史記 / 斉太公世家
太史公曰:吾適齊,自泰山屬之瑯邪,北被于海,膏壤二千里,其民闊達多匿知,其天性也。以太公之聖,建國本,桓公之盛,修善政,以為諸侯會盟,稱伯,不亦宜乎?洋洋哉,固大國之風也!
新字:太史公曰:吾適斉,自泰山属之瑯邪,北被于海,膏壤二千里,其民闊達多匿知,其天性也。以太公之聖,建国本,桓公之盛,修善政,以為諸侯会盟,称伯,不亦宜乎?洋洋哉,固大国之風也!
書き下し
太史公曰く、「吾斉に適き、膏壤二千里、其の民闊達にして匿知多し、其の天性なり。太公の聖を以て、国本を建て、桓公の盛にして、善政を修め、以て諸侯の会盟を為し、伯と称す、亦た宜ならずや。洋洋たるかな、固より大国の風なり」と。
現代語訳
太史公は言う。「私は斉へ行った。肥沃な土地が二千里に広がり、その民は闊達で、内に智恵を秘めている。それが生まれつきの性質である。太公の聖なる資質によって国の基礎が築かれ、桓公の盛時に善政が行われて、諸侯を集めて会盟し、覇者と称された。当然のことではないか。ゆったりと広々として、まことに大国の風格である」。
解説
「土台をしっかり築く者と、それを受けて善政を積む者——両方があってこそ、大きな事業は栄える」——司馬遷が、斉が大国となった理由を総括した、この篇の結びです。司馬遷は、実際に斉の地を訪れた、自らの見聞をもとに、この篇を結びます。「私は、斉の地に、行ってみた。(泰山から瑯邪、北は海に至る、)肥沃な土地が、二千里も広がり、その民は、おおらかで、度量が大きく、知恵に富んでいた。それは、(この土地に育まれた、)生まれつきの気質なのだろう」と。まず、斉が、恵まれた風土と、優れた人々を、持っていたことを、認めます。そのうえで、斉が、大国として栄えた理由を、二つの要素の、組み合わせとして、分析します。第一に、「太公望(呂尚)という聖人が、(斉の)国家の、(しっかりとした)土台を、築いた(建國本)」こと。建国の祖である太公望が、(先に見たように、実情に合わせ、簡素で、産業を興す、という)優れた国づくりで、確かな土台を、据えたのです。第二に、「(その後、)桓公という、盛んな君主が、(管仲を用いて、)善政を修めた(修善政)」こと。太公望の築いた土台の上に、後の桓公が、優れた政治を、積み重ねたのです。この、「土台を築いた太公望」と、「それを受けて善政を積んだ桓公」の、両方があったからこそ、斉は、諸侯を集めて、盟約を結ぶ、覇者(伯)にまで、なることができた。司馬遷は、感嘆します。「なんと、洋々として、堂々たることか。まことに、(斉には、)大国の風格が、備わっている(大國之風)」と。ここに、大きな事業の繁栄についての教訓があります。第一に、大きな事業や、繁栄は、しっかりとした「土台を築く者(創業者・太公望)」と、その土台を受け継いで「善政・良い運営を積み重ねる者(後継者・桓公)」の、両方があってこそ、実を結ぶということ。第二に、どれほど恵まれた条件(斉の肥沃な土地、優れた民)があっても、それを活かす、優れた「土台づくり」と、「継続的な良い運営」がなければ、繁栄には、至らないということ。恵まれた条件は、あくまで、素地にすぎない。第三に、創業(土台づくり)と、その後の善政(守成・発展)は、どちらも、等しく重要だということ。組織や事業で、大きな繁栄はしっかりした土台を築く者とそれを受け継いで良い運営を積む者の両方で実を結ぶと知ること、恵まれた条件も優れた土台づくりと継続的な良い運営がなければ活きないと理解すること、そして創業と守成のどちらも等しく重要だと自覚すること——司馬遷の斉評は、大きな事業の繁栄の条件を教えます。
この章句が説くこと
斉太公世家太史公評太公建国本桓公修善政土台を築く者と善政を積む者創業と守成恵まれた条件も運営がなければ活きない
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