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史記 / 平準書

軍功多用越等,大者封侯卿大夫,小者郎吏。吏道雜而多端,則官職秏廢。自公孫弘以春秋之義繩臣下取漢相,張湯用唆文決理為廷尉,於是見知之法生,而廢格沮誹窮治之獄用矣。其明年,淮南、衡山、江都王謀反跡見,而公卿尋端治之,竟其黨與,而坐死者數萬人,長吏益慘急而法令明察。當是之時,招尊方正賢良文學之士,或至公卿大夫。公孫弘以漢相,布被,食不重味,為天下先。然無益於俗,稍騖於功利矣。其明年,驃騎仍再出擊胡,獲首四萬。其秋,渾邪王率數萬之眾來降,於是漢發車二萬乘迎之。既至,受賞,賜及有功之士。是歲費凡百餘巨萬。初,先是往十餘歲河決觀,梁楚之地固已數困,而緣河之郡隄塞河,輒決壞,費不可勝計。其後番系欲省底柱之漕,穿汾、河渠以為溉田,作者數萬人;鄭當時為渭漕渠回遠,鑿直渠自長安至華陰,作者數萬人;朔方亦穿渠,作者數萬人:各歷二三期,功未就,費亦各巨萬十數。天子為伐胡,盛養馬,馬之來食長安者數萬匹,卒牽掌者關中不足,乃調旁近郡。而胡降者皆衣食縣官,縣官不給,天子乃損膳,解乘輿駟,出御府禁藏以贍之。

新字:軍功多用越等,大者封侯卿大夫,小者郎吏。吏道雑而多端,則官職秏廃。自公孫弘以春秋之義縄臣下取漢相,張湯用唆文決理為廷尉,於是見知之法生,而廃格沮誹窮治之獄用矣。其明年,淮南、衡山、江都王謀反跡見,而公卿尋端治之,竟其党与,而坐死者数万人,長吏益惨急而法令明察。当是之時,招尊方正賢良文学之士,或至公卿大夫。公孫弘以漢相,布被,食不重味,為天下先。然無益於俗,稍騖於功利矣。其明年,驃騎仍再出撃胡,獲首四万。其秋,渾邪王率数万之衆来降,於是漢発車二万乗迎之。既至,受賞,賜及有功之士。是歳費凡百余巨万。初,先是往十余歳河決観,梁楚之地固已数困,而縁河之郡堤塞河,輒決壊,費不可勝計。其後番系欲省底柱之漕,穿汾、河渠以為溉田,作者数万人;鄭当時為渭漕渠回遠,鑿直渠自長安至華陰,作者数万人;朔方亦穿渠,作者数万人:各歴二三期,功未就,費亦各巨万十数。天子為伐胡,盛養馬,馬之来食長安者数万匹,卒牽掌者関中不足,乃調旁近郡。而胡降者皆衣食県官,県官不給,天子乃損膳,解乗輿駟,出御府禁蔵以贍之。

書き下し

軍功は多く越等を用ひ、大なる者は侯・卿大夫に封ぜられ、小なる者は郎吏たり。吏道雑にして端多ければ、則ち官職耗廃す。公孫弘の春秋の義を以て臣下を縄して漢の相を取り、張湯の峻文を用ひて理を決して廷尉と為りしより、是に於て見知の法生じ、而して廃格・沮誹・窮治の獄用ひらる。其の明年、淮南・衡山・江都王の謀反の跡見はれ、而して公卿端を尋ねて之を治め、其の党与を竟め、而して坐して死する者数万人。長吏益々惨急にして法令明察なり。是の時に当りて、方正・賢良・文学の士を招き尊び、或いは公卿大夫に至る。公孫弘は漢の相を以て、布被し、食は味を重ねず、天下の先と為る。然れども俗に益無く、稍く功利に騖す。其の明年、驃騎、仍ち再び出でて胡を撃ち、首四万を獲たり。其の秋、渾邪王、数万の衆を率ゐて来降す。是に於て漢、車二万乗を発して之を迎ふ。既に至りて賞を受け、賜は有功の士に及ぶ。是の歳の費、凡そ百余巨万。初め、是より先往くこと十余歳、河、観に決し、梁・楚の地固より已に数々困しむ。而して河に縁る郡、隄もて河を塞ぐも、輒ち決壊し、費勝げて計ふ可からず。其の後、番系、底柱の漕を省かんと欲し、汾・河の渠を穿ちて以て溉田と為し、作る者数万人。鄭当時、渭の漕の回遠なるが為に、直渠を鑿ちて長安より華陰に至り、作る者数万人。朔方も亦渠を穿ち、作る者数万人。各々二三期を歴て、功未だ就らず、費も亦各々巨万十数。天子、胡を伐たんが為に、盛んに馬を養ひ、馬の来りて長安に食む者数万匹、卒の牽掌する者関中に足らず、乃ち旁近の郡より調す。而して胡の降る者皆県官に衣食し、県官給せず。天子乃ち膳を損じ、乗輿の駟を解き、御府の禁蔵を出して以て之を贍す。

現代語訳

軍功にはたいてい等級を飛び越えた恩賞が与えられ、大きな功の者は列侯や卿大夫に封じられ、小さな功の者は郎官や役人になった。役人になる道が雑多で入口が多くなったので、官職の質は損なわれ廃れた。公孫弘が『春秋』の義によって臣下を律して漢の丞相の地位を得、張湯が厳しい法文を用いて裁判を決して廷尉(司法長官)となってからは、「見知の法」(犯罪を知りながら告発しない者を罰する法)が生まれ、詔を妨げたり誹謗したりした罪を徹底して追及する裁判が行われるようになった。その翌年、淮南王・衡山王・江都王の謀反の形跡が明らかになると、公卿たちは糸口をたどってこれを取り調べ、その一味を洗い出し尽くし、連座して死んだ者は数万人に上った。地方の長官たちはますます苛酷になり、法令は細かく厳しく適用された。このころ、方正・賢良・文学の士を招いて尊び、中には公卿大夫にまで至る者もいた。公孫弘は漢の丞相でありながら麻の布団で寝、食事はおかずを二品以上とらず、天下の手本となった。しかしそれは風俗を改めるのに役立たず、世の中はしだいに功利を追い求めるようになった。その翌年、驃騎将軍(霍去病)が再び出撃して匈奴を攻め、四万の首級を得た。その秋、渾邪王(こんやおう)が数万の部衆を率いて降伏してきた。そこで漢は車二万台を出してこれを迎えた。到着すると彼らは恩賞を受け、下賜は功のあった兵士にも及んだ。この年の出費は全部で百億銭余りに上った。これより先、十年余り前に黄河が観(かん)で決壊し、梁・楚の地はもとよりたびたび苦しんでいた。黄河沿いの郡は堤防で河をふさいだが、そのたびに決壊し、費用は数えきれなかった。その後、番系は砥柱の漕運を省こうとして、汾水と黄河から水路を掘って灌漑田とし、工事に従事した者は数万人に上った。鄭当時は渭水の漕運が遠回りなので、長安から華陰までまっすぐな水路を掘り、工事に従事した者は数万人に上った。朔方でも水路を掘り、工事に従事した者は数万人に上った。それぞれ二、三年を経ても工事は完成せず、費用もそれぞれ十数億銭に上った。天子は匈奴を討つために盛んに馬を飼い、長安に来て飼われる馬は数万匹に上り、その世話をする兵卒が関中だけでは足りず、近隣の郡から徴発した。また降伏した匈奴の人々はみな県の役所から衣食を支給されたが、県の役所では賄いきれなかった。天子はそこで自らの食膳を減らし、自分の馬車の四頭の馬を外し、御府の秘蔵の財物を出して彼らを養った。

解説

財政の悪化が、人事と司法をどう変えていったかが描かれます。軍功による恩賞や売官で役人になる道が増えた結果、官職の質が下がりました。公孫弘は儒教の理念で、張湯は厳格な法文で出世し、犯罪を知りながら告発しない者まで罰する「見知の法」が生まれ、淮南王らの謀反事件では数万人が連座して死にました。公孫弘は丞相でありながら麻の布団で質素に暮らしましたが、司馬遷は「風俗を改めるのに役立たず、世は功利に走った」と厳しく評価します。上に立つ者の個人的な倹約だけでは、制度が生み出す流れを止められないのです。霍去病の大勝、渾邪王の降伏、大規模な水利工事と出費は膨らみ続け、ついに武帝自らが食膳を減らすまでになりました。

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