師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 斉太公世家

燕莊公遂送桓公入齊境。桓公曰:「非天子,諸侯相送不出境,吾不可以無禮於燕。」於是分溝割燕君所至與燕,命燕君復修召公之政,納貢于周,如成康之時。諸侯聞之,皆從齊。二十七年,魯湣公母曰哀姜,桓公女弟也。哀姜淫於魯公子慶父,慶父弒湣公,哀姜欲立慶父,魯人更立釐公。桓公召哀姜,殺之。二十八年,衛文公有狄亂,告急於齊。齊率諸侯城楚丘而立衛君。二十九年,桓公與夫人蔡姬戲船中。蔡姬習水,蕩公,公懼,止之,不止,出船,怒,歸蔡姬,弗絕。蔡亦怒,嫁其女。桓公聞而怒,興師往伐。三十年春,齊桓公率諸侯伐蔡,蔡潰。遂伐楚。楚成王興師問曰:「何故涉吾地?」管仲對曰:「昔召康公命我先君太公曰:『五侯九伯,若實征之,以夾輔周室。』賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。楚貢包茅不入,王祭不具,是以來責。昭王南征不復,是以來問。」楚王曰:「貢之不入,有之,寡人罪也,敢不共乎!昭王之出不復,君其問之水濱。」齊師進次于陘。夏,楚王使屈完將兵捍齊,齊師退次召陵。桓公矜屈完以其眾。屈完曰:「君以道則可;若不,則楚方城以為城,江、漢以為溝,君安能進乎?」乃與屈完盟而去。過陳,陳袁濤涂詐齊,令出東方,覺。秋,齊伐陳。

新字:燕荘公遂送桓公入斉境。桓公曰:「非天子,諸侯相送不出境,吾不可以無礼於燕。」於是分溝割燕君所至与燕,命燕君復修召公之政,納貢于周,如成康之時。諸侯聞之,皆従斉。二十七年,魯湣公母曰哀姜,桓公女弟也。哀姜淫於魯公子慶父,慶父弒湣公,哀姜欲立慶父,魯人更立釐公。桓公召哀姜,殺之。二十八年,衛文公有狄乱,告急於斉。斉率諸侯城楚丘而立衛君。二十九年,桓公与夫人蔡姫戯船中。蔡姫習水,蕩公,公懼,止之,不止,出船,怒,帰蔡姫,弗絶。蔡亦怒,嫁其女。桓公聞而怒,興師往伐。三十年春,斉桓公率諸侯伐蔡,蔡潰。遂伐楚。楚成王興師問曰:「何故渉吾地?」管仲対曰:「昔召康公命我先君太公曰:『五侯九伯,若実征之,以夾輔周室。』賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。楚貢包茅不入,王祭不具,是以来責。昭王南征不復,是以来問。」楚王曰:「貢之不入,有之,寡人罪也,敢不共乎!昭王之出不復,君其問之水浜。」斉師進次于陘。夏,楚王使屈完将兵捍斉,斉師退次召陵。桓公矜屈完以其衆。屈完曰:「君以道則可;若不,則楚方城以為城,江、漢以為溝,君安能進乎?」乃与屈完盟而去。過陳,陳袁濤涂詐斉,令出東方,覚。秋,斉伐陳。

書き下し

燕の荘公遂に桓公を送りて斉の境に入る。桓公曰く、「天子に非ずんば、諸侯相送るに境を出でず。吾以て燕に無礼なる可からず」と。是に於て溝を分ちて燕君の至る所を割きて燕に与へ、燕君に命じて復た召公の政を修め、貢を周に納れしむること、成・康の時の如し。諸侯之を聞き、皆斉に従ふ。二十七年、魯の湣公の母を哀姜と曰ふ。桓公の女弟なり。哀姜、魯の公子慶父に淫す。慶父、湣公を弑す。哀姜、慶父を立てんと欲す。魯人更めて釐公を立つ。桓公、哀姜を召して之を殺す。二十八年、衛の文公に狄の乱有り、急を斉に告ぐ。斉、諸侯を率ゐて楚丘に城きて衛君を立つ。二十九年、桓公、夫人蔡姫と船中に戯る。蔡姫水に習ひ、公を蕩かす。公懼れて之を止むるも、止めず。船を出でて怒り、蔡姫を帰すも、絶たず。蔡も亦怒り、其の女を嫁す。桓公聞きて怒り、師を興して往きて伐つ。三十年春、斉の桓公、諸侯を率ゐて蔡を伐つ。蔡潰ゆ。遂に楚を伐つ。楚の成王、師を興して問ひて曰く、「何の故に吾が地に渉るや」と。管仲対へて曰く、「昔、召康公、我が先君太公に命じて曰く、『五侯九伯、若実に之を征し、以て周室を夾輔せよ』と。我が先君に履を賜ふ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢の包茅入らず、王の祭具はらず。是を以て来り責む。昭王南征して復らず。是を以て来り問ふ」と。楚王曰く、「貢の入らざるは、之有り、寡人の罪なり。敢て共せざらんや。昭王の出でて復らざるは、君其れ之を水浜に問へ」と。斉の師進みて陘に次る。夏、楚王、屈完をして兵を将ゐて斉を捍がしむ。斉の師退きて召陵に次る。桓公、其の衆を以て屈完に矜る。屈完曰く、「君、道を以てせば則ち可なり。若し不ずんば、則ち楚は方城以て城と為し、江・漢以て溝と為す。君安んぞ能く進まんや」と。乃ち屈完と盟ひて去る。陳を過ぐ。陳の袁濤塗、斉を詐り、東方に出でしむ。覚る。秋、斉、陳を伐つ。

現代語訳

燕の荘公は桓公を見送って、そのまま斉の国境の中にまで入ってしまった。桓公は言った。「天子でなければ、諸侯が見送るときには国境を越えないものだ。私は燕に対して無礼を働かせるわけにはいかない」。そこで溝を掘って境を分け、燕の君主が来たところまでの土地を燕に与え、燕の君主に命じて再び召公の政治を整え、周に貢ぎ物を納めさせ、周の成王・康王の時代のようにさせた。諸侯はこれを聞き、みな斉に従った。二十七年、魯の湣公の母を哀姜といい、桓公の妹であった。哀姜は魯の公子慶父と密通していた。慶父は湣公を殺した。哀姜は慶父を君主に立てようとしたが、魯の人々は代わりに釐公を立てた。桓公は哀姜を呼び寄せて殺した。二十八年、衛の文公のとき狄が攻めて乱が起こり、衛は斉に危急を告げた。斉は諸侯を率いて楚丘に城を築き、衛の君主を立てた。二十九年、桓公は夫人の蔡姫と船遊びをしていた。蔡姫は泳ぎが得意で、船を揺らして桓公をからかった。桓公は恐れてやめさせようとしたが、蔡姫はやめなかった。桓公は船を降りると怒り、蔡姫を実家に帰したが、離縁はしなかった。蔡もまた怒り、娘を他に嫁がせてしまった。桓公はこれを聞いて怒り、兵を起こして蔡を討った。三十年の春、斉の桓公は諸侯を率いて蔡を討った。蔡は崩れ去った。そのまま楚を討った。楚の成王は兵を起こし、使者に問わせた。「何のために我が国の地に踏み込んできたのか」。管仲は答えた。「昔、召康公が我が先君太公に命じて言った。『五侯九伯に罪があれば、あなたが実際にこれを征伐し、周王室を助けよ』。そして我が先君に、東は海まで、西は黄河まで、南は穆陵まで、北は無棣までの征伐の範囲を与えた。楚の貢ぎ物である包茅(酒をこすのに用いる茅の束)が納められず、王の祭りに必要なものがそろわない。だから責めに来たのだ。また周の昭王が南征して帰ってこなかった。だからそのわけを問いに来たのだ」。楚王は言った。「貢ぎ物が納められていないのは、そのとおりで、私の罪である。これからはきちんと納めよう。昭王が出征して帰らなかったことについては、川のほとりに尋ねてもらいたい」。斉軍は進んで陘(けい)に陣を敷いた。夏、楚王は屈完に兵を率いさせて斉を防がせた。斉軍は退いて召陵に陣を敷いた。桓公は自軍の多さを屈完に誇示した。屈完は言った。「あなたが道義によって臨まれるのならよい。もしそうでないなら、楚は方城山を城とし、長江と漢水を堀とする。あなたがどうして進めようか」。そこで屈完と盟約を結んで引き揚げた。陳を通ったとき、陳の袁濤塗(えんとうと)が斉をだまして東の道を通らせようとしたが、見破られた。秋、斉は陳を討った。

解説

覇者としての桓公の振る舞いがいくつも描かれます。見送りの燕の君主がうっかり国境を越えてしまうと、桓公は「燕に無礼をさせるわけにはいかない」と、その越えた土地を燕に与えました。礼を守る姿勢を土地で示したこの判断に、諸侯はこぞって従います。一方で、船遊びで蔡姫にからかわれた私怨から蔡を攻め、そのまま楚にまで兵を進める場面もあります。ここで管仲は、楚が周王室への貢ぎ物を怠ったことを大義名分に掲げ、私怨の戦いを「王室を守る戦い」に仕立て直しました。楚の屈完も負けてはおらず、「道義で来るならよいが、力で来るなら方城山と長江・漢水が守る」と言い返し、結局両者は盟約を結んで兵を引きました。大義があれば人は従い、大義がなければ相手も譲らない。交渉における名分の重さがよく分かる段です。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る