史記 / 斉太公世家
懿公四年春,初,懿公為公子時,與丙戎之父獵,爭獲不勝,及即位,斷丙戎父足,而使丙戎仆。庸職之妻好,公內之宮,使庸職驂乘。五月,懿公游於申池,二人浴,戲。職曰:「斷足子!」戎曰:「奪妻者!」二人俱病此言,乃怨。謀與公游竹中,二人弒懿公車上,棄竹中而亡去。
新字:懿公四年春,初,懿公為公子時,与丙戎之父猟,争獲不勝,及即位,断丙戎父足,而使丙戎仆。庸職之妻好,公内之宮,使庸職驂乗。五月,懿公游於申池,二人浴,戯。職曰:「断足子!」戎曰:「奪妻者!」二人倶病此言,乃怨。謀与公游竹中,二人弒懿公車上,棄竹中而亡去。
書き下し
懿公公子為りし時、丙戎の父と猟し、獲を争ひて勝たず、即位するに及び、丙戎の父の足を断ち、而して丙戎をして仆せしむ。庸職の妻好し、公之を宮に内れ、庸職をして驂乗せしむ。二人浴し、戯る。職曰く、「断足の子」と。戎曰く、「妻を奪ふ者」と。二人俱に此の言を病み、乃ち怨む。公と竹中に游ぶを謀り、二人懿公を車上に弒し、竹中に棄てて亡げ去る。
現代語訳
懿公が公子であったころ、丙戎の父と狩りをして獲物を争い、勝てなかった。即位すると、丙戎の父の足を切断し、そのうえ丙戎を御者として使った。庸職の妻が美しかったので、公は彼女を宮中に入れ、庸職を車の陪乗にした。二人が水浴びをしながら、ふざけ合っていた。庸職が言った。「足を切られた男の子め」。丙戎が言った。「妻を奪われた男め」。二人ともこの言葉に胸を突かれ、そこから怨みが生まれた。二人は公を竹林に遊びに誘い、車の上で懿公を殺し、竹林に捨てて逃げ去った。
解説
「地位にまかせて人を辱め、深く傷つければ、その恨みは、いつか自らに、致命的な報いとなって返る」——斉の懿公の、非道な仕打ちが招いた最期を描いた一段です。斉の懿公は、公子(まだ君主でない、王族)であった頃、丙戎(へいじゅう)の父と、狩りで、獲物を争って、負けたことがありました。ただ、それだけの、些細な恨みです。ところが、懿公は、(君主となる)その地位に就くや、(積年の恨みを晴らすため、)丙戎の父の、足を切断するという、むごい仕打ちをし、しかも、その息子の丙戎を、(あろうことか、)自分の御者として、そばに仕えさせたのです。相手を辱め、屈辱を、日々、味わわせ続けました。また、庸職(ようしょく)という家臣の妻が、美しかったので、懿公は、その妻を、(力ずくで)自分の後宮に取り込み、夫である庸職を、(何食わぬ顔で、)自分の車の、陪乗(同乗者)として、仕えさせました。これもまた、相手への、耐えがたい辱めです。地位にまかせて、二人の男を、深く傷つけ、屈辱を与え続けたのです。そして、ある日——この、父を辱められた丙戎と、妻を奪われた庸職の、二人が、水浴びをしながら、ふざけ合っていたとき、口論になりました。庸職が「足を切られた者の子め」と言えば、丙戎は「妻を奪われた者め」と言い返す。互いの、最も深い傷を、えぐり合ったのです。二人は、この言葉で、(改めて、懿公への恨みを、)痛切に思い起こし、深く、恨みを、募らせました。そして、ついに、二人は共謀して、懿公が竹林で遊んだ隙に、その車上で、懿公を、殺害したのです。地位にまかせた、非道な辱めが、致命的な報いとなって、返ってきたのです。ここに、人を辱めることについての教訓があります。第一に、地位や権力にまかせて、人を辱め、深く傷つければ、その恨みは、消えることなく、いつか、自らに、致命的な報いとなって、返ってくるということ。懿公の、二人の男への辱めが、彼の命を、奪った。恨みは、蓄積し、機会を待って、爆発する。第二に、些細な恨み(狩りの勝ち負け)を、地位を得てから、大きな報復(足切り)で晴らすことの、愚かさと危うさ。権力を、私的な恨みを晴らすために、使ってはならない。第三に、人の、最も深い傷(辱め)は、決して忘れられず、屈辱を与え続けられた者は、必ず、報復の機会を、うかがうということ。組織やリーダーの立場で、地位や権力にまかせて人を辱め深く傷つければ致命的な報いが返ると知ること、些細な恨みを権力で晴らす愚かさを自覚すること、そして人に与えた屈辱は決して忘れられず報復を招くと理解すること——懿公の最期は、人を辱めることの恐ろしい報いを、痛烈に教えます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
斉懿公地位にまかせた辱め断足奪妻人を辱め深く傷つける恨みが致命的な報いとなる些細な恨みを権力で晴らす愚
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説苑・復恩斉の懿公其の公子為りしとき、邴歜の父と田を争ひて、勝たず。即位するに及び、乃ち掘りて之を刖り、歜をして僕たらしむ。庸織の妻を奪ひて、織をして参乗たらしむ。公申池に游ぶ、二人池に浴す、歜織を鞭を以て抶つ、織怒る、歜曰く、「人女の妻を奪ふも、敢へて怒らず、一たび女を抶つ、庸ぞ何をか傷まん」と。織曰く、「其の父を刖りて病まざるに孰与ぞ、奚若ぞ」と。乃ち公を殺さんことを謀り、之を竹中に納る。
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史記 斉太公世家五月壬辰、霊公卒す。荘公即位し、太子牙を句竇の丘に執へて、之を殺す。八月、崔杼、高厚を殺す。晋、斉の乱を聞き、斉を伐ちて高唐に至る。荘公の三年、晋の大夫欒盈、斉に奔る。荘公厚く客として之を待す。晏嬰・田文子諫むるも、公聴かず。四年、斉の荘公、欒盈をして間かに晋の曲沃に入りて内応と為らしめ、兵を以て之に随ひ、太行に上り、孟門に入る。欒盈敗れ、斉の兵還りて、朝歌を取る。六年、初め、棠公の妻好し。棠公死し、崔杼之を取る。荘公之に通じ、数々崔氏に如き、崔杼の冠を以て人に賜ふ。待者曰く、「不可なり」と。崔杼怒り、其の晋を伐つに因りて、晋と合謀して斉を襲はんと欲するも間を得ず。荘公嘗て宦者賈挙を笞うつ。賈挙復た侍し、崔杼の為に公を間ひて以て怨に報ゆ。五月、莒子斉に朝す。斉、甲戌を以て之を饗す。崔杼病と称して事を視ず。乙亥、公、崔杼の病を問ひ、遂に崔杼の妻に従ふ。崔杼の妻室に入り、崔杼と自ら戸を閉ぢて出でず。公、柱を擁して歌ふ。宦者賈挙、公の従官を遮りて入り、門を閉づ。崔杼の徒、兵を持ちて中より起る。公、台に登りて解かんことを請ふも、許さず。盟はんことを請ふも、許さず。自ら廟に殺さんことを請ふも、許さず。皆曰く、「君の臣杼、疾病にして、命を聴く能はず。公宮に近し。陪臣、淫する者有るを争ひ趣へ、二命を知らず」と。公、墻を踰ゆ。公の股を射中つ。公反りて墜つ。遂に之を弑す。晏嬰、崔杼の門外に立ちて、曰く、「君、社稷の為に死すれば則ち之に死し、社稷の為に亡ぐれば則ち之に亡ぐ。若し己の為に死し己の為に亡ぐれば、其の私暱に非ずんば、誰か敢て之に任ぜん」と。門開きて入り、公の尸を枕にして哭し、三たび踴りて出づ。人、崔杼に謂ふ、「必ず之を殺せ」と。崔杼曰く、「民の望なり。之を舎けば民を得ん」と。丁丑、崔杼、荘公の異母弟杵臼を立つ。是れを景公と為す。景公の母は、魯の叔孫宣伯の女なり。
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