師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 封禅書

勇之乃曰:「越俗有火災,復起屋必以大,用勝服之。」於是作建章宮,度為千門萬戶。前殿度高未央。其東則鳳闕,高二十餘丈。其西則唐中,數十里虎圈。其北治大池,漸臺高二十餘丈,命曰太液池,中有蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁,象海中神山龜魚之屬。其南有玉堂、璧門、大鳥之屬。乃立神明臺、井幹樓,度五十丈,輦道相屬焉。夏,漢改歷,以正月為歲首,而色上黃,官名更印章以五字,為太初元年。是歲,西伐大宛。蝗大起。丁夫人、雒陽虞初等以方祠詛匈奴、大宛焉。其明年,有司上言雍五畤無牢熟具,芬芳不備。乃令祠官進畤犢牢具,色食所勝,而以木禺馬代駒焉。獨五月嘗駒,行親郊用駒。及諸名山川用駒者,悉以木禺馬代。行過,乃用駒。他禮如故。其明年,東巡海上,考神僊之屬,未有驗者。方士有言「黃帝時為五城十二樓,以候神人於執期,命曰迎年」。上許作之如方,命曰明年。上親禮祠上帝焉。公玊帶曰:「黃帝時雖封泰山,然風后、封巨、岐伯令黃帝封東泰山,禪凡山,合符,然後不死焉。」天子既令設祠具,至東泰山,東泰山卑小,不稱其聲,乃令祠官禮之,而不封禪焉。其後令帶奉祠候神物。夏,遂還泰山,修五年之禮如前,而加以禪祠石閭。

新字:勇之乃曰:「越俗有火災,復起屋必以大,用勝服之。」於是作建章宮,度為千門万戸。前殿度高未央。其東則鳳闕,高二十余丈。其西則唐中,数十里虎圏。其北治大池,漸台高二十余丈,命曰太液池,中有蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁,象海中神山亀魚之属。其南有玉堂、璧門、大鳥之属。乃立神明台、井幹楼,度五十丈,輦道相属焉。夏,漢改歴,以正月為歳首,而色上黄,官名更印章以五字,為太初元年。是歳,西伐大宛。蝗大起。丁夫人、雒陽虞初等以方祠詛匈奴、大宛焉。其明年,有司上言雍五畤無牢熟具,芬芳不備。乃令祠官進畤犢牢具,色食所勝,而以木禺馬代駒焉。独五月嘗駒,行親郊用駒。及諸名山川用駒者,悉以木禺馬代。行過,乃用駒。他礼如故。其明年,東巡海上,考神僊之属,未有験者。方士有言「黄帝時為五城十二楼,以候神人於執期,命曰迎年」。上許作之如方,命曰明年。上親礼祠上帝焉。公玊帯曰:「黄帝時雖封泰山,然風后、封巨、岐伯令黄帝封東泰山,禅凡山,合符,然後不死焉。」天子既令設祠具,至東泰山,東泰山卑小,不称其声,乃令祠官礼之,而不封禅焉。其後令帯奉祠候神物。夏,遂還泰山,修五年之礼如前,而加以禅祠石閭。

書き下し

勇之乃ち曰く、「越の俗に火災有れば、復た屋を起すに必ず大を以てし、用て之に勝服す」と。是に於て建章宮を作り、度りて千門万戸と為す。前殿は度り未央より高し。其の東は則ち鳳闕、高さ二十余丈。其の西は則ち唐中、数十里の虎圏。其の北は大池を治め、漸台の高さ二十余丈、命じて太液池と曰ひ、中に蓬萊・方丈・瀛洲・壺梁有りて、海中の神山・亀魚の属に象る。其の南に玉堂・璧門・大鳥の属有り。乃ち神明台・井幹楼を立て、度り五十丈、輦道相属す。夏、漢、歴を改め、正月を以て歳首と為し、而して色は黄を上び、官名は更めて印章を五字を以てし、太初元年と為す。是の歳、西のかた大宛を伐つ。蝗大いに起る。丁夫人・雒陽の虞初等、方を以て匈奴・大宛を祠詛す。其の明年、有司上言す、雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官をして畤に犢の牢具を進めしめ、色は勝つ所を食はしめ、而して木禺馬を以て駒に代ふ。独り五月の嘗駒と、行きて親ら郊するときは駒を用ふ。及び諸々の名山川の駒を用ふる者は、悉く木禺馬を以て代ふ。行き過ぐれば、乃ち駒を用ふ。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り、「黄帝の時、五城十二楼を為り、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ること方の如くするを許し、命じて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠す。公玊帯曰く、「黄帝の時、泰山に封ずと雖も、然れども風后・封巨・岐伯、黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅し、符を合せしめ、然る後に死せず」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至るに、東泰山は卑小にして、其の声に称はず。乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後、帯をして奉祠して神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くして、加ふるに石閭に禅祠するを以てす。

現代語訳

勇之は言った。「越の習わしでは、火事があると、家を建て直すときには必ず前より大きくし、それによって火災に打ち勝って押さえ込む」。そこで建章宮を造り、その規模は千の門と万の戸に及んだ。前殿の高さは未央宮より高かった。その東には鳳闕(ほうけつ、鳳凰をいただく門楼)があり、高さは二十丈余り。その西には唐中があり、数十里に及ぶ虎の囲いがあった。その北には大きな池を造り、漸台(ぜんだい)の高さは二十丈余りで、これを太液池と名づけ、池の中には蓬萊・方丈・瀛洲・壺梁の島を作って、海中の神山や亀・魚などにかたどった。その南には玉堂・璧門・大鳥の像などがあった。さらに神明台と井幹楼(せいかんろう)を建て、高さは五十丈で、天子の車の通る道が互いにつながっていた。夏、漢は暦を改め、正月を年の初めとし、色は黄を尊び、官名を改めて印章の文字を五字とし、太初元年とした。この年、西の大宛(だいえん、中央アジアの国)を討った。いなごが大発生した。丁夫人や雒陽の虞初(ぐしょ)らは、方術によって匈奴と大宛を呪った。その翌年、役人が上奏して、雍の五畤には煮た犠牲の供え物がなく、香りのよい供え物もそろっていないと言った。そこで祭祀官に命じて、畤に子牛の供え物を捧げさせ、その色は(五行の)相勝の関係に従って選ばせ、若駒の代わりに木で作った馬を用いさせた。ただ五月の嘗駒の祭と、天子が出向いて自ら郊祭を行うときだけは若駒を用いた。また名山大川の祭で若駒を用いていたものも、すべて木の馬で代えた。天子が通りかかったときだけ若駒を用いた。その他の礼は以前どおりとした。その翌年、東の海辺を巡り、神仙の類を調べたが、まだ効き目のある者はいなかった。ある方士が言った。「黄帝の時代には五つの城と十二の楼を造り、執期(しっき)で神人を待ち、これを迎年と名づけた」。天子はその方術どおりに造ることを許し、明年と名づけた。天子は自ら上帝を礼をもって祭った。公玊帯は言った。「黄帝の時代、泰山で封を行ったが、風后・封巨・岐伯が黄帝に東泰山で封を行い凡山で禅を行わせ、天のしるしに合わせたので、それから死ななくなった」。天子は祭具を準備させて東泰山に行ったが、東泰山は低く小さく、その名声にふさわしくなかった。そこで祭祀官に礼を行わせただけで、封禅は行わなかった。その後、公玊帯に祭りを担当させ、神の現れをうかがわせた。夏、泰山に戻り、五年ごとの封の礼を以前のように行い、さらに石閭(せきりょ)で禅の祭りを加えた。

解説

柏梁台の焼失を受けて、越の人勇之が「火事の後は前より大きく建てて火に打ち勝つ」と進言し、千門万戸の建章宮が造られます。太液池には蓬萊・方丈・瀛洲をかたどった島が浮かび、武帝は神仙の世界を宮殿の中に再現しようとしたのです。この年に太初暦への改暦が行われ、正月を年の初めとする暦は、長く中国の基本となりました。一方で、若駒の犠牲を木の馬で代えるという経費削減も行われており、大宛遠征やいなごの害で財政が苦しくなっていたことがうかがえます。公玊帯に勧められて東泰山まで行ったものの、あまりに小さな山だったため封禅はやめました。目の前の実物を見て判断を改めたこの場面は、武帝にもまだ現実を見る目が残っていたことを示しています。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る