯の長)に任命した。句践は徐州を去ると淮水の南へ渡り、淮水流域の地を楚に与え、呉が奪っていた宋の地を宋に返し、魯には泗水の東の百里四方の地を与えた。この時、越の兵は長江・淮水の東を思うままに行き来し、諸侯はみな祝賀し、句践を覇王と称した。
解説
関連する章句
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史記 越王句践世家子胥大いに笑ひて曰く、「我、而の父をして霸たらしめ、我又若を立つ。若初め呉国の半ばを分ちて我に予へんと欲するも、我受けず。已にして、今若反りて讒を以て我を誅す。嗟乎、嗟乎、一人固より独り立つこと能はず」と。使者に報じて曰く、「必ず吾が眼を取りて呉の東門に置け、以て越兵の入るを観ん」と。是に於て呉、嚭に政を任ず。居ること三年、句践、范蠡を召して曰く、「呉已に子胥を殺し、導諛する者衆し。可なるか」と。対へて曰く、「未だ可ならず」と。明年の春に至り、呉王北のかた諸侯に黄池に会し、呉国の精兵王に従ひ、惟だ独り老弱と太子と留守す。句践復た范蠡に問ふ。蠡曰く「可なり」と。乃ち習流二千人、教士四万人、君子六千人、諸御千人を発し、呉を伐つ。呉の師敗れ、遂に呉の太子を殺す。呉、急を王に告ぐ。王方に諸侯に黄池に会す。天下の之を聞かんことを懼れ、乃ち之を秘す。呉王已に黄池に盟ひ、乃ち人をして厚礼して以て成を越に請はしむ。越自ら度るに亦未だ呉を滅ぼすこと能はず、乃ち呉と平ぐ。其の後四年、越復た呉を伐つ。呉の士民罷弊し、軽鋭は尽く斉・晋に死す。而して越大いに呉を破り、因りて留まりて之を囲むこと三年、呉の師敗れ、越遂に復た呉王を姑蘇の山に棲ましむ。呉王、公孫雄をして肉袒膝行して前ましめ、成を越王に請ひて曰く、「孤臣夫差敢へて腹心を布く。異日嘗て罪を会稽に得たり。夫差敢へて命に逆らはず、君王と成すことを得て以て帰れり。今君王玉趾を挙げて孤臣を誅す。孤臣惟だ命を是れ聴かん。意ふに亦会稽の孤臣の罪を赦せしが如くせんと欲するか」と。句践忍びず、之を許さんと欲す。范蠡曰く、「会稽の事は、天、越を以て呉に賜ふも、呉取らず。今天、呉を以て越に賜ふ。越其れ天に逆らふべけんや。且つ夫れ君王蚤く朝し晏く罷むるは、呉の為に非ずや。之を謀ること二十二年、一旦にして之を棄つ、可ならんや。
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史記 呉太伯世家斉の鮑氏、斉の悼公を弑す。呉王之を聞き、軍門の外に哭すること三日、乃ち海上より斉を攻む。斉人、呉を敗り、呉王乃ち兵を引きて帰る。十三年、呉、魯・衛の君を召して橐皋に会す。十四年春、呉王、北のかた諸侯に黄池に会し、中国に覇して以て周室を全うせんと欲す。六月子、越王句践、呉を伐つ。乙酉、越の五千人、呉と戦ふ。丙戌、呉の太子友を虜にす。丁亥、呉に入る。呉人、敗を王夫差に告ぐ。夫差其の聞こゆるを悪む。或ひと其の語を泄らす。呉王怒り、七人を幕下に斬る。七月辛丑、呉王、晋の定公と長を争ふ。呉王曰く、「周室に於ては我長たり」と。晋の定公曰く、「姫姓に於ては我伯たり」と。趙鞅怒り、将に呉を伐たんとす。乃ち晋の定公を長とす。呉王已に盟ひ、晋と別れ、宋を伐たんと欲す。太宰嚭曰く、「勝つ可きも居る能はざるなり」と。乃ち兵を引きて国に帰る。国は太子を亡ひ、内空しく、王外に居ること久しく、士皆罷敝す。是に於て乃ち厚幣を使はして以て越と平す。十五年、斉の田常、簡公を殺す。十八年、越益々彊し。越王句践、兵を率ゐて伐ちて呉の師を笠沢に敗る。楚、陳を滅す。二十年、越王句践復た呉を伐つ。二十一年、遂に呉を囲む。二十三年十一月丁卯、越、呉を敗る。越王句践、呉王夫差を甬東に遷し、百家を予へて之に居らしめんと欲す。呉王曰く、「孤老いたり、君王に事ふる能はざるなり。吾、子胥の言を用ひざりしを悔ゆ。自ら此に陥らしむ」と。遂に自剄して死す。越王、呉を滅し、太宰嚭を誅し、以て不忠と為して帰る。
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史記 伍子胥列伝呉王既に伍子胥を誅し、遂に斉を伐つ。斉の鮑氏其の君悼公を殺して陽生を立つ。呉王其の賊を討たんと欲し、勝たずして去る。其の後二年、呉王魯・衛の君を召して之を橐皋に会す。其の明年、因りて北のかた大いに諸侯を黄池に会し、以て周室に令す。越王句踐、襲ひて呉の太子を殺し、呉の兵を破る。呉王之を聞き、乃ち帰り、使ひをして幣を厚くして越と平らぐ。後九年、越王句踐遂に呉を滅ぼし、王夫差を殺す。而して太宰嚭を誅す、其の君に不忠にして、外に重賂を受け、己と比周せるを以てなり。
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史記 越王句践世家越王曰く、「奈何」と。曰く、「楚の三大夫九軍を張り、北のかた曲沃・於中を囲み、以て無仮の関に至る者三千七百里。景翠の軍、北のかた魯・斉・南陽に聚まる。分つこと此より大なる者有らんや。且つ王の求むる所の者は、晋・楚を闘はしむるなり。晋・楚闘はずんば、越の兵起たず。是れ二五を知りて十を知らざるなり。此の時楚を攻めずんば、臣是を以て越の大は王たらず、小は伯たらざるを知る。復讎・龐・長沙は楚の粟なり。竟沢陵は楚の材なり。越、兵を窺はせて無仮の関を通ぜば、此の四邑の者は上りて郢に貢事せざらん。臣之を聞く、王を図りて王たらざるも、其の敝は以て伯たるべしと。然り而して伯たらざる者は、王道失へばなり。故に願はくは大王の転じて楚を攻めんことを」と。是に於て越遂に斉を釈きて楚を伐つ。楚の威王兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故の呉の地を取りて浙江に至り、北のかた斉を徐州に破る。而して越此を以て散じ、諸族子立つを争ひ、或いは王と為り、或いは君と為り、江南の海上に浜し、楚に服朝す。後七世にして、閩君搖に至り、諸侯を佐けて秦を平ぐ。漢の高帝復た搖を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。范蠡、越王句践に事へ、既に身を苦しめ力を戮せ、句践と深く謀ること二十余年、竟に呉を滅ぼし、会稽の恥に報い、北のかた兵を淮に渡して以て斉・晋に臨み、中国に号令し、以て周室を尊ぶ。句践以て霸たり、而して范蠡は上将軍と称せらる。還りて国に反り、范蠡以為へらく、大名の下には以て久しく居り難く、且つ句践の人と為りは与に患ひを同じくすべきも、与に安きに処り難しと。書を為りて句践に辞して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣労し、主辱めらるれば臣死すと。昔者君王会稽に辱めらる。死せざりし所以は、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ。臣請ふ会稽の誅に従はん」と。句践曰く、「孤将に子と国を分ちて之を有たんとす。然らずんば、将に誅を子に加へんとす」と。
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史記 呉太伯世家十一年、呉王、太子夫差をして楚を伐たしめ、番を取る。楚恐れて郢を去りて鄀に徙る。十五年、孔子魯に相たり。十九年夏、呉、越を伐つ。越王句践、之を槜李に迎へ撃つ。越、死士をして戦ひを挑ましむ。三行して呉の師に造り、呼びて自剄す。呉の師之を観る。越因りて呉を伐ち、之を姑蘇に敗り、呉王闔廬の指を傷つけ、軍卻くこと七里。呉王、傷を病みて死す。闔廬、太子夫差を立てしめ、謂ひて曰く、「爾而ち句践の汝の父を殺せしを忘れんか」と。対へて曰く、「敢てせず」と。三年にして乃ち越に報ゆ。王夫差の元年、大夫伯嚭を以て太宰と為す。戦射を習ひ、常に越に報ゆるを以て志と為す。二年、呉王悉く精兵もて以て越を伐ち、之を夫椒に敗り、姑蘇に報ゆ。越王句践乃ち甲兵五千人を以て会稽に棲み、大夫種をして呉の太宰嚭に因りて成を行はしめ、国を委ねて臣妾と為らんことを請ふ。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰く、「昔、有過氏、斟灌を殺して以て斟尋を伐ち、夏后帝相を滅す。帝相の妃后緡方に娠み、有仍に逃れて少康を生む。少康、有仍の牧正と為る。有過又少康を殺さんと欲す。少康、有虞に奔る。有虞、夏の徳を思ひ、是に於て之に妻はすに二女を以てして之を綸に邑せしむ。田一成有り、衆一旅有り。後遂に夏の衆を収め、其の官職を撫す。人をして之を誘はしめ、遂に有過氏を滅し、禹の績を復し、夏を祀りて天に配し、旧物を失はず。今、呉は有過の彊きに如かずして、句践は少康より大なり。今此に因りて之を滅さずして、又将に之を寛さんとす、亦難からずや。且つ句践は人と為り能く辛苦す。今滅さずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭に聴き、卒に越の平を許し、与に盟ひて兵を罷めて去る。七年、呉王夫差、斉の景公死して大臣寵を争ひ、新君弱しと聞き、乃ち師を興して北のかた斉を伐つ。
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史記 呉太伯世家子胥諫めて曰く、「越王句践、食は味を重ねず、衣は采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ。且に其の衆を用ふる所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在るに、王先にせずして、斉を務む。亦謬らずや」と。呉王聴かず、遂に北のかた斉を伐ち、斉の師を艾陵に敗る。繒に至り、魯の哀公を召して百牢を徴す。季康子、子貢をして周礼を以て太宰嚭に説かしめ、乃ち止むるを得たり。因りて留まりて地を斉・魯の南に略す。九年、騶の為に魯を伐ち、魯と盟ふに至りて乃ち去る。十年、因りて斉を伐ちて帰る。十一年、復た北のかた斉を伐つ。越王句践、其の衆を率ゐて以て呉に朝し、厚く之に献遺す。呉王喜ぶ。唯子胥のみ懼れて曰く、「是れ呉を棄つるなり」と。諫めて曰く、「越は腹心に在り。今志を斉に得るも、猶ほ石田のごとく、用ふる所無し。且つ盤庚の誥に顛越して遺す勿かれと有り、商之を以て興る」と。呉王聴かず、子胥を斉に使せしむ。子胥、其の子を斉の鮑氏に属し、還りて呉王に報ず。呉王之を聞き、大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が墓の上に樹うるに梓を以てし、器と為す可からしめよ。吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅すを観ん」と。
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