史記 / 燕召公世家
太史公曰:召公奭可謂仁矣!甘棠且思之,況其人乎?燕迫蠻貉,內措齊、晉,崎嶇彊國之閒,最爲弱小,幾滅者數矣。然社稷血食者八九百歲,於姬姓獨後亡,豈非召公之烈邪!
新字:太史公曰:召公奭可謂仁矣!甘棠且思之,況其人乎?燕迫蠻貉,内措斉、晋,崎嶇彊国之閒,最為弱小,幾滅者数矣。然社稷血食者八九百歳,於姫姓独後亡,豈非召公之烈邪!
書き下し
太史公曰く、「召公奭は仁と謂ふ可し。甘棠すら且つ之を思ふ、況んや其の人をや。燕は外は蛮貉に迫られ、内は齊・晉に措かれ、彊国の閒に崎嶇として、最も弱小為り、幾ど滅ぶこと数なり。然れども社稷の血食する者八九百歳、姬姓に於て独り後に亡ぶ、豈に召公の烈に非ざらんや」と。
現代語訳
太史公は言う。「召公奭は仁と言ってよい。彼が休んだという甘棠の木さえ人々は慕った。まして本人ならなおさらである。燕は外は蛮族に迫られ、内は齊と晉に挟まれ、強国の間で危うい道を歩み、最も弱小であって、幾度も滅びかけた。それでも国家の祭祀が続いたのは八、九百年に及び、姫姓の諸侯の中では最後まで残った。これこそ召公の遺した功績によるものではないか」。
解説
「弱く、幾度も滅びかけた小国が、なぜ、最も長く生き延びたのか——それは、創業者の徳ゆえである」——司馬遷が、燕の、驚くべき長寿の理由を、その始祖の「仁」に見た、この篇の結びです。司馬遷は、まず、燕の始祖・召公奭(しょうこうせき)を、こう讃えます。「召公奭は、まことに、『仁(人を慈しむ徳)』の人であった、と、言うべきだろう」と。そして、その徳の深さを示す、有名な逸話に、触れます。召公は、生前、民の訴えを、聞くにあたり、(民に、負担をかけまいと、宮殿に呼びつけず、)自ら、地方に出向き、(道端の)甘棠(かんとう=やまなしの木)の、その木陰で、休みながら、政務を執った、といいます。その徳を慕った民は——召公の死後、その、(かつて、召公が休んだ)「甘棠の木」さえ、(切ることを惜しんで、)大切に、思い、慕い続けた、というのです。司馬遷は、感嘆します。「(民は、召公が、腰を下ろした)甘棠の木、(そんな、ただの木で)すら、(切るに忍びないと、)慕い続けたのだ。ましてや——その人(召公、その人)に対する、慕わしさは、(どれほどのもので、あっただろうか)(甘棠且思之、況其人乎)」と。そして、司馬遷は、燕という国の、不思議な運命に、思いを馳せます。「燕は、外には、北方の蛮族に、圧迫され、内には、(強国の)齊と晋に、挟まれ、大国と大国の狭間で、(身を縮めるようにして、)苦しい思いをし続けた。(周王朝の諸侯の中で、)最も、弱小な国であり、あわや滅亡か、という危機に、幾度も、見舞われた」と。誰が見ても、真っ先に、滅びそうな、弱小国です。——ところが。「それにもかかわらず、燕の国家(社稷)は、八、九百年にもわたって、(滅びずに、)続いたのだ。(周王朝の、同族である)姫姓の諸国の中で——燕だけが、(最後まで、)最も遅くまで、生き延びたのである」と。そして、司馬遷は、その理由を、こう結論づけます。「これは、まさに——(あの、始祖)召公の、(積んだ、)偉大な徳の、(その、遠い)余光では、ないだろうか(豈非召公之烈邪)」と。ここに、創業者の徳についての教訓があります。第一に、組織の、長い命脈を、決めるのは——その規模や、力の強さ(=燕は、最も弱小だった)では、なく、その創業者が、積んだ「徳」である、ということ(豈非召公之烈邪)。最も弱い国が、最も長く生き残った。第二に、そして、真の徳は——その人が去った後も、長く、人々の心に、残り続け、(その木陰さえ、慕われるほどに、)組織を、目に見えない形で、守り続ける(甘棠且思之)。第三に、だからこそ、創業者や、上に立つ者が、(目先の、力や、規模を、追い求めるより、)人を慈しむ「徳」を、積むことこそが——組織に、最も長く、確かな、生命力を、与えるということ。組織や事業で、長い命脈を決めるのが規模や力の強さでなく創業者の積んだ徳だと知ること、真の徳が去った後も長く人々の心に残り組織を守り続けると理解すること、そして力や規模より人を慈しむ徳を積むことが組織に最も確かな生命力を与えると信じること——司馬遷の燕評は、創業者の徳が組織を永らえさせることを教えます。

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燕召公世家太史公評召公奭の仁甘棠且思之況其人乎創業者の徳が組織を永らえさせる最も弱小な燕が最も長く生き残る
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