師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 晋世家

獻公有意廢太子,乃曰:「曲沃吾先祖宗廟所在,而蒲邊秦,屈邊翟,不使諸子居之,我懼焉。」於是使太子申生居曲沃,公子重耳居蒲,公子夷吾居屈。獻公與驪姬子奚齊居絳。晉國以此知太子不立也。太子申生,其母齊桓公女也,曰齊姜,早死。申生同母女弟爲秦穆公夫人。重耳母,翟之狐氏女也。夷吾母,重耳母女弟也。獻公子八人,而太子申生、重耳、夷吾皆有賢行。及得驪姬,乃遠此三子。十六年,晉獻公作二軍。公將上軍,太子申生將下軍,趙夙御戎,畢萬爲右,伐滅霍,滅魏,滅耿。還,爲太子城曲沃,賜趙夙耿,賜畢萬魏,以爲大夫。士蒍曰:「太子不得立矣。分之都城,而位以卿,先爲之極,又安得立!不如逃之,無使罪至。爲呉太伯,不亦可乎,猶有令名。」太子不從。卜偃曰:「畢萬之後必大。萬,盈數也;魏,大名也。以是始賞,天開之矣。天子曰兆民,諸侯曰萬民,今命之大,以從盈數,其必有衆。」初,畢萬卜仕於晉國,遇屯之比。辛廖占之曰:「吉。屯固比入,吉孰大焉。其後必蕃昌。」十七年,晉侯使太子申生伐東山。裏克諫獻公曰:「太子奉冢祀社稷之粢盛,以朝夕視君膳者也,故曰冢子。君行則守,有守則從,從曰撫軍,守曰監國,古之制也。

新字:献公有意廃太子,乃曰:「曲沃吾先祖宗廟所在,而蒲辺秦,屈辺翟,不使諸子居之,我懼焉。」於是使太子申生居曲沃,公子重耳居蒲,公子夷吾居屈。献公与驪姫子奚斉居絳。晋国以此知太子不立也。太子申生,其母斉桓公女也,曰斉姜,早死。申生同母女弟為秦穆公夫人。重耳母,翟之狐氏女也。夷吾母,重耳母女弟也。献公子八人,而太子申生、重耳、夷吾皆有賢行。及得驪姫,乃遠此三子。十六年,晋献公作二軍。公将上軍,太子申生将下軍,趙夙御戎,畢万為右,伐滅霍,滅魏,滅耿。還,為太子城曲沃,賜趙夙耿,賜畢万魏,以為大夫。士蒍曰:「太子不得立矣。分之都城,而位以卿,先為之極,又安得立!不如逃之,無使罪至。為呉太伯,不亦可乎,猶有令名。」太子不従。卜偃曰:「畢万之後必大。万,盈数也;魏,大名也。以是始賞,天開之矣。天子曰兆民,諸侯曰万民,今命之大,以従盈数,其必有衆。」初,畢万卜仕於晋国,遇屯之比。辛廖占之曰:「吉。屯固比入,吉孰大焉。其後必蕃昌。」十七年,晋侯使太子申生伐東山。裏克諫献公曰:「太子奉冢祀社稷之粢盛,以朝夕視君膳者也,故曰冢子。君行則守,有守則従,従曰撫軍,守曰監国,古之制也。

書き下し

献公太子を廃するに意有り。乃ち曰く、「曲沃は吾が先祖の宗廟の在る所にして、蒲は秦に辺し、屈は翟に辺す。諸子をして之に居らしめずんば、我懼る」と。是に於て太子申生をして曲沃に居らしめ、公子重耳をして蒲に居らしめ、公子夷吾をして屈に居らしむ。献公驪姫の子奚斉と絳に居る。晋国此を以て太子の立たざるを知る。太子申生は、其の母は斉の桓公の女なり、斉姜と曰ひ、早く死す。申生の同母の女弟は秦の穆公の夫人為り。重耳の母は、翟の狐氏の女なり。夷吾の母は、重耳の母の女弟なり。献公の子八人、而して太子申生・重耳・夷吾は皆賢行有り。驪姫を得るに及びて、乃ち此の三子を遠ざく。十六年、晋の献公二軍を作る。公上軍に将たり、太子申生下軍に将たり。趙夙戎に御し、畢万右と為り、伐ちて霍を滅ぼし、魏を滅ぼし、耿を滅ぼす。還りて、太子の為に曲沃に城き、趙夙に耿を賜ひ、畢万に魏を賜ひ、以て大夫と為す。士蒍曰く、「太子立つを得ざらん。之に都城を分かち、而して位するに卿を以てし、先づ之が極を為す。又安んぞ立つを得ん。之を逃れて、罪をして至らしむること無きに如かず。呉の太伯と為るも、亦た可ならずや。猶ほ令名有らん」と。太子従はず。卜偃曰く、「畢万の後必ず大ならん。万は、盈数なり。魏は、大名なり。是を以て始めて賞す。天之を開けり。天子を兆民と曰ひ、諸侯を万民と曰ふ。今之に大を命じ、以て盈数に従ふ。其れ必ず衆有らん」と。初め、畢万晋国に仕ふることを卜し、屯の比に之くに遇ふ。辛廖之を占ひて曰く、「吉なり。屯は固く比は入る。吉孰れか焉より大ならん。其の後必ず蕃昌せん」と。十七年、晋侯太子申生をして東山を伐たしむ。里克献公を諫めて曰く、「太子は冢祀社稷の粢盛を奉じ、以て朝夕君の膳を視る者なり。故に冢子と曰ふ。君行けば則ち守り、守有れば則ち従ふ。従ふを撫軍と曰ひ、守るを監国と曰ふ。古の制なり。

現代語訳

献公は太子を廃する考えを持っていた。そこで言った。「曲沃はわが先祖の宗廟のある所で、蒲は秦と国境を接し、屈は翟と国境を接している。子どもたちをそこに住まわせなければ、私は不安だ」。こうして太子の申生を曲沃に、公子の重耳を蒲に、公子の夷吾を屈に住まわせた。献公は驪姫の子の奚斉と都の絳に住んだ。晋の人々はこれで、太子が位を継げないことを知った。太子申生の母は斉の桓公の娘で斉姜といい、早くに亡くなっていた。申生と同じ母の妹は秦の穆公の夫人となった。重耳の母は翟の狐氏の娘である。夷吾の母は重耳の母の妹である。献公には八人の子がいたが、太子申生・重耳・夷吾の三人はみな賢明な行いがあった。しかし献公は驪姫を得てから、この三人を遠ざけた。十六年、晋の献公は二つの軍を編成した。献公が上軍を率い、太子申生が下軍を率いた。趙夙が献公の戦車の御者となり、畢万が車の右の護衛役となり、霍・魏・耿を攻め滅ぼした。帰還すると、太子のために曲沃に城を築き、趙夙に耿を与え、畢万に魏を与えて、それぞれ大夫とした。士蒍は言った。「太子は位を継げないだろう。都の城を分け与え、卿の位につけて、先に臣下としての最高の地位を与えてしまった。これでどうして君主に立てようか。逃げ去って、罪が身に及ばないようにするほうがよい。呉の太伯(弟に位を譲って国を去った人物)のようになるのも、よいではないか。そうすればなおよい名を残せる」。太子は従わなかった。卜偃は言った。「畢万の子孫は必ず大きくなるだろう。万は数が満ちることを表し、魏は大きいという意味の名だ。これで初めて恩賞を受けたのは、天がその道を開いたのだ。天子の民を兆民といい、諸侯の民を万民という。いま大きな名を与えられ、しかも満ちた数の名に合っている。必ず多くの民を持つようになるだろう」。これより前、畢万が晋に仕えるかどうかを占ったところ、屯の卦が比の卦に変わる卦を得た。辛廖はこれを占って言った。「吉だ。屯は堅固を表し、比は親しみ入ることを表す。これ以上の吉はない。その子孫は必ず栄えるだろう」。十七年、晋侯(献公)は太子申生に東山を攻めさせた。里克は献公を諫めて言った。「太子は宗廟や社稷の祭りの供物を司り、朝夕に君の食膳を見守る者だ。だから冢子(家を継ぐ子)という。君が出かければ国を守り、守る者がいれば君に従う。従うことを撫軍、守ることを監国という。これが古来の決まりだ。

解説

晋の献公が驪姫を寵愛し、太子申生を廃しようとする動きが表に出てくる段です。献公は国境の守りを口実に、申生・重耳・夷吾の三人の賢い公子を地方に出し、自分は驪姫の子の奚斉と都に住みました。人々はこれで太子の地位が危ういと悟ります。さらに献公は申生に軍を率いさせて功を立てさせ、城を与えて卿の位に就けますが、士蒍は「臣下として最高の地位を先に与えたのは、君主にはしないという意味だ」と見抜き、呉の太伯のように国を去るよう勧めます。一方で、魏を与えられた畢万の子孫が大いに栄えるという予言は、のちに魏が三晋の一つとなって諸侯になることの伏線です。最後に里克は、太子は国に残って祭祀と国を守るのが本来の役目だと述べ、太子に軍を率いさせることを諫めます。役割にそぐわない仕事を与えられるのは、ときに排除の前触れでもあるのです。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る