史記 / 衛康叔世家
愼公父,公子適;適父,敬公也。愼公四十二年卒,子聲公訓立。聲公十一年卒,子成侯遫立。成侯十一年,公孫鞅入秦。十六年,衞更貶號曰侯。二十九年,成侯卒,子平侯立。平侯八年卒,子嗣君立。嗣君五年,更貶號曰君,獨有濮陽。四十二年卒,子懷君立。懷君三十一年,朝魏,魏囚殺懷君。魏更立嗣君弟,是爲元君。元君爲魏婿,故魏立之。元君十四年,秦拔魏東地,秦初置東郡,更徙衞野王縣,而并濮陽爲東郡。二十五年,元君卒,子君角立。君角九年,秦併天下,立爲始皇帝。二十一年,二世廢君角爲庶人,衞絶祀。太史公曰:余讀世家言,至於宣公之太子以婦見誅,弟壽爭死以相讓,此與晉太子申生不敢明驪姬之過同,倶惡傷父之志。然卒死亡,何其悲也!或父子相殺,兄弟相滅,亦獨何哉?
新字:慎公父,公子適;適父,敬公也。慎公四十二年卒,子声公訓立。声公十一年卒,子成侯遫立。成侯十一年,公孫鞅入秦。十六年,衛更貶号曰侯。二十九年,成侯卒,子平侯立。平侯八年卒,子嗣君立。嗣君五年,更貶号曰君,独有濮陽。四十二年卒,子懐君立。懐君三十一年,朝魏,魏囚殺懐君。魏更立嗣君弟,是為元君。元君為魏婿,故魏立之。元君十四年,秦抜魏東地,秦初置東郡,更徙衛野王県,而并濮陽為東郡。二十五年,元君卒,子君角立。君角九年,秦併天下,立為始皇帝。二十一年,二世廃君角為庶人,衛絶祀。太史公曰:余読世家言,至於宣公之太子以婦見誅,弟寿争死以相譲,此与晋太子申生不敢明驪姫之過同,倶悪傷父之志。然卒死亡,何其悲也!或父子相殺,兄弟相滅,亦独何哉?
書き下し
慎公の父は、公子適なり。適の父は、敬公なり。慎公四十二年にして卒し、子の声公訓立つ。声公十一年にして卒し、子の成侯遫立つ。成侯の十一年、公孫鞅秦に入る。十六年、衛更に号を貶して侯と曰ふ。二十九年、成侯卒し、子の平侯立つ。平侯八年にして卒し、子の嗣君立つ。嗣君の五年、更に号を貶して君と曰ひ、独り濮陽を有つ。四十二年にして卒し、子の懐君立つ。懐君の三十一年、魏に朝す。魏懐君を囚へて殺す。魏更に嗣君の弟を立つ。是を元君と為す。元君は魏の婿為り。故に魏之を立つ。元君の十四年、秦魏の東地を抜き、秦初めて東郡を置き、更に衛を野王県に徙し、而して濮陽を并せて東郡と為す。二十五年、元君卒し、子の君角立つ。君角の九年、秦天下を併せ、立ちて始皇帝と為る。二十一年、二世君角を廃して庶人と為し、衛祀を絶つ。太史公曰く、余世家の言を読み、宣公の太子の婦を以て誅せられ、弟寿死を争ひて以て相譲るに至る。此れ晋の太子申生の敢て驪姫の過ちを明らかにせざると同じく、倶に父の志を傷つくるを悪む。然れども卒に死亡す。何ぞ其れ悲しきや。或いは父子相殺し、兄弟相滅ぼす。亦た独り何ぞや。
現代語訳
慎公の父は公子適で、適の父は敬公である。慎公は在位四十二年で亡くなり、子の声公訓が立った。声公は在位十一年で亡くなり、子の成侯遫が立った。成侯の十一年、公孫鞅(のちの商鞅)が衛を出て秦に入った。十六年、衛はさらに称号を下げて侯と称した。二十九年、成侯が亡くなり、子の平侯が立った。平侯は在位八年で亡くなり、子の嗣君が立った。嗣君の五年、さらに称号を下げて君と称し、濮陽だけを領有するようになった。嗣君は在位四十二年で亡くなり、子の懐君が立った。懐君の三十一年、懐君は魏に参朝したが、魏は懐君を捕らえて殺した。魏はあらためて嗣君の弟を立てた。これが元君である。元君は魏の娘婿だったので、魏が立てたのである。元君の十四年、秦が魏の東部の地を奪い、初めて東郡を置いた。そして衛を野王県に移し、濮陽を東郡に組み入れた。二十五年、元君が亡くなり、子の君角が立った。君角の九年、秦が天下を統一し、秦王は始皇帝となった。二十一年、二世皇帝が君角を廃して庶民とし、衛の祭祀は絶えた。太史公(司馬遷)は言う。私は世家の記録を読んで、宣公の太子(伋)が妻のことが原因で殺され、弟の寿が死を争って互いに譲り合ったくだりに至った。これは晋の太子申生が驪姫の罪をあえて明らかにしなかったのと同じで、どちらも父の心を傷つけることを嫌ったのである。それでも結局は死んでしまった。なんと悲しいことか。ある者は父と子が殺し合い、兄弟が滅ぼし合う。これはいったいどういうことなのか。
解説
関連する章句
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史記 衛康叔世家太子伋の同母弟二人あり。其の一を黔牟と曰ふ。黔牟嘗て恵公に代はりて君と為り、八年にして復た去る。其の二を昭伯と曰ふ。昭伯・黔牟皆已に前に死す。故に昭伯の子申を立てて戴公と為す。戴公卒し、復た其の弟燬を立てて文公と為す。文公初めて立ち、賦を軽くし罪を平らかにし、身自ら労し、百姓と苦を同じくし、以て衛の民を収む。十六年、晋の公子重耳過ぐ。礼無し。十七年、斉の桓公卒す。二十五年、文公卒し、子の成公鄭立つ。成公の三年、晋道を衛に仮りて宋を救はんと欲す。成公許さず。晋更に南河より度りて宋を救ふ。師を衛に徴す。衛の大夫許さんと欲するも、成公肯ぜず。大夫元咺成公を攻め、成公出奔す。晋の文公重耳衛を伐ち、其の地を分かちて宋に予ふ。前の過ぎりしときの無礼及び宋の患ひを救はざりしことを討つなり。衛の成公遂に出でて陳に奔る。二歳、周に如きて入らんことを求め、晋の文公と会す。晋人をして衛の成公に鴆せしむ。成公周の主鴆に私し、薄からしめ、死せざるを得たり。已にして周為に晋の文公に請ひ、卒に之を衛に入れ、而して元咺を誅す。衛君瑕出奔す。七年、晋の文公卒す。十二年、成公晋の襄公に朝す。十四年、秦の穆公卒す。二十六年、斉の邴歜其の君懿公を弑す。三十五年、成公卒し、子の穆公遫立つ。穆公の二年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭降り、復た之を釈す。十一年、孫良夫魯を救ひて斉を伐ち、復た侵地を得たり。穆公卒し、子の定公臧立つ。定公十二年にして卒し、子の献公衎立つ。献公の十三年、公師曹をして宮妾に琴を鼓くことを教へしむ。妾善くせず、曹之を笞うつ。妾幸を以て曹を公に悪しざまにす。公も亦た曹を笞うつこと三百。十八年、献公孫文子・甯恵子を戒めて食せしむ。皆往く。日旰(く)るるも召さず、而して去りて鴻を囿に射る。
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史記 衛康叔世家成王長じて、事を用ひ、康叔を挙げて周の司寇と為し、衛に宝祭器を賜ひ、以て有徳を章(あら)はす。康叔卒し、子の康伯代はり立つ。康伯卒し、子の考伯立つ。考伯卒し、子の嗣伯立つ。嗣伯卒し、子の偼伯立つ。偼伯卒し、子の靖伯立つ。靖伯卒し、子の貞伯立つ。貞伯卒し、子の頃侯立つ。頃侯厚く周の夷王に賂ひ、夷王衛に命じて侯と為す。頃侯立ちて十二年にして卒し、子の釐侯立つ。釐侯の十三年、周の厲王出でて彘に奔り、共和政を行ふ。二十八年、周の宣王立つ。四十二年、釐侯卒し、太子共伯余立ちて君と為る。共伯の弟和、釐侯に寵有り、多く之に賂を予ふ。和其の賂を以て士に賂ひ、以て共伯を墓上に襲攻す。共伯釐侯の羨に入りて自殺す。衛人因りて之を釐侯の旁に葬り、諡して共伯と曰ひ、而して和を立てて衛侯と為す。是を武公と為す。武公即位し、康叔の政を修め、百姓和集す。四十二年、犬戎周の幽王を殺す。武公兵を将ゐて往きて周を佐けて戎を平らげ、甚だ功有り。周の平王武公に命じて公と為す。五十五年、卒し、子の荘公揚立つ。荘公の五年、斉の女を取りて夫人と為す。好くして子無し。又陳の女を取りて夫人と為し、子を生むも、蚤く死す。陳の女の女弟も亦た荘公に幸せられて、子完を生む。完の母死し、荘公夫人の斉の女をして之を子とせしめ、立てて太子と為す。荘公に寵妾有り、子州吁を生む。十八年、州吁長じて、兵を好む。荘公将たらしむ。石碏荘公を諫めて曰く、「庶子兵を好み、将たらしむれば、乱此より起こらん」と。聴かず。二十三年、荘公卒し、太子完立つ。是を桓公と為す。桓公の二年、弟州吁驕奢なり。桓公之を絀(しりぞ)け、州吁出奔す。十三年、鄭伯の弟段其の兄を攻め、勝たずして亡ぐ。而して州吁之と友たらんことを求む。
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史記 衛康叔世家衛の康叔、名は封、周の武王の同母の少弟なり。其の次に尚ほ冉季有り、冉季最も少し。武王已に殷の紂に克ち、復た殷の余民を以て紂の子武庚禄父を封じ、諸侯に比し、以て其の先祀を奉じて絶ゆること勿からしむ。武庚未だ集まらざるが為に、其の賊心有らんことを恐れ、武王乃ち其の弟管叔・蔡叔をして武庚禄父に傅相として、以て其の民を和せしむ。武王既に崩じ、成王少し。周公旦成王に代はりて治め、国に当たる。管叔・蔡叔周公を疑ひ、乃ち武庚禄父と乱を作し、成周を攻めんと欲す。周公旦成王の命を以て師を興して殷を伐ち、武庚禄父・管叔を殺し、蔡叔を放ち、武庚の殷の余民を以て康叔を封じて衛君と為し、河・淇の間の故の商墟に居らしむ。
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史記 衛康叔世家盗并せて太子伋を殺し、以て宣公に報ず。宣公乃ち子朔を以て太子と為す。十九年、宣公卒し、太子朔立つ。是を恵公と為す。左右公子朔の立つを平らかならずとす。恵公の四年、左右公子恵公の前太子伋を讒殺して代はり立つを怨み、乃ち乱を作し、恵公を攻め、太子伋の弟黔牟を立てて君と為す。恵公斉に奔る。衛君黔牟立ちて八年、斉の襄公諸侯を率ゐて王命を奉じて共に衛を伐ち、衛の恵公を納れ、左右公子を誅す。衛君黔牟周に奔り、恵公復た立つ。恵公立ちて三年にして出亡し、亡ぐること八年にして復た入る。前と年を通じて凡そ十三年なり。二十五年、恵公周の黔牟を容舎せしを怨み、燕と周を伐つ。周の恵王温に奔り、衛・燕恵王の弟穨を立てて王と為す。二十九年、鄭復た恵王を納る。三十一年、恵公卒し、子の懿公赤立つ。懿公即位し、鶴を好み、淫楽奢侈なり。九年、翟衛を伐つ。衛の懿公兵を発せんと欲するも、兵或いは畔く。大臣言ひて曰く、「君鶴を好む。鶴をして翟を撃たしむべし」と。翟是に於て遂に入り、懿公を殺す。懿公の立つや、百姓大臣皆服せず。懿公の父恵公朔の太子伋を讒殺して代はり立ちしより懿公に至るまで、常に之を敗らんと欲す。卒に恵公の後を滅ぼして、更に黔牟の弟昭伯頑の子申を立てて君と為す。是を戴公と為す。戴公申元年にして卒す。斉の桓公衛の数々乱るるを以て、乃ち諸侯を率ゐて翟を伐ち、衛の為に楚丘に築き、戴公の弟燬を立てて衛君と為す。是を文公と為す。文公乱を以ての故に斉に奔る。斉人之を入る。初め、翟の懿公を殺すや、衛人之を憐れみ、宣公の前に死せし太子伋の後を復立せんと思ふ。伋の子又死し、而して伋に代はりて死せし者子寿も又子無し。
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史記 衛康叔世家二子之に従ふ。公射服を釈かずして之と言ふ。二子怒り、宿に如く。孫文子の子数々公に侍りて飲む。師曹をして巧言の卒章を歌はしむ。師曹又公の嘗て笞うつこと三百なりしを怒り、乃ち之を歌ひ、以て孫文子を怒らしめ、衛の献公に報いんと欲す。文子蘧伯玉に語る。伯玉曰く、「臣知らざるなり」と。遂に攻めて献公を出す。献公斉に奔る。斉衛の献公を聚邑に置く。孫文子・甯恵子共に定公の弟秋を立てて衛君と為す。是を殤公と為す。殤公秋立ち、孫文子林父を宿に封ず。十二年、甯喜孫林父と寵を争ひて相悪む。殤公甯喜をして孫林父を攻めしむ。林父晋に奔り、復た故の衛の献公を入れんことを求む。献公斉に在り、斉の景公之を聞き、衛の献公と晋に如きて入らんことを求む。晋為に衛を伐ち、誘ひて与に盟ふ。衛の殤公晋の平公に会す。平公殤公と甯喜とを執へて復た衛の献公を入る。献公亡げて外に在ること十二年にして入る。献公の後の元年、甯喜を誅す。三年、呉の延陵季子使ひして衛を過ぎ、蘧伯玉・史(史鰌)を見て曰く、「衛は君子多し。其の国故無からん」と。宿を過ぐ。孫林父為に磬を撃つ。曰く、「楽しからず。音大いに悲し。衛をして乱れしむるは乃ち此なり」と。是の年、献公卒し、子の襄公悪立つ。襄公の六年、楚の霊王諸侯を会す。襄公病と称して往かず。九年、襄公卒す。初め、襄公に賤妾有り、之を幸し、身有り。夢に人有りて謂ひて曰く、「我は康叔なり。若が子をして必ず衛を有たしめん。而の子に名づけて元と曰へ」と。妾之を怪しみ、孔成子に問ふ。成子曰く、「康叔は衛の祖なり」と。子を生むに及びて、男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり」と。之に名づけて元と曰ふ。襄公の夫人子無し。是に於て乃ち元を立てて嗣と為す。是を霊公と為す。四十二年春、霊公郊に游び、子郢をして仆たらしむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。
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史記 秦本紀荘襄王の元年、大いに罪人を赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くして恵を民に布く。東周の君諸侯と秦を謀る。秦相国呂不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周の君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。蒙驁をして韓を伐たしむ。韓成皋・鞏を献ず。秦の界大梁に至り、初めて三川郡を置く。二年、蒙驁をして趙を攻めしめ、太原を定む。三年、蒙驁魏の高都・汲を攻め、之を抜く。趙の楡次・新城・狼孟を攻め、三十七城を取る。四月日食す。王齕上党を攻む。初めて太原郡を置く。魏の将無忌五国の兵を率ゐて秦を撃ち、秦河外に却く。蒙驁敗れ、解きて去る。五月丙午、荘襄王卒し、子政立つ。是を秦の始皇帝と為す。秦王政立ちて二十六年、初めて天下を并せて三十六郡と為し、号して始皇帝と為す。始皇帝立ちて十一年にして崩じ、子胡亥立つ。是を二世皇帝と為す。三年、諸侯并び起こりて秦に叛き、趙高二世を殺し、子嬰を立つ。子嬰立ちて月余にして、諸侯之を誅し、遂に秦を滅ぼす。其の語は始皇本紀の中に在り。太史公曰く、秦の先は嬴姓為り。其の後分封せられ、国を以て姓と為す。徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏有り。然れども秦は其の先の造父の趙城に封ぜらるるを以て、趙氏と為る。
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