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史記 / 楚世家

郢中立王,因與其新王市曰『予我下東國,吾爲王殺太子,不然,將與三國共立之』,然則東國必可得矣。」齊王卒用其相計而歸楚太子。太子橫至,立爲王,是爲頃襄王。乃告于秦曰:「賴社稷神靈,國有王矣。」頃襄王橫元年,秦要懷王不可得地,楚立王以應秦,秦昭王怒,發兵出武關攻楚,大敗楚軍,斬首五萬,取析十五城而去。二年,楚懷王亡逃歸,秦覺之,遮楚道,懷王恐,乃從閒道走趙以求歸。趙主父在代,其子惠王初立,行王事,恐,不敢入楚王。楚王欲走魏,秦追至,遂與秦使復之秦。懷王遂發病。頃襄王三年,懷王卒于秦,秦歸其喪于楚。楚人皆憐之,如悲親戚。諸侯由是不直秦。秦楚絶。六年,秦使白起伐韓於伊闕,大勝,斬首二十四萬。秦乃遺楚王書曰:「楚倍秦,秦且率諸侯伐楚,爭一旦之命。願王之飭士卒,得一樂戰。」楚頃襄王患之,乃謀復與秦平。七年,楚迎婦於秦,秦楚復平。十一年,齊秦各自稱爲帝;月餘,復歸帝爲王。十四年,楚頃襄王與秦昭王好會于宛,結和親。十五年,楚王與秦、三晉、燕共伐齊,取淮北。十六年,與秦昭王好會於鄢。其秋,復與秦王會穰。十八年,楚人有好以弱弓微繳加歸鴈之上者,頃襄王聞,召而問之。

新字:郢中立王,因与其新王市曰『予我下東国,吾為王殺太子,不然,将与三国共立之』,然則東国必可得矣。」斉王卒用其相計而帰楚太子。太子横至,立為王,是為頃襄王。乃告于秦曰:「頼社稷神霊,国有王矣。」頃襄王横元年,秦要懐王不可得地,楚立王以応秦,秦昭王怒,発兵出武関攻楚,大敗楚軍,斬首五万,取析十五城而去。二年,楚懐王亡逃帰,秦覚之,遮楚道,懐王恐,乃従閒道走趙以求帰。趙主父在代,其子恵王初立,行王事,恐,不敢入楚王。楚王欲走魏,秦追至,遂与秦使復之秦。懐王遂発病。頃襄王三年,懐王卒于秦,秦帰其喪于楚。楚人皆憐之,如悲親戚。諸侯由是不直秦。秦楚絶。六年,秦使白起伐韓於伊闕,大勝,斬首二十四万。秦乃遺楚王書曰:「楚倍秦,秦且率諸侯伐楚,争一旦之命。願王之飭士卒,得一楽戦。」楚頃襄王患之,乃謀復与秦平。七年,楚迎婦於秦,秦楚復平。十一年,斉秦各自称為帝;月余,復帰帝為王。十四年,楚頃襄王与秦昭王好会于宛,結和親。十五年,楚王与秦、三晋、燕共伐斉,取淮北。十六年,与秦昭王好会於鄢。其秋,復与秦王会穰。十八年,楚人有好以弱弓微繳加帰鴈之上者,頃襄王聞,召而問之。

書き下し

郢中王を立てば、因りて其の新王と市して曰はん、『我に下東国を予へよ。吾王の為に太子を殺さん。然らずんば、将に三国と共に之を立てんとす』と。然らば則ち東国必ず得べし」と。斉王卒に其の相の計を用ひて楚の太子を帰す。太子横至り、立ちて王と為る。是を頃襄王と為す。乃ち秦に告げて曰く、「社稷の神霊に頼り、国に王有り」と。頃襄王横の元年、秦懐王に要むるも地を得べからず、楚王を立てて以て秦に応ず。秦の昭王怒り、兵を発して武関より出でて楚を攻め、大いに楚の軍を敗り、首を斬ること五万、析十五城を取りて去る。二年、楚の懐王亡げ逃れて帰らんとす。秦之を覚り、楚の道を遮る。懐王恐れ、乃ち間道より趙に走りて以て帰らんことを求む。趙の主父代に在り。其の子恵王初めて立ちて王事を行ふ。恐れて、敢て楚王を入れず。楚王魏に走らんと欲す。秦追ひて至り、遂に秦の使ひと復た秦に之く。懐王遂に病を発す。頃襄王の三年、懐王秦に卒す。秦其の喪を楚に帰す。楚人皆之を憐れみ、親戚を悲しむが如し。諸侯是に由りて秦を直とせず。秦・楚絶つ。六年、秦白起をして韓を伊闕に伐たしめ、大いに勝ち、首を斬ること二十四万。秦乃ち楚王に書を遺りて曰く、「楚秦に倍く。秦且に諸侯を率ゐて楚を伐ち、一旦の命を争はんとす。願はくは王の士卒を飭へ、一たび楽しみて戦ふことを得ん」と。楚の頃襄王之を患ひ、乃ち謀りて復た秦と平らぐ。七年、楚婦を秦に迎へ、秦・楚復た平らぐ。十一年、斉・秦各々自ら称して帝と為る。月余にして、復た帝を帰して王と為る。十四年、楚の頃襄王秦の昭王と宛に好会し、和親を結ぶ。十五年、楚王秦・三晋・燕と共に斉を伐ち、淮北を取る。十六年、秦の昭王と鄢に好会す。其の秋、復た秦王と穣に会す。十八年、楚人に好んで弱弓微繳を以て帰鴈の上に加ふる者有り。頃襄王聞きて、召して之を問ふ。

現代語訳

楚の都で新しい王が立ったなら、その新しい王と取引をして、『わが国に下東国の地を与えよ。そうすれば王のために太子を殺してやろう。さもなければ、三国と共に太子を楚の王に立てるぞ』と言えばよい。そうすれば東国の地は必ず手に入る」。斉王は結局、宰相の意見に従って楚の太子を帰国させた。太子横は楚に着くと、即位して王となった。これが頃襄王である。そこで秦に告げた。「国家の神々のおかげで、わが国には王が立った」。頃襄王横の元年、秦は懐王に土地を要求しても手に入らず、しかも楚が新しい王を立てて秦に対抗したので、秦の昭王は怒り、兵を出して武関から楚を攻め、楚軍を大いに破り、五万の首を斬り、析など十五の城を取って去った。二年、楚の懐王は秦から逃げ出して帰ろうとした。秦はこれに気づいて、楚への道を遮った。懐王は恐れて、抜け道を通って趙に逃れ、そこから帰国しようとした。趙の主父(武霊王)は代にいて、その子の恵王が即位したばかりで政務を執っていたが、秦を恐れて楚王を国に入れようとしなかった。楚王は魏へ逃れようとしたが、秦の追っ手が追いつき、ついに秦の使者とともに再び秦へ連れ戻された。懐王はそのまま病に倒れた。頃襄王の三年、懐王は秦で亡くなった。秦はその遺体を楚に送り返した。楚の人々はみな懐王を哀れみ、自分の肉親を悲しむように嘆いた。諸侯はこれ以来、秦を正しいとは見なさなくなった。秦と楚は国交を断った。六年、秦は白起に伊闕で韓を攻めさせ、大勝して二十四万の首を斬った。秦はそこで楚王に手紙を送って言った。「楚は秦に背いた。秦は諸侯を率いて楚を攻め、一挙に雌雄を決しようと思う。どうか王は兵士を整えて、心ゆくまで一戦を交えようではないか」。楚の頃襄王は恐れて、再び秦と和睦しようと謀った。七年、楚は秦から妻を迎え、秦と楚は再び和睦した。十一年、斉と秦はそれぞれ帝を名乗ったが、一か月余りでまた帝号を取り下げて王に戻した。十四年、楚の頃襄王は秦の昭王と宛で友好の会見をし、和親を結んだ。十五年、楚王は秦・三晋・燕とともに斉を攻め、淮北の地を取った。十六年、秦の昭王と鄢で友好の会見をした。その秋、再び秦王と穣で会見した。十八年、楚の人で、弱い弓と細い糸をつけた矢で、北へ帰る雁を射るのを好む者がいた。頃襄王はそれを聞いて、その者を呼んで話を聞いた。

解説

懐王の悲劇的な最期と、頃襄王の即位を描く段です。斉の宰相は、太子を人質に取り続けることは不義だとし、太子を帰国させて頃襄王として即位させました。秦は怒って楚を攻め、五万の兵を斬ります。懐王は秦から逃げ出しますが、頼った趙は秦を恐れて受け入れず、魏へ向かう途中で連れ戻され、病に倒れて秦で亡くなりました。遺体が帰ると楚の人々は肉親を失ったように悲しみ、諸侯も秦のやり方を非難しました。だまし討ちで得た利は、信頼の損失という大きな代価を秦に支払わせたのです。一方で頃襄王は、父を死に追いやった秦に対して、白起の圧倒的な武力を示されると再び和睦し、秦から妻を迎え、昭王と何度も会見を重ねます。父の仇とも結ばざるをえない小国の悲哀がにじみます。最後に登場する雁を射る男は、次の段で頃襄王を鼓舞する弁舌を振るいます。信義を踏みにじる勝ち方は、長い目で見れば周囲の信頼を失わせるという教訓を、この段は伝えています。

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