史記 / 晋世家
小子元年,曲沃武公使韓萬殺所虜晉哀侯。曲沃益彊,晉無如之何。晉小子之四年,曲沃武公誘召晉小子殺之。周桓王使虢仲伐曲沃武公,武公入于曲沃,乃立晉哀侯弟緡爲晉侯。晉侯緡四年,宋執鄭祭仲而立突爲鄭君。晉侯十九年,齊人管至父弒其君襄公。晉侯二十八年,齊桓公始霸。曲沃武公伐晉侯緡,滅之,盡以其寶器賂獻于周釐王。釐王命曲沃武公爲晉君,列爲諸侯,於是盡併晉地而有之。曲沃武公已卽位三十七年矣,更號曰晉武公。晉武公始都晉國,前卽位曲沃,通年三十八年。武公稱者,先晉穆侯曾孫也,曲沃桓叔孫也。桓叔者,始封曲沃。武公,莊伯子也。自桓叔初封曲沃以至武公滅晉也,凡六十七歳,而卒代晉爲諸侯。武公代晉二歳,卒。與曲沃通年,卽位凡三十九年而卒。子獻公詭諸立。獻公元年,周惠王弟穨攻惠王,惠王出奔,居鄭之櫟邑。五年,伐驪戎,得驪姬、驪姬弟,倶愛幸之。八年,士蒍説公曰:「故晉之群公子多,不誅,亂且起。」乃使盡殺諸公子,而城聚都之,命曰絳,始都絳。九年,晉群公子旣亡奔虢,虢以其故再伐晉,弗克。十年,晉欲伐虢,士蒍曰:「且待其亂。」十二年,驪姬生奚齊。
新字:小子元年,曲沃武公使韓万殺所虜晋哀侯。曲沃益彊,晋無如之何。晋小子之四年,曲沃武公誘召晋小子殺之。周桓王使虢仲伐曲沃武公,武公入于曲沃,乃立晋哀侯弟緡為晋侯。晋侯緡四年,宋執鄭祭仲而立突為鄭君。晋侯十九年,斉人管至父弒其君襄公。晋侯二十八年,斉桓公始覇。曲沃武公伐晋侯緡,滅之,尽以其宝器賂献于周釐王。釐王命曲沃武公為晋君,列為諸侯,於是尽併晋地而有之。曲沃武公已即位三十七年矣,更号曰晋武公。晋武公始都晋国,前即位曲沃,通年三十八年。武公称者,先晋穆侯曽孫也,曲沃桓叔孫也。桓叔者,始封曲沃。武公,荘伯子也。自桓叔初封曲沃以至武公滅晋也,凡六十七歳,而卒代晋為諸侯。武公代晋二歳,卒。与曲沃通年,即位凡三十九年而卒。子献公詭諸立。献公元年,周恵王弟穨攻恵王,恵王出奔,居鄭之櫟邑。五年,伐驪戎,得驪姫、驪姫弟,倶愛幸之。八年,士蒍説公曰:「故晋之群公子多,不誅,乱且起。」乃使尽殺諸公子,而城聚都之,命曰絳,始都絳。九年,晋群公子既亡奔虢,虢以其故再伐晋,弗克。十年,晋欲伐虢,士蒍曰:「且待其乱。」十二年,驪姫生奚斉。
書き下し
小子の元年、曲沃の武公韓万をして虜とする所の晋の哀侯を殺さしむ。曲沃益々彊く、晋之を如何ともする無し。晋の小子の四年、曲沃の武公晋の小子を誘ひ召して之を殺す。周の桓王虢仲をして曲沃の武公を伐たしむ。武公曲沃に入る。乃ち晋の哀侯の弟緡を立てて晋侯と為す。晋侯緡の四年、宋鄭の祭仲を執へて突を立てて鄭君と為す。晋侯の十九年、斉人管至父其の君襄公を弑す。晋侯の二十八年、斉の桓公始めて覇たり。曲沃の武公晋侯緡を伐ち、之を滅ぼし、尽く其の宝器を以て周の釐王に賂献す。釐王曲沃の武公に命じて晋君と為し、列して諸侯と為す。是に於て尽く晋の地を併せて之を有つ。曲沃の武公已に即位して三十七年なり。更に号して晋の武公と曰ふ。晋の武公始めて晋国に都す。前に曲沃に即位し、年を通じて三十八年なり。武公称は、先の晋の穆侯の曾孫なり、曲沃の桓叔の孫なり。桓叔は、始めて曲沃に封ぜらる。武公は、荘伯の子なり。桓叔の初めて曲沃に封ぜられしより以て武公の晋を滅ぼすに至るまで、凡そ六十七歳にして、卒に晋に代はりて諸侯と為る。武公晋に代はりて二歳にして卒す。曲沃と年を通じて、即位して凡そ三十九年にして卒す。子の献公詭諸立つ。献公の元年、周の恵王の弟穨恵王を攻め、恵王出奔し、鄭の櫟邑に居る。五年、驪戎を伐ち、驪姫・驪姫の弟を得て、倶に之を愛幸す。八年、士蒍公に説きて曰く、「故の晋の群公子多し。誅せずんば、乱且に起こらんとす」と。乃ち尽く諸公子を殺さしめ、而して聚に城きて之に都し、命じて絳と曰ひ、始めて絳に都す。九年、晋の群公子既に亡げて虢に奔る。虢其の故を以て再び晋を伐つも、克たず。十年、晋虢を伐たんと欲す。士蒍曰く、「且く其の乱るるを待て」と。十二年、驪姫奚斉を生む。
現代語訳
小子侯の元年、曲沃の武公は韓万に命じて、捕虜にしていた晋の哀侯を殺させた。曲沃はますます強くなり、晋にはどうすることもできなかった。晋の小子侯の四年、曲沃の武公は小子侯を誘い出して殺した。周の桓王は虢仲に曲沃の武公を討たせ、武公は曲沃に立てこもった。周は晋の哀侯の弟の緡を晋侯に立てた。晋侯緡の四年、宋が鄭の祭仲を捕らえ、突を鄭の君主に立てさせた。晋侯緡の十九年、斉の管至父がその君の襄公を殺した。晋侯緡の二十八年、斉の桓公が初めて覇者となった。曲沃の武公は晋侯緡を攻めて滅ぼし、晋の宝器をすべて周の釐王に献上して取り入った。釐王は曲沃の武公を晋の君主に任じ、諸侯に列した。こうして武公は晋の領地をすべて併合して自分のものとした。曲沃の武公はこのとき、すでに即位して三十七年になっていた。あらためて晋の武公と称した。晋の武公は初めて晋の都に住んだ。それ以前は曲沃で即位しており、通算すると在位三十八年になる。武公称は、先代の晋の穆侯の曾孫で、曲沃の桓叔の孫である。桓叔は初めて曲沃に封じられた人物であり、武公は荘伯の子である。桓叔が初めて曲沃に封じられてから武公が晋を滅ぼすまで、およそ六十七年を経て、ついに曲沃の家が晋の本家に代わって諸侯となったのである。武公は晋の本家に代わって二年で亡くなった。曲沃での年と合わせると、在位はおよそ三十九年である。子の献公詭諸が立った。献公の元年、周の恵王の弟の穨が恵王を攻め、恵王は国を出て鄭の櫟邑に住んだ。五年、献公は驪戎を攻め、驪姫とその妹を得て、二人とも寵愛した。八年、士蒍が献公に説いた。「もとの晋の公子たちが多い。これを誅さなければ、乱が起こるだろう」。そこで公子たちをすべて殺させ、聚に城を築いてそこを都とし、絳と名づけた。晋はここに初めて絳を都とした。九年、晋の公子たちで生き残った者が虢に逃れた。虢はそれを理由に二度にわたって晋を攻めたが、勝てなかった。十年、晋は虢を攻めようとした。士蒍は言った。「しばらく虢が乱れるのを待とう」。十二年、驪姫が奚斉を産んだ。
解説
関連する章句
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史記 晋世家殤叔の三年、周の宣王崩ず。四年、穆侯の太子仇其の徒を率ゐて殤叔を襲ひて立つ。是を文侯と為す。文侯の十年、周の幽王無道にして、犬戎幽王を殺し、周東に徙る。而して秦の襄公始めて列して諸侯と為る。三十五年、文侯仇卒し、子の昭侯伯立つ。昭侯の元年、文侯の弟成師を曲沃に封ず。曲沃の邑は翼より大なり。翼は、晋君の都邑なり。成師曲沃に封ぜられ、号して桓叔と為す。靖侯の庶孫欒賓桓叔に相たり。桓叔是の時年五十八なり。徳を好み、晋国の衆皆焉に附く。君子曰く、「晋の乱は其れ曲沃に在らん。末本より大にして民心を得たり。乱れずして何をか待たん」と。七年、晋の大臣潘父其の君昭侯を弑して曲沃の桓叔を迎ふ。桓叔晋に入らんと欲す。晋人兵を発して桓叔を攻む。桓叔敗れ、還りて曲沃に帰る。晋人共に昭侯の子平を立てて君と為す。是を孝侯と為す。潘父を誅す。孝侯の八年、曲沃の桓叔卒し、子の胛(鱓)桓叔(に代はる)。是を曲沃の荘伯と為す。孝侯の十五年、曲沃の荘伯其の君晋の孝侯を翼に弑す。晋人曲沃の荘伯を攻め、荘伯復た曲沃に入る。晋人復た孝侯の子郄を立てて君と為す。是を鄂侯と為す。鄂侯の二年、魯の隠公初めて立つ。鄂侯六年にして卒す。曲沃の荘伯晋の鄂侯の卒せしを聞き、乃ち兵を興して晋を伐つ。周の平王虢公をして兵を将ゐて曲沃の荘伯を伐たしむ。荘伯走りて曲沃を保つ。晋人共に鄂侯の子光を立つ。是を哀侯と為す。哀侯の二年、曲沃の荘伯卒し、子の称荘伯に代はりて立つ。是を曲沃の武公と為す。哀侯の六年、魯其の君隠公を弑す。哀侯の八年、晋陘廷を侵す。陘廷曲沃の武公と謀り、九年、晋を汾の旁に伐ち、哀侯を虜にす。晋人乃ち哀侯の子小子を立てて君と為す。是を小子侯と為す。
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史記 晋世家是の時に当たりて、晋国の政は皆知伯に決し、晋の哀公制する所有るを得ず。知伯遂に范・中行の地を有ち、最も彊し。哀公の四年、趙襄子・韓康子・魏桓子共に知伯を殺し、尽く其の地を并す。十八年、哀公卒し、子の幽公柳立つ。幽公の時、晋畏れ、反って韓・趙・魏の君に朝す。独り絳・曲沃のみを有ち、余は皆三晋に入る。十五年、魏の文侯初めて立つ。十八年、幽公婦人に淫し、夜窃かに邑中に出づ。盗幽公を殺す。魏の文侯兵を以て晋の乱を誅し、幽公の子止を立つ。是を烈公と為す。烈公の十九年、周の威烈王趙・韓・魏に賜ひて皆命じて諸侯と為す。二十七年、烈公卒し、子の孝公頎立つ。孝公の九年、魏の武侯初めて立ち、邯鄲を襲ふも、勝たずして去る。十七年、孝公卒し、子の静公倶酒立つ。是の歳、斉の威王の元年なり。静公の二年、魏の武侯・韓の哀侯・趙の敬侯晋の後を滅ぼして其の地を三分す。静公遷されて家人と為り、晋絶えて祀られず。
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史記 秦本紀是に於て文公遂に周の余民を収めて之を有ち、地岐に至り、岐以東は之を周に献ず。十九年、陳宝を得。二十年、法に初めて三族の罪有り。二十七年、南山の大梓を伐ち、豊大特あり。四十八年、文公の太子卒す。謚を賜ひて竫公と為す。竫公の長子を太子と為す。是れ文公の孫なり。五十年、文公卒し、西山に葬る。竫公の子立つ。是を寧公と為す。寧公の二年、公徙りて平陽に居る。兵を遣はして蕩社を伐つ。三年、亳と戦ふ。亳王戎に奔り、遂に蕩社を滅ぼす。四年、魯の公子翬其の君隠公を弒す。十二年、蕩氏を伐ちて、之を取る。寧公生まれて十歳にして立ち、立つこと十二年にして卒し、西山に葬る。子三人を生む。長男武公太子と為る。武公の弟徳公は、同母にして魯姫の子なり。出子を生む。寧公卒し、大庶長弗忌・威塁・三父太子を廃して出子を立てて君と為す。出子の六年、三父等復た共に人をして出子を賊殺せしむ。出子生まれて五歳にして立ち、立つこと六年にして卒す。三父等乃ち復た故の太子武公を立つ。武公の元年、彭戯氏を伐ち、華山の下に至り、平陽の封宮に居る。三年、三父等を誅して三族を夷す、其の出子を殺せしを以てなり。鄭の高渠瞇其の君昭公を殺す。十年、邽・冀の戎を伐ち、初めて之を県とす。十一年、初めて杜・鄭を県とす。小虢を滅ぼす。十三年、斉人管至父・連称等其の君襄公を殺して公孫無知を立つ。晋霍・魏・耿を滅ぼす。斉の雍廩無知・管至父等を殺して斉の桓公を立つ。斉・晋彊国と為る。十九年、晋の曲沃始めて晋侯と為る。斉の桓公鄄に伯たり。二十年、武公卒し、雍の平陽に葬る。初めて人を以て死に従はしむ。死に従ふ者六十六人。子一人有り、名を白と曰ふ。白立たず、平陽に封ず。其の弟徳公を立つ。
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史記 晋世家子圉遂に亡げて晋に帰る。十四年九月、恵公卒し、太子圉立つ。是を懐公と為す。子圉の亡ぐるや、秦之を怨み、乃ち公子重耳を求め、之を内れんと欲す。子圉の立つや、秦の伐たんことを畏る。乃ち国中の諸々の重耳に従ひて亡げし者に令して与に期し、期尽きて到らざる者は尽く其の家を滅ぼさんとす。狐突の子毛及び偃重耳に従ひて秦に在り。召すを肯ぜず。懐公怒り、狐突を囚ふ。突曰く、「臣の子重耳に事ふること年数有り。今之を召すは、是れ之に君に反くことを教ふるなり。何を以て之を教へん」と。懐公卒に狐突を殺す。秦の繆公乃ち兵を発して送りて重耳を内れ、人をして欒・郤の党に告げて内応を為さしめ、懐公を高梁に殺し、重耳を入る。重耳立つ。是を文公と為す。晋の文公重耳は、晋の献公の子なり。少きより士を好み、年十七にして、賢士五人有り。趙衰と曰ひ、狐偃咎犯、文公の舅なり、賈佗、先軫、魏武子なり。献公の太子為りし時より、重耳固より已に成人たり。献公即位するとき、重耳年二十一なり。献公の十三年、驪姫の故を以て、重耳蒲城に備へて秦を守る。献公の二十一年、献公太子申生を殺す。驪姫之を讒す。恐れて、献公に辞せずして蒲城を守る。献公の二十二年、献公宦者履鞮をして趣(すみ)やかに重耳を殺さしむ。重耳垣を踰ゆ。宦者逐ひて其の衣袪を斬る。重耳遂に狄に奔る。狄は、其の母の国なり。是の時重耳年四十三なり。此の五士に従ひ、其の余の名あらざる者数十人、狄に至る。狄咎如を伐ち、二女を得たり。長女を以て重耳に妻し、伯鯈・叔劉を生む。少女を以て趙衰に妻し、盾を生む。狄に居ること五歳にして晋の献公卒す。里克已に奚斉・悼子を殺し、乃ち人をして迎へしめ、重耳を立てんと欲す。重耳殺されんことを畏れ、因りて固く謝し、敢て入らず。已にして晋更に其の弟夷吾を迎へて之を立つ。是を恵公と為す。
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