史記 / 越王句践世家
二歳而呉歸蠡。句踐自會稽歸七年,拊循其士民,欲用以報呉。大夫逢同諫曰:「國新流亡,今乃復殷給,繕飾備利,呉必懼,懼則難必至。且鷙鳥之撃也,必匿其形。今夫呉兵加齊、晉,怨深於楚、越,名髙天下,實害周室,德少而功多,必淫自矜。爲越計,莫若結齊,親楚,附晉,以厚呉。呉之志廣,必輕戰。是我連其權,三國伐之,越承其弊,可克也。」句踐曰:「善。」居二年,呉王將伐齊。子胥諫曰:「未可。臣聞句踐食不重味,與百姓同苦樂。此人不死,必爲國患。呉有越,腹心之疾,齊與呉,疥癬也。願王釋齊先越。」呉王弗聽,遂伐齊,敗之艾陵,虜齊髙、國以歸。讓子胥。子胥曰:「王毋喜!」王怒,子胥欲自殺,王聞而止之。越大夫種曰:「臣觀呉王政驕矣,請試嘗之貸粟,以卜其事。」請貸,呉王欲與,子胥諫勿與,王遂與之,越乃私喜。子胥言曰:「王不聽諫,後三年呉其墟乎!」太宰嚭聞之,乃數與子胥爭越議,因讒子胥曰:「伍員貌忠而實忍人,其父兄不顧,安能顧王?王前欲伐齊,員彊諫,已而有功,用是反怨王。王不備伍員,員必爲亂。」與逢同共謀,讒之王。王始不從,乃使子胥於齊,聞其託子於鮑氏,王乃大怒,曰:「伍員果欺寡人!」役反,使人賜子胥屬鏤劍以自殺。
新字:二歳而呉帰蠡。句践自会稽帰七年,拊循其士民,欲用以報呉。大夫逢同諫曰:「国新流亡,今乃復殷給,繕飾備利,呉必懼,懼則難必至。且鷙鳥之撃也,必匿其形。今夫呉兵加斉、晋,怨深於楚、越,名高天下,実害周室,徳少而功多,必淫自矜。為越計,莫若結斉,親楚,附晋,以厚呉。呉之志広,必軽戦。是我連其権,三国伐之,越承其弊,可克也。」句践曰:「善。」居二年,呉王将伐斉。子胥諫曰:「未可。臣聞句践食不重味,与百姓同苦楽。此人不死,必為国患。呉有越,腹心之疾,斉与呉,疥癬也。願王釈斉先越。」呉王弗聴,遂伐斉,敗之艾陵,虜斉高、国以帰。譲子胥。子胥曰:「王毋喜!」王怒,子胥欲自殺,王聞而止之。越大夫種曰:「臣観呉王政驕矣,請試嘗之貸粟,以卜其事。」請貸,呉王欲与,子胥諫勿与,王遂与之,越乃私喜。子胥言曰:「王不聴諫,後三年呉其墟乎!」太宰嚭聞之,乃数与子胥争越議,因讒子胥曰:「伍員貌忠而実忍人,其父兄不顧,安能顧王?王前欲伐斉,員彊諫,已而有功,用是反怨王。王不備伍員,員必為乱。」与逢同共謀,讒之王。王始不従,乃使子胥於斉,聞其託子於鮑氏,王乃大怒,曰:「伍員果欺寡人!」役反,使人賜子胥属鏤剣以自殺。
書き下し
二歳にして呉、蠡を帰す。句践、会稽より帰りて七年、其の士民を拊循し、用ひて以て呉に報いんと欲す。大夫逢同諫めて曰く、「国新たに流亡し、今乃ち復た殷給す。繕飾して利を備へば、呉必ず懼れん。懼るれば則ち難必ず至らん。且つ鷙鳥の撃つや、必ず其の形を匿す。今夫れ呉は兵を斉・晋に加へ、怨みは楚・越に深く、名は天下に高く、実は周室を害す。徳少なくして功多く、必ず淫して自ら矜らん。越の為に計るに、斉に結び、楚に親しみ、晋に附きて、以て呉を厚くするに若くは莫し。呉の志広ければ、必ず戦ひを軽んぜん。是れ我其の権を連ね、三国之を伐ち、越其の弊に承ずれば、克つべきなり」と。句践曰く、「善し」と。居ること二年、呉王将に斉を伐たんとす。子胥諫めて曰く、「未だ可ならず。臣聞く、句践は食に味を重ねず、百姓と苦楽を同じくすと。此の人死せずんば、必ず国の患と為らん。呉に越有るは、腹心の疾なり。斉の呉に与けるは、疥癬なり。願はくは王、斉を釈きて越を先にせよ」と。呉王聴かず、遂に斉を伐ち、之を艾陵に敗り、斉の高・国を虜にして以て帰る。子胥を譲む。子胥曰く、「王喜ぶ毋かれ」と。王怒り、子胥自殺せんと欲す。王聞きて之を止む。越の大夫種曰く、「臣、呉王の政を観るに驕れり。請ふ試みに之に粟を貸らんことを嘗み、以て其の事を卜せん」と。貸らんことを請ふ。呉王与へんと欲し、子胥与ふる勿かれと諫む。王遂に之に与ふ。越乃ち私かに喜ぶ。子胥言ひて曰く、「王諫めを聴かず、後三年にして呉其れ墟とならんか」と。太宰嚭之を聞き、乃ち数々子胥と越の議を争ひ、因りて子胥を讒して曰く、「伍員は貌は忠なれども実は忍人なり。其の父兄をすら顧みず、安んぞ能く王を顧みんや。王前に斉を伐たんと欲するや、員彊く諫む。已にして功有り、是を用て反りて王を怨む。王、伍員に備へずんば、員必ず乱を為さん」と。逢同と共に謀り、之を王に讒す。王始め従はず。乃ち子胥を斉に使はす。其の子を鮑氏に託するを聞き、王乃ち大いに怒りて曰く、「伍員果たして寡人を欺けり」と。役より反り、人をして子胥に属鏤の剣を賜ひて以て自殺せしむ。
現代語訳
二年後、呉は(人質としていた)范蠡を越に帰した。句践は会稽から戻って七年、兵士や民をいたわり育て、彼らを用いて呉に報復しようとした。大夫の逢同(ほうどう)が諫めた。「わが国は流亡の痛手から立ち直り、今ようやく再び豊かになったところだ。ここで武備を整え、利器を揃えれば、呉は必ず警戒する。警戒されれば必ず災難がやって来る。それに、猛禽は獲物を襲うとき必ず姿を隠すものだ。今、呉は兵を斉と晋に向け、楚と越からは深く恨まれ、名声は天下に高いものの、実際には周王室を損なっている。徳は乏しいのに戦功は多いので、必ずおごって自らを誇るでしょう。越のために計るなら、斉と結び、楚と親しみ、晋に付いて、呉をいっそうおごらせるのが一番だ。呉の野心が広がれば、必ず戦いを軽んじるようになる。そこで我々は三国と手を結び、三国に呉を討たせ、越はその疲弊に乗じれば、勝つことができます」。句践は「よろしい」と言った。二年後、呉王は斉を討とうとした。伍子胥が諫めた。「まだいけません。聞くところでは、句践は食事に二品以上のおかずをとらず、民と苦楽を共にしているそうだ。この男が死なない限り、必ず国の災いとなる。呉にとって越は腹の中の病であり、斉は皮膚の疥癬(かさぶた)程度のものだ。どうか王よ、斉は後回しにして越を先に討ってください」。呉王は聞き入れず、斉を討って艾陵(がいりょう)で破り、斉の重臣である高氏・国氏の将を捕虜にして帰った。そして子胥を責めた。子胥は「王よ、喜んではなりません」と言った。王は怒り、子胥は自殺しようとしたが、王はそれを聞いて止めた。越の大夫種が言った。「私の見るところ、呉王の政治はおごっている。試しに穀物を借りたいと申し入れて、その出方を占ってみましょう」。そこで借用を申し入れた。呉王は与えようとし、子胥は与えてはならないと諫めたが、王は結局与えた。越はひそかに喜んだ。子胥は「王は諫めを聞かない。三年後には呉は廃墟になっているだろう」と言った。太宰嚭はこれを聞いて、しばしば越をめぐる議論で子胥と争い、子胥を讒言した。「伍員(ごうん、子胥の名)は見かけは忠義ですが、実は残忍な男だ。自分の父や兄すら顧みなかったのに、どうして王のことを顧みましょう。王が以前斉を討とうとしたとき、彼は強く反対しました。ところが戦いに勝ったので、かえって王を恨んでう。王が伍員に備えなければ、必ず乱を起こします」。嚭は逢同と共謀して王に子胥を讒言した。王は初めは取り合わなかったが、子胥を斉に使いに出したところ、子胥が自分の子を斉の鮑氏に託したと聞き、大いに怒って「伍員はやはりわたしを欺いていた」と言った。王は(出征から)帰ると、使者を遣わして子胥に属鏤(しょくる)の剣を賜い、自殺させた。
解説
関連する章句
-
史記 呉太伯世家子胥諫めて曰く、「越王句践、食は味を重ねず、衣は采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ。且に其の衆を用ふる所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在るに、王先にせずして、斉を務む。亦謬らずや」と。呉王聴かず、遂に北のかた斉を伐ち、斉の師を艾陵に敗る。繒に至り、魯の哀公を召して百牢を徴す。季康子、子貢をして周礼を以て太宰嚭に説かしめ、乃ち止むるを得たり。因りて留まりて地を斉・魯の南に略す。九年、騶の為に魯を伐ち、魯と盟ふに至りて乃ち去る。十年、因りて斉を伐ちて帰る。十一年、復た北のかた斉を伐つ。越王句践、其の衆を率ゐて以て呉に朝し、厚く之に献遺す。呉王喜ぶ。唯子胥のみ懼れて曰く、「是れ呉を棄つるなり」と。諫めて曰く、「越は腹心に在り。今志を斉に得るも、猶ほ石田のごとく、用ふる所無し。且つ盤庚の誥に顛越して遺す勿かれと有り、商之を以て興る」と。呉王聴かず、子胥を斉に使せしむ。子胥、其の子を斉の鮑氏に属し、還りて呉王に報ず。呉王之を聞き、大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が墓の上に樹うるに梓を以てし、器と為す可からしめよ。吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅すを観ん」と。
-
説苑・正諫呉、伍子胥・孫武の謀を以て、西のかた強楚を破り、北のかた斉晋を威し、南のかた越を伐つ。越王句践之を迎え撃ち、呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷つく。軍卻き、闔廬太子夫差に謂いて曰わく、「爾句践の而の父を殺せしを忘れたるか」と。夫差対えて曰わく、「敢えて忘れじ」と。是の夕闔廬死す。夫差既に立ちて王と為り、伯嚭を以て太宰と為し、戦射を習い、三年にして越を伐ち、夫湫に敗る。越王句践乃ち兵五千人を以て会稽山上に棲み、大夫種をして厚幣もて呉の太宰嚭に遣わして以て和を請わしめ、国を委ねて臣妾と為さんとす。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰わく、「越王人と為り能く辛苦す。今王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭の計を用いて越と平らぐ。其の後五年、呉王斉の景公死し、大臣寵を争うと聞き、新君弱しとして、乃ち師を興して北のかた斉を伐たんとす。子胥諫めて曰わく、「不可なり。句践食に味を重ねず、死を弔い疾を問い、且つ能く人を用う。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾なり、斉は猶お疥癬のみ。而るに王越を先にせずして、乃ち務めて斉を伐つは、亦た謬らずや」と。呉王聴かず、斉を伐ち、大いに斉師を艾陵に敗り、遂に鄒魯の君と会して以て帰り、益々子胥の言を疏んず。其の後四年、呉将に復た北のかた斉を伐たんとす。越王句践子胥の謀を用い、乃ち其の衆を率いて以て呉を助け、重宝を以て太宰嚭に献遺す。太宰嚭既に数々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚だし。日夜呉王の為に言を為す。王嚭の計を信用す。伍子胥諫めて曰わく、「夫れ越は、腹心の疾なり。今其の游辞偽詐を信じて斉を貪る、譬えば猶お石田のごとし、用うる所無し。盤庚に曰わく、『古人に顛越して恭ならざる有り』と。是れ商の興る所以なり。願わくは王斉を釈てて越を先にせよ。然らずんば、将に之を悔ゆるも及ぶ無からん」と。呉王聴かず、子胥をして斉に使いせしむ。子胥其の子に謂いて曰わく、「吾王を諫むるも、王吾を用いず、吾今呉の滅ぶるを見んとす。女呉と俱に亡ぶるは為す無きなり」と。乃ち其の子を斉の鮑氏に属して帰りて呉王に報ず。太宰嚭既に子胥と隙有り、因りて讒して曰わく、「子胥の人と為り、剛暴少恩、其の怨望猜賊にして禍を為すなり。深く前日王斉を伐たんと欲するに、子胥以て不可と為すも、王卒に之を伐ちて大功有り、子胥計謀用いられずして、乃ち反りて怨望す。今王又復た斉を伐たんとするに、子胥専愎強諫し、用事を沮毀す。呉の敗るるを徼幸し、以て自ら其の計謀に勝たんとするのみ。今王自ら行き、国中の武力を悉くして以て斉を伐つに、子胥諫めて用いられず、因りて輟して佯病して行かず。王備えざるべからず。此れ禍を起こすこと難からず。且つ臣人をして微かに之を伺わしむるに、其の斉に使いするや、乃ち其の子を鮑氏に属せり。夫れ人臣内に意を得ずして、外諸侯に交わるは、自ら先王の謀臣を以て、今用いられずして、常に怏怏たり。願わくは王早く之を図れ」と。呉王曰わく、「子の言無くんば、吾も亦た之を疑わん」と。乃ち使いをして子胥に属鏤の剣を賜わしめて曰わく、「子此を以て死せよ」と。子胥曰わく、「嗟乎、讒臣宰嚭乱を為す、王顧りて反りて我を誅す。我若の父をして覇たらしめ、又若を立つるに時なり。諸子弟立を争いしとき、我死を以て先王に争い、幾ど立つを得ざりき。若既に立つに及び、呉国を分かちて我に与えんと欲せしも、我顧りて敢えて当らず。然るに若、何ぞ讒臣の長者を殺すを聴くに之けるや」と。乃ち舎人に告げて曰わく、「必ず吾が墓上に樹うるに梓を以てし、器と為すべからしめ、而して吾が眼を抉りて之を呉の東門に著け、以て越寇の呉を滅ぼすを観ん」と。乃ち自ら刺し殺す。呉王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の屍を取り、鴟夷革を以て盛り、之を江中に浮かぶ。呉人之を憐れみ、乃ち祠を江上に立て、因りて名づけて胥山と曰う。後十余年、越呉を襲い、呉王還りて与に戦うも勝たず、大夫をして越に行成せしむるも許されず。呉王将に死せんとして曰わく、「吾子胥の言を用いざるを以て此に至れり。死者知る無くんば則ち已みなん。死者知る有らば、吾何の面目を以て子胥に見えんや」と。遂に絮を蒙りて面を覆いて自ら刎ず。
-
史記 越王句践世家子胥大いに笑ひて曰く、「我、而の父をして霸たらしめ、我又若を立つ。若初め呉国の半ばを分ちて我に予へんと欲するも、我受けず。已にして、今若反りて讒を以て我を誅す。嗟乎、嗟乎、一人固より独り立つこと能はず」と。使者に報じて曰く、「必ず吾が眼を取りて呉の東門に置け、以て越兵の入るを観ん」と。是に於て呉、嚭に政を任ず。居ること三年、句践、范蠡を召して曰く、「呉已に子胥を殺し、導諛する者衆し。可なるか」と。対へて曰く、「未だ可ならず」と。明年の春に至り、呉王北のかた諸侯に黄池に会し、呉国の精兵王に従ひ、惟だ独り老弱と太子と留守す。句践復た范蠡に問ふ。蠡曰く「可なり」と。乃ち習流二千人、教士四万人、君子六千人、諸御千人を発し、呉を伐つ。呉の師敗れ、遂に呉の太子を殺す。呉、急を王に告ぐ。王方に諸侯に黄池に会す。天下の之を聞かんことを懼れ、乃ち之を秘す。呉王已に黄池に盟ひ、乃ち人をして厚礼して以て成を越に請はしむ。越自ら度るに亦未だ呉を滅ぼすこと能はず、乃ち呉と平ぐ。其の後四年、越復た呉を伐つ。呉の士民罷弊し、軽鋭は尽く斉・晋に死す。而して越大いに呉を破り、因りて留まりて之を囲むこと三年、呉の師敗れ、越遂に復た呉王を姑蘇の山に棲ましむ。呉王、公孫雄をして肉袒膝行して前ましめ、成を越王に請ひて曰く、「孤臣夫差敢へて腹心を布く。異日嘗て罪を会稽に得たり。夫差敢へて命に逆らはず、君王と成すことを得て以て帰れり。今君王玉趾を挙げて孤臣を誅す。孤臣惟だ命を是れ聴かん。意ふに亦会稽の孤臣の罪を赦せしが如くせんと欲するか」と。句践忍びず、之を許さんと欲す。范蠡曰く、「会稽の事は、天、越を以て呉に賜ふも、呉取らず。今天、呉を以て越に賜ふ。越其れ天に逆らふべけんや。且つ夫れ君王蚤く朝し晏く罷むるは、呉の為に非ずや。之を謀ること二十二年、一旦にして之を棄つ、可ならんや。
-
呂氏春秋・知化②呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊と呉とは、習俗同じからず、言語通ぜず。我、其の地を得るとも處ること能わず、其の民を得るとも使うことを得ず。夫れ呉と越とは、土を接し境を鄰し、壤交わり通屬なり、習俗同じ、言語通ず。我、其の地を得ば、能く之に處り、其の民を得ば、能く之を使う。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉・越の勢いは兩立せず。越の呉に於けるや、譬えば心腹の疾の若きなり。作ること無しと雖も、其の傷は深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しまざれば其れ已むなり。且つ其れ傷うこと無きなり。今、越を釋てて齊を伐つは、之を譬うれば猶ほ虎を懼れて猏を刺すがごとし。之に勝つと雖も、其の後患央くること無し。」太宰嚭曰く、「不可なり。君王の令、上國に行われざる所以の者は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之に勝ち、其の兵を徙して以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王、一舉して兩國を服すなり。君王の令、必ず上國に行われん。」夫差以て然りと為し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用う。子胥曰く、「天將に呉を亡ぼさんとせば、則ち君王をして戰いて勝たしめん。天將に呉を亡ぼさざらんとせば、則ち君王をして戰いて勝たざらしめん。」夫差聽かず。子胥、兩袪高蹶して、廷を出でて曰く、「嗟乎、呉の朝必ず荊棘を生ぜん。」夫差、師を興し齊を伐ち、艾陵に戰い、大いに齊の師を敗り、反りて子胥を誅す。子胥將に死せんとして曰く、「與、吾安くにか一目を得て、以て越人の呉に入るを視ん。」乃ち自殺す。夫差乃ち其の身を取りて、之を江に流し、其の目を抉りて、之を東門に著き、曰く、「女胡ぞ越人の我に入るを視ん。」居ること數年、越、呉に報い、其の國を殘い、其の世を絕ち、其の社稷を滅ぼし、其の宗廟を夷げ、夫差は身擒と為る。夫差將に死せんとして曰く、「死者如し知る有らば、吾何の面ありて以て子胥を地下に見ん。」乃ち幎を為りて以て面を冒いて死す。夫れ患い未だ至らざれば、則ち告ぐ可からざるなり。患既に至れば、之を知ると雖も及ぶこと無し。故に夫差の子胥に慚づることを知れるは、知ること勿きに若かず。
-
史記 伍子胥列伝後五年、越を伐つ。越王句踐迎へ撃ち、呉を姑蘇に敗り、闔廬の指を傷つく。軍卻く。闔廬創に病み将に死せんとして、太子夫差に謂ひて曰く、「爾、句踐の爾の父を殺ししを忘るるか」と。夫差対へて曰く、「敢て忘れじ」と。是の夕、闔廬死す。夫差既に立ちて王と為り、伯嚭を以て太宰と為し、戦射を習ふ。二年の後、越を伐ち、越を夫湫に敗る。越王句踐乃ち余兵五千人を以て会稽の上に棲み、大夫種をして幣を厚くし呉の太宰嚭に遺りて以て和を請ひ、国を委ねて臣妾と為らんことを求めしむ。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰く、「越王の人と為りは能く辛苦す。今王滅ぼさずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭の計を用ゐ、越と平らぐ。
-
史記 伍子胥列伝其の後四年、呉王将に北のかた斉を伐たんとす。越王句踐、子貢の謀を用ゐ、乃ち其の衆を率ゐて以て呉を助け、而して重宝を以て太宰嚭に献遺す。太宰嚭既に数々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚だしく、日夜呉王の為に言ふ。呉王、嚭の計を信用す。伍子胥諫めて曰く、「夫れ越は腹心の病なり、今其の浮辞詐偽を信じて斉を貪る。斉を破るは、譬へば猶ほ石田のごとし、用ゐる所無し。且つ盤庚の誥に曰く、『顛越不恭有らば、之を劓殄滅し、遺育無からしめ、種を茲の邑に易ふること無からしめよ』と。此れ商の興りし所以なり。願はくは王斉を釈てて越を先にせよ。若し然らずんば、後将に之を悔ゆるも及ぶ無からん」と。而るに呉王聴かず、子胥を斉に使はす。子胥行くに臨み、其の子に謂ひて曰く、「吾数々王を諫むれど、王用ゐず、吾今呉の亡ぶるを見る。汝、呉と倶に亡ぶるは、益無きなり」と。乃ち其の子を斉の鮑牧に属し、還りて呉に報ず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る