史記 / 封禅書
其神或歲不至,或歲數來,來也常以夜,光輝若流星,從東南來集于祠城,則若雄雞,其聲殷雲,野雞夜雊。以一牢祠,命曰陳寶。作鄜畤後七十八年,秦德公既立,卜居雍,「後子孫飲馬於河」,遂都雍。雍之諸祠自此興。用三百牢於鄜畤。作伏祠。磔狗邑四門,以御蠱菑。德公立二年卒。其後六年,秦宣公作密畤於渭南,祭青帝。其後十四年,秦繆公立,病臥五日不寤;寤,乃言夢見上帝,上帝命繆公平晉亂。史書而記藏之府。而後世皆曰秦繆公上天。秦繆公即位九年,齊桓公既霸,會諸侯於葵丘,而欲封禪。管仲曰:「古者封泰山禪梁父者七十二家,而夷吾所記者十有二焉。昔無懷氏封泰山,禪云云;虙羲封泰山,禪云云;神農封泰山,禪云云;炎帝封泰山,禪云云;黃帝封泰山,禪亭亭;顓頊封泰山,禪云云;帝嚳封泰山,禪云云;堯封泰山,禪云云;舜封泰山,禪云云;禹封泰山,禪會稽;湯封泰山,禪云云;周成王封泰山,禪社首:皆受命然後得封禪。」桓公曰:「寡人北伐山戎,過孤竹;西伐大夏,涉流沙,束馬懸車,上卑耳之山;南伐至召陵,登熊耳山以望江漢。兵車之會三,而乘車之會六,九合諸侯,一匡天下,諸侯莫違我。昔三代受命,亦何以異乎?」
新字:其神或歳不至,或歳数来,来也常以夜,光輝若流星,従東南来集于祠城,則若雄鶏,其声殷雲,野鶏夜雊。以一牢祠,命曰陳宝。作鄜畤後七十八年,秦徳公既立,卜居雍,「後子孫飲馬於河」,遂都雍。雍之諸祠自此興。用三百牢於鄜畤。作伏祠。磔狗邑四門,以御蠱菑。徳公立二年卒。其後六年,秦宣公作密畤於渭南,祭青帝。其後十四年,秦繆公立,病臥五日不寤;寤,乃言夢見上帝,上帝命繆公平晋乱。史書而記蔵之府。而後世皆曰秦繆公上天。秦繆公即位九年,斉桓公既覇,会諸侯於葵丘,而欲封禅。管仲曰:「古者封泰山禅梁父者七十二家,而夷吾所記者十有二焉。昔無懐氏封泰山,禅云云;虙羲封泰山,禅云云;神農封泰山,禅云云;炎帝封泰山,禅云云;黄帝封泰山,禅亭亭;顓頊封泰山,禅云云;帝嚳封泰山,禅云云;堯封泰山,禅云云;舜封泰山,禅云云;禹封泰山,禅会稽;湯封泰山,禅云云;周成王封泰山,禅社首:皆受命然後得封禅。」桓公曰:「寡人北伐山戎,過孤竹;西伐大夏,渉流沙,束馬懸車,上卑耳之山;南伐至召陵,登熊耳山以望江漢。兵車之会三,而乗車之会六,九合諸侯,一匡天下,諸侯莫違我。昔三代受命,亦何以異乎?」
書き下し
其の神或いは歳に至らず、或いは歳に数々来る。来るや常に夜を以てし、光輝流星の若く、東南より来りて祠城に集まり、則ち雄鶏の若く、其の声殷雲として、野鶏夜に雊く。一牢を以て祠り、命じて陳宝と曰ふ。鄜畤を作りて後七十八年、秦の徳公既に立ち、雍に居らんことを卜するに、「後の子孫、馬に河に飲はしめん」と、遂に雍に都す。雍の諸祠、此より興る。三百牢を鄜畤に用ふ。伏祠を作る。狗を邑の四門に磔にし、以て蠱菑を御ぐ。徳公立ちて二年にして卒す。其の後六年、秦の宣公、密畤を渭南に作り、青帝を祭る。其の後十四年、秦の繆公立ち、病みて臥すこと五日にして寤めず。寤むるや、乃ち上帝を夢見るに、上帝、繆公に晋の乱を平げよと命ずと言ふ。史書して之を記し府に蔵す。而して後世皆秦の繆公天に上ると曰ふ。秦の繆公即位して九年、斉の桓公既に覇たり、諸侯に葵丘に会し、封禅せんと欲す。管仲曰く、「古は泰山に封じ梁父に禅する者七十二家、而して夷吾の記す所の者は十有二なり。昔、無懐氏は泰山に封じ、云云に禅す。虙羲は泰山に封じ、云云に禅す。神農は泰山に封じ、云云に禅す。炎帝は泰山に封じ、云云に禅す。黄帝は泰山に封じ、亭亭に禅す。顓頊は泰山に封じ、云云に禅す。帝嚳は泰山に封じ、云云に禅す。堯は泰山に封じ、云云に禅す。舜は泰山に封じ、云云に禅す。禹は泰山に封じ、会稽に禅す。湯は泰山に封じ、云云に禅す。周の成王は泰山に封じ、社首に禅す。皆命を受けて然る後に封禅するを得たり」と。桓公曰く、「寡人、北のかた山戎を伐ち、孤竹を過ぐ。西のかた大夏を伐ち、流沙を渉り、馬を束ね車を懸けて、卑耳の山に上る。南のかた伐ちて召陵に至り、熊耳山に登りて以て江・漢を望む。兵車の会三たび、乗車の会六たび、九たび諸侯を合せ、天下を一匡し、諸侯我に違ふ莫し。昔、三代の命を受くるも、亦何を以てか異ならんや」と。
現代語訳
その神(陳倉で得た石の神)は、ある年には来ず、ある年には何度も来た。来るときはいつも夜で、流星のように光り輝き、東南からやって来て祠のある城に集まり、雄鶏のような姿で、その声はとどろき、野の雉が夜に鳴いた。一牢(牛・羊・豚一組)で祭り、陳宝と名づけた。鄜畤を作ってから七十八年後、秦の徳公が即位し、雍に住むことを占うと「後の子孫は黄河で馬に水を飲ませるだろう」と出たので、雍を都とした。雍の数々の祠はこれから盛んになった。鄜畤に三百牢を用いた。伏祠(伏日の祭)を始めた。犬をはりつけにして町の四つの門に掛け、虫害や災いを防いだ。徳公は即位して二年で死んだ。その六年後、秦の宣公は渭水の南に密畤を作り、青帝を祭った。その十四年後、秦の繆公(穆公)が即位したが、病で臥して五日間目を覚まさなかった。目覚めると、夢で上帝に会い、上帝が繆公に晋の乱を平定せよと命じたと言った。史官はこれを書き記して府庫に収めた。後世の人々はみな、秦の繆公は天に上ったと言った。繆公が即位して九年目、斉の桓公は既に覇者となり、諸侯を葵丘に集めて会盟し、封禅を行おうとした。管仲は言った。「古来、泰山で封を行い梁父で禅を行った者は七十二家ありますが、私、夷吾(管仲の名)が記憶しているのは十二家にすぎません。昔、無懐氏は泰山に封じ、云云山で禅を行いました。虙羲(伏羲)も泰山に封じて云云に禅し、神農も泰山に封じて云云に禅し、炎帝も泰山に封じて云云に禅し、黄帝は泰山に封じて亭亭山に禅し、顓頊も泰山に封じて云云に禅し、帝嚳も泰山に封じて云云に禅し、堯も泰山に封じて云云に禅し、舜も泰山に封じて云云に禅し、禹は泰山に封じて会稽山に禅し、湯も泰山に封じて云云に禅し、周の成王は泰山に封じて社首山に禅しました。いずれも天命を受けて、そのうえで封禅を行うことができたのです」。桓公は言った。「私は北は山戎を討って孤竹国を通り過ぎ、西は大夏を討って流沙を渡り、馬をつなぎ車をつり下ろして卑耳山に登った。南は討って召陵に至り、熊耳山に登って長江と漢水を眺めた。兵車の会盟を三度、乗車(平時)の会盟を六度行い、九たび諸侯を集めて天下を一つに正し、諸侯で私に逆らう者はいない。昔の三代(夏・殷・周)の王が天命を受けたのと、何が違うというのか」。
解説
関連する章句
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史記 封禅書是に於て管仲、桓公の辞を以て窮む可からざるを睹て、因りて之に設くるに事を以てして、曰く、「古の封禅には、鄗上の黍、北里の禾、盛と為す所以なり。江淮の間、一茅三脊、藉と為す所以なり。東海は比目の魚を致し、西海は比翼の鳥を致し、然る後に物の召さずして自ら至る者十有五有り。今、鳳皇・麒麟来らず、嘉穀生ぜずして、蓬蒿・藜莠茂り、鴟梟数々至る。而るに封禅せんと欲するは、毋乃ち不可ならんか」と。是に於て桓公乃ち止む。是の歳、秦の繆公、晋の君夷吾を内る。其の後三たび晋国の君を置き、其の乱を平ぐ。繆公立ちて三十九年にして卒す。其の後百有余年にして、孔子六芸を論述し、伝に略々言ふ、姓を易へて王たり、泰山に封じ梁父に禅する者七十余王、其の俎豆の礼章らかならず、蓋し之を言ひ難し、と。或ひと禘の説を問ふ。孔子曰く、「知らず。禘の説を知る者の天下に於けるや、其れ掌を視るがごとし」と。詩に云ふ、紂位に在り、文王命を受くるも、政泰山に及ばず。武王殷に克ちて二年、天下未だ寧からずして崩ず。爰に周の徳の洽きは維れ成王、成王の封禅は則ち之に近し。後に陪臣政を執るに及び、季氏泰山に旅す、仲尼之を譏る。是の時、萇弘、方を以て周の霊王に事ふ。諸侯周に朝する莫く、周の力少なし。萇弘乃ち鬼神の事を明らかにし、貍首を射ることを設く。貍首とは、諸侯の来らざる者なり。物怪に依りて以て諸侯を致さんと欲す。諸侯従はず、而して晋人、萇弘を執へて殺す。周人の方怪を言ふ者は萇弘よりす。其の後百余年、秦の霊公、呉陽の上畤を作りて黄帝を祭り、下畤を作りて炎帝を祭る。後四十八年、周の太史儋、秦の献公に見えて曰く、「秦は始め周と合ひ、合ひて離れ、五百歳にして当に復た合ふべし。合ひて十七年にして覇王出でん」と。
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『管子』封禪襍篇一。桓公既に霸たり、諸侯を葵丘に會して、封禪せんと欲す。管仲曰く、「古者泰山に封じ梁父に禪する者七十二家、而して夷吾の記す所の者十有二なり。昔無懷氏は泰山に封じ、云云に禪す。虙羲は泰山に封じ、云云に禪す。神農は泰山に封じ、云云に禪す。炎帝は泰山に封じ、云云に禪す。黄帝は泰山に封じ、亭亭に禪す。顓頊は泰山に封じ、云云に禪す。帝嚳は泰山に封じ、云云に禪す。堯は泰山に封じ、云云に禪す。舜は泰山に封じ、云云に禪す。禹は泰山に封じ、會稽に禪す。湯は泰山に封じ、云云に禪す。周の成王は泰山に封じ、社首に禪す。皆な命を受けて然る後に封禪するを得たり」と。
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史記 封禅書古より命を受くる帝王、曷ぞ嘗て封禅せざらん。蓋し其の応無くして事を用ふる者有り、未だ符瑞の見はるるを睹て泰山に臻らざる者有らざるなり。命を受くと雖も功至らず、梁父に至るも徳洽からず、洽きも日に給するに暇あらず、是を以て事に即くこと用て希なり。伝に曰く、「三年礼を為さざれば、礼必ず廃る。三年楽を為さざれば、楽必ず壊る」と。世の隆んなる毎に、則ち封禅もて焉に答へ、衰ふるに及びて息む。厥の曠遠なる者は千有余載、近き者は数百載、故に其の儀は闕然として堙滅し、其の詳らかなるは得て記し聞く可からずと云ふ。尚書に曰く、舜、璇璣玉衡に在りて、以て七政を斉ふ。遂に上帝に類し、六宗に禋し、山川を望し、群神に遍くす。五瑞を輯め、吉月日を択びて、四岳・諸牧に見え、瑞を還す。歳の二月、東に巡狩して、岱宗に至る。岱宗は泰山なり。柴し、山川に望秩す。遂に東后に覲ゆ。東后とは諸侯なり。時月を合せ日を正し、律・度・量・衡を同じくし、五礼を修め、五玉・三帛・二生・一死を贄とす。五月、巡狩して南岳に至る。南岳は衡山なり。八月、巡狩して西岳に至る。西岳は華山なり。十一月、巡狩して北岳に至る。北岳は恒山なり。皆岱宗の礼の如くす。中岳は嵩高なり。五載に一たび巡狩す。禹、之に遵ふ。後十四世、帝孔甲に至りて、徳に淫し神を好み、神瀆れ、二龍之を去る。其の後三世、湯、桀を伐ち、夏の社を遷さんと欲するも、可ならず、夏社を作る。後八世、帝太戊に至りて、桑穀の廷に生ずる有り、一暮にして大いに拱し、懼る。伊陟曰く、「妖は徳に勝たず」と。太戊、徳を修め、桑穀死す。伊陟、巫咸を賛し、巫咸の興ること此より始まる。後十四世、帝武丁、傅説を得て相と為し、殷復た興り、高宗と称す。雉の鼎の耳に登りて雊く有り、武丁懼る。祖己曰く、「徳を修めよ」と。武丁之に従ひ、位以て永く寧し。
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史記 封禅書斉人の上疏して神怪・奇方を言ふ者、万を以て数ふ。然れども験有る者無し。乃ち益々船を発し、海中の神山を言ふ者数千人をして蓬萊の神人を求めしむ。公孫卿、節を持して常に先行して名山を候ひ、東萊に至り、夜大人を見る、長さ数丈、之に就けば則ち見えず、其の跡を見るに甚だ大にして、禽獣に類すと言ふ。群臣に一老父の狗を牽くを見、「吾巨公に見えんと欲す」と言ひ、已にして忽ち見えずと言ふ者有り。上即ち大跡を見るも未だ信ぜず。群臣に老父を言ふ者有るに及び、則ち大いに以て僊人と為す。海上に宿留し、方士に伝車を予へ、及び間使の僊人を求むるもの千を以て数ふ。四月、還りて奉高に至る。上、諸儒及び方士の封禅を言ふこと人人殊にして、経ならず、施行し難きを念ふ。天子梁父に至り、地主を礼祠す。乙卯、侍中の儒者をして皮弁・薦紳せしめ、牛を射て事を行ふ。泰山の下の東方に封ずること、太一を郊祠するの礼の如し。封は広さ丈二尺、高さ九尺、其の下には則ち玉牒書有り、書は秘す。礼畢り、天子独り侍中・奉車の子侯と泰山に上り、亦封有り。其の事皆禁ず。明日、陰道より下る。丙辰、泰山の下阯の東北の粛然山に禅すること、后土を祭るの礼の如し。天子皆親ら拝見し、衣は黄を上びて尽く楽を用ふ。江淮の間の一茅三脊を神藉と為す。五色の土を益々雑へて封ず。遠方の奇獣・蜚禽及び白雉の諸物を縦ち、頗る以て礼を加ふ。兕牛・犀象の属は用ひず。皆泰山に至りて后土を祭る。封禅して祠る。其の夜光有るが若く、昼は白雲の封中より起る有り。天子禅より還り、明堂に坐し、群臣更々寿を上る。是に於て御史に制詔すらく、「朕、眇眇の身を以て至尊を承け、兢兢焉として任へざるを懼る。維れ徳菲薄にして、礼楽に明らかならず。
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史記 封禅書其の牲は牛犢各一を用ひ、牢具・珪幣各々異なる。華より以西、名山七、名川四。曰く華山、薄山。薄山とは衰山なり。岳山、岐山、呉岳、鴻冢、瀆山。瀆山は蜀の汶山なり。水は河と曰ひ、臨晋に祠る。沔、漢中に祠る。湫淵、朝那に祠る。江水、蜀に祠る。亦春秋に泮涸禱塞すること、東方の名山川の如し。而して牲牛犢・牢具・珪幣各々異なる。而して四大冢の鴻・岐・呉・岳、皆嘗禾有り。陳宝は節来りて祠る。其の河には加へて嘗醪有り。此れ皆雍州の域に在り、天子の都に近し、故に車一乗、騮駒四を加ふ。霸・産・長水・灃・澇・涇・渭は皆大川に非ざるも、咸陽に近きを以て、尽く山川の祠に比するを得るも、諸々の加無し。汧・洛の二淵、鳴沢・蒲山・嶽胥山の属は、小山川たり、亦皆歳ごとに禱塞泮涸して祠るも、礼は必ずしも同じからず。而して雍には日・月・参・辰・南北斗・熒惑・太白・歳星・填星・二十八宿・風伯・雨師・四海・九臣・十四臣・諸布・諸厳・諸逑の属、百有余廟有り。西にも亦数十祠有り。湖に於て周の天子の祠有り。下邽に於て天神有り。灃・滈に昭明・天子辟池有り。社・亳に於て三社主の祠・寿星の祠有り。而して雍の菅廟にも亦杜主有り。杜主は故の周の右将軍、其の秦中に在るや、最も小なる表の神なる者なり。各々歳時を以て奉祠す。唯雍の四畤の上帝を尊と為し、其の光景の人民を動かすは唯陳宝のみ。故に雍の四畤は、春は以て歳禱と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞祠し、五月は駒を嘗め、及び四仲の月に祠ること月祠の若く、陳宝は節来りて一たび祠る。春夏は騂を用ひ、秋冬は駵を用ふ。畤の駒四匹、木禺の龍欒車一駟、木禺の車馬一駟、各々其の帝の色の如くす。
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史記 封禅書其の来年冬、上議して曰く、「古は先づ兵を振ひ旅を沢し、然る後に封禅す」と。乃ち遂に北のかた朔方を巡り、兵十余万を勒し、還りて黄帝の冢を橋山に祭り、兵を須如に釈く。上曰く、「吾聞く、黄帝は死せずと。今冢有るは、何ぞや」と。或ひと対へて曰く、「黄帝已に僊して天に上り、群臣其の衣冠を葬る」と。既に甘泉に至り、且に泰山に事を用ひんとするが為に、先づ太一に類祠す。宝鼎を得しより、上、公卿諸生と封禅を議す。封禅は用ふること希にして曠絶し、其の儀礼を知る莫し。而して群儒、封禅・尚書・周官・王制の望祀・射牛の事を采る。斉人丁公、年九十余、曰く、「封禅とは、不死の名に合するなり。秦の皇帝は上りて封ずるを得ず。陛下必ず上らんと欲せば、稍く上れば即ち風雨無く、遂に上りて封ぜん」と。上是に於て乃ち諸儒をして射牛を習はしめ、封禅の儀を草せしむ。数年にして、且に行はんとするに至る。天子既に公孫卿及び方士の言を聞くに、黄帝以上の封禅は、皆怪物を致して神と通ず。黄帝以上に放ひて神僊人・蓬萊の士に接し、世に高くして徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既已に封禅の事を辨明する能はず、又詩書の古文に牽拘せられて騁する能はず。上、封禅の祠器を為りて群儒に示す。群儒或いは曰く「古と同じからず」と。徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふは魯の善きに如かず」と。周霸、属りて封禅の事を図る。是に於て上、偃・霸を絀け、而して尽く諸儒を罷めて用ひず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、中岳の太室に礼登す。従官山下に在りて、「万歳」と言ふ有るが若きを聞くと云ふ。上に問へば、上は言はず。下に問へば、下は言はず。是に於て三百戸を以て太室の奉祠に封じ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る。泰山の草木、葉未だ生ぜず。乃ち人をして石を上げて之を泰山の巓に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、八神を礼祠す。
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