史記 / 孝景本紀
後九月,更以易陽為陽陵。復置津關,用傳出入。冬,以趙國為邯鄲郡。五年三月,作陽陵、渭橋。五月,募徙陽陵,予錢二十萬。江都大暴風從西方來,壞城十二丈。丁卯,封長公主子蟜為隆慮侯。徙廣川王為趙王。六年春,封中尉綰為建陵侯,江都丞相嘉為建平侯,隴西太守渾邪為平曲侯,趙丞相嘉為江陵侯,故將軍布為鄃侯。
新字:後九月,更以易陽為陽陵。復置津関,用伝出入。冬,以趙国為邯鄲郡。五年三月,作陽陵、渭橋。五月,募徙陽陵,予銭二十万。江都大暴風従西方来,壊城十二丈。丁卯,封長公主子蟜為隆慮侯。徙広川王為趙王。六年春,封中尉綰為建陵侯,江都丞相嘉為建平侯,隴西太守渾邪為平曲侯,趙丞相嘉為江陵侯,故将軍布為鄃侯。
書き下し
後九月、更めて(弋)[易]陽を以て陽陵と為す。復た津関を置き、伝を用ゐて出入せしむ。冬、趙国を以て邯鄲郡と為す。五年三月、陽陵・渭橋を作る。五月、募りて陽陵に徙し、銭二十万を予ふ。江都に大暴風西方より来り、城を壊すこと十二丈。丁卯、長公主の子蟜を封じて隆慮侯と為す。広川王を徙して趙王と為す。六年春、中尉(趙)綰を封じて建陵侯と為し、江都の丞相嘉を建平侯と為し、隴西の太守渾邪を平曲侯と為し、趙の丞相嘉を江陵侯と為し、故の将軍布を鄃侯と為す。
現代語訳
後九月(閏月)、易陽の名を改めて陽陵とした。再び渡し場と関所を設け、通行証を用いて出入りさせることにした。冬、趙国を邯鄲郡とした。五年(前152年)三月、陽陵(景帝の陵)と渭水の橋を造った。五月、人を募って陽陵に移住させ、一人に銭二十万を与えた。江都国では、西から大暴風が吹いてきて、城壁を十二丈(約二十八メートル)にわたって壊した。丁卯の日、長公主(景帝の姉)の子の陳蟜を隆慮侯に封じた。広川王を移して趙王とした。六年(前151年)春、中尉の衛綰を建陵侯に、江都国の丞相の嘉を建平侯に、隴西郡太守の公孫渾邪を平曲侯に、趙国の丞相の嘉を江陵侯に、もとの将軍の欒布を鄃侯に封じた。
解説
関連する章句
-
史記 孝景本紀孝景皇帝は、孝文の中子なり。母は竇太后なり。孝文代に在りし時、前后に三男有り、竇太后幸を得るに及び、前后死し、三子更々死するに及び、故に孝景立つを得たり。元年四月乙卯、天下に赦す。乙巳、民に爵一級を賜ふ。五月、田の半租を除き、孝文の為に太宗の廟を立つ。群臣をして朝賀する無からしむ。匈奴代に入る、与に約して和親す。二年春、故の相国蕭何の孫系を封じて武陵侯と為す。男子二十にして傅することを得。四月壬午、孝文太后崩ず。広川・長沙王皆国に之く。丞相申屠嘉卒す。八月、御史大夫開封の陶青を以て丞相と為す。彗星東北に出づ。秋、衡山雹を雨らす、大なる者五寸、深き者二尺。熒惑逆行し、北辰を守る。月北辰の間に出づ。歳星天廷の中に逆行す。南陵及び内史・祋祤を置きて県と為す。三年正月乙巳、天下に赦す。長星西方に出づ。天火雒陽の東宮の大殿城室を燔く。呉王濞・楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠反し、兵を発して西に郷ふ。天子為に晁錯を誅し、袁盎を遣はして諭告せしむ、止まず、遂に西のかた梁を囲む。上乃ち大将軍竇嬰・太尉周亜夫を遣はして兵を将ゐて之を誅せしむ。六月乙亥、亡軍及び楚の元王の子芸等の謀反に与る者を赦す。大将軍竇嬰を封じて魏其侯と為す。楚の元王の子平陸侯礼を立てて楚王と為す。皇子端を立てて膠西王と為し、子勝を中山王と為す。済北王志を徙して菑川王と為し、淮陽王余を魯王と為し、汝南王非を江都王と為す。斉王将廬・燕王嘉皆薨ず。四年夏、太子を立つ。皇子徹を立てて膠東王と為す。六月甲戌、天下に赦す。
-
史記 孝景本紀梁・楚の二王皆薨ず。後九月、馳道の樹を伐り、蘭池に殖う。七年冬、栗太子を廃して臨江王と為す。(一)十(二)[一]月晦、日之を食する有り。春、徒隷の陽陵を作る者を免ず。丞相青免ぜらる。二月乙巳、太尉条侯周亜夫を以て丞相と為す。
-
史記 孝景本紀四月乙巳、膠東王の太后を立てて皇后と為す。丁巳、膠東王を立てて太子と為す。名は徹。中元年、故の御史大夫周苛の孫平を封じて縄侯と為し、故の御史大夫周昌の(子)[孫]左車を安陽侯と為す。四月乙巳、天下に赦し、爵一級を賜ふ。禁錮を除く。地動く。衡山・原都雹を雨らす、大なる者尺八寸。中二年二月、匈奴燕に入り、遂に和親せず。三月、臨江王を召して来らしむ。即ち中尉府中に死す。夏、皇子越を立てて広川王と為し、子寄を膠東王と為す。四侯を封ず。九月甲戌、日食す。中三年冬、諸侯の御史中丞を罷む。春、匈奴の王二人其の徒を率ゐて来降す、皆封じて列侯と為す。中四年三月、徳陽宮を置く。大いに蝗あり。秋、徒の陽陵を作る者を赦す。中五年夏、皇子舜を立てて常山王と為す。十侯を封ず。六月丁巳、天下に赦し、爵一級を賜ふ。天下大いに潦す。更めて諸侯の丞相を命じて相と曰ふ。秋、地動く。中六年二月己卯、行きて雍に幸し、郊して五帝に見ゆ。三月、雹を雨らす。四月、梁の孝王・城陽の共王・汝南王皆薨ず。梁の孝王の子明を立てて済川王と為し、子彭離を済東王と為し、子定を山陽王と為し、子不識を済陰王と為す。梁分かれて五と為る。四侯を封ず。更めて廷尉を命じて大理と為し、将作少府を将作大匠と為し、主爵中尉を都尉と為し、長信詹事を長信少府と為し、将行を大長秋と為し、大行を行人と為し、奉常を太常と為し、典客を大行と為し、治粟内史を大農と為す。大内を以て二千石と為し、左右の内官を置き、大内に属せしむ。七月辛亥、日食す。八月、匈奴上郡に入る。後元年冬、更めて中大夫令を命じて衛尉と為す。
-
史記 孝景本紀三月丁酉、天下に赦し、爵一級を賜ひ、中二千石・諸侯の相に爵右庶長を賜ふ。四月、大いに酺す。五月丙戌、地動く、其の蚤食の時復た動く。上庸地動くこと二十二日、城垣を壊す。七月乙巳、日食す。丞相劉舎免ぜらる。八月壬辰、御史大夫綰を以て丞相と為し、建陵侯に封ず。後二年正月、地一日に三たび動く。郅将軍匈奴を撃つ。酺すること五日。内史の郡をして馬に粟を食ましむるを得ず、県官に没入せしむ。徒隷をして七緵の布を衣しむ。馬舂を止む。歳の登らざるが為に、天下の歳を造らざるに食するを禁ず。列侯を省きて之を国に遣る。三月、匈奴雁門に入る。十月、長陵の田を租す。大いに旱す。衡山国・河東・雲中郡の民疫す。後三年十月、日月皆(食)赤きこと五日。十二月晦、雷あり。日紫の如し。五星逆行して太微を守る。月天廷の中を貫く。
-
史記 高祖本紀地は方二千里、戟を持つもの百万、県隔すること千里の外、斉十に二を得たり。故に此れ東西の秦なり。親子弟に非ずんば、斉に王たらしむべき莫し。」と。高祖曰く、「善し。」と。黄金五百斤を賜ふ。後十余日、韓信を封じて淮陰侯と為し、其の地を分かちて二国と為す。高祖曰く将軍劉賈数(しばしば)功有りと、以て荊王と為し、淮東に王とす。弟交を楚王と為し、淮西に王とす。子肥を斉王と為し、七十余城に王とし、民の能く斉の言をなす者は皆斉に属す。乃ち功を論じ、諸列侯と符を剖きて封を行ふ。韓王信を太原に徙す。七年、匈奴韓王信を馬邑に攻む、信因りて与に謀りて太原に反す。白土の曼丘臣・王黄故の趙の将趙利を立てて王と為して以て反す、高祖自ら往きて之を撃つ。会々天寒く、士卒の指を墮す者什に二三、遂に平城に至る。匈奴我を平城に囲む、七日にして後罷め去る。樊噲をして止まりて代の地を定めしむ。兄劉仲を立てて代王と為す。二月、高祖平城より趙・雒陽を過ぎ、長安に至る。長楽宮成る、丞相已下徙りて長安に治す。八年、高祖東のかた韓王信の余反寇を東垣に撃つ。蕭丞相未央宮を営作し、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ。高祖還り、宮闕の壮なること甚だしきを見て、怒り、蕭何に謂ひて曰く、「天下匈匈として苦戦すること数歳、成敗未だ知るべからず、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや。」と。蕭何曰く、「天下方に未だ定まらず、故に因りて遂に宮室を就すべし。且つ夫れ天子は四海を家と為す、壮麗に非ずんば以て威を重くする無し、且つ後世をして以て加ふる有らしむる無からん。」と。高祖乃ち説ぶ。高祖の東垣に之くや、柏人を過ぐ、趙の相貫高等高祖を弑せんと謀る、高祖心動き、因りて留まらず。代王劉仲国を棄てて亡げ、自ら雒陽に帰る、廃して以て合陽侯と為す。九年、趙の相貫高等の事発覚し、三族を夷ぐ。
-
史記 孝景本紀太子即位す、是を孝武皇帝と為す。三月、皇太后の弟蚡を封じて武安侯と為し、弟勝を周陽侯と為す。陽陵を置く。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る