史記 / 呉太伯世家
於是伍員知光有他志,乃求勇士專諸,見之光。光喜,乃客伍子胥。子胥退而耕於野,以待專諸之事。十二年冬,楚平王卒。十三年春,吳欲因楚喪而伐之,使公子蓋餘、燭庸以兵圍楚之六、灊。使季札於晉,以觀諸侯之變。楚發兵絶吳兵後,吳兵不得還。於是吳公子光曰:「此時不可失也。」告專諸曰:「不索何獲!我眞王嗣,當立,吾欲求之。季子雖至,不吾廢也。」專諸曰:「王僚可殺也。母老子弱,而兩公子將兵攻楚,楚絶其路。方今吳外困於楚,而内空無骨鯁之臣,是無奈我何。」光曰:「我身,子之身也。」四月丙子,光伏甲士於窟室,而謁王僚飲。王僚使兵陳於道,自王宮至光之家,門階戸席,皆王僚之親也,人夾持鈹。公子光詳爲足疾,入於窟室,使專諸置匕首於炙魚之中以進食。手匕首刺王僚,鈹交於匈,遂弑王僚。公子光竟代立爲王,是爲吳王闔廬。闔廬乃以專諸子爲卿。季子至,曰:「苟先君無廢祀,民人無廢主,社稷有奉,乃吾君也。吾敢誰怨乎?哀死事生,以待天命。非我生亂,立者從之,先人之道也。」復命,哭僚墓,復位而待。吳公子燭庸、蓋餘二人將兵遇圍於楚者,聞公子光弑王僚自立,乃以其兵降楚,楚封之於舒。
新字:於是伍員知光有他志,乃求勇士専諸,見之光。光喜,乃客伍子胥。子胥退而耕於野,以待専諸之事。十二年冬,楚平王卒。十三年春,呉欲因楚喪而伐之,使公子蓋余、燭庸以兵囲楚之六、灊。使季札於晋,以観諸侯之変。楚発兵絶呉兵後,呉兵不得還。於是呉公子光曰:「此時不可失也。」告専諸曰:「不索何獲!我真王嗣,当立,吾欲求之。季子雖至,不吾廃也。」専諸曰:「王僚可殺也。母老子弱,而両公子将兵攻楚,楚絶其路。方今呉外困於楚,而内空無骨鯁之臣,是無奈我何。」光曰:「我身,子之身也。」四月丙子,光伏甲士於窟室,而謁王僚飲。王僚使兵陳於道,自王宮至光之家,門階戸席,皆王僚之親也,人夾持鈹。公子光詳為足疾,入於窟室,使専諸置匕首於炙魚之中以進食。手匕首刺王僚,鈹交於匈,遂弑王僚。公子光竟代立為王,是為呉王闔廬。闔廬乃以専諸子為卿。季子至,曰:「苟先君無廃祀,民人無廃主,社稷有奉,乃吾君也。吾敢誰怨乎?哀死事生,以待天命。非我生乱,立者従之,先人之道也。」復命,哭僚墓,復位而待。呉公子燭庸、蓋余二人将兵遇囲於楚者,聞公子光弑王僚自立,乃以其兵降楚,楚封之於舒。
書き下し
是に於て伍員、光に他志有るを知り、乃ち勇士専諸を求め、之を光に見えしむ。光喜び、乃ち伍子胥を客とす。子胥退きて野に耕し、以て専諸の事を待つ。十二年冬、楚の平王卒す。十三年春、呉、楚の喪に因りて之を伐たんと欲し、公子蓋余・燭庸をして兵を以て楚の六・灊を囲ましむ。季札を晋に使せしめ、以て諸侯の変を観しむ。楚、兵を発して呉の兵の後を絶ち、呉の兵還るを得ず。是に於て呉の公子光曰く、「此の時失ふ可からざるなり」と。専諸に告げて曰く、「索めずんば何をか獲ん。我は真の王の嗣なり、当に立つべし。吾之を求めんと欲す。季子至ると雖も、吾を廃せざるなり」と。専諸曰く、「王僚殺す可きなり。母老い子弱く、而して両公子は兵を将ゐて楚を攻め、楚其の路を絶つ。方今呉は外は楚に困しみ、而して内は空しくして骨鯁の臣無し。是れ我を奈何ともする無し」と。光曰く、「我が身は子の身なり」と。四月丙子、光、甲士を窟室に伏せ、而して王僚を謁して飲ましむ。王僚、兵をして道に陳せしむ。王宮より光の家に至るまで、門・階・戸・席、皆王僚の親なり。人ごとに夾みて鈹を持す。公子光詳りて足疾と為し、窟室に入り、専諸をして匕首を炙魚の中に置きて以て食を進めしむ。手づから匕首もて王僚を刺す。鈹、匈に交はり、遂に王僚を弑す。公子光竟に代りて立ちて王と為る。是れを呉王闔廬と為す。闔廬乃ち専諸の子を以て卿と為す。季子至りて曰く、「苟も先君に祀を廃する無く、民人に主を廃する無く、社稷に奉ずる有らば、乃ち吾が君なり。吾敢て誰をか怨まんや。死を哀しみ生に事へ、以て天命を待たん。我より乱を生ずるに非ず、立つ者には之に従ふは、先人の道なり」と。命を復し、僚の墓に哭し、位に復して待つ。呉の公子燭庸・蓋余の二人、兵を将ゐて楚に囲まるる者、公子光の王僚を弑して自立せるを聞き、乃ち其の兵を以て楚に降る。楚、之を舒に封ず。
現代語訳
そこで伍員(伍子胥)は公子光に別の志(王位を奪う野心)があることを知り、勇士の専諸(せんしょ)を探し出して公子光に引き合わせた。公子光は喜び、伍子胥を客として迎えた。伍子胥は身を引いて田野で耕し、専諸の事が成るのを待った。十二年の冬、楚の平王が亡くなった。十三年の春、呉は楚の喪に乗じてこれを討とうとし、公子蓋余(がいよ)と燭庸に兵を率いさせて楚の六と灊(せん)を包囲させた。また季札を晋に使者として遣わし、諸侯の動きを探らせた。楚は兵を出して呉軍の背後を断ったので、呉軍は帰ることができなくなった。そこで呉の公子光は言った。「この時を逃してはならない」。そして専諸に告げた。「求めなければ何も得られない。私こそ本当の王の跡継ぎであり、立つべき者だ。私は王位を求めたい。季子が帰ってきても、私を廃しはしないだろう」。専諸は言った。「王僚を殺すことはできる。王僚の母は年老い子は幼く、二人の公子は兵を率いて楚を攻めているが、楚がその退路を断っている。今、呉は外では楚に苦しみ、内には王を守る骨のある臣下がいない。これでは我々をどうすることもできない」。公子光は言った。「私の身はあなたの身も同然だ(あなたの家族は私が引き受ける)」。四月丙子の日、公子光は地下室に武装した兵士を伏せておき、王僚を招いて酒宴を開いた。王僚は兵士を道に並ばせ、王宮から公子光の家まで、門・階段・戸口・座席に至るまでみな王僚の親族が固め、一人ひとりが両側から長い剣を構えていた。公子光は足の病気のふりをして地下室に入り、専諸に焼いた魚の中に匕首を仕込ませて料理を運ばせた。専諸は自らその匕首で王僚を刺した。護衛の剣が専諸の胸に突き立てられたが、ついに王僚を殺した。公子光はついに代わって王となった。これが呉王闔廬(こうりょ)である。闔廬は専諸の子を卿に取り立てた。季札が帰ってきて言った。「先君の祭りが絶えず、民に主君がおり、国家が奉じられているのなら、それが私の君主である。私が誰を恨むことがあろうか。死者を悼み、生きている者に仕えて、天命を待とう。乱を起こしたのは私ではない。立った者に従うのが、先人の道である」。そして使命の報告をし、王僚の墓で声を上げて泣き、元の官位に戻って命を待った。楚に包囲されて兵を率いていた呉の公子燭庸と蓋余の二人は、公子光が王僚を殺して自ら立ったと聞くと、その兵を率いて楚に降伏した。楚は二人を舒に封じた。
解説
関連する章句
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史記 刺客列伝其の後百六十有七年にして呉に専諸の事有り。専諸は、呉の堂邑の人なり。伍子胥の楚を亡げて呉に如くや、専諸の能を知る。伍子胥既に呉王僚に見え、説くに楚を伐つの利を以てす。呉の公子光曰く、「彼の伍員は父兄皆楚に死して、員楚を伐つを言ふは、自ら私讎を報ぜんが為にせんと欲するなり。能く呉の為にするに非ず」と。呉王乃ち止む。伍子胥、公子光の呉王僚を殺さんと欲するを知り、乃ち曰く、「彼の光は将に内志有らんとす。未だ説くに外事を以てすべからず」と。乃ち専諸を公子光に進む。光の父を呉王諸樊と曰ふ。諸樊の弟三人、次を餘祭と曰ひ、次を夷眛と曰ひ、次を季子札と曰ふ。諸樊、季子札の賢なるを知りて太子を立てず、次を以て三弟に伝へ、卒に国を季子札に致さんと欲す。諸樊既に死し、餘祭に伝ふ。餘祭死し、夷眛に伝ふ。夷眛死し、当に季子札に伝ふべし。季子札逃げて立つを肯ぜず。呉人乃ち夷眛の子僚を立てて王と為す。公子光曰く、「兄弟の次を以てせしめば、季子当に立つべし。必ず子を以てせば、則ち光は真の適嗣なり、当に立つべし」と。故に嘗て陰かに謀臣を養ひて以て立たんことを求む。光既に専諸を得、善く客として之を待す。九年にして楚の平王死す。春、呉王僚、楚の喪に因りて、其の二弟公子蓋餘・属庸をして兵を将ゐて楚の灊を囲ましめ、延陵の季子をして晋に使ひせしめ、以て諸侯の変を観しむ。楚兵を発して呉将蓋餘・属庸の路を絶つ。呉兵還るを得ず。是に於て公子光専諸に謂ひて曰く、「此の時失ふべからず。求めずんば何をか獲ん。且つ光は真の王嗣なり、当に立つべし。季子来たると雖も、吾を廃せざるなり」と。専諸曰く、「王僚殺すべきなり。母老い子弱く、而して両弟兵を将ゐて楚を伐ち、楚其の後を絶つ。方今呉は外楚に困しみ、而して内空しくして骨鯁の臣無し。是れ我を如何ともする無し」と。
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史記 刺客列伝公子光頓首して曰く、「光の身は、子の身なり」と。四月丙子、光甲士を窟室の中に伏せ、而して酒を具へて王僚を請ふ。王僚兵をして陳ねしめ、宮より光の家に至る。門戸階陛の左右、皆王僚の親戚なり。夾みて立ちて侍り、皆長鈹を持つ。酒既に酣にして、公子光詳りて足疾を為し、窟室の中に入り、専諸をして匕首を魚炙の腹中に置きて之を進めしむ。既に王の前に至り、専諸魚を擘き、因りて匕首を以て王僚を刺す。王僚立ちどころに死す。左右亦専諸を殺す。王の人擾乱す。公子光其の伏甲を出だして以て王僚の徒を攻め、尽く之を滅ぼし、遂に自ら立ちて王と為る。是を闔閭と為す。闔閭乃ち専諸の子を封じて以て上卿と為す。其の後七十余年にして晋に豫譲の事有り。
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史記 伍子胥列伝五年にして楚の平王卒す。初め、平王が奪ふ所の太子建の秦女、子の軫を生む。平王卒するに及び、軫竟に立ちて後と為る、是を昭王と為す。呉王僚、楚の喪に因りて、二公子をして兵を将ゐて往きて楚を襲はしむ。楚兵を発して呉兵の後を絶ち、帰るを得ず。呉国内空し、而して公子光乃ち専諸をして呉王僚を襲刺せしめて自立す、是を呉王闔廬と為す。闔廬既に立ち、志を得たり。乃ち伍員を召して以て行人と為し、与に国事を謀る。
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史記 呉太伯世家七年、楚の公子囲、其の王夾敖を弑して代りて立つ。是れを霊王と為す。十年、楚の霊王、諸侯を会して以て呉の朱方を伐ち、以て斉の慶封を誅す。呉も亦楚を攻め、三邑を取りて去る。十一年、楚、呉を伐ちて雩婁に至る。十二年、楚復た来り伐ち、乾谿に次る。楚の師敗走す。十七年、王余祭卒し、弟余眛立つ。王余眛の二年、楚の公子棄疾、其の君霊王を弑して代りて立つ。四年、王余眛卒し、弟季札に授けんと欲す。季札譲りて、逃げ去る。是に於て呉人曰く、「先王命有り、兄卒すれば弟代りて立ち、必ず季子に致さんと。季子今位を逃る、則ち王余眛後に立つ。今卒す、其の子当に代るべし」と。乃ち王余眛の子僚を立てて王と為す。王僚の二年、公子光、楚を伐ち、敗れて王舟を亡ふ。光懼れ、楚を襲ひ、復た王舟を得て還る。五年、楚の亡臣伍子胥来奔し、公子光之を客とす。公子光とは、王諸樊の子なり。常に以為へらく、吾が父の兄弟四人、当に伝へて季子に至るべし。季子即し国を受けずんば、光の父先に立つ。即し季子に伝へずんば、光当に立つべしと。陰かに賢士を納れ、以て王僚を襲はんと欲す。八年、呉、公子光をして楚を伐たしむ。楚の師を敗り、楚の故の太子建の母を居巣に迎へて以て帰る。因りて北伐し、陳・蔡の師を敗る。九年、公子光、楚を伐ち、居巣・鍾離を抜く。初め、楚の辺邑卑梁氏の処女、呉の辺邑の女と桑を争ひ、二女の家怒りて相滅し、両国の辺邑の長之を聞き、怒りて相攻め、呉の辺邑を滅す。呉王怒り、故に遂に楚を伐ち、両都を取りて去る。伍子胥の初めて呉に奔るや、呉王僚に説くに楚を伐つの利を以てす。公子光曰く、「胥の父兄は楚に僇せらる。自ら其の仇に報いんと欲するのみ。未だ其の利を見ず」と。
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『新序』節士第七僚なる者は、長子の庶兄なり。自立して吳王と爲る。季子使いして還る。至れば則ち君として之に事う。遏の子を王子光と曰う。號して闔閭と曰う。悦ばずして曰く、先君の爲す所、子に與えずして弟に與うるは、凡そ季子の爲なり。將に先君の命に從わんとせば、則ち國は之を季子に宜しとす。如し先君の命に從わずして子に與うれば、我宜しく當に立つべき者なり。僚惡くんぞ君爲るを得んや、と。是に於いて專諸をして僚を刺さしめ、國を季子に致す。季子曰く、爾我が君を殺す。吾爾の國を受くれば、是れ吾爾と亂を爲すなり。爾我が兄を殺す。吾又た爾を殺さば、是れ父子兄弟相い殺し、身を終うるまで已む無きなり、と。去りて延陵に之き、身を終うるまで吳國に入らず。故に號して延陵季子と曰う。君子其の國を受けざるを以て義と爲し、其の殺さざるを以て仁と爲す。是を以て春秋季子を賢として之を尊貴するなり。
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史記 呉太伯世家王闔廬の元年、伍子胥を挙げて行人と為して与に国事を謀る。楚、伯州犁を誅し、其の孫伯嚭亡げて呉に奔る。呉以て大夫と為す。三年、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将ゐて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、之を待て」と。四年、楚を伐ち、六と灊とを取る。五年、越を伐ちて之を敗る。六年、楚、子常囊瓦をして呉を伐たしむ。迎へて之を撃ち、大いに楚の軍を豫章に敗り、楚の居巣を取りて還る。九年、呉王闔廬、伍子胥・孫武に請ひて曰く、「始め子の言ふ、郢未だ入る可からずと。今果して如何」と。二子対へて曰く、「楚の将子常は貪り、而して唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに伐たんと欲せば、必ず唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之に従ひ、悉く師を興し、唐・蔡と西のかた楚を伐ち、漢水に至る。楚も亦兵を発して呉を拒ぎ、水を夾みて陳す。呉王闔廬の弟夫概戦はんと欲す。闔廬許さず。夫概曰く、「王已に臣に兵を属せり。兵は利を以て上と為す、尚ほ何をか待たん」と。遂に其の部五千人を以て楚を襲冒す。楚の兵大いに敗れて走る。是に於て呉王遂に兵を縦ちて之を追ふ。郢に至る比、五たび戦ひて、楚五たび敗る。楚の昭王亡げて郢を出で、鄖に奔る。鄖公の弟、昭王を弑せんと欲す。昭王、鄖公と随に奔る。而して呉の兵遂に郢に入る。子胥・伯嚭、平王の屍を鞭うちて以て父の讎に報ゆ。十年春、越、呉王の郢に在りて国空しきを聞き、乃ち呉を伐つ。呉、別兵をして越を撃たしむ。楚、急を秦に告ぐ。秦、兵を遣はして楚を救ひ呉を撃ち、呉の師敗る。闔廬の弟夫概、秦・越の交々呉を敗り、呉王の楚に留まりて去らざるを見て、夫概亡げて呉に帰りて自ら立ちて呉王と為る。闔廬之を聞き、乃ち兵を引きて帰り、夫概を攻む。夫概敗れて楚に奔る。楚の昭王乃ち九月を以て復た郢に入るを得て、夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。
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