史記 / 楚世家
韓嘗以二十萬之衆辱於晉之城下,鋭士死,中士傷,而晉不拔。公之無百韓以圖周,此天下之所知也。夫怨結兩周以塞騶魯之心,交絶於齊,聲失天下,其爲事危矣。夫危兩周以厚三川,方城之外必爲韓弱矣。何以知其然也?西周之地,絶長補短,不過百里。名爲天下共主,裂其地不足以肥國,得其衆不足以勁兵。雖無攻之,名爲弒君。然而好事之君,喜攻之臣,發號用兵,未嘗不以周爲終始。是何也?見祭器在焉,欲器之至而忘弒君之亂。今韓以器之在楚,臣恐天下以器讎楚也。臣請譬之。夫虎肉臊,其兵利身,人猶攻之也。若使澤中之麋蒙虎之皮,人之攻之必萬於虎矣。裂楚之地,足以肥國;詘楚之名,足以尊主。今子將以欲誅殘天下之共主,居三代之傳器,呑三翮六翼,以髙世主,非貪而何?《周書》曰『欲起無先』,故器南則兵至矣。」於是楚計輟不行。十九年,秦伐楚,楚軍敗,割上庸、漢北地予秦。二十年,秦將白起拔我西陵。二十一年,秦將白起遂拔我郢,燒先王墓夷陵。楚襄王兵散,遂不復戰,東北保於陳城。二十二年,秦復拔我巫、黔中郡。二十三年,襄王乃收東地兵,得十餘萬,復西取秦所拔我江旁十五邑以爲郡,距秦。
新字:韓嘗以二十万之衆辱於晋之城下,鋭士死,中士傷,而晋不抜。公之無百韓以図周,此天下之所知也。夫怨結両周以塞騶魯之心,交絶於斉,声失天下,其為事危矣。夫危両周以厚三川,方城之外必為韓弱矣。何以知其然也?西周之地,絶長補短,不過百里。名為天下共主,裂其地不足以肥国,得其衆不足以勁兵。雖無攻之,名為弒君。然而好事之君,喜攻之臣,発号用兵,未嘗不以周為終始。是何也?見祭器在焉,欲器之至而忘弒君之乱。今韓以器之在楚,臣恐天下以器讎楚也。臣請譬之。夫虎肉臊,其兵利身,人猶攻之也。若使沢中之麋蒙虎之皮,人之攻之必万於虎矣。裂楚之地,足以肥国;詘楚之名,足以尊主。今子将以欲誅残天下之共主,居三代之伝器,呑三翮六翼,以高世主,非貪而何?《周書》曰『欲起無先』,故器南則兵至矣。」於是楚計輟不行。十九年,秦伐楚,楚軍敗,割上庸、漢北地予秦。二十年,秦将白起抜我西陵。二十一年,秦将白起遂抜我郢,焼先王墓夷陵。楚襄王兵散,遂不復戦,東北保於陳城。二十二年,秦復抜我巫、黔中郡。二十三年,襄王乃収東地兵,得十余万,復西取秦所抜我江旁十五邑以為郡,距秦。
書き下し
韓嘗て二十万の衆を以て晋の城下に辱めらる。鋭士死し、中士傷つき、而して晋抜けず。公の百韓無くして以て周を図るは、此れ天下の知る所なり。夫れ怨みを両周に結びて以て騶・魯の心を塞ぎ、交はりを斉に絶ち、声を天下に失はば、其の事を為すこと危ふし。夫れ両周を危ふくして以て三川を厚くせば、方城の外必ず韓の為に弱められん。何を以て其の然るを知る。西周の地は、長きを絶ちて短きを補ふも、百里に過ぎず。名は天下の共主為るも、其の地を裂くも以て国を肥やすに足らず、其の衆を得るも以て兵を勁くするに足らず。之を攻むること無しと雖も、名は君を弑すと為す。然り而して事を好むの君、攻むるを喜ぶの臣、号を発し兵を用ふるに、未だ嘗て周を以て終始と為さざるはあらず。是れ何ぞや。祭器の焉に在るを見て、器の至らんことを欲して君を弑するの乱を忘るればなり。今韓器の楚に在るを以て、臣恐らくは天下器を以て楚を讎とせん。臣請ふ之を譬へん。夫れ虎の肉は臊く、其の兵は身を利す。人猶ほ之を攻む。若し沢中の麋をして虎の皮を蒙らしめば、人の之を攻むること必ず虎に万せん。楚の地を裂かば、以て国を肥やすに足り、楚の名を詘(くじ)かば、以て主を尊ぶに足る。今子将に以て天下の共主を誅残し、三代の伝器に居り、三翮六翼を呑みて、以て世主に高ぶらんと欲す。貪に非ずして何ぞ。周書に曰く『起たんと欲して先んずること無かれ』と。故に器南すれば則ち兵至らん」と。是に於て楚の計輟みて行はれず。十九年、秦楚を伐つ。楚の軍敗れ、上庸・漢北の地を割きて秦に予ふ。二十年、秦の将白起我が西陵を抜く。二十一年、秦の将白起遂に我が郢を抜き、先王の墓夷陵を焼く。楚の襄王の兵散じ、遂に復た戦はず、東北のかた陳城に保つ。二十二年、秦復た我が巫・黔中郡を抜く。二十三年、襄王乃ち東地の兵を収め、十余万を得て、復た西のかた秦の抜く所の我が江旁の十五邑を取りて以て郡と為し、秦を距ぐ。
現代語訳
韓はかつて二十万の兵で晋の城の下で恥をかいた。精鋭は死に、並みの兵も傷つき、それでも晋の城は落ちなかった。あなたが韓の百倍の力も持たずに周を狙おうとしていることは、天下の誰もが知っている。東西両周と恨みを結び、騶や魯の人々の心を閉ざさせ、斉とは交わりを絶ち、天下での評判を失えば、事を進めるのは危うい。両周を危うくして三川の地を肥やせば、方城の外の楚の地は、必ず韓によって弱められるだろう。どうしてそうなるとわかるのか。西周の土地は、長いところを削って短いところを補っても、百里四方にすぎない。名目上は天下共通の主であるが、その土地を割き取っても国を肥やすには足りず、その民を得ても兵を強くするには足りない。たとえ実際に攻めなくても、狙っただけで君主殺しの汚名を着る。それなのに、事を好む君主や戦を好む臣下が号令を発して兵を動かすとき、必ず周を目当てにしてきたのはなぜか。周に祭器があるのを見て、それを手に入れたいあまり、君主殺しの罪を忘れてしまうからだ。いま韓は、祭器が楚に移れば、天下の人々が祭器を理由に楚を仇とするのではないかと恐れている。一つたとえ話をさせていただきたい。虎の肉は生臭く、しかも鋭い爪や牙で身を守っている。それでも人は虎を狩ろうとする。もし沢に住む大鹿に虎の皮をかぶせたら、人が狩ろうとする数は虎の一万倍にもなるだろう。楚の土地を割き取れば国を肥やすことができ、楚の名声をくじけば自国の君主を尊くすることができる。いまあなたは、天下共通の主を殺して傷つけ、夏・殷・周三代から伝わる宝器を手元に置き、九鼎を飲み込んで、世の君主たちの上に立とうとしている。これが貪欲でなくて何であろう。『周書』に『事を起こそうとするなら、先頭に立ってはならない』とある。だから宝器が南の楚に移れば、天下の兵が楚に押し寄せるだろう」。そこで楚の計画は取りやめとなり、実行されなかった。十九年、秦が楚を攻め、楚軍は敗れ、上庸と漢水の北の地を割いて秦に与えた。二十年、秦の将軍白起が楚の西陵を落とした。二十一年、秦の将軍白起はついに楚の都の郢を落とし、先王の墓所である夷陵を焼いた。楚の襄王の兵は散り散りになり、もはや戦うことができず、東北の陳の城に逃れて立てこもった。二十二年、秦はさらに楚の巫郡と黔中郡を落とした。二十三年、襄王は東方の地の兵を集めて十余万を得て、再び西へ向かい、秦に奪われた長江沿いの十五の邑を取り戻して郡とし、秦を防いだ。
解説
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史記 楚世家今秦韓を破りて以て長憂と為し、列城を得るも敢て守らず。魏を伐ちて功無く、趙を撃ちて顧って病む。則ち秦・魏の勇力屈せり。楚の故地漢中・析・酈得て復た有つべきなり。王宝弓を出だし、新繳を碆み、鄳塞を渉りて、秦の倦むを待たば、山東・河内得て一にすべきなり。民を労ひ衆を休め、南面して王と称せん。故に曰く、秦は大鳥為り。海内を負ひて処り、東面して立ち、左臂は趙の西南に拠り、右臂は楚の鄢郢に傅き、膺は韓・魏を撃ち、頭を中国に垂る。処既に形便にして、勢ひ地の利有り。翼を奮ひ鶴を鼓すること、方三千里なり。則ち秦は未だ独り招きて夜射るを得べからざるなり」と。以て襄王を激怒せしめんと欲す。故に対ふるに此の言を以てす。襄王因りて召して与に語る。遂に言ひて曰く、「夫れ先王秦の欺く所と為りて外に客死す。怨み焉より大なるは莫し。今匹夫の怨み有るを以てすら、尚ほ万乗に報ゆる有り。白公・子胥是なり。今楚の地は方五千里、帯甲百万、猶ほ以て中野に踴躍するに足る。而るに坐して困しみを受く。臣窃かに大王の為に取らざるなり」と。是に於て頃襄王使ひを諸侯に遣り、復た従を為し、以て秦を伐たんと欲す。秦之を聞き、兵を発して来たりて楚を伐つ。楚斉・韓と連和して秦を伐ち、因りて周を図らんと欲す。周王赧武公をして楚の相昭子に謂はしめて曰く、「三国兵を以て周の郊地を割きて以て輸に便にし、而して器を南にして以て楚を尊ばんとす。臣以て然らずと為す。夫れ共主を弑し、世君を臣とせば、大国親しまず。衆を以て寡を脅かさば、小国附かず。大国親しまず、小国附かずんば、以て名実を致すべからず。名実得ずんば、以て民を傷つくるに足らず。夫れ周を図るの声有るは、号を為す所以に非ざるなり」と。昭子曰く、「乃ち周を図るは則ち之無し。然りと雖も、周何の故に図るべからざる」と。対へて曰く、「軍五ならずんば攻めず、城十ならずんば囲まず。夫れ一周は二十晋為り。公の知る所なり。
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戦国策・頃襄王二十年頃襄王二十年、秦の白起楚の西陵を拔き、或は鄢・郢・夷陵を拔き、先王の墓を燒く。王東北に徙り、陳城に保つ、楚遂に削弱し、秦の輕んずる所と爲る。是に於て白起又兵を將ゐて來り伐たんとす。楚人に黃歇なる者有り、游學博聞、襄王以て辯と爲す、故に秦に使す。昭王に說きて曰く、「天下秦・楚より強きは莫し、今大王楚を伐たんと欲すと聞く、此れ猶ほ兩虎相鬥ひて駑犬其の弊を受くるがごとし、楚に善くするに如かず。臣請ふ其の說を言はん。臣之を聞く、『物至れば反る、冬夏是れなり。致りて至れば危ふし、累碁是れなり』と。今大國の地天下に半ばし、二垂有り、此れ生民以來、萬乘の地未だ嘗て有らざるなり。先帝文王・莊王、王の身、三世にして齊に地を接せず、以て從親の要を絕つ。今王三たび盛橋をして韓に事を守らしめ、成橋以北燕に入る。是れ王甲を用ゐず、威を伸べずして、百里の地を出だす、王能と謂ふ可し。王又甲兵を舉げて魏を攻め、大梁の門を杜(ふさ)ぎ、河內を舉げ、燕・酸棗・虛・桃人を拔き、楚・燕の兵云翔して敢へて校せず、王の功亦た多し。王眾を申息すること二年、然る後之を復し、又蒲・衍・首垣を取り、以て仁・平兵に臨み、小黃・濟陽城を嬰(めぐ)らし、魏氏服せり。王又濮・磨の北を割きて之を燕に屬し、齊・秦の要を斷ち、楚・魏の脊を絕つ。天下五たび合し六たび聚まるも敢へて救はず、王の威亦た憚らる。王若し能く功を持し威を守り、攻伐の心を省きて仁義の誡を肥やし、復た後患無からしめば、三王も四に足らず、五伯も六に足らざらん。「王若し人徒の眾きを負み、兵甲の強きを材とし、壹に魏氏の威を毀ちて、力を以て天下の主に臣たらしめんと欲せば、臣恐らくは後患有らん。詩に云ふ、『初め有らざる靡く、克く終り有ること鮮し』と。易に曰く、『狐其の尾を濡らす』と。此れ始の易くして、終の難きを言ふなり。何を以て其の然るを知るや。智氏趙を伐つの利を見て、榆次の禍を知らざりき。吳齊を伐つの便を見て、干隧の敗を知らざりき。此の二國は、大功無きに非ざるなり、利を前に設けて、患を後に易くするなり。呉の越を信ずるや、從ひて齊を伐ち、既に齊人に艾陵に勝ちしも、還りて越王の爲に三江の浦に禽にせられたり。智氏韓・魏を信じ、從ひて趙を伐ち、晉陽の城を攻め、勝つこと日有らんとせしに、韓・魏之に反き、智伯瑤を鑿臺の上に殺せり。今王楚の毀たれざるを妒みて、楚を毀ちて魏を強くするを忘る。臣大王の爲に慮りて取らざるなり。詩に云ふ、『大武は遠宅に涉らず』と。此より之を觀れば、楚國は、援なり。鄰國は、敵なり。詩に云ふ、『他人心有り、予之を忖度す。躍躍たる毚兔、犬に遇ひて獲らる』と。今王中道にして韓・魏の王を善くするを信ず、此れ正に呉の越を信ずるなり。臣聞く、敵は易(あなど)る可からず、時は失ふ可からず、と。臣恐らくは韓・魏の辭を卑くして患を慮るは、實に大國を欺くならん。此れ何ぞや。王既に重世の德韓・魏に無くして、累世の怨有ればなり。韓・魏の父子兄弟踵を接して秦に死する者、百世なり。本國殘れ、社稷壞れ、宗廟隳(こぼ)たれ、腹を刳られ頤を折られ、首身分離し、骨を草澤に暴し、頭顱僵仆し、相ひ境に望み、父子老弱係虜せられて、相ひ路に隨ひ、鬼神狐祥食する所無く、百姓聊生せず、族類離散し、流亡して臣妾と爲る者、海內に滿つ。韓・魏の亡びざるは、秦社稷の憂ひなり。今王の楚を攻むる、亦た失(あやま)たざらんや。是れ王楚を攻むるの日、則ち惡(いづ)くにか兵を出ださん。王將に路を仇讎の韓・魏に藉らんとするか。兵出づるの日にして王其の反らざるを憂へば、是れ王兵を以て仇讎の韓・魏に資するなり。王若し路を仇讎の韓・魏に藉らずんば、必ず陽・右壤を攻めん。陽・右壤に隨へば、此れ皆廣川大水、山林谿谷の不食の地なり、王之を有すと雖も、地を得たりと爲さず。是れ王楚を毀つの名有りて、地を得るの實無きなり。「且つ王楚を攻むるの日、四國必ず應じて悉く起ちて王に應ぜん。秦・楚の構へて離れざるに、魏氏將に兵を出だして留・方與・銍・胡陵・碭・蕭・相を攻めんとし、故宋必ず盡きん。齊人南面し、泗北必ず舉げん。此れ皆平原四達、膏腴の地なり、而して王之をして獨り攻めしむ。王楚を破りて以て韓・魏を中國に肥やして齊を勁からしめば、韓・魏の強きは以て秦に校するに足らん。齊南は泗を以て境と爲し、東は海を負ひ、北は河に倚りて、後患無し、天下の國、齊より強きは莫し。齊・魏地を得て利を葆(たも)ち、詳らかに下吏に事へしめば、一年の後、帝と爲ること未だ能はざるが若きも、以て王の帝と爲るを禁ずるに餘り有らん。夫れ王の壤土の博きを以て、人徒の眾きを以て、兵革の強きを以て、一たび眾を舉げて地を楚に注ぎ、令を韓・魏に詘し、帝の重きを齊に歸せしむるは、是れ王の計を失ふなり。「臣王の爲に慮るに、楚に善くするに如くは莫し。秦・楚合して一と爲り、臨むに韓を以てせば、韓必ず首を授けん。王襟とするに山東の險を以てし、帶とするに河曲の利を以てせば、韓必ず關中の候たらん。是くの若くならば、王十を以て鄭を成し、梁氏心を寒くし、許・鄢陵城を嬰らし、上蔡・召陵往來せざらん。此くの如くならば、魏も亦た關內の候たらん。王一たび楚に善くせば、關內の二萬乘の主齊に地を注ぎ、齊の右壤拱手して取る可し。是れ王の地一に兩海を任じ、天下を要絕するなり。是れ燕・趙齊・楚無くんば、燕・趙無きなり。然る後燕・趙を危動し、齊・楚を持せば、此の四國は、痛みを待たずして服せん。」
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史記 周本紀周其の解く可からざるを知らば、必ず秦に入らん。此れ秦の為に周を取るの精なる者なり。王の為に計る者は、周秦に於てするも因りて之を善しとし、秦に於てせざるも亦之を善しと言ひ、以て之を秦に疏ならしめん。周秦に絶たば、必ず郢に入らん」と。秦道を両周の間に借り、将に以て韓を伐たんとす。周恐る、之を借さば韓を畏れ、借さずんば秦を畏る。史厭周君に謂ひて曰く、「何ぞ人をして韓の公叔に謂はしめて曰はざる、『秦の敢へて周を絶ちて韓を伐つ者は、東周を信ずればなり。公何ぞ周に地を与へ、質を発して之を楚に使はしめざる』と。秦必ず楚を疑ひて周を信ぜず、是れ韓伐たれざるなり。又秦に謂ひて曰はん、『韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり。周敢へて受けずんばあらず』と。秦必ず辞無くして周をして受けざらしめん。是れ地を韓に受けて秦に聴くなり」と。秦西周の君を召す。西周の君往くことを悪む。故に人をして韓王に謂はしめて曰く、「秦西周の君を召すは、将に以て王の南陽を攻めしめんとするなり。王何ぞ兵を南陽に出ださざる。周君将に以て辞を秦に為さんとす。周君秦に入らずんば、秦必ず敢へて河を踰えて南陽を攻めざらん」と。東周西周と戦ひ、韓西周を救ふ。或ひと東周の為に韓王に説きて曰く、「西周は故の天子の国にして、名器重宝多し。王兵を案じて出だす毋くんば、以て東周に徳とす可く、而して西周の宝必ず以て尽くす可し」と。王赧成君に謂ふ。楚雍氏を囲む。韓甲と粟とを東周に徴す。東周の君恐れ、蘇代を召して之に告ぐ。代曰く、「君何ぞ是を患へん。臣能く韓をして甲と粟とを周に徴する毋からしめ、又能く君の為に高都を得ん」と。周君曰く、「子苟も能くせば、請ふ国を以て子に聴かん」と。代韓の相国に見えて曰く、「楚雍氏を囲む、期は三月なり。今五月にして抜く能はず、是れ楚病めるなり。今相国乃ち甲と粟とを周に徴す、是れ楚に病めるを告ぐるなり」と。韓の相国曰く、「善し。使者已に行けり」と。代曰く、「何ぞ周に高都を与へざる」と。
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史記 韓世家子宣恵王立つ。宣恵王五年、張儀秦に相たり。八年、魏我が将韓挙を敗る。十一年、君号して王と為す。趙と区鼠に会す。十四、秦伐ちて我を鄢に敗る。十六年、秦我を修魚に敗り、韓の将鯁・申差を濁沢に虜得す。韓氏急なり。公仲、韓王に謂ひて曰く、「与国は恃むべきに非ざるなり。今秦の楚を伐たんと欲すること久し。王張儀に因りて和を秦に為し、賂ふに一名都を以てし、甲を具へて、之と南のかた楚を伐つに如かず。此れ一を以て二に易ふるの計なり」と。韓王曰く、「善し」と。乃ち公仲の行を警め、将に西のかた秦に購はんとす。楚王之を聞きて大いに恐れ、陳軫を召して之に告ぐ。陳軫曰く、「秦の楚を伐たんと欲すること久し。今又韓の名都一を得て甲を具へ、秦・韓兵を并せて楚を伐つ。此れ秦の禱祀して求むる所なり。今已に之を得たり。楚国必ず伐たれん。王臣に聴きて之が為に四境の内を警め、師を起こして韓を救ふと言ひ、戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くし、王の己を救ふを信ぜしめよ。縦ひ韓我に聴くこと能はずとも、韓必ず王を徳とせん。必ず鴈行して以て来らず。是れ秦・韓和せざるなり。兵至ると雖も、楚大いに病まず。為し能く我に聴きて和を秦に絶たば、秦必ず大いに怒り、以て厚く韓を怨まん。韓の南のかた楚に交はるや、必ず秦を軽んぜん。秦を軽んずれば、其の秦に応ずること必ず敬まず。是れ秦・韓の兵に因りて楚国の患ひを免るるなり」と。楚王曰く、「善し」と。乃ち四境の内を警め、師を興して韓を救ふと言ふ。戦車をして道路に満たしめ、信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くす。韓王に謂ひて曰く、「不穀の国小なりと雖も、已に悉く之を発せり。願はくは大国遂に志を秦に肆にせよ。不穀将に楚を以て韓に殉ぜんとす」と。韓王之を聞きて大いに説び、乃ち公仲の行を止む。公仲曰く、「不可なり。夫れ実を以て我を伐つ者は秦なり。虚名を以て我を救ふ者は楚なり。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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