甲陽軍鑑 / 品第十四
長坂長閑·跡部大炊介殿就中右申す、長篠合戰に、馬塲美濃守·山縣三郞兵衞·内藤修理正三人三ヶ條の諫を申たると、阿部加賀守がかたり候大敵にあふては、隱れ遊をなさるゝ物と聞及び申候間、先づ甲州へ馬を入給ひ、信長·家康きほひかゝつて跡をしたひ申さば、信濃の內迄入ルたて、一合戰被成ば、そこにては敵大軍なり共、勝賴公の御勝ならんと申すに、長坂長閑申すは、新羅三郞公より武田始りて信玄公迄廿七代の間、敵を見て引き籠り給ふことなきに、廿八代目勝賴公の御代にけんをまはし給はんこといかどと申すに付き、勝賴公其儀に任せ引入給はず、
新字:長坂長閑·跡部大炊介殿就中右申す、長篠合戦に、馬塲美濃守·山県三郎兵衛·内藤修理正三人三ヶ条の諫を申たると、阿部加賀守がかたり候大敵にあふては、隠れ遊をなさるゝ物と聞及び申候間、先づ甲州へ馬を入給ひ、信長·家康きほひかゝつて跡をしたひ申さば、信濃の内迄入ルたて、一合戦被成ば、そこにては敵大軍なり共、勝頼公の御勝ならんと申すに、長坂長閑申すは、新羅三郎公より武田始りて信玄公迄廿七代の間、敵を見て引き籠り給ふことなきに、廿八代目勝頼公の御代にけんをまはし給はんこといかどと申すに付き、勝頼公其儀に任せ引入給はず、
書き下し
長坂長閑·跡部大炊介殿就中右申す、長篠合戦に、馬塲美濃守·山県三郎兵衛·内藤修理正三人三ヶ条の諫を申たると、阿部加賀守がかたり候大敵にあふては、隠れ遊をなさるゝ物と聞及び申候間、先づ甲州へ馬を入給ひ、信長·家康きほひかゝつて跡をしたひ申さば、信濃の内迄入ルたて、一合戦被成ば、そこにては敵大軍なり共、勝頼公の御勝ならんと申すに、長坂長閑申すは、新羅三郎公より武田始りて信玄公迄廿七代の間、敵を見て引き籠り給ふことなきに、廿八代目勝頼公の御代にけんをまはし給はんこといかどと申すに付き、勝頼公其儀に任せ引入給はず、
現代語訳
長坂長閑・跡部大炊介殿、とりわけ右に申す長篠合戦で、馬場美濃守・山県三郎兵衛・内藤修理正の三人が三か条の諫めを申したと阿部加賀守が語った。大敵にあっては隠れ遊び(退き)をなさるものと聞き及んでおりますので、まず甲州へ馬を入れられ、信長・家康が勢いづいて後を追って来たならば、信濃の内まで引き入れて一合戦なされば、そこでは敵が大軍であっても勝頼公のお勝ちでありましょう、と申すと、長坂長閑が申すには、新羅三郎公から武田が始まって信玄公まで二十七代の間、敵を見て引き籠られたことはないのに、二十八代目勝頼公の御代に、背を見せられることはいかがか、と申したので、勝頼公はその儀に任せて引き入れられなかった。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四又馬塲美濃申すは、さらば城を責め落とし掃地をいたし城に屋形を置キ奉りて逍遥軒公を始め御親類衆を悉くうしろに陣をとらせ申シ、惣人数は御旗本の先きそへにして、山県と内藤と拙者と三頭川を越し時々のせりあひをして長陣をはるに付きては、みかたは信州より人夫の運送近し、敵は河内和泉の人数もあれば、長陣ならずして終には信長ひき申すべしとある所に、長坂長閑申すは、それは馬塲美濃あしき分別なり、信長はどの大将がたど引き候はんや、をしかけて軍をする時は如何と長閑いへば、馬塲美濃申さるゝ、そこにては合戦をなされで叶はぬ事と云ふ、長閑申すは、あなたにしかけられて合戦なされんも、此方よりすゝみ給はんも、ひとつ道理にて候と申上れば、
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史記 刺客列伝其の後秦日に兵を山東に出だして以て斉・楚・三晋を伐ち、稍く諸侯を蚕食し、且に燕に至らんとす。燕の君臣皆禍の至らんことを恐る。太子丹之を患ひ、其の傅鞠武に問ふ。武対へて曰く、「秦の地は天下に遍く、韓・魏・趙氏を威脅す。北に甘泉・谷口の固め有り、南に涇・渭の沃有り、巴・漢の饒を擅にし、隴・蜀の山を右にし、関・殽の険を左にす。民衆くして士厲しく、兵革余り有り。意出だす所有らば、則ち長城の南、易水以北、未だ定まる所有らず。柰何ぞ陵がるるの怨みを以て、其の逆鱗を批かんと欲するや」と。丹曰く、「然らば則ち何に由らん」と。対へて曰く、「請ふ入りて之を図らん」と。居ること閒有りて、秦将樊於期罪を秦王に得て、亡げて燕に之く。太子受けて之を舎す。鞠武諫めて曰く、「不可なり。夫れ秦王の暴を以て怒りを燕に積む、寒心するに足る。又況んや樊将軍の在る所を聞くをや。是れ『肉を委ねて餓虎の蹊に当つ』と謂ふなり。禍必ず振はざらん。管・晏有りと雖も、之が為に謀る能はざるなり。願はくは太子疾く樊将軍を遣りて匈奴に入れ以て口を滅せよ。請ふ西のかた三晋と約し、南のかた斉・楚と連なり、北のかた単于に購はん。其の後乃ち図るべきなり」と。太子曰く、「太傅の計は、日を曠しくし弥々久し。心惛然として、恐らくは須臾する能はず。且つ独り此のみに非ざるなり。夫れ樊将軍は天下に窮困し、身を丹に帰す。丹終に彊秦に迫らるるを以て哀憐する所の交はりを棄て、之を匈奴に置かず。是れ固より丹の命卒るの時なり。願はくは太傅更に之を慮れ」と。鞠武曰く、「夫れ危ふきを行ひて安きを求め、禍を造りて福を求め、計浅くして怨み深く、一人の後交を連結して、国家の大害を顧みず、此れ所謂『怨みに資して禍を助く』なり。夫れ鴻毛を以て炉炭の上に燎く、必ず事無からん。且つ鵰鷙の秦を以て、怨暴の怒りを行ふ、豈に道ふに足らんや。
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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『甲陽軍鑑』品第十三爰に長尾いげん入道とて上杉家の功者にて、北条家のこと則政公へ度々諫を申し、則政公合点ありて又崇敬有る、すがの·上原に相尋ね給へば、上原兵庫·すがの大膳両人申上るいげん入道さすがの者にて候へ共、老耄仕り功者も跡になる分別にて候、子細は北条小敵にて候へば誅罰せんこと何時にも罷成べし、夫は余り安きことな親しまれり、さるに付てはたゞ御手前の大身衆によくしみられ給ふやう成を我々は肝要に分別仕り候、
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史記 宋微子世家公子目夷諫めて曰く、「小国盟を争ふは、禍なり」と。聴かず。秋、諸侯宋公に会して盂に盟ふ。目夷曰く、「禍其れ此に在らんか。君の欲已に甚だし。何を以て之に堪へん」と。是に於て楚宋の襄公を執へて以て宋を伐つ。冬、亳に会し、以て宋公を釈す。子魚曰く、「禍猶ほ未だし」と。十三年夏、宋鄭を伐つ。子魚曰く、「禍此に在り」と。秋、楚宋を伐ちて以て鄭を救ふ。襄公将に戦はんとす。子魚諫めて曰く、「天の商を棄つること久し。不可なり」と。冬十一月、襄公楚の成王と泓に戦ふ。楚人未だ済らず。目夷曰く、「彼は衆く我は寡し。其の未だ済らざるに及びて之を撃たん」と。公聴かず。已に済りて未だ陳せず。又曰く、「撃つべし」と。公曰く、「其の已に陳するを待て」と。陳成りて、宋人之を撃つ。宋の師大いに敗れ、襄公股を傷つく。国人皆公を怨む。公曰く、「君子は人を阸(やく)に困しめず、列を成さざるに鼓せず」と。子魚曰く、「兵は勝つを以て功と為す。何ぞ常言あらんや。必ず公の言の如くならば、即ち之に奴事せんのみ。又何ぞ戦ふことを為さん」と。楚の成王已に鄭を救ふ。鄭之を享す。去りて鄭の二姫を取りて以て帰る。叔瞻曰く、「成王礼無し。其れ没せざらんか。礼を為して卒に別無し。以て其の覇を遂げざるを知る有り」と。是の年、晋の公子重耳宋を過ぐ。襄公楚に傷つけらるるを以て、晋の援けを得んと欲し、厚く重耳に礼するに馬二十乗を以てす。十四年夏、襄公泓に傷つけられしを病みて竟に卒し、子の成公王臣立つ。成公の元年、晋の文公即位す。三年、楚の盟に倍きて晋に親しむ。文公に徳有るを以てなり。四年、楚の成王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。五年、晋の文公宋を救ひ、楚の兵去る。九年、晋の文公卒す。十一年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。十六年、秦の穆公卒す。十七年、成公卒す。成公の弟御、太子及び大司馬公孫固を殺して自立して君と為る。
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『甲陽軍鑑』品第十三世中に親の子を思ふはめづらしからず、但し男女のあはれむ事各別なり、子細はおさなき者、虫気なるに、男は炙を仕る、童はなきて父を怖てよりつかず、されども後は薬となり、母は子童なくをいたはりて灸をせず候、よつて当時母にはしみつくといへ共、後は病つのりて眼つぶれ、あしく取まはせば死する時、はゝ後にくゆる、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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