史記 / 衛康叔世家
子路曰:「食焉不辟其難。」子羔遂出。子路入,及門,公孫敢闔門,曰:「毋入爲也!」子路曰:「是公孫也?求利而逃其難。由不然,利其祿,必救其患。」有使者出,子路乃得入。曰:「太子焉用孔悝?雖殺之,必或繼之。」且曰:「太子無勇。若燔臺,必舍孔叔。」太子聞之,懼,下石乞、盂黶敵子路,以戈撃之,割纓。子路曰:「君子死,冠不免。」結纓而死。孔子聞衞亂,曰:「嗟乎!柴也其來乎?由也其死矣。」孔悝竟立太子蒯聵,是爲莊公。莊公蒯聵者,出公父也,居外,怨大夫莫迎立。元年卽位,欲盡誅大臣,曰:「寡人居外久矣,子亦嘗聞之乎?」群臣欲作亂,乃止。二年,魯孔丘卒。三年,莊公上城,見戎州。曰:「戎虜何爲是?」戎州病之。十月,戎州告趙簡子,簡子圍衞。十一月,莊公出奔,衞人立公子斑師爲衞君。齊伐衞,虜斑師,更立公子起爲衞君。衞君起元年,衞石曼尃逐其君起,起奔齊。衞出公輒自齊復歸立。初,出公立十二年亡,亡在外四年復入。出公後元年,賞從亡者。立二十一年卒,出公季父黔攻出公子而自立,是爲悼公。悼公五年卒,子敬公弗立。敬公十九年卒,子昭公糾立。是時三晉彊,衞如小侯,屬之。昭公六年,公子亹弒之代立,是爲懷公。懷公十一年,公子穨弒懷公而代立,是爲愼公。
新字:子路曰:「食焉不辟其難。」子羔遂出。子路入,及門,公孫敢闔門,曰:「毋入為也!」子路曰:「是公孫也?求利而逃其難。由不然,利其禄,必救其患。」有使者出,子路乃得入。曰:「太子焉用孔悝?雖殺之,必或継之。」且曰:「太子無勇。若燔台,必舎孔叔。」太子聞之,懼,下石乞、盂黶敵子路,以戈撃之,割纓。子路曰:「君子死,冠不免。」結纓而死。孔子聞衛乱,曰:「嗟乎!柴也其来乎?由也其死矣。」孔悝竟立太子蒯聵,是為荘公。荘公蒯聵者,出公父也,居外,怨大夫莫迎立。元年即位,欲尽誅大臣,曰:「寡人居外久矣,子亦嘗聞之乎?」群臣欲作乱,乃止。二年,魯孔丘卒。三年,荘公上城,見戎州。曰:「戎虜何為是?」戎州病之。十月,戎州告趙簡子,簡子囲衛。十一月,荘公出奔,衛人立公子斑師為衛君。斉伐衛,虜斑師,更立公子起為衛君。衛君起元年,衛石曼尃逐其君起,起奔斉。衛出公輒自斉復帰立。初,出公立十二年亡,亡在外四年復入。出公後元年,賞従亡者。立二十一年卒,出公季父黔攻出公子而自立,是為悼公。悼公五年卒,子敬公弗立。敬公十九年卒,子昭公糾立。是時三晋彊,衛如小侯,属之。昭公六年,公子亹弒之代立,是為懐公。懐公十一年,公子穨弒懐公而代立,是為慎公。
書き下し
子路曰く、「焉を食みて其の難を辟けず」と。子羔遂に出づ。子路入り、門に及ぶ。公孫敢門を闔ぢて曰く、「入りて為すこと毋かれ」と。子路曰く、「是れ公孫か。利を求めて其の難を逃る。由は然らず。其の禄を利とせば、必ず其の患を救はん」と。使者の出づる有り、子路乃ち入るを得たり。曰く、「太子焉んぞ孔悝を用ゐん。之を殺すと雖も、必ず或いは之を継がん」と。且つ曰く、「太子勇無し。若し台を燔かば、必ず孔叔を舎(ゆる)さん」と。太子之を聞きて懼れ、石乞・盂黶を下して子路に敵せしむ。戈を以て之を撃ち、纓を割く。子路曰く、「君子は死すとも、冠は免がず」と。纓を結びて死す。孔子衛の乱を聞きて曰く、「嗟乎、柴や其れ来たらんか。由や其れ死せん」と。孔悝竟に太子蒯聵を立つ。是を荘公と為す。荘公蒯聵は、出公の父なり。外に居り、大夫の迎へ立つる莫きを怨む。元年即位し、尽く大臣を誅せんと欲して曰く、「寡人外に居ること久し。子も亦た嘗て之を聞けるか」と。群臣乱を作さんと欲す。乃ち止む。二年、魯の孔丘卒す。三年、荘公城に上り、戎州を見る。曰く、「戎虜何為れぞ是ある」と。戎州之を病む。十月、戎州趙簡子に告げ、簡子衛を囲む。十一月、荘公出奔す。衛人公子斑師を立てて衛君と為す。斉衛を伐ち、斑師を虜にし、更に公子起を立てて衛君と為す。衛君起の元年、衛の石曼尃其の君起を逐ひ、起斉に奔る。衛の出公輒斉より復た帰りて立つ。初め、出公立ちて十二年にして亡げ、亡げて外に在ること四年にして復た入る。出公の後の元年、従亡の者を賞す。立ちて二十一年にして卒す。出公の季父黔出公の子を攻めて自立す。是を悼公と為す。悼公五年にして卒し、子の敬公弗立つ。敬公十九年にして卒し、子の昭公糾立つ。是の時三晋彊く、衛は小侯の如く、之に属す。昭公の六年、公子亹之を弑して代はり立つ。是を懐公と為す。懐公の十一年、公子穨懐公を弑して代はり立つ。是を慎公と為す。
現代語訳
子路は言った。「その家の禄を食んでいながら、主の危難から逃げるわけにはいかない」。子羔はそのまま城を出ていった。子路が城に入り、孔家の門に着くと、公孫敢が門を閉じて言った。「入って何をするというのか」。子路は言った。「あなたは公孫か。利益だけを求めて、主の危難からは逃げるのだな。私はそうではない。その禄を受けて利を得ている以上、必ずその主の危難を救うのだ」。ちょうど使者が門から出てきたので、子路はその隙に中に入ることができた。子路は言った。「太子は孔悝を人質にしてどうするというのか。たとえ孔悝を殺しても、必ず誰かが後を継いで太子に立ち向かうだろう」。さらに言った。「太子には勇気がない。もしこの高台に火を放てば、きっと孔叔(孔悝)を放すだろう」。太子はこれを聞いて恐れ、石乞と盂黶を台から下ろして子路と戦わせた。二人は戈で子路を撃ち、冠の紐を断ち切った。子路は言った。「君子は死ぬときにも冠を脱がないものだ」。そして冠の紐を結び直して死んだ。孔子は衛で乱が起きたと聞いて言った。「ああ、柴(子羔)は帰って来るだろう。由(子路)は死ぬだろう」。孔悝はついに太子蒯聵を君主に立てた。これが荘公である。荘公蒯聵は出公の父である。国外にいたあいだ、大夫たちが自分を迎えて立てようとしなかったことを恨んでいた。元年に即位すると、大臣をことごとく誅殺しようとして言った。「私は長いあいだ国外で苦しんできた。おまえたちもそれを聞いていただろう」。群臣が反乱を起こそうとしたので、荘公は思いとどまった。二年、魯の孔丘(孔子)が亡くなった。三年、荘公は城壁に上って戎州(戎族の住む村)を見て言った。「戎の蛮族がなぜこんなところにいるのか」。戎州の人々はこれを苦々しく思った。十月、戎州の人々が晋の趙簡子に訴え、簡子は衛を包囲した。十一月、荘公は国外に逃げた。衛の人々は公子斑師を衛君に立てた。斉が衛を攻めて斑師を捕らえ、あらためて公子起を衛君に立てた。衛君起の元年、衛の石曼尃がその君の起を追放し、起は斉に逃げた。衛の出公輒が斉から戻って再び位についた。これより前、出公は即位して十二年で国を追われ、国外に四年いて再び戻ったのである。出公は復位した元年、亡命に従った者たちに褒美を与えた。在位二十一年で亡くなった。出公の叔父の黔が出公の子を攻めて自ら立った。これが悼公である。悼公は在位五年で亡くなり、子の敬公弗が立った。敬公は在位十九年で亡くなり、子の昭公糾が立った。このころ三晋(韓・魏・趙)が強くなり、衛は小さな諸侯のようになってこれに従属した。昭公の六年、公子亹が昭公を殺して代わりに立った。これが懐公である。懐公の十一年、公子穨が懐公を殺して代わりに立った。これが慎公である。
解説
関連する章句
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史記 仲尼弟子列伝子路蒲の大夫と為り、孔子に辞す。孔子曰く、「蒲は壮士多く、又治め難し。然れども吾汝に語げん。恭にして以て敬なれば、以て勇を執るべし。寛にして以て正なれば、以て衆に比すべし。恭正にして以て静なれば、以て上に報ゆべし」と。初め、衛の霊公に寵姫有り南子と曰ふ。霊公の太子蕢聵南子に過を得、誅を懼れて出奔す。霊公卒するに及び夫人公子郢を立てんと欲す。郢肯んぜず、曰く、「亡人太子の子輒在り」と。是に於いて衛輒を立てて君と為す、是れ出公為り。出公立つこと十二年、其の父蕢聵外に居り、入るを得ず。子路衛の大夫孔悝の邑宰と為る。蕢聵乃ち孔悝と乱を作し、謀りて孔悝の家に入り、遂に其の徒と出公を襲ひ攻む。出公魯に奔り、而して蕢聵入りて立つ、是れ荘公為り。孔悝乱を作すに方りて、子路外に在り、之を聞きて馳せ往く。子羔の衛の城門を出づるに遇ふ、子路に謂ひて曰く、「出公去れり、而して門已に閉づ、子還るべし、空しく其の禍を受くる毋かれ」と。子路曰く、「其の食を食む者は其の難を避けず」と。子羔卒に去る。使者の城に入る有り、城門開く、子路随ひて入る。蕢聵に造る、蕢聵孔悝と台に登る。子路曰く、「君焉んぞ孔悝を用ひん。請ふ得て之を殺さん」と。蕢聵聴かず。是に於いて子路台を燔かんと欲す、蕢聵懼れ、乃ち石乞・壺黶を下して子路を攻めしめ、子路の纓を撃ち断つ。子路曰く、「君子は死すとも冠は免がず」と。遂に纓を結びて死す。孔子衛の乱を聞きて、曰く、「嗟乎、由死せん」と。已にして果たして死す。故に孔子曰く、「吾由を得てより、悪言耳に聞こえず」と。是の時子貢魯の為に斉に使ひす。
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史記 衛康叔世家霊公太子の出奔せしを怨み、郢に謂ひて曰く、「我将に若を立てて後と為さんとす」と。郢対へて曰く、「郢以て社稷を辱むるに足らず。君更に之を図れ」と。夏、霊公卒す。夫人子郢に命じて太子と為して曰く、「此れ霊公の命なり」と。郢曰く、「亡人太子蒯聵の子輒在り。敢て当たらず」と。是に於て衛乃ち輒を以て君と為す。是を出公と為す。六月乙酉、趙簡子蒯聵を入れんと欲し、乃ち陽虎をして衛の十余人に詐命して衰絰して帰らしめ、簡子蒯聵を送る。衛人之を聞き、兵を発して蒯聵を撃つ。蒯聵入るを得ず、宿に入りて保つ。衛人も亦た兵を罷む。出公輒の四年、斉の田乞其の君孺子を弑す。八年、斉の鮑子其の君悼公を弑す。孔子陳より衛に入る。九年、孔文子兵を仲尼に問ふ。仲尼対へず。其の後魯仲尼を迎へ、仲尼魯に反る。十二年、初め、孔圉文子太子蒯聵の姊を取り、悝を生む。孔氏の豎渾良夫美好なり。孔文子卒し、良夫悝の母に通ず。太子宿に在り。悝の母良夫をして太子に使ひせしむ。太子良夫と言ひて曰く、「苟くも能く我を国に入れば、子に報ゆるに乗軒を以てし、子の三死を免じ、与る所毋からしめん」と。之と盟ひ、悝の母を以て妻と為すことを許す。閏月、良夫太子と入り、孔氏の外圃に舎る。昏に、二人衣を蒙りて乗り、宦者の羅御して、孔氏に如く。孔氏の老欒甯之を問ふ。姻妾と称して以て告ぐ。遂に入りて、伯姫氏に適く。既に食し、悝の母戈を杖つきて先んじ、太子五人と介し、猳を輿(か)きて之に従ふ。伯姫悝を廁に劫かし、彊ひて之と盟ひ、遂に劫かして以て台に登る。欒甯将に酒を飲まんとす。炙未だ熟せず、乱を聞き、仲由に告げしむ。護駕に乗車を召し、爵を行ひ炙を食らひ、出公輒を奉じて魯に奔る。仲由将に入らんとし、子羔の将に出でんとするに遇ふ。曰く、「門已に閉ぢたり」と。子路曰く、「吾姑く至らん」と。子羔曰く、「及ばず。其の難を践むこと莫かれ」と。
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史記 衛康叔世家盗并せて太子伋を殺し、以て宣公に報ず。宣公乃ち子朔を以て太子と為す。十九年、宣公卒し、太子朔立つ。是を恵公と為す。左右公子朔の立つを平らかならずとす。恵公の四年、左右公子恵公の前太子伋を讒殺して代はり立つを怨み、乃ち乱を作し、恵公を攻め、太子伋の弟黔牟を立てて君と為す。恵公斉に奔る。衛君黔牟立ちて八年、斉の襄公諸侯を率ゐて王命を奉じて共に衛を伐ち、衛の恵公を納れ、左右公子を誅す。衛君黔牟周に奔り、恵公復た立つ。恵公立ちて三年にして出亡し、亡ぐること八年にして復た入る。前と年を通じて凡そ十三年なり。二十五年、恵公周の黔牟を容舎せしを怨み、燕と周を伐つ。周の恵王温に奔り、衛・燕恵王の弟穨を立てて王と為す。二十九年、鄭復た恵王を納る。三十一年、恵公卒し、子の懿公赤立つ。懿公即位し、鶴を好み、淫楽奢侈なり。九年、翟衛を伐つ。衛の懿公兵を発せんと欲するも、兵或いは畔く。大臣言ひて曰く、「君鶴を好む。鶴をして翟を撃たしむべし」と。翟是に於て遂に入り、懿公を殺す。懿公の立つや、百姓大臣皆服せず。懿公の父恵公朔の太子伋を讒殺して代はり立ちしより懿公に至るまで、常に之を敗らんと欲す。卒に恵公の後を滅ぼして、更に黔牟の弟昭伯頑の子申を立てて君と為す。是を戴公と為す。戴公申元年にして卒す。斉の桓公衛の数々乱るるを以て、乃ち諸侯を率ゐて翟を伐ち、衛の為に楚丘に築き、戴公の弟燬を立てて衛君と為す。是を文公と為す。文公乱を以ての故に斉に奔る。斉人之を入る。初め、翟の懿公を殺すや、衛人之を憐れみ、宣公の前に死せし太子伋の後を復立せんと思ふ。伋の子又死し、而して伋に代はりて死せし者子寿も又子無し。
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孔子家語・曲禮子夏問子路と子羔、衛に仕う、衛に蒯聵の難有り。孔子魯に在り、之を聞きて曰く、「柴や其れ来たらん、由や死せん」と。既にして衛の使い至り、曰く、「子路死せり」と。夫子之を中庭に哭す、人の吊う者有りて、夫子之を拝す、已に哭して、使者を進めて故を問う、使者曰く、「之を醢にせり」と。遂に左右をして皆醢を覆さしめて曰く、「吾何ぞ忍びて此を食らわんや」と。
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史記 魯周公世家孟氏、城を堕つるを肯ぜず。之を伐つも、克たずして止む。季桓子、斉の女楽を受く。孔子去る。十五年、定公卒し、子の将立つ。是れを哀公と為す。哀公の五年、斉の景公卒す。六年、斉の田乞、其の君孺子を弑す。七年、呉王夫差彊く、斉を伐ちて繒に至り、百牢を魯に徴す。季康子、子貢をして呉王及び太宰嚭に説かしめ、礼を以て之を詘せしむ。呉王曰く、「我は文身なり、礼を責むるに足らず」と。乃ち止む。呉、鄒の為に魯を伐ち、城下に至り、盟ひて去る。斉、我を伐ち、三邑を取る。十年、斉の南辺を伐つ。斉、魯を伐つ。季氏、冉有を用ひて功有り、孔子を思ふ。孔子、衛より魯に帰る。十四年、斉の田常、其の君簡公を徐州に弑す。孔子之を伐たんことを請ふも、哀公聴かず。十五年、子服景伯・子貢をして介と為して、斉に適かしむ。斉、我が侵地を帰す。田常初めて相たりて、諸侯に親しまんと欲す。十六年、孔子卒す。二十二年、越王句践、呉王夫差を滅す。二十七年春、季康子卒す。夏、哀公、三桓を患ひ、将に諸侯に因りて以て之を劫かさんと欲す。三桓も亦公の難を作さんことを患ふ。故に君臣間多し。公、陵阪に游び、孟武伯に街に遇ひて、曰く、「請ふ問ふ、余死に及ばんか」と。対へて曰く、「知らざるなり」と。公、越を以て三桓を伐たんと欲す。八月、哀公、陘氏に如く。三桓、公を攻む。公、衛に奔り、去りて鄒に如き、遂に越に如く。国人、哀公を迎へて復た帰らしむ。有山氏に卒す。子の寧立つ。是れを悼公と為す。悼公の時、三桓勝ち、魯は小侯の如く、三桓の家より卑し。十三年、三晋、智伯を滅し、其の地を分ちて之を有す。三十七年、悼公卒し、子の嘉立つ。是れを元公と為す。元公二十一年にして卒し、子の顕立つ。是れを穆公と為す。穆公三十三年にして卒し、子の奮立つ。是れを共公と為す。共公二十二年にして卒し、子の屯立つ。是れを康公と為す。
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史記 衛康叔世家太子伋の同母弟二人あり。其の一を黔牟と曰ふ。黔牟嘗て恵公に代はりて君と為り、八年にして復た去る。其の二を昭伯と曰ふ。昭伯・黔牟皆已に前に死す。故に昭伯の子申を立てて戴公と為す。戴公卒し、復た其の弟燬を立てて文公と為す。文公初めて立ち、賦を軽くし罪を平らかにし、身自ら労し、百姓と苦を同じくし、以て衛の民を収む。十六年、晋の公子重耳過ぐ。礼無し。十七年、斉の桓公卒す。二十五年、文公卒し、子の成公鄭立つ。成公の三年、晋道を衛に仮りて宋を救はんと欲す。成公許さず。晋更に南河より度りて宋を救ふ。師を衛に徴す。衛の大夫許さんと欲するも、成公肯ぜず。大夫元咺成公を攻め、成公出奔す。晋の文公重耳衛を伐ち、其の地を分かちて宋に予ふ。前の過ぎりしときの無礼及び宋の患ひを救はざりしことを討つなり。衛の成公遂に出でて陳に奔る。二歳、周に如きて入らんことを求め、晋の文公と会す。晋人をして衛の成公に鴆せしむ。成公周の主鴆に私し、薄からしめ、死せざるを得たり。已にして周為に晋の文公に請ひ、卒に之を衛に入れ、而して元咺を誅す。衛君瑕出奔す。七年、晋の文公卒す。十二年、成公晋の襄公に朝す。十四年、秦の穆公卒す。二十六年、斉の邴歜其の君懿公を弑す。三十五年、成公卒し、子の穆公遫立つ。穆公の二年、楚の荘王陳を伐ち、夏徴舒を殺す。三年、楚の荘王鄭を囲む。鄭降り、復た之を釈す。十一年、孫良夫魯を救ひて斉を伐ち、復た侵地を得たり。穆公卒し、子の定公臧立つ。定公十二年にして卒し、子の献公衎立つ。献公の十三年、公師曹をして宮妾に琴を鼓くことを教へしむ。妾善くせず、曹之を笞うつ。妾幸を以て曹を公に悪しざまにす。公も亦た曹を笞うつこと三百。十八年、献公孫文子・甯恵子を戒めて食せしむ。皆往く。日旰(く)るるも召さず、而して去りて鴻を囿に射る。
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