史記 / 楚世家
楚王怒曰:「召我,我將好往襲辱之。」遂行,至盂,遂執辱宋公,已而歸之。三十四年,鄭文公南朝楚。楚成王北伐宋,敗之泓,射傷宋襄公,襄公遂病創死。三十五年,晉公子重耳過楚,成王以諸侯客禮饗,而厚送之於秦。三十九年,魯僖公來請兵以伐齊,楚使申侯將兵伐齊,取穀,置齊桓公子雍焉。齊桓公七子皆奔楚,楚盡以爲上大夫。滅夔,夔不祀祝融、鬻熊故也。夏,伐宋,宋告急於晉,晉救宋,成王罷歸。將軍子玉請戰,成王曰:「重耳亡居外久,卒得反國,天之所開,不可當。」子玉固請,乃與之少師而去。晉果敗子玉於城濮。成王怒,誅子玉。四十六年,初,成王將以商臣爲太子,語令尹子上。子上曰:「君之齒未也,而又多内寵,絀乃亂也。楚國之舉常在少者。且商臣蜂目而豺聲,忍人也,不可立也。」王不聽,立之。後又欲立子職而絀太子商臣。商臣聞而未審也,告其傅潘崇曰:「何以得其實?」崇曰:「饗王之寵姬江羋而勿敬也。」商臣從之。江羋怒曰:「宜乎王之欲殺若而立職也。」商臣告潘崇曰:「信矣。」崇曰:「能事之乎?」曰:「不能。」「能亡去乎?」曰:「不能。」「能行大事乎?」曰:「能。」冬十月,商臣以宮衞兵圍成王。成王請食熊蹯而死,不聽。丁未,成王自絞殺。商臣代立,是爲穆王。穆王立,以其太子宮予潘崇,使爲太師,掌國事。穆王三年,滅江。四年,滅六、蓼。六、蓼,皋陶之後。八年,伐陳。十二年,卒。子莊王侶立。
新字:楚王怒曰:「召我,我将好往襲辱之。」遂行,至盂,遂執辱宋公,已而帰之。三十四年,鄭文公南朝楚。楚成王北伐宋,敗之泓,射傷宋襄公,襄公遂病創死。三十五年,晋公子重耳過楚,成王以諸侯客礼饗,而厚送之於秦。三十九年,魯僖公来請兵以伐斉,楚使申侯将兵伐斉,取穀,置斉桓公子雍焉。斉桓公七子皆奔楚,楚尽以為上大夫。滅夔,夔不祀祝融、鬻熊故也。夏,伐宋,宋告急於晋,晋救宋,成王罷帰。将軍子玉請戦,成王曰:「重耳亡居外久,卒得反国,天之所開,不可当。」子玉固請,乃与之少師而去。晋果敗子玉於城濮。成王怒,誅子玉。四十六年,初,成王将以商臣為太子,語令尹子上。子上曰:「君之歯未也,而又多内寵,絀乃乱也。楚国之舉常在少者。且商臣蜂目而豺声,忍人也,不可立也。」王不聴,立之。後又欲立子職而絀太子商臣。商臣聞而未審也,告其傅潘崇曰:「何以得其実?」崇曰:「饗王之寵姫江羋而勿敬也。」商臣従之。江羋怒曰:「宜乎王之欲殺若而立職也。」商臣告潘崇曰:「信矣。」崇曰:「能事之乎?」曰:「不能。」「能亡去乎?」曰:「不能。」「能行大事乎?」曰:「能。」冬十月,商臣以宮衛兵囲成王。成王請食熊蹯而死,不聴。丁未,成王自絞殺。商臣代立,是為穆王。穆王立,以其太子宮予潘崇,使為太師,掌国事。穆王三年,滅江。四年,滅六、蓼。六、蓼,皋陶之後。八年,伐陳。十二年,卒。子荘王侶立。
書き下し
楚王怒りて曰く、「我を召す。我将に好く往きて襲ひて之を辱めんとす」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執へて辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南のかた楚に朝す。楚の成王北のかた宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷つく。襄公遂に創を病みて死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯の客礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請ひて以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将ゐて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を焉に置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざるの故なり。夏、宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋宋を救ふ。成王罷めて帰る。将軍子玉戦はんことを請ふ。成王曰く、「重耳亡げて外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所なり。当たるべからず」と。子玉固く請ふ。乃ち之に少師を与へて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとし、令尹子上に語る。子上曰く、「君の歯未だし。而して又内寵多し。絀(しりぞ)くれば乃ち乱れん。楚国の挙は常に少き者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声なり。忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後に又子職を立てて太子商臣を絀けんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず。其の傅潘崇に告げて曰く、「何を以て其の実を得ん」と。崇曰く、「王の寵姫江羋を饗して敬する勿かれ」と。商臣之に従ふ。江羋怒りて曰く、「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲するや」と。商臣潘崇に告げて曰く、「信なり」と。崇曰く、「能く之に事へんか」と。曰く、「能はず」と。「能く亡げ去らんか」と。曰く、「能はず」と。「能く大事を行はんか」と。曰く、「能くせん」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食らひて死せんことを請ふも、聴かず。丁未、成王自ら絞殺す。商臣代はり立つ。是を穆王と為す。穆王立ち、其の太子の宮を以て潘崇に予へ、太師と為して、国事を掌らしむ。穆王の三年、江を滅ぼす。四年、六・蓼を滅ぼす。六・蓼は、皋陶の後なり。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の荘王侶立つ。
現代語訳
楚王(成王)は怒って言った。「私を呼びつけるとは。こちらからわざわざ出向いて、襲って辱めてやろう」。こうして出かけて盂に着くと、宋公を捕らえて辱め、しばらくして帰した。三十四年、鄭の文公が南の楚に参朝した。楚の成王は北の宋を攻め、泓水で宋を破り、宋の襄公を射て傷つけた。襄公はその傷がもとで亡くなった。三十五年、晋の公子重耳が楚に立ち寄った。成王は諸侯の賓客の礼でもてなし、手厚く秦へ送り出した。三十九年、魯の僖公が来て、斉を攻めるための兵を求めた。楚は申侯に兵を率いさせて斉を攻め、穀を取り、斉の桓公の子の雍をそこに置いた。斉の桓公の七人の子はみな楚に亡命しており、楚は彼らをみな上大夫とした。楚は夔を滅ぼした。夔が楚の祖先の祝融と鬻熊を祀らなかったからである。夏、楚は宋を攻めた。宋は晋に急を告げ、晋が宋を救いに来たので、成王は兵を引いて帰った。将軍の子玉は戦わせてほしいと願い出た。成王は言った。「重耳は長く国外を流浪したが、ついに国に帰ることができた。天が道を開いた者だ。まともに当たってはならない」。子玉がどうしてもと願うので、わずかな兵を与えて自分は引き揚げた。はたして晋は城濮で子玉を破った。成王は怒って子玉を誅した。四十六年のこと。これより前、成王は商臣を太子に立てようとして、令尹の子上に相談した。子上は言った。「君はまだお若く、しかも寵愛する女性が多い。太子を立てた後に退けることになれば乱れるだろう。楚の国では、跡継ぎには常に年少の者が選ばれてきた。それに商臣は蜂のような目をし、山犬のような声をしている。むごい人間だ。立ててはならない」。成王は聞き入れず、商臣を太子に立てた。その後、成王はさらに子の職を立てて、太子の商臣を退けようとした。商臣はそれを耳にしたが、確かなことはわからなかった。そこで守り役の潘崇に言った。「どうすれば本当のことがわかるだろうか」。潘崇は言った。「王の寵姫の江羋をもてなし、わざと無礼な態度をとればよい」。商臣がそのとおりにすると、江羋は怒って言った。「王がおまえを殺して職を立てようとしているのも、もっともだ」。商臣は潘崇に告げた。「本当だった」。潘崇は言った。「職に仕えることができるか」。商臣は「できない」と言った。「国外に逃げることができるか」。「できない」。「大事(王を倒すこと)を行えるか」。「できる」。冬十月、商臣は宮中の護衛兵を率いて成王を包囲した。成王は、熊の掌を食べてから死にたいと願ったが(煮えるまでの時間稼ぎのため)、商臣は許さなかった。丁未の日、成王は自ら首をくくって死んだ。商臣が代わって立った。これが穆王である。穆王は即位すると、自分が太子のときの宮殿を潘崇に与え、太師として国の政務を取り仕切らせた。穆王の三年、江を滅ぼした。四年、六と蓼を滅ぼした。六と蓼は皋陶の子孫の国である。八年、陳を攻めた。十二年、穆王が亡くなり、子の荘王侶が立った。
解説
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史記 宋微子世家公子目夷諫めて曰く、「小国盟を争ふは、禍なり」と。聴かず。秋、諸侯宋公に会して盂に盟ふ。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲已に甚だし。何を以て之に堪へん」と。是に於て楚宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に会し、以て宋公を釈す。子魚曰く、「禍猶ほ未だし」と。十三年夏、宋鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公将に戦はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公楚の成王と泓に戦ふ。楚人未だ済らず。目夷曰く、「彼は衆く我は寡し。其の未だ済らざるに及びて之を撃たん」と。公聴かず。已に済りて未だ陳せず。又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成りて、宋人之を撃つ。宋の師大いに敗れ、襄公股を傷つく。国人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸(やく)に困しめず、列を成さざるに鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝つを以て功と為す。何ぞ常言あらんや。必ず公の言の如くならば、即ち之に奴事せんのみ。又何ぞ戦ふことを為さん」と。楚の成王已に鄭を救ふ。鄭之を享す。去りて鄭の二姫を取りて以て帰る。叔瞻曰く、「成王礼無し。其れ没せざらんか。礼を為して卒に別無し。以て其の覇を遂げざるを知る有り」と。是の年、晋の公子重耳宋を過ぐ。襄公楚に傷つけらるるを以て、晋の援けを得んと欲し、厚く重耳に礼するに馬二十乗を以てす。十四年夏、襄公泓に傷つけられしを病みて竟に卒し、子の成公王臣立つ。成公の元年、晋の文公即位す。三年、楚の盟に倍きて晋に親しむ。文公に徳有るを以てなり。四年、楚の成王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。五年、晋の文公宋を救ひ、楚の兵去る。九年、晋の文公卒す。十一年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。十六年、秦の穆公卒す。十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自立して君と為る。
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史記 楚世家今諸侯皆叛きて相侵し、或いは相殺すを為す。我に敝甲有り。以て中国の政を観んと欲す。王室に請ひて吾が号を尊ばしめよ」と。随人之が為に周に之き、楚を尊ばんことを請ふ。王室聴かず。還りて楚に報ず。三十七年、楚の熊通怒りて曰く、「吾が先鬻熊は、文王の師なり。蚤く終はる。成王我が先公を挙げ、乃ち子男の田を以て楚に居らしむ。蛮夷皆率ゐて服す。而るに王位を加へず。我自ら尊くせんのみ」と。乃ち自ら立ちて武王と為り、随人と盟ひて去る。是に於て始めて濮の地を開きて之を有つ。五十一年、周随侯を召し、数(せ)むるに楚を立てて王と為すを以てす。楚怒り、随の己に背くを以て、随を伐つ。武王師中に卒して兵罷む。子の文王熊貲立ち、始めて郢に都す。文王の二年、申を伐ちて鄧を過ぐ。鄧人曰く「楚王取り易し」と。鄧侯許さざるなり。六年、蔡を伐ち、蔡の哀侯を虜にして以て帰り、已にして之を釈す。楚彊く、江漢の間の小国を陵ぎ、小国皆之を畏る。十一年、斉の桓公始めて覇たり。楚も亦た始めて大なり。十二年、鄧を伐ちて、之を滅ぼす。十三年、卒し、子の熊艱立つ。是を荘敖と為す。荘敖の五年、其の弟熊惲を殺さんと欲す。惲随に奔り、随と荘敖を襲弑して代はり立つ。是を成王と為す。成王惲の元年、初めて即位し、徳を布き恵みを施し、旧好を諸侯に結ぶ。人をして天子に献ぜしむ。天子胙を賜ひて曰く、「爾の南方の夷越の乱を鎮め、中国を侵すこと無かれ」と。是に於て楚の地千里なり。十六年、斉の桓公兵を以て楚を侵し、陘山に至る。楚の成王将軍屈完をして兵を以て之を御せしめ、桓公と盟ふ。桓公数むるに周の賦の王室に入らざるを以てす。楚之を許す。乃ち去る。十八年、成王兵を以て北のかた許を伐つ。許君肉袒して謝す。乃ち之を釈す。二十二年、黄を伐つ。二十六年、英を滅ぼす。三十三年、宋の襄公盟会を為さんと欲し、楚を召す。
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