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史記 / 呉太伯世家

七年,楚公子圍弑其王夾敖而代立,是爲靈王。十年,楚靈王會諸侯而以伐吳之硃方,以誅齊慶封。吳亦攻楚,取三邑而去。十一年,楚伐吳,至雩婁。十二年,楚復來伐,次於乾谿,楚師敗走。十七年,王餘祭卒,弟餘眛立。王餘眛二年,楚公子棄疾弑其君靈王代立焉。四年,王餘眛卒,欲授弟季札。季札讓,逃去。於是吳人曰:「先王有命,兄卒弟代立,必致季子。季子今逃位,則王餘眛後立。今卒,其子當代。」乃立王餘眛之子僚爲王。王僚二年,公子光伐楚,敗而亡王舟。光懼,襲楚,復得王舟而還。五年,楚之亡臣伍子胥來奔,公子光客之。公子光者,王諸樊之子也。常以爲吾父兄弟四人,當傳至季子。季子即不受國,光父先立。即不傳季子,光當立。陰納賢士,欲以襲王僚。八年,吳使公子光伐楚,敗楚師,迎楚故太子建母於居巣以歸。因北伐,敗陳、蔡之師。九年,公子光伐楚,拔居巣、鍾離。初,楚邊邑卑梁氏之處女與吳邊邑之女爭桑,二女家怒相滅,兩國邊邑長聞之,怒而相攻,滅吳之邊邑。吳王怒,故遂伐楚,取兩都而去。伍子胥之初奔吳,説吳王僚以伐楚之利。公子光曰:「胥之父兄爲僇於楚,欲自報其仇耳。未見其利。」

新字:七年,楚公子囲弑其王夾敖而代立,是為霊王。十年,楚霊王会諸侯而以伐呉之硃方,以誅斉慶封。呉亦攻楚,取三邑而去。十一年,楚伐呉,至雩婁。十二年,楚復来伐,次於乾谿,楚師敗走。十七年,王余祭卒,弟余眛立。王余眛二年,楚公子棄疾弑其君霊王代立焉。四年,王余眛卒,欲授弟季札。季札譲,逃去。於是呉人曰:「先王有命,兄卒弟代立,必致季子。季子今逃位,則王余眛後立。今卒,其子当代。」乃立王余眛之子僚為王。王僚二年,公子光伐楚,敗而亡王舟。光懼,襲楚,復得王舟而還。五年,楚之亡臣伍子胥来奔,公子光客之。公子光者,王諸樊之子也。常以為吾父兄弟四人,当伝至季子。季子即不受国,光父先立。即不伝季子,光当立。陰納賢士,欲以襲王僚。八年,呉使公子光伐楚,敗楚師,迎楚故太子建母於居巣以帰。因北伐,敗陳、蔡之師。九年,公子光伐楚,抜居巣、鍾離。初,楚辺邑卑梁氏之処女与呉辺邑之女争桑,二女家怒相滅,両国辺邑長聞之,怒而相攻,滅呉之辺邑。呉王怒,故遂伐楚,取両都而去。伍子胥之初奔呉,説呉王僚以伐楚之利。公子光曰:「胥之父兄為僇於楚,欲自報其仇耳。未見其利。」

書き下し

七年、楚の公子囲、其の王夾敖を弑して代りて立つ。是れを霊王と為す。十年、楚の霊王、諸侯を会して以て呉の朱方を伐ち、以て斉の慶封を誅す。呉も亦楚を攻め、三邑を取りて去る。十一年、楚、呉を伐ちて雩婁に至る。十二年、楚復た来り伐ち、乾谿に次る。楚の師敗走す。十七年、王余祭卒し、弟余眛立つ。王余眛の二年、楚の公子棄疾、其の君霊王を弑して代りて立つ。四年、王余眛卒し、弟季札に授けんと欲す。季札譲りて、逃げ去る。是に於て呉人曰く、「先王命有り、兄卒すれば弟代りて立ち、必ず季子に致さんと。季子今位を逃る、則ち王余眛後に立つ。今卒す、其の子当に代るべし」と。乃ち王余眛の子僚を立てて王と為す。王僚の二年、公子光、楚を伐ち、敗れて王舟を亡ふ。光懼れ、楚を襲ひ、復た王舟を得て還る。五年、楚の亡臣伍子胥来奔し、公子光之を客とす。公子光とは、王諸樊の子なり。常に以為へらく、吾が父の兄弟四人、当に伝へて季子に至るべし。季子即し国を受けずんば、光の父先に立つ。即し季子に伝へずんば、光当に立つべしと。陰かに賢士を納れ、以て王僚を襲はんと欲す。八年、呉、公子光をして楚を伐たしむ。楚の師を敗り、楚の故の太子建の母を居巣に迎へて以て帰る。因りて北伐し、陳・蔡の師を敗る。九年、公子光、楚を伐ち、居巣・鍾離を抜く。初め、楚の辺邑卑梁氏の処女、呉の辺邑の女と桑を争ひ、二女の家怒りて相滅し、両国の辺邑の長之を聞き、怒りて相攻め、呉の辺邑を滅す。呉王怒り、故に遂に楚を伐ち、両都を取りて去る。伍子胥の初めて呉に奔るや、呉王僚に説くに楚を伐つの利を以てす。公子光曰く、「胥の父兄は楚に僇せらる。自ら其の仇に報いんと欲するのみ。未だ其の利を見ず」と。

現代語訳

七年、楚の公子囲が主君の夾敖(こうごう)を殺して代わりに立った。これが霊王である。十年、楚の霊王は諸侯を集めて呉の朱方を討ち、斉から亡命していた慶封を誅殺した。呉もまた楚を攻め、三つの邑を奪って引き揚げた。十一年、楚は呉を討って雩婁(うろう)まで攻め込んだ。十二年、楚は再び攻めてきて乾谿(かんけい)に陣を構えたが、楚軍は敗走した。十七年、王余祭が亡くなり、弟の余眛が立った。王余眛の二年、楚の公子棄疾が主君の霊王を殺して代わりに立った。四年、王余眛が亡くなり、弟の季札に位を授けようとした。季札は辞退して逃げ去った。そこで呉の人々は言った。「先王の遺命では、兄が亡くなれば弟が代わって立ち、必ず季子(季札)に位を渡すことになっていた。季子が今位を逃れたのだから、王余眛が最後に立った者である。今その王が亡くなったのだから、その子が代わって立つべきだ」。そこで王余眛の子の僚を立てて王とした。王僚の二年、公子光が楚を討ったが、敗れて王の船を失った。公子光は恐れ、楚を襲って王の船を取り返して帰った。五年、楚から亡命した臣下の伍子胥が逃げてきたので、公子光は彼を客として迎えた。公子光とは王諸樊の子である。公子光はいつもこう考えていた。「私の父の兄弟四人は、順に伝えて季子に至るはずだった。季子が国を受けないのなら、私の父が最初に立ったのだから、季子に伝えないならば私が立つべきだ」。そこでひそかに優れた人物を集め、王僚を襲おうとしていた。八年、呉は公子光に楚を討たせた。公子光は楚軍を破り、楚の元の太子建の母を居巣(きょそう)から迎えて帰った。さらに北へ攻めて陳と蔡の軍を破った。九年、公子光は楚を討ち、居巣と鍾離を攻め落とした。これより先、楚の国境の町卑梁氏の娘が、呉の国境の町の娘と桑の葉を争ったことがあった。二人の娘の家は怒って互いに滅ぼし合い、両国の国境の町の長がこれを聞いて怒って攻め合い、(楚が)呉の国境の町を滅ぼした。呉王は怒り、そこでついに楚を討ち、二つの都を奪って引き揚げたのである。伍子胥が初めて呉に逃げてきたとき、呉王僚に楚を討つ利益を説いた。公子光は言った。「伍子胥の父と兄は楚で殺されている。自分の仇を討ちたいだけだ。呉にとっての利益は見えない」。

解説

季札は兄余眛の死後、ついに位を授けられそうになると逃げ去り、呉の人々は余眛の子の僚を王に立てました。ところが長兄諸樊の子である公子光は、「季札が受けないなら長兄の子の自分こそが立つべきだ」と考え、ひそかに人材を集め始めます。季札の譲位の美徳が、皮肉にも継承の順序を曖昧にし、争いの種になったのです。ここに楚から亡命した伍子胥が加わります。公子光は、伍子胥の楚攻めの進言は「私怨を晴らしたいだけだ」と王僚の前で退けますが、次の段で分かるように、それは伍子胥を自分の側に取り込むための計算でもありました。国境の娘たちの桑の葉争いが両国の戦争にまで発展したという話も、小さな争いが大きな戦いを招く例として添えられています。後継のルールが曖昧だと、争いの種がいつまでも残るのです。

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