史記 / 晋世家
太史公曰:晉文公,古所謂明君也,亡居外十九年,至困約,及即位而行賞,尚忘介子推,況驕主乎?靈公既弒,其後成、景致嚴,至厲大刻,大夫懼誅,禍作。悼公以後日衰,六卿專權。故君道之御其臣下。固不易哉!
新字:太史公曰:晋文公,古所謂明君也,亡居外十九年,至困約,及即位而行賞,尚忘介子推,況驕主乎?霊公既弒,其後成、景致厳,至厲大刻,大夫懼誅,禍作。悼公以後日衰,六卿専権。故君道之御其臣下。固不易哉!
書き下し
太史公曰く、「晉文公は、古の所謂明君なり。亡げて外に居ること十九年、困約に至る。即位して行賞するに及び、尚ほ介子推を忘る、況んや驕主をや。故に君道の其の臣下を御する、固より易からざるかな」と。
現代語訳
太史公は言う。「晉の文公は、いわゆるいにしえの名君である。亡命して国外にあること十九年、困窮を極めた。それでも即位して論功行賞を行ったとき、なお介子推を忘れた。まして驕った君主ならなおさらである。だから君主が臣下を統御する道は、もとより容易ではないのだ」。
解説
「あの名君ですら、功ある者への報いを、見落とした——人を正しく遇することは、それほど難しい」——司馬遷が、晋の文公を評しながら、リーダーの難しさを、嘆いた、この篇の結びです。司馬遷は、まず、晋の文公を、高く評価します。「晋の文公は、古来、いわゆる『明君(賢明な君主)』と、称される人物である」と。実際、彼は、諸侯の覇者となり、その名は、後世まで、輝いています。さらに、その苦労を、思いやります。「彼は、国を追われて、国外に亡命すること、十九年。その間、(想像を絶する、)困窮と、辛酸を、なめ尽くした」と。人の苦しみを、誰よりも、知っていたはずの人物です。ところが——司馬遷は、そこから、鋭い指摘へと、転じます。「それほどの、明君であり、それほどの、苦労人でありながら——いざ、即位して、(従ってくれた家臣たちに、)恩賞を行うときには、(最も無欲で、最も功のあった、)あの介子推の存在を、(うっかり、)忘れてしまったのだ(尚忘介子推)。(明君ですら、こうなのだ。)ましてや、(そもそも、)驕り高ぶった、凡庸な君主であれば——(功ある者を見落とし、正しく報いることなど、)どれほど、できないことか(況驕主乎)」と。そして、司馬遷は、深く嘆息して、篇を結びます。「だからこそ——君主が、その臣下たちを、(正しく見極め、正しく用い、正しく報いて、)統御するという道は、まことに、(想像以上に、)難しいものなのだ(君道之御其臣下、固不易哉)」と。ここに、人を遇することの難しさについての教訓があります。第一に、どれほど賢明で、苦労を知る、優れたリーダーですら——功ある者を、見落とし、正しく報いることを、忘れてしまう、ということ(明君ですら、介子推を忘れた)。人を、正しく評価し、報いることは、それほど、難しい。「自分は、公平に見ている」という、その油断こそが、危うい。第二に、とりわけ、(介子推のように、)自分から、功を主張せず、静かに貢献している者ほど、見落とされやすい、ということ。声の大きい者ばかりが、報われ、黙々と尽くす者が、忘れられる——それが、組織の、常の落とし穴である。第三に、だからこそ、リーダーは、(「自分は公平だ」と、驕らずに、)常に、「見落としている、功ある者は、いないか」と、意識して、探し続ける必要があるということ。組織やリーダーの立場で、賢明なリーダーですら功ある者を見落とすほど人を正しく報いるのは難しいと知ること、自ら功を主張しない静かな貢献者ほど見落とされやすいと自覚すること、そして常に見落としている功ある者はいないかと意識して探し続けること——司馬遷の「君道、固より易からざるかな」は、人を正しく遇することの、根本的な難しさを教えます。
この章句が説くこと
晋文公太史公評明君ですら介子推を忘れる況驕主乎人を正しく報いる難しさ君道之御其臣下固不易哉
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史記 晋世家介子推曰く、「獻公の子九人、唯だ君のみ在り。天未だ晉を絶たず、必ず将に主有らんとす。晉の祀を主る者、君に非ずして誰ぞ。天実に之を開く、二三子以て己の力と為す、亦た誣ならずや。人の財を竊むすら、猶ほ是れ盜と曰ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を冒し、上は其の姦を賞す、上下相蒙く、与に処り難し」と。
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史記 晋世家介子推の従者之を憐れみ、乃ち書を宮門に懸けて曰く、「龍天に上らんと欲す、五蛇輔と為る。龍已に雲に升り、四蛇各おの其の宇に入る、一蛇独り怨み、終に処所を見ず」と。文公出でて、其の書を見て、曰く、「此れ介子推なり。吾方に王室を憂へ、未だ其の功を図らず」と。人をして之を召さしむるも、則ち亡ぐ。遂に所在を求め、其の綿上の山中に入るを聞く、是に於て文公綿上の山中を環りて之を封じ、以て介推の田と為し、号して介山と曰ふ、「以て吾が過を記し、且つ善人を旌さん」と。
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説苑・復恩晋の文公亡ぐるの時、陶叔狐従ふ、文公国に反り、三たび賞を行ひて陶叔狐に及ばず、陶叔狐咎犯に見えて曰く、「吾君に従ひて亡ぐること十有三年、顔色黎黒、手足胼胝せり、今君国に反りて三たび賞を行ふも我に及ばず、意ふに君我を忘れたるか、我大故有るか、子試みに我が為に之を君に言へ」と。咎犯之を文公に言ふ、文公曰く、「嘻、我豈に是の子を忘れんや。夫れ高明至賢、徳行全誠、我を道を以て耽しませ、我を仁を以て説ばしめ、我が行ひを暴かに浣ひ、我が名を昭明にし、我をして成人為らしめし者は、吾以て上賞と為さん。我を礼を以て防ぎ、我を誼を以て諫め、我を蕃援して我をして非を為すを得ざらしめ、数々我を賢人の門に引きて請ひし者は、吾以て次賞と為さん。夫れ勇壮強禦、難前に在れば則ち前に居り、難後に在れば則ち後に居り、我を患難の中より免れしめし者は、吾又以て之が次と為さん。且つ子独り聞かざるか、人を死せしむる者は、人の身を存するに如かず、人を亡ぼす者は、人の国を存するに如かず、三行の賞の後にして、労苦の士之に次ぐ、夫れ労苦の士は、是れ子固に首為り、豈に敢へて子を忘れんや」と。周の内史叔輿之を聞きて曰く、「文公其れ霸たらんか。昔聖王は徳を先にして力を後にす、文公其れ之に当れり、詩に云く、『率履越えず』とは、此を之れ謂ふなり」と。晋の文公国に入るに、河に至り、籩豆茵席を棄てしめ、顔色黎黒、手足胼胝せる者を後に在らしむ、咎犯之を聞き、中夜にして哭す、文公曰く、「吾亡ぐること十有九年なり、今将に国に反らんとするに、夫子喜ばずして哭するは、何ぞや、其れ吾が国に反るを欲せざるか」と。対へて曰く、「籩豆茵席は、官する所以なるに、之を棄て、顔色黎黒、手足胼胝せるは、労苦を執る所以なるに、皆之を後にす、臣聞く、国君士を蔽へば、忠臣を取る所無く、大夫遊を蔽へば、忠友を取る所無し、と。今国に至るに、臣蔽ふ所の中に在り、其の哀しみに勝へず、故に哭するなり」と。文公曰く、「禍福利害咎氏と之を同じくせざれば、白水有るが如し」と、之を祝して、璧を刀にて沈めて盟す。介子推曰く、「献公の子九人、唯だ君のみ在るのみ、天未だ晋を絶たず、必ず主有らん、晋祀を主る者君に非ずして何ぞや、唯だ二三子の者以て己が力と為すは、亦た誣ならずや」と。文公即位するも、賞推に及ばず、推が母曰く、「盍ぞ亦た之を求めざる」と。推曰く、「尤めて之に效はば、罪又甚し、且つ怨言を出だせば、其の食を食らはず」と。其の母曰く、「亦た知らしめよ」と。推曰く、「言は身の文なり、身将に隠れんとす、安んぞ文を用ゐん」と。其の母曰く、「能く是の如くんば、若と俱に隠れん」と。死に至るまで復た推に見えず。従者之を憐みて、乃ち書を宮門に懸けて曰く、「龍有り矯矯たり、頃其の所を失ふ、五蛇之に従ひ、天下を周遍す、龍飢ゑて食無し、一蛇股を割く、龍其の淵に反り、其の壤土に安んず、四蛇穴に入り、皆処る所有り、一蛇穴無く、中野に号す」と。文公出でて書を見て曰く、「嗟此れ介子推なり、吾方に王室を憂ひて其の功を図らず」と。人をして之を召さしむるに則ち亡ぐ、遂に其の在る所を求む、其の綿上山中に入るを聞く。是に於て文公綿上山中を表して之を封じ、以て介推の田と為し、号して介山と曰ふ。
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呂氏春秋・介立①貴富を以て人を有するは易く、貧賤を以て人を有するは難し。今、晉の文公出亡し、天下を周流し、窮なり賤なり。而れども介子推の去らざるは、以て之を有する有ればなり。國に反りて萬乘を有す。而れども介子推の之を去るは、以て之を有する無ければなり。其の難きを能くするも、其の易きを能くせざるは、此れ文公の王たらざりし所以なり。晉の文公、國に反り、介子推、賞を受くるを肯ぜず、自ら為に詩を賦して曰く、「龍有り于に飛ばんとして、天下を周遍す。五蛇之に從い、之が丞輔を為す。龍其の鄉に反り、其の處所を得。四蛇之に從い、其の露雨を得たり。一蛇之を羞じ、中野に橋死す。」書を公門に懸けて、山下に伏る。文公之を聞きて曰く、「譆、此れ必ず介子推ならん。」舎を避け服を變じて、士庶人に令して曰く、「能く介子推を得る者有れば、上卿に爵し、田百萬。」或ひと之に山中に遇う。釜を負い簦を蓋う。焉に問いて曰く、「請い問う、介子推は安くにか在る。」之に應えて曰く、「夫れ介子推は苟くも見わるるを欲せずして隱れんと欲す、吾獨り焉ぞ之を知らん。」遂に背きて行き、終身見われず。人心の同じからざる、豈に甚だしからずや。今の世の利を逐う者は、早くに朝し晏くに退き、脣を焦がし嗌を乾かし、日夜之を思い、猶ほ未だ之れ得ること能わず。今之を得て務めて疾く之を逃る。介子推の俗を離るるや遠し。
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