史記 / 楚世家
郢中立王,因與其新王市曰『予我下東國,吾爲王殺太子,不然,將與三國共立之』,然則東國必可得矣。」齊王卒用其相計而歸楚太子。太子橫至,立爲王,是爲頃襄王。乃告于秦曰:「賴社稷神靈,國有王矣。」頃襄王橫元年,秦要懷王不可得地,楚立王以應秦,秦昭王怒,發兵出武關攻楚,大敗楚軍,斬首五萬,取析十五城而去。二年,楚懷王亡逃歸,秦覺之,遮楚道,懷王恐,乃從閒道走趙以求歸。趙主父在代,其子惠王初立,行王事,恐,不敢入楚王。楚王欲走魏,秦追至,遂與秦使復之秦。懷王遂發病。頃襄王三年,懷王卒于秦,秦歸其喪于楚。楚人皆憐之,如悲親戚。諸侯由是不直秦。秦楚絶。六年,秦使白起伐韓於伊闕,大勝,斬首二十四萬。秦乃遺楚王書曰:「楚倍秦,秦且率諸侯伐楚,爭一旦之命。願王之飭士卒,得一樂戰。」楚頃襄王患之,乃謀復與秦平。七年,楚迎婦於秦,秦楚復平。十一年,齊秦各自稱爲帝;月餘,復歸帝爲王。十四年,楚頃襄王與秦昭王好會于宛,結和親。十五年,楚王與秦、三晉、燕共伐齊,取淮北。十六年,與秦昭王好會於鄢。其秋,復與秦王會穰。十八年,楚人有好以弱弓微繳加歸鴈之上者,頃襄王聞,召而問之。
新字:郢中立王,因与其新王市曰『予我下東国,吾為王殺太子,不然,将与三国共立之』,然則東国必可得矣。」斉王卒用其相計而帰楚太子。太子横至,立為王,是為頃襄王。乃告于秦曰:「頼社稷神霊,国有王矣。」頃襄王横元年,秦要懐王不可得地,楚立王以応秦,秦昭王怒,発兵出武関攻楚,大敗楚軍,斬首五万,取析十五城而去。二年,楚懐王亡逃帰,秦覚之,遮楚道,懐王恐,乃従閒道走趙以求帰。趙主父在代,其子恵王初立,行王事,恐,不敢入楚王。楚王欲走魏,秦追至,遂与秦使復之秦。懐王遂発病。頃襄王三年,懐王卒于秦,秦帰其喪于楚。楚人皆憐之,如悲親戚。諸侯由是不直秦。秦楚絶。六年,秦使白起伐韓於伊闕,大勝,斬首二十四万。秦乃遺楚王書曰:「楚倍秦,秦且率諸侯伐楚,争一旦之命。願王之飭士卒,得一楽戦。」楚頃襄王患之,乃謀復与秦平。七年,楚迎婦於秦,秦楚復平。十一年,斉秦各自称為帝;月余,復帰帝為王。十四年,楚頃襄王与秦昭王好会于宛,結和親。十五年,楚王与秦、三晋、燕共伐斉,取淮北。十六年,与秦昭王好会於鄢。其秋,復与秦王会穰。十八年,楚人有好以弱弓微繳加帰鴈之上者,頃襄王聞,召而問之。
書き下し
郢中王を立てば、因りて其の新王と市して曰はん、『我に下東国を予へよ。吾王の為に太子を殺さん。然らずんば、将に三国と共に之を立てんとす』と。然らば則ち東国必ず得べし」と。斉王卒に其の相の計を用ひて楚の太子を帰す。太子横至り、立ちて王と為る。是を頃襄王と為す。乃ち秦に告げて曰く、「社稷の神霊に頼り、国に王有り」と。頃襄王横の元年、秦懐王に要むるも地を得べからず、楚王を立てて以て秦に応ず。秦の昭王怒り、兵を発して武関より出でて楚を攻め、大いに楚の軍を敗り、首を斬ること五万、析十五城を取りて去る。二年、楚の懐王亡げ逃れて帰らんとす。秦之を覚り、楚の道を遮る。懐王恐れ、乃ち間道より趙に走りて以て帰らんことを求む。趙の主父代に在り。其の子恵王初めて立ちて王事を行ふ。恐れて、敢て楚王を入れず。楚王魏に走らんと欲す。秦追ひて至り、遂に秦の使ひと復た秦に之く。懐王遂に病を発す。頃襄王の三年、懐王秦に卒す。秦其の喪を楚に帰す。楚人皆之を憐れみ、親戚を悲しむが如し。諸侯是に由りて秦を直とせず。秦・楚絶つ。六年、秦白起をして韓を伊闕に伐たしめ、大いに勝ち、首を斬ること二十四万。秦乃ち楚王に書を遺りて曰く、「楚秦に倍く。秦且に諸侯を率ゐて楚を伐ち、一旦の命を争はんとす。願はくは王の士卒を飭へ、一たび楽しみて戦ふことを得ん」と。楚の頃襄王之を患ひ、乃ち謀りて復た秦と平らぐ。七年、楚婦を秦に迎へ、秦・楚復た平らぐ。十一年、斉・秦各々自ら称して帝と為る。月余にして、復た帝を帰して王と為る。十四年、楚の頃襄王秦の昭王と宛に好会し、和親を結ぶ。十五年、楚王秦・三晋・燕と共に斉を伐ち、淮北を取る。十六年、秦の昭王と鄢に好会す。其の秋、復た秦王と穣に会す。十八年、楚人に好んで弱弓微繳を以て帰鴈の上に加ふる者有り。頃襄王聞きて、召して之を問ふ。
現代語訳
楚の都で新しい王が立ったなら、その新しい王と取引をして、『わが国に下東国の地を与えよ。そうすれば王のために太子を殺してやろう。さもなければ、三国と共に太子を楚の王に立てるぞ』と言えばよい。そうすれば東国の地は必ず手に入る」。斉王は結局、宰相の意見に従って楚の太子を帰国させた。太子横は楚に着くと、即位して王となった。これが頃襄王である。そこで秦に告げた。「国家の神々のおかげで、わが国には王が立った」。頃襄王横の元年、秦は懐王に土地を要求しても手に入らず、しかも楚が新しい王を立てて秦に対抗したので、秦の昭王は怒り、兵を出して武関から楚を攻め、楚軍を大いに破り、五万の首を斬り、析など十五の城を取って去った。二年、楚の懐王は秦から逃げ出して帰ろうとした。秦はこれに気づいて、楚への道を遮った。懐王は恐れて、抜け道を通って趙に逃れ、そこから帰国しようとした。趙の主父(武霊王)は代にいて、その子の恵王が即位したばかりで政務を執っていたが、秦を恐れて楚王を国に入れようとしなかった。楚王は魏へ逃れようとしたが、秦の追っ手が追いつき、ついに秦の使者とともに再び秦へ連れ戻された。懐王はそのまま病に倒れた。頃襄王の三年、懐王は秦で亡くなった。秦はその遺体を楚に送り返した。楚の人々はみな懐王を哀れみ、自分の肉親を悲しむように嘆いた。諸侯はこれ以来、秦を正しいとは見なさなくなった。秦と楚は国交を断った。六年、秦は白起に伊闕で韓を攻めさせ、大勝して二十四万の首を斬った。秦はそこで楚王に手紙を送って言った。「楚は秦に背いた。秦は諸侯を率いて楚を攻め、一挙に雌雄を決しようと思う。どうか王は兵士を整えて、心ゆくまで一戦を交えようではないか」。楚の頃襄王は恐れて、再び秦と和睦しようと謀った。七年、楚は秦から妻を迎え、秦と楚は再び和睦した。十一年、斉と秦はそれぞれ帝を名乗ったが、一か月余りでまた帝号を取り下げて王に戻した。十四年、楚の頃襄王は秦の昭王と宛で友好の会見をし、和親を結んだ。十五年、楚王は秦・三晋・燕とともに斉を攻め、淮北の地を取った。十六年、秦の昭王と鄢で友好の会見をした。その秋、再び秦王と穣で会見した。十八年、楚の人で、弱い弓と細い糸をつけた矢で、北へ帰る雁を射るのを好む者がいた。頃襄王はそれを聞いて、その者を呼んで話を聞いた。
解説
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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史記 楚世家太子寡人の重臣を陵殺し、謝せずして亡げ去る。寡人誠に怒りに勝へず、兵をして君王の辺を侵さしむ。今聞く、君王乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求むと。寡人楚と境を接し界を壌(つら)ぬ。故に婚姻を為し、相親しむ所従(よ)りて久し。而るに今秦・楚驩しからずんば、則ち以て諸侯に令する無し。寡人願はくは君王と武関に会し、面して相約し、盟を結びて去らん。寡人の願ひなり。敢て以て下執事に聞す」と。楚の懐王秦王の書を見て、之を患ふ。往かんと欲すれば、欺かれんことを恐る。往くこと無からんとすれば、秦の怒らんことを恐る。昭雎曰く、「王行くこと毋かれ。而して兵を発して自ら守らんのみ。秦は虎狼なり。信ずべからず。諸侯を并するの心有り」と。懐王の子子蘭王に行かんことを勧めて曰く、「奈何ぞ秦の驩心を絶たん」と。是に於て往きて秦の昭王に会す。昭王詐りて一将軍をして兵を武関に伏せしめ、号して秦王と為す。楚王至れば、則ち武関を閉ぢ、遂に与に西のかた咸陽に至り、章台に朝せしむること、蕃臣の如くし、与に亢礼せず。楚の懐王大いに怒り、昭子の言を用ひざりしを悔ゆ。秦因りて楚王を留め、要むるに巫・黔中の郡を割くを以てす。楚王盟はんと欲するも、秦先づ地を得んと欲す。楚王怒りて曰く、「秦我を詐りて又彊ひて我に要むるに地を以てす」と。復た秦に許さず。秦因りて之を留む。楚の大臣之を患ひ、乃ち相与に謀りて曰く、「吾が王秦に在りて還るを得ず、要むるに割地を以てす。而して太子斉に質為り。斉・秦謀を合はせば、則ち楚国無からん」と。乃ち懐王の子の国に在る者を立てんと欲す。昭雎曰く、「王と太子と倶に諸侯に困しむ。而るに今又王命に倍きて其の庶子を立つるは、宜しからず」と。乃ち詐りて斉に赴す。斉の湣王其の相に謂ひて曰く、「太子を留めて以て楚の淮北を求むるに若かず」と。相曰く、「不可なり。郢中王を立てば、是れ吾空質を抱きて不義を天下に行ふなり」と。或ひと曰く、「然らず。
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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史記 楚世家二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。復た秦と平らぎ、而して太子を入れて秦に質たらしむ。楚左徒をして太子に秦に侍せしむ。三十六年、頃襄王病む。太子亡げ帰る。秋、頃襄王卒し、太子熊元代はり立つ。是を考烈王と為す。考烈王左徒を以て令尹と為し、封ずるに呉を以てし、春申君と号す。考烈王の元年、州を秦に納れて以て平らぐ。是の時楚益々弱し。六年、秦邯鄲を囲む。趙急を楚に告ぐ。楚将軍景陽を遣りて趙を救はしむ。七年、新中に至る。秦の兵去る。十二年、秦の昭王卒す。楚王春申君をして秦に弔祠せしむ。十六年、秦の荘襄王卒し、秦王趙政立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐ち、利あらずして去る。楚東のかた都を寿春に徙し、命じて郢と曰ふ。二十五年、考烈王卒し、子の幽王悍立つ。李園春申君を殺す。幽王の三年、秦・魏楚を伐つ。秦の相呂不韋卒す。九年、秦韓を滅ぼす。十年、幽王卒し、同母弟の猶代はり立つ。是を哀王と為す。哀王立ちて二月余、哀王の庶兄負芻の徒哀王を襲殺して負芻を立てて王と為す。是の歳、秦趙王遷を虜にす。王負芻の元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ。二年、秦将軍をして楚を伐たしめ、大いに楚の軍を破り、十余城を亡ふ。三年、秦魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦我が軍を蘄に破り、而して将軍項燕を殺す。五年、秦の将王翦・蒙武遂に楚国を破り、楚王負芻を虜にし、楚の名を滅ぼして郡と為すと云ふ。太史公曰く、楚の霊王方に諸侯を申に会し、斉の慶封を誅し、章華台を作り、周の九鼎を求むるの時、志は天下を小とす。申亥の家に餓死するに及びて、天下の笑ひと為る。操行の得ざる、悲しいかな。勢ひの人に於けるや、慎まざるべけんや。棄疾乱を以て立ち、秦の女に嬖淫す。甚だしいかな、幾ど再び国を亡ぼさんとす。
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戦国策・頃襄王二十年頃襄王二十年、秦の白起楚の西陵を拔き、或は鄢・郢・夷陵を拔き、先王の墓を燒く。王東北に徙り、陳城に保つ、楚遂に削弱し、秦の輕んずる所と爲る。是に於て白起又兵を將ゐて來り伐たんとす。楚人に黃歇なる者有り、游學博聞、襄王以て辯と爲す、故に秦に使す。昭王に說きて曰く、「天下秦・楚より強きは莫し、今大王楚を伐たんと欲すと聞く、此れ猶ほ兩虎相鬥ひて駑犬其の弊を受くるがごとし、楚に善くするに如かず。臣請ふ其の說を言はん。臣之を聞く、『物至れば反る、冬夏是れなり。致りて至れば危ふし、累碁是れなり』と。今大國の地天下に半ばし、二垂有り、此れ生民以來、萬乘の地未だ嘗て有らざるなり。先帝文王・莊王、王の身、三世にして齊に地を接せず、以て從親の要を絕つ。今王三たび盛橋をして韓に事を守らしめ、成橋以北燕に入る。是れ王甲を用ゐず、威を伸べずして、百里の地を出だす、王能と謂ふ可し。王又甲兵を舉げて魏を攻め、大梁の門を杜(ふさ)ぎ、河內を舉げ、燕・酸棗・虛・桃人を拔き、楚・燕の兵云翔して敢へて校せず、王の功亦た多し。王眾を申息すること二年、然る後之を復し、又蒲・衍・首垣を取り、以て仁・平兵に臨み、小黃・濟陽城を嬰(めぐ)らし、魏氏服せり。王又濮・磨の北を割きて之を燕に屬し、齊・秦の要を斷ち、楚・魏の脊を絕つ。天下五たび合し六たび聚まるも敢へて救はず、王の威亦た憚らる。王若し能く功を持し威を守り、攻伐の心を省きて仁義の誡を肥やし、復た後患無からしめば、三王も四に足らず、五伯も六に足らざらん。「王若し人徒の眾きを負み、兵甲の強きを材とし、壹に魏氏の威を毀ちて、力を以て天下の主に臣たらしめんと欲せば、臣恐らくは後患有らん。詩に云ふ、『初め有らざる靡く、克く終り有ること鮮し』と。易に曰く、『狐其の尾を濡らす』と。此れ始の易くして、終の難きを言ふなり。何を以て其の然るを知るや。智氏趙を伐つの利を見て、榆次の禍を知らざりき。吳齊を伐つの便を見て、干隧の敗を知らざりき。此の二國は、大功無きに非ざるなり、利を前に設けて、患を後に易くするなり。呉の越を信ずるや、從ひて齊を伐ち、既に齊人に艾陵に勝ちしも、還りて越王の爲に三江の浦に禽にせられたり。智氏韓・魏を信じ、從ひて趙を伐ち、晉陽の城を攻め、勝つこと日有らんとせしに、韓・魏之に反き、智伯瑤を鑿臺の上に殺せり。今王楚の毀たれざるを妒みて、楚を毀ちて魏を強くするを忘る。臣大王の爲に慮りて取らざるなり。詩に云ふ、『大武は遠宅に涉らず』と。此より之を觀れば、楚國は、援なり。鄰國は、敵なり。詩に云ふ、『他人心有り、予之を忖度す。躍躍たる毚兔、犬に遇ひて獲らる』と。今王中道にして韓・魏の王を善くするを信ず、此れ正に呉の越を信ずるなり。臣聞く、敵は易(あなど)る可からず、時は失ふ可からず、と。臣恐らくは韓・魏の辭を卑くして患を慮るは、實に大國を欺くならん。此れ何ぞや。王既に重世の德韓・魏に無くして、累世の怨有ればなり。韓・魏の父子兄弟踵を接して秦に死する者、百世なり。本國殘れ、社稷壞れ、宗廟隳(こぼ)たれ、腹を刳られ頤を折られ、首身分離し、骨を草澤に暴し、頭顱僵仆し、相ひ境に望み、父子老弱係虜せられて、相ひ路に隨ひ、鬼神狐祥食する所無く、百姓聊生せず、族類離散し、流亡して臣妾と爲る者、海內に滿つ。韓・魏の亡びざるは、秦社稷の憂ひなり。今王の楚を攻むる、亦た失(あやま)たざらんや。是れ王楚を攻むるの日、則ち惡(いづ)くにか兵を出ださん。王將に路を仇讎の韓・魏に藉らんとするか。兵出づるの日にして王其の反らざるを憂へば、是れ王兵を以て仇讎の韓・魏に資するなり。王若し路を仇讎の韓・魏に藉らずんば、必ず陽・右壤を攻めん。陽・右壤に隨へば、此れ皆廣川大水、山林谿谷の不食の地なり、王之を有すと雖も、地を得たりと爲さず。是れ王楚を毀つの名有りて、地を得るの實無きなり。「且つ王楚を攻むるの日、四國必ず應じて悉く起ちて王に應ぜん。秦・楚の構へて離れざるに、魏氏將に兵を出だして留・方與・銍・胡陵・碭・蕭・相を攻めんとし、故宋必ず盡きん。齊人南面し、泗北必ず舉げん。此れ皆平原四達、膏腴の地なり、而して王之をして獨り攻めしむ。王楚を破りて以て韓・魏を中國に肥やして齊を勁からしめば、韓・魏の強きは以て秦に校するに足らん。齊南は泗を以て境と爲し、東は海を負ひ、北は河に倚りて、後患無し、天下の國、齊より強きは莫し。齊・魏地を得て利を葆(たも)ち、詳らかに下吏に事へしめば、一年の後、帝と爲ること未だ能はざるが若きも、以て王の帝と爲るを禁ずるに餘り有らん。夫れ王の壤土の博きを以て、人徒の眾きを以て、兵革の強きを以て、一たび眾を舉げて地を楚に注ぎ、令を韓・魏に詘し、帝の重きを齊に歸せしむるは、是れ王の計を失ふなり。「臣王の爲に慮るに、楚に善くするに如くは莫し。秦・楚合して一と爲り、臨むに韓を以てせば、韓必ず首を授けん。王襟とするに山東の險を以てし、帶とするに河曲の利を以てせば、韓必ず關中の候たらん。是くの若くならば、王十を以て鄭を成し、梁氏心を寒くし、許・鄢陵城を嬰らし、上蔡・召陵往來せざらん。此くの如くならば、魏も亦た關內の候たらん。王一たび楚に善くせば、關內の二萬乘の主齊に地を注ぎ、齊の右壤拱手して取る可し。是れ王の地一に兩海を任じ、天下を要絕するなり。是れ燕・趙齊・楚無くんば、燕・趙無きなり。然る後燕・趙を危動し、齊・楚を持せば、此の四國は、痛みを待たずして服せん。」
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史記 秦本紀十三年、向寿韓を伐ち、武始を取る。左更白起新城を攻む。五大夫礼出でて亡げて魏に奔る。任鄙漢中の守と為る。十四年、左更白起韓・魏を伊闕に攻め、首を斬ること二十四万、公孫喜を虜にし、五城を抜く。十五年、大良造白起魏を攻め、垣を取り、復た之を予ふ。楚を攻め、宛を取る。十六年、左更錯軹及び鄧を取る。冉免ぜらる。公子市を宛に、公子悝を鄧に、魏冉を陶に封じ、諸侯と為す。十七年、城陽君入朝し、及び東周君来朝す。秦垣を以て蒲阪・皮氏と為す。王宜陽に之く。十八年、錯垣・河雍を攻め、橋を決して之を取る。十九年、王西帝と為り、斉東帝と為る。皆復た之を去る。呂礼来たりて自ら帰す。斉宋を破り、宋王魏に在りて、温に死す。任鄙卒す。二十年、王漢中に之き、又上郡・北河に之く。二十一年、錯魏の河内を攻む。魏安邑を献ず。秦其の人を出だし、河東に募り徙して爵を賜ひ、罪人を赦して之に遷す。涇陽君宛に封ぜらる。二十二年、蒙武斉を伐つ。河東を九県と為す。楚王と宛に会す。趙王と中陽に会す。二十三年、尉斯離三晋・燕と斉を伐ち、之を済西に破る。王魏王と宜陽に会し、韓王と新城に会す。二十四年、楚王と鄢に会し、又穣に会す。秦魏の安城を取り、大梁に至る。燕・趙之を救ひ、秦の軍去る。魏冉相を免ぜらる。二十五年、趙の二城を抜く。韓王と新城に会し、魏王と新明邑に会す。二十六年、罪人を赦して之を穣に遷す。侯冉復た相たり。二十七年、錯楚を攻む。罪人を赦して之を南陽に遷す。白起趙を攻め、代の光狼城を取る。又司馬錯をして隴西より発し、蜀に因りて楚の黔中を攻めしめ、之を抜く。二十八年、大良造白起楚を攻め、鄢・鄧を取り、罪人を赦して之に遷す。
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