史記 / 春申君列伝
以親楚。」秦因遣黃歇。歇至楚三月,楚頃襄王卒,太子完立,是為考烈王。考烈王元年,以黃歇為相,封為春申君,賜淮北地十二縣。後十五歲,黃歇言之楚王曰:「淮北地邊齊,其事急,請以為郡便。」因并獻淮北十二縣。請封於江東。考烈王許之。春申君因城故吳墟,以自為都邑。春申君既相楚,是時齊有孟嘗君,趙有平原君,魏有信陵君,方爭下士,招致賓客,以相傾奪,輔國持權。春申君為楚相四年,秦破趙之長平軍四十餘萬。五年,圍邯鄲。邯鄲告急於楚,楚使春申君將兵往救之,秦兵亦去,春申君歸。春申君相楚八年,為楚北伐滅魯,以荀卿為蘭陵令。當是時,楚復彊。趙平原君使人於春申君,春申君捨之於上舍。趙使欲夸楚,為瑁簪,刀劍室以珠玉飾之,請命春申君客。春申君客三千餘人,其上客皆躡珠履以見趙使,趙使大慚。春申君相十四年,秦莊襄王立,以呂不韋為相,封為文信侯。取東周。春申君相二十二年,諸侯患秦攻伐無已時,乃相與合從,西伐秦,而楚王為從長,春申君用事。至函谷關,秦出兵攻,諸侯兵皆敗走。楚考烈王以咎春申君,春申君以此益疏。客有觀津人朱英,謂春申君曰:「人皆以楚為彊而君用之弱,其於英不然。
新字:以親楚。」秦因遣黄歇。歇至楚三月,楚頃襄王卒,太子完立,是為考烈王。考烈王元年,以黄歇為相,封為春申君,賜淮北地十二県。後十五歳,黄歇言之楚王曰:「淮北地辺斉,其事急,請以為郡便。」因并献淮北十二県。請封於江東。考烈王許之。春申君因城故呉墟,以自為都邑。春申君既相楚,是時斉有孟嘗君,趙有平原君,魏有信陵君,方争下士,招致賓客,以相傾奪,輔国持権。春申君為楚相四年,秦破趙之長平軍四十余万。五年,囲邯鄲。邯鄲告急於楚,楚使春申君将兵往救之,秦兵亦去,春申君帰。春申君相楚八年,為楚北伐滅魯,以荀卿為蘭陵令。当是時,楚復彊。趙平原君使人於春申君,春申君捨之於上舎。趙使欲夸楚,為瑁簪,刀剣室以珠玉飾之,請命春申君客。春申君客三千余人,其上客皆躡珠履以見趙使,趙使大慚。春申君相十四年,秦荘襄王立,以呂不韋為相,封為文信侯。取東周。春申君相二十二年,諸侯患秦攻伐無已時,乃相与合従,西伐秦,而楚王為従長,春申君用事。至函谷関,秦出兵攻,諸侯兵皆敗走。楚考烈王以咎春申君,春申君以此益疏。客有観津人朱英,謂春申君曰:「人皆以楚為彊而君用之弱,其於英不然。
書き下し
以て楚に親しましむるに如かず」と。秦因りて黄歇を遣る。歇楚に至りて三月、楚の頃襄王卒し、太子完立つ、是れを考烈王と為す。考烈王の元年、黄歇を以て相と為し、封じて春申君と為し、淮北の地十二県を賜ふ。後十五歳、黄歇これを楚王に言ひて曰く、「淮北の地は斉に辺し、その事急なり、請ふ以て郡と為さば便ならん」と。因りて并せて淮北の十二県を献ず。封を江東に請ふ。考烈王これを許す。春申君因りて故の呉の墟に城きて、以て自ら都邑と為す。春申君既に楚に相たり、是の時、斉に孟嘗君有り、趙に平原君有り、魏に信陵君有り、方に争ひて士に下り、賓客を招致し、以て相傾奪し、国を輔け権を持す。春申君楚に相たること四年、秦、趙の長平の軍四十余万を破る。五年、邯鄲を囲む。邯鄲急を楚に告ぐ、楚、春申君をして兵を将ゐて往きてこれを救はしむ、秦の兵もまた去り、春申君帰る。春申君楚に相たること八年、楚の為に北伐して魯を滅ぼし、荀卿を以て蘭陵の令と為す。是の時に当たり、楚また彊し。趙の平原君、人を春申君に使はす、春申君これを上舎に舎す。趙の使ひ楚に夸らんと欲し、瑁の簪を為り、刀剣の室は珠玉を以てこれを飾り、春申君の客に命ぜんことを請ふ。春申君の客三千余人、その上客皆珠履を躡みて以て趙の使ひに見ゆ、趙の使ひ大いに慚づ。春申君相たること十四年、秦の荘襄王立ち、呂不韋を以て相と為し、封じて文信侯と為す。東周を取る。春申君相たること二十二年、諸侯、秦の攻伐已む時無きを患へ、乃ち相与に合従し、西のかた秦を伐つ。而して楚王従長と為り、春申君事を用ふ。函谷関に至る、秦兵を出だして攻む、諸侯の兵皆敗走す。楚の考烈王以て春申君を咎む、春申君此を以て益々疏んぜらる。客に観津の人朱英有り、春申君に謂ひて曰く、「人皆楚を以て彊しと為し、君これを用ひて弱しとす、その英に於いては然らず。
現代語訳
「楚と親しくさせるのが一番だ。」秦はそこで黄歇を帰国させた。黄歇が楚に着いて三か月後、楚の頃襄王が亡くなり、太子の完が即位した。これが考烈王である。考烈王の元年、黄歇を宰相とし、春申君に封じて、淮北の地の十二県を与えた。十五年後、黄歇は楚王に言った。「淮北の地は斉と境を接していて、事が起これば急を要する。郡とする方がよいだろう。」そこで淮北の十二県をすべて王に返上し、代わりに江東に封地を求めた。考烈王はこれを許した。春申君はそこで昔の呉の都の跡に城を築き、自分の都邑とした。春申君が楚の宰相となったころ、斉には孟嘗君、趙には平原君、魏には信陵君がいて、競って士にへりくだり、賓客を招き集め、互いに相手を圧倒しようとしながら、国を助けて権力を握っていた。春申君が楚の宰相となって四年目、秦は趙の長平の軍四十万余りを破った。五年目、秦は邯鄲を包囲した。邯鄲は楚に急を告げ、楚は春申君に兵を率いて救援に向かわせたが、秦の兵も去ったので、春申君は帰った。春申君が宰相となって八年目、楚のために北に兵を出して魯を滅ぼし、荀卿(荀子)を蘭陵の県令とした。このころ、楚は再び強くなった。趙の平原君が春申君のもとに使者を送ると、春申君はこれを上等の宿舎に泊めた。趙の使者は楚に見せびらかそうとして、玳瑁の簪を挿し、刀剣の鞘を真珠や玉で飾り、春申君の食客に会わせてほしいと願い出た。春申君の食客は三千人余りいたが、その上客はみな真珠で飾った履をはいて趙の使者に会ったので、趙の使者はたいへん恥じ入った。春申君が宰相となって十四年目、秦の荘襄王が即位し、呂不韋を宰相として文信侯に封じた。秦は東周を取った。春申君が宰相となって二十二年目、諸侯は秦の攻撃が止む時のないことを憂えて、共に合従して西の秦を討った。楚王が合従の盟主となり、春申君が実務を執った。函谷関に至ると、秦が兵を出して攻撃し、諸侯の兵はみな敗走した。楚の考烈王はこのことで春申君を責め、春申君はこれ以来ますます遠ざけられるようになった。食客に観津の人朱英がいて、春申君に言った。「人はみな、楚はもともと強いのに、あなたが用いると弱くなったと言う。しかし私はそうは思わない。
解説
関連する章句
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史記 楚世家二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。復た秦と平らぎ、而して太子を入れて秦に質たらしむ。楚左徒をして太子に秦に侍せしむ。三十六年、頃襄王病む。太子亡げ帰る。秋、頃襄王卒し、太子熊元代はり立つ。是を考烈王と為す。考烈王左徒を以て令尹と為し、封ずるに呉を以てし、春申君と号す。考烈王の元年、州を秦に納れて以て平らぐ。是の時楚益々弱し。六年、秦邯鄲を囲む。趙急を楚に告ぐ。楚将軍景陽を遣りて趙を救はしむ。七年、新中に至る。秦の兵去る。十二年、秦の昭王卒す。楚王春申君をして秦に弔祠せしむ。十六年、秦の荘襄王卒し、秦王趙政立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐ち、利あらずして去る。楚東のかた都を寿春に徙し、命じて郢と曰ふ。二十五年、考烈王卒し、子の幽王悍立つ。李園春申君を殺す。幽王の三年、秦・魏楚を伐つ。秦の相呂不韋卒す。九年、秦韓を滅ぼす。十年、幽王卒し、同母弟の猶代はり立つ。是を哀王と為す。哀王立ちて二月余、哀王の庶兄負芻の徒哀王を襲殺して負芻を立てて王と為す。是の歳、秦趙王遷を虜にす。王負芻の元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ。二年、秦将軍をして楚を伐たしめ、大いに楚の軍を破り、十余城を亡ふ。三年、秦魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦我が軍を蘄に破り、而して将軍項燕を殺す。五年、秦の将王翦・蒙武遂に楚国を破り、楚王負芻を虜にし、楚の名を滅ぼして郡と為すと云ふ。太史公曰く、楚の霊王方に諸侯を申に会し、斉の慶封を誅し、章華台を作り、周の九鼎を求むるの時、志は天下を小とす。申亥の家に餓死するに及びて、天下の笑ひと為る。操行の得ざる、悲しいかな。勢ひの人に於けるや、慎まざるべけんや。棄疾乱を以て立ち、秦の女に嬖淫す。甚だしいかな、幾ど再び国を亡ぼさんとす。
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史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。
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戦国策・楚考烈王無子楚の考烈王子無し、春申君之を患い、婦人の子に宜しき者を求めて之を進むること甚だ衆きも、卒に子無し。趙人李園、其の女弟を持し、之を楚王に進めんと欲するも、其の子に宜しからざるを聞き、恐らくは又寵無からんとす。李園、春申君に事えんことを求めて舎人と為る。已にして帰るを謁し、故らに期を失う。還りて謁す、春申君状を問う。対えて曰く、「斉王使いを遣わして臣が女弟を求む、其の使者と飲む、故に期を失えり。」春申君曰く、「聘入りしか。」対えて曰く、「未だなり。」春申君曰く、「見ゆるを得べきか。」曰く、「可なり。」是に於て園乃ち其の女弟を進め、即ち春申君に幸せらる。其の身有るを知り、園乃ち其の女弟と謀る。園の女弟間に承じて春申君に説きて曰く、「楚王の君を貴幸するは、兄弟と雖も如かず。今、君楚王に相たること二十余年、而して王子無し、即ち百歳の後将に更に兄弟を立てんとす。即ち楚王更に立たば、彼も亦各々其の故の親しむ所を貴ばん、君又安んぞ長く寵を有つを得んや。徒だ然るのみに非ざるなり。君事を用うること久しく、多く王の兄弟に礼を失えり、兄弟誠に立たば、禍且に身に及ばんとす、奈何ぞ以て相印・江東の封を保たんや。今、妾自ら身有るを知る、而して人未だ知る莫し。妾の君に幸せらるること未だ久しからず、誠に君の重きを以て妾を楚王に進めば、王必ず妾を幸せん。妾天に頼りて男有らば、則ち是れ君の子王為るなり、楚国封尽く得べし、其の不測の罪に臨むと孰与れぞ。」春申君大いに之を然りとす。乃ち園の女弟を出だして謹んで舎し、而して之を楚王に言う。楚王入れしめ、之を幸す。遂に子男を生み、立てて太子と為し、李園の女弟を以て王后と為す。楚王李園を貴び、李園事を用う。李園既に其の女弟を入れて王后と為し、子太子と為るや、春申君の語泄れて益々驕らんことを恐れ、陰かに死士を養い、春申君を殺して以て口を滅せんと欲す、而して国人頗る之を知る者有り。春申君楚に相たること二十五年、考烈王病む。朱英、春申君に謂いて曰く、「世に無妄の福有り、又無妄の禍有り。今、君無妄の世に処り、無妄の主に事う、安んぞ無妄の人有らざらんや。」春申君曰く、「何をか無妄の福と謂う。」曰く、「君楚に相たること二十余年、名を相国と為すと雖も、実は楚王なり。五子皆諸侯に相たり。今、王疾甚だしく、旦暮に且に崩ぜんとし、太子衰弱にして、疾みて起たず、而して君少主に相たり、因りて代わりて立ちて国に当たること、伊尹・周公の如し。王長じて政を反さば、然らずんば、即ち遂に南面して孤と称し、因りて楚国を有たん。此れ所謂無妄の福なり。」春申君曰く、「何をか無妄の禍と謂う。」曰く、「李園国を治めずして、王の舅なり。兵将為らずして、陰かに死士を養うの日久し。楚王崩ぜば、李園必ず先ず入り、本議に拠りて君命を制断し、権を秉りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂無妄の禍なり。」春申君曰く、「何をか無妄の人と謂う。」曰く、「君先に臣を仕えしめて郎中と為せ、君王崩ぜば、李園先ず入らん、臣請う君の為に其の胸を椓きて之を殺さん。此れ所謂無妄の人なり。」春申君曰く、「先生之を置け、復た言うこと勿かれ已。李園は軟弱の人なり、僕又之に善し、又何ぞ此に至らんや。」朱英恐れ、乃ち亡げ去る。後十七日、楚の考烈王崩じ、李園果たして先ず入り、死士を置き、棘門の内に止まる。春申君後れて入り、棘門に止まる。園の死士、春申君を夾みて刺し、其の頭を斬りて、之を棘門の外に投ず。是に於て吏をして尽く春申君の家を滅せしむ。而して李園の女弟、初め春申君に幸せられて身有り、王の所に入りて生む所の子は、遂に立ちて楚の幽王と為るなり。是の歳、秦の始皇立ちて九年なり。嫪毐も亦秦に於て乱を為す。覚れ、三族を夷し、而して呂不韋廃せらる。續(つづき):越絶書は、隋経籍志に子貢の作と称せらる。今秦漢の事を雑記す、疑うらくは後人の羼(まじ)うる所ならん、敢えて尽くは信ぜず。史記・戦国策・列女伝は、女環の名を載せず、止だ此に見ゆるのみ。其の画策の終始、信に此くの如くんば、皆女環より出づ、尤も異と為すなり。烈王死するの後、李園春申君に相たり、方に呉に封ぜられ、又其の子を立てて仮君と為すに至りて言えば、皆史記・国策と合わず。聊か此に記して、以て異聞を広む。
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史記 楚世家郢中王を立てば、因りて其の新王と市して曰はん、『我に下東国を予へよ。吾王の為に太子を殺さん。然らずんば、将に三国と共に之を立てんとす』と。然らば則ち東国必ず得べし」と。斉王卒に其の相の計を用ひて楚の太子を帰す。太子横至り、立ちて王と為る。是を頃襄王と為す。乃ち秦に告げて曰く、「社稷の神霊に頼り、国に王有り」と。頃襄王横の元年、秦懐王に要むるも地を得べからず、楚王を立てて以て秦に応ず。秦の昭王怒り、兵を発して武関より出でて楚を攻め、大いに楚の軍を敗り、首を斬ること五万、析十五城を取りて去る。二年、楚の懐王亡げ逃れて帰らんとす。秦之を覚り、楚の道を遮る。懐王恐れ、乃ち間道より趙に走りて以て帰らんことを求む。趙の主父代に在り。其の子恵王初めて立ちて王事を行ふ。恐れて、敢て楚王を入れず。楚王魏に走らんと欲す。秦追ひて至り、遂に秦の使ひと復た秦に之く。懐王遂に病を発す。頃襄王の三年、懐王秦に卒す。秦其の喪を楚に帰す。楚人皆之を憐れみ、親戚を悲しむが如し。諸侯是に由りて秦を直とせず。秦・楚絶つ。六年、秦白起をして韓を伊闕に伐たしめ、大いに勝ち、首を斬ること二十四万。秦乃ち楚王に書を遺りて曰く、「楚秦に倍く。秦且に諸侯を率ゐて楚を伐ち、一旦の命を争はんとす。願はくは王の士卒を飭へ、一たび楽しみて戦ふことを得ん」と。楚の頃襄王之を患ひ、乃ち謀りて復た秦と平らぐ。七年、楚婦を秦に迎へ、秦・楚復た平らぐ。十一年、斉・秦各々自ら称して帝と為る。月余にして、復た帝を帰して王と為る。十四年、楚の頃襄王秦の昭王と宛に好会し、和親を結ぶ。十五年、楚王秦・三晋・燕と共に斉を伐ち、淮北を取る。十六年、秦の昭王と鄢に好会す。其の秋、復た秦王と穣に会す。十八年、楚人に好んで弱弓微繳を以て帰鴈の上に加ふる者有り。頃襄王聞きて、召して之を問ふ。
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史記 春申君列伝先君の時、秦を善くすること二十年にして楚を攻めざるは、何ぞや。秦、黽隘の塞を踰えて楚を攻むるは、便ならず。道を両周に仮り、韓・魏に背きて楚を攻むるは、不可なればなり。今は則ち然らず、魏は旦暮に亡びんとし、許・鄢陵を愛しむ能はず、その許すや魏割きて以て秦に与へん。秦の兵陳を去ること百六十里、臣の観る所の者は、秦・楚の日に闘ふを見ん」と。楚是に於いて陳を去りて寿春に徙る。而して秦は衛を野王に徙し、作りて東郡を置く。春申君此に由りて封に呉に就き、相の事を行ふ。
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史記 春申君列伝黄歇約を受けて楚に帰る。楚、歇をして太子完と入りて秦に質たらしむ、秦これを留むること数年。楚の頃襄王病む、太子帰るを得ず。而して楚の太子は秦の相応侯と善し、是に於いて黄歇乃ち応侯に説きて曰く、「相国誠に楚の太子を善くするか」と。応侯曰く、「然り」と。歇曰く、「今、楚王恐らくは疾より起たざらん、秦はその太子を帰すに如かず。太子立つを得ば、その秦に事ふること必ず重くして相国を徳とすること窮まり無からん、是れ与国に親しみて万乗を儲くるを得るなり。若し帰さずんば、則ち咸陽の一布衣のみ。楚更に太子を立てば、必ず秦に事へざらん。夫れ与国を失ひて万乗の和を絶つは、計に非ざるなり。願はくは相国これを孰慮せよ」と。応侯以て秦王に聞す。秦王曰く、「楚の太子の傅をして先づ往きて楚王の疾を問はしめ、返りて後にこれを図らん」と。黄歇、楚の太子の為に計りて曰く、「秦の太子を留むるや、以て利を求めんと欲するなり。今、太子の力未だ以て秦を利する有る能はざるなり、歇これを憂ふること甚だし。而して陽文君の子二人中に在り、王若し大命を卒へ、太子在らずんば、陽文君の子必ず立ちて後と為り、太子は宗廟を奉ずるを得ざらん。秦を亡れ、使者と倶に出づるに如かず。臣請ふ止まり、死を以てこれに当たらん」と。楚の太子因りて衣服を変じ楚の使者の御と為りて以て関を出で、而して黄歇は舎を守り、常に為に病と謝す。太子の已に遠く、秦の追ふ能はざるを度り、歇乃ち自ら秦の昭王に言ひて曰く、「楚の太子已に帰り、出でて遠し。歇は当に死すべし、願はくは死を賜へ」と。昭王大いに怒り、その自殺を聴かんと欲す。応侯曰く、「歇は人臣と為りて、身を出だして以てその主に徇ふ。太子立たば、必ず歇を用ひん。故に罪無くしてこれを帰し、
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