史記 / 呉太伯世家
子胥諫曰:「越王句踐食不重味,衣不重采,吊死問疾,且欲有所用其衆。此人不死,必爲吳患。今越在腹心疾而王不先,而務齊,不亦謬乎!」吳王不聽,遂北伐齊,敗齊師於艾陵。至繒,召魯哀公而徴百牢。季康子使子貢以周禮説太宰嚭,乃得止。因留略地於齊魯之南。九年,爲騶伐魯,至與魯盟乃去。十年,因伐齊而歸。十一年,復北伐齊,越王句踐率其衆以朝吳,厚獻遺之,吳王喜。唯子胥懼,曰:「是棄吳也。」諫曰:「越在腹心,今得志於齊,猶石田,無所用。且盤庚之誥有顛越勿遺,商之以興。」吳王不聽,使子胥於齊,子胥屬其子於齊鮑氏,還報吳王。吳王聞之,大怒,賜子胥屬鏤之劍以死。將死,曰:「樹吾墓上以梓,令可爲器。抉吾眼置之吳東門,以觀越之滅吳也。」
新字:子胥諫曰:「越王句践食不重味,衣不重采,吊死問疾,且欲有所用其衆。此人不死,必為呉患。今越在腹心疾而王不先,而務斉,不亦謬乎!」呉王不聴,遂北伐斉,敗斉師於艾陵。至繒,召魯哀公而徴百牢。季康子使子貢以周礼説太宰嚭,乃得止。因留略地於斉魯之南。九年,為騶伐魯,至与魯盟乃去。十年,因伐斉而帰。十一年,復北伐斉,越王句践率其衆以朝呉,厚献遺之,呉王喜。唯子胥懼,曰:「是棄呉也。」諫曰:「越在腹心,今得志於斉,猶石田,無所用。且盤庚之誥有顛越勿遺,商之以興。」呉王不聴,使子胥於斉,子胥属其子於斉鮑氏,還報呉王。呉王聞之,大怒,賜子胥属鏤之剣以死。将死,曰:「樹吾墓上以梓,令可為器。抉吾眼置之呉東門,以観越之滅呉也。」
書き下し
子胥諫めて曰く、「越王句践、食は味を重ねず、衣は采を重ねず、死を弔ひ疾を問ふ。且に其の衆を用ふる所有らんと欲す。此の人死せずんば、必ず呉の患と為らん。今越は腹心の疾に在るに、王先にせずして、斉を務む。亦謬らずや」と。呉王聴かず、遂に北のかた斉を伐ち、斉の師を艾陵に敗る。繒に至り、魯の哀公を召して百牢を徴す。季康子、子貢をして周礼を以て太宰嚭に説かしめ、乃ち止むるを得たり。因りて留まりて地を斉・魯の南に略す。九年、騶の為に魯を伐ち、魯と盟ふに至りて乃ち去る。十年、因りて斉を伐ちて帰る。十一年、復た北のかた斉を伐つ。越王句践、其の衆を率ゐて以て呉に朝し、厚く之に献遺す。呉王喜ぶ。唯子胥のみ懼れて曰く、「是れ呉を棄つるなり」と。諫めて曰く、「越は腹心に在り。今志を斉に得るも、猶ほ石田のごとく、用ふる所無し。且つ盤庚の誥に顛越して遺す勿かれと有り、商之を以て興る」と。呉王聴かず、子胥を斉に使せしむ。子胥、其の子を斉の鮑氏に属し、還りて呉王に報ず。呉王之を聞き、大いに怒り、子胥に属鏤の剣を賜ひて以て死せしむ。将に死せんとして曰く、「吾が墓の上に樹うるに梓を以てし、器と為す可からしめよ。吾が眼を抉りて之を呉の東門に置き、以て越の呉を滅すを観ん」と。
現代語訳
伍子胥は諫めて言った。「越王句践は食事におかずを二品以上とらず、衣服に色を重ねず、死者を弔い病人を見舞っている。いずれその民衆を用いて何かをしようとしているのだ。この人が死ななければ、必ず呉の災いとなる。今、越は呉にとって腹の中の病のようなものなのに、王はそれを先に片づけず、斉に力を注いでいる。これは誤りではないか」。呉王は聞き入れず、そのまま北の斉を討ち、艾陵(がいりょう)で斉軍を破った。繒(そう)に至ると、魯の哀公を呼び出して百牢(牛・羊・豚百組)の供応を要求した。魯の季康子は子貢に周の礼をもって太宰伯嚭を説得させ、ようやくやめさせることができた。呉はそのまま斉・魯の南にとどまって土地を攻め取った。九年、騶(すう)のために魯を討ったが、魯と盟約を結ぶに至って引き揚げた。十年、斉を討ったついでに帰国した。十一年、再び北の斉を討った。越王句践はその民衆を率いて呉に朝見し、手厚く贈り物をした。呉王は喜んだ。ただ伍子胥だけが恐れて言った。「これは呉を捨てるに等しい」。そして諫めて言った。「越は腹の中の病である。今、斉で思いを遂げても、石だらけの田のようなもので何の役にも立たない。そのうえ盤庚の誥(殷の王盤庚の訓示)には『悪人は転げ落として残すな』とあり、殷はそれによって栄えたのだ」。呉王は聞き入れず、伍子胥を斉への使者として遣わした。伍子胥は自分の子を斉の鮑氏に託し、帰って呉王に報告した。呉王はこれを聞いて大いに怒り、伍子胥に属鏤(しょくる)の剣を与えて自害させた。伍子胥は死に臨んで言った。「私の墓の上には梓の木を植え、(呉王の)棺桶の材料にできるようにせよ。私の目をえぐり取って呉の東門に掛け、越が呉を滅ぼすのを見届けさせよ」。
解説
この章句が説くこと
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史記 封禅書其の神或いは歳に至らず、或いは歳に数々来る。来るや常に夜を以てし、光輝流星の若く、東南より来りて祠城に集まり、則ち雄鶏の若く、其の声殷雲として、野鶏夜に雊く。一牢を以て祠り、命じて陳宝と曰ふ。鄜畤を作りて後七十八年、秦の徳公既に立ち、雍に居らんことを卜するに、「後の子孫、馬に河に飲はしめん」と、遂に雍に都す。雍の諸祠、此より興る。三百牢を鄜畤に用ふ。伏祠を作る。狗を邑の四門に磔にし、以て蠱菑を御ぐ。徳公立ちて二年にして卒す。其の後六年、秦の宣公、密畤を渭南に作り、青帝を祭る。其の後十四年、秦の繆公立ち、病みて臥すこと五日にして寤めず。寤むるや、乃ち上帝を夢見るに、上帝、繆公に晋の乱を平げよと命ずと言ふ。史書して之を記し府に蔵す。而して後世皆秦の繆公天に上ると曰ふ。秦の繆公即位して九年、斉の桓公既に覇たり、諸侯に葵丘に会し、封禅せんと欲す。管仲曰く、「古は泰山に封じ梁父に禅する者七十二家、而して夷吾の記す所の者は十有二なり。昔、無懐氏は泰山に封じ、云云に禅す。虙羲は泰山に封じ、云云に禅す。神農は泰山に封じ、云云に禅す。炎帝は泰山に封じ、云云に禅す。黄帝は泰山に封じ、亭亭に禅す。顓頊は泰山に封じ、云云に禅す。帝嚳は泰山に封じ、云云に禅す。堯は泰山に封じ、云云に禅す。舜は泰山に封じ、云云に禅す。禹は泰山に封じ、会稽に禅す。湯は泰山に封じ、云云に禅す。周の成王は泰山に封じ、社首に禅す。皆命を受けて然る後に封禅するを得たり」と。桓公曰く、「寡人、北のかた山戎を伐ち、孤竹を過ぐ。西のかた大夏を伐ち、流沙を渉り、馬を束ね車を懸けて、卑耳の山に上る。南のかた伐ちて召陵に至り、熊耳山に登りて以て江・漢を望む。兵車の会三たび、乗車の会六たび、九たび諸侯を合せ、天下を一匡し、諸侯我に違ふ莫し。昔、三代の命を受くるも、亦何を以てか異ならんや」と。
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