史記 / 封禅書
初,天子封泰山,泰山東北阯古時有明堂處,處險不敞。上欲治明堂奉高旁,未曉其制度。濟南人公玊帶上黃帝時明堂圖。明堂圖中有一殿,四面無壁,以茅蓋,通水,圜宮垣為複道,上有樓,從西南入,命曰昆侖,天子從之入,以拜祠上帝焉。於是上令奉高作明堂汶上,如帶圖。及五年修封,則祠太一、五帝於明堂上坐,令高皇帝祠坐對之。祠后土於下房,以二十太牢。天子從昆侖道入,始拜明堂如郊禮。禮畢,燎堂下。而上又上泰山,自有祕祠其巔。而泰山下祠五帝,各如其方,黃帝并赤帝,而有司侍祠焉。山上舉火,下悉應之。其後二歲,十一月甲子朔旦冬至,推歷者以本統。天子親至泰山,以十一月甲子朔旦冬至日祠上帝明堂,毋修封禪。其贊饗曰:「天增授皇帝太元神策,周而復始。皇帝敬拜太一。」東至海上,考入海及方士求神者,莫驗,然益遣,冀遇之。十一月乙酉,柏梁災。十二月甲午朔,上親禪高里,祠后土。臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,冀至殊廷焉。上還,以柏梁災故,朝受計甘泉。公孫卿曰:「黃帝就青靈臺,十二日燒,黃帝乃治明廷。明廷,甘泉也。」方士多言古帝王有都甘泉者。其後天子又朝諸侯甘泉,甘泉作諸侯邸。
新字:初,天子封泰山,泰山東北阯古時有明堂処,処険不敞。上欲治明堂奉高旁,未暁其制度。済南人公玊帯上黄帝時明堂図。明堂図中有一殿,四面無壁,以茅蓋,通水,圜宮垣為複道,上有楼,従西南入,命曰昆侖,天子従之入,以拝祠上帝焉。於是上令奉高作明堂汶上,如帯図。及五年修封,則祠太一、五帝於明堂上坐,令高皇帝祠坐対之。祠后土於下房,以二十太牢。天子従昆侖道入,始拝明堂如郊礼。礼畢,燎堂下。而上又上泰山,自有秘祠其巔。而泰山下祠五帝,各如其方,黄帝并赤帝,而有司侍祠焉。山上舉火,下悉応之。其後二歳,十一月甲子朔旦冬至,推歴者以本統。天子親至泰山,以十一月甲子朔旦冬至日祠上帝明堂,毋修封禅。其賛饗曰:「天增授皇帝太元神策,周而復始。皇帝敬拝太一。」東至海上,考入海及方士求神者,莫験,然益遣,冀遇之。十一月乙酉,柏梁災。十二月甲午朔,上親禅高里,祠后土。臨勃海,将以望祀蓬萊之属,冀至殊廷焉。上還,以柏梁災故,朝受計甘泉。公孫卿曰:「黄帝就青霊台,十二日焼,黄帝乃治明廷。明廷,甘泉也。」方士多言古帝王有都甘泉者。其後天子又朝諸侯甘泉,甘泉作諸侯邸。
書き下し
初め、天子泰山に封ずるや、泰山の東北の阯に古の時の明堂の処有り、処険しくして敞らかならず。上、明堂を奉高の旁に治めんと欲するも、未だ其の制度を暁らず。済南の人公玊帯、黄帝の時の明堂の図を上る。明堂の図の中に一殿有り、四面に壁無く、茅を以て蓋ひ、水を通じ、宮垣を圜らして複道を為り、上に楼有り、西南より入る。命じて昆侖と曰ふ。天子之に従ひて入り、以て上帝を拝祠す。是に於て上、奉高をして明堂を汶上に作らしむること、帯の図の如し。五年に封を修むるに及び、則ち太一・五帝を明堂の上坐に祠り、高皇帝の祠坐をして之に対せしむ。后土を下房に祠り、二十太牢を以てす。天子、昆侖の道より入り、始めて明堂を拝すること郊の礼の如し。礼畢りて、堂下に燎く。而して上又泰山に上り、自ら秘祠を其の巓に有す。而して泰山の下に五帝を祠ること、各々其の方の如く、黄帝は赤帝に并せ、而して有司侍祠す。山上に火を挙ぐれば、下悉く之に応ず。其の後二歳、十一月甲子朔旦冬至、歴を推す者、本統を以てす。天子親ら泰山に至り、十一月甲子朔旦冬至の日を以て上帝を明堂に祠り、封禅を修むる毋し。其の賛饗に曰く、「天、皇帝に太元の神策を増し授く、周りて復た始まる。皇帝敬みて太一を拝す」と。東のかた海上に至り、海に入る及び方士の神を求むる者を考ふるに、験莫し。然れども益々遣はし、之に遇はんことを冀ふ。十一月乙酉、柏梁災す。十二月甲午朔、上親ら高里に禅し、后土を祠る。勃海に臨み、将に以て蓬萊の属を望祀し、殊廷に至らんことを冀ふ。上還り、柏梁の災の故を以て、朝して計を甘泉に受く。公孫卿曰く、「黄帝、青霊台を就すも、十二日にして焼く。黄帝乃ち明廷を治む。明廷とは甘泉なり」と。方士多く言ふ、古の帝王に甘泉に都する者有りと。其の後、天子又諸侯を甘泉に朝せしめ、甘泉に諸侯の邸を作る。
現代語訳
かつて天子が泰山で封を行ったとき、泰山の東北の麓に古の明堂の跡があったが、地形が険しく広々としていなかった。天子は奉高の近くに明堂を造りたいと思ったが、その造り方が分からなかった。済南の人公玊帯(こうぎょくたい)が黄帝の時代の明堂の図を献上した。明堂の図には一つの殿堂があり、四方に壁がなく、茅で屋根をふき、周りに水を巡らし、宮殿の垣を丸く巡らせて二重の通路を設け、上には楼があって、西南から入るようになっていた。これを昆侖(こんろん)と名づけた。天子はここを通って入り、上帝を拝して祭るのである。そこで天子は奉高に命じて、汶水のほとりに公玊帯の図のとおりに明堂を造らせた。五年目に封を改めて行うときになると、太一と五帝を明堂の上座に祭り、高皇帝(高祖劉邦)の祭座をそれに向かい合わせた。后土は下の部屋で祭り、二十の太牢を用いた。天子は昆侖の道から入り、初めて明堂で郊祭と同じ礼をもって拝した。礼が終わると、堂の下で供え物を焼いた。天子はさらに泰山に登り、自ら頂上で秘密の祭りを行った。また泰山の麓で五帝をそれぞれの方角に祭り、黄帝は赤帝とあわせて祭り、役人が付き添って祭った。山の上で火を上げると、麓ではみなそれに応えて火を上げた。その二年後、十一月甲子の日の朔の明け方が冬至にあたり、暦を推算する者はこれを暦の起点とした。天子は自ら泰山に行き、十一月甲子の朔の明け方の冬至の日に明堂で上帝を祭ったが、封禅は行わなかった。その祝詞に言う。「天は皇帝に太元の神策をさらに授けた。巡ってはまた始まる。皇帝はつつしんで太一を拝する」。東の海辺に至り、海に入った者や神を探す方士たちを調べたが、効き目のある者はいなかった。それでもますます多く遣わし、神仙に出会うことを願った。十一月乙酉の日、柏梁台が火事で焼けた。十二月甲午の朔、天子は自ら高里で禅を行い、后土を祭った。勃海に臨み、蓬萊などを遠くから祭って、仙人の住む特別な宮廷にたどり着くことを願った。天子は帰ると、柏梁台が焼けたので、甘泉宮で朝見を受け、郡国の会計報告を受けた。公孫卿は言った。「黄帝は青霊台を完成させたが十二日で焼けてしまった。そこで黄帝は明廷を造った。明廷とは甘泉である」。方士の多くは、古の帝王には甘泉に都を置いた者がいたと言った。その後、天子はまた諸侯を甘泉で朝見させ、甘泉に諸侯の邸宅を造らせた。
解説
関連する章句
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史記 孝武本紀是に於て上長安に令して則ち蜚廉桂観を作り、甘泉には則ち益延寿観を作り、卿をして節を持し具を設けて神人を候はしむ、乃ち通天台を作り、祠具を其の下に置き、将に神僊の属を招来せんとす。是に於て甘泉更めて前殿を置き、始めて諸々の宮室を広くす。夏、芝の殿防の内中に生ずる有り。天子河を塞ぎ、通天台を興すが為に、光雲有るが若し、乃ち詔を下して曰く、「甘泉の防に芝九茎を生ず、天下に赦し、復作有る毋かれ。」と。其の明年、朝鮮を伐つ。夏、旱す。公孫卿曰く、「黄帝の時封ずれば則ち天旱す、封を乾かすこと三年。」と。上乃ち詔を下して曰く、「天旱す、意ふに封を乾かすか。其れ天下をして尊んで霊星を祠らしめよ。」と。其の明年、上雍に郊し、回中の道を通じ、之を巡る。春、鳴沢に至り、西河より帰る。其の明年冬、上南郡を巡り、江陵に至りて東す。潜の天柱山に登礼し、号して南嶽と曰ふ。江に浮かび、尋陽より樅陽に出で、彭蠡を過ぎ、其の名山川を祀る。北のかた瑯邪に至り、海上に并ふ。四月中、奉高に至りて封を修む。初め、天子泰山に封ず、泰山の東北の阯に古時明堂有りし処あり、処険にして敞(ひろ)からず。上明堂を奉高の旁に治めんと欲す、未だ其の制度を暁らず。済南の人公玊帯黄帝の時の明堂の図を上る。明堂の図中に一殿有り、四面に壁無く、茅を以て蓋ひ、水を通じ、宮垣を圜らせて複道を為り、上に楼有り、西南より入る、命じて昆侖と曰ふ、天子之に従ひて入り、以て上帝を拝祠す。是に於て上奉高をして明堂を汶上に作らしむること、帯の図の如くす。五年に封を修むるに及び、則ち泰一・五帝を明堂の上坐に祠り、高皇帝の祠坐をして之に対せしむ。后土を下房に祠り、二十の太牢を以てす。天子昆侖の道より入り、始めて明堂に拝すること郊の礼の如くす。礼畢り、堂下に燎く。而して上又泰山に上り、其の顛に秘祠有り。
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史記 孝武本紀而して泰山の下に五帝を祠ること、各々其の方の如くし、黄帝は赤帝に并せ、而して有司侍祠す。泰山の上に火を挙ぐれば、下悉く之に応ず。其の後二歳、十一月甲子朔旦冬至、歴を推す者本統を以てす。天子親ら泰山に至り、十一月甲子朔旦冬至の日を以て上帝を明堂に祠る、毎(つね)に封禅を修む。其の贊饗に曰く、「天皇帝に泰元神筴を増し授く、周りて復た始まる。皇帝敬ひて泰一を拝す。」と。東のかた海上に至り、海に入り及び方士の神を求むる者を考ふるに、験莫し、然れども益々遣はし、之に遇はんことを冀ふ。十一月乙酉、柏梁災す。十二月甲午朔、上親ら高里に禅し、后土を祠る。渤海に臨み、将に以て蓬萊の属を望祠し、殊庭に至らんことを冀ふ。上還り、柏梁の災の故を以て、朝して計を甘泉に受く。公孫卿曰く、「黄帝青霊台に就く、十二日にして焼く、黄帝乃ち明庭を治む。明庭は、甘泉なり。」と。方士多く言ふ古の帝王甘泉に都する者有りと。其の後天子又諸侯を甘泉に朝せしむ、甘泉諸侯の邸を作る。勇之乃ち曰く、「越の俗火災有れば、復た屋を起こすに必ず大を以てし、勝ちを用て之を服す。」と。是に於て建章宮を作る、度りて千門万戸と為す。前殿の度は未央より高し、其の東は則ち鳳闕、高さ二十余丈。其の西は則ち唐中、数十里の虎圏。其の北には大池を治め、漸台高さ二十余丈、名づけて泰液池と曰ふ、中に蓬萊・方丈・瀛洲・壺梁有り、海中の神山亀魚の属に象る。其の南に玉堂・璧門・大鳥の属有り。乃ち神明台・井幹楼を立つ、度五十余丈、輦道相属す。夏、漢暦を改め、正月を以て歳首と為し、而して色は黄を上び、官名は印章を更むるに五字を以てす。因りて太初元年と為す。是の歳、西のかた大宛を伐つ。蝗大いに起こる。丁夫人・雒陽の虞初等方を以て匈奴・大宛を祠詛す。
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史記 孝武本紀其の明年、有司言ふ雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官に命じて畤に犢牢の具を進め、五色の食の勝つ所をもてし、而して木耦馬を以て駒に代ふ。独り五帝のみ駒を用ゐ、行きて親ら郊するときは駒を用ゐる。及び諸々の名山川の駒を用ゐる者は、悉く木耦馬を以て代ふ。行きて過ぐれば、乃ち駒を用ゐる。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り「黄帝の時五城十二楼を為りて、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ることを方の如く許し、名づけて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠し、衣は黄を上ぶ。公玊帯曰く、「黄帝の時泰山に封ずと雖も、然れども風后・封鉅・岐伯黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅して符を合はせしめ、然る後に死せず。」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至る、東泰山は卑小にして、其の声に称はず、乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後帯をして祠を奉じて神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くし、而して石閭に禅祠することを加ふ。石閭は、泰山の下阯の南方に在り、方士多く言ふ此れ僊人の閭なりと、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修め、還りて過ぎて常山を祭る。今天子の興す所の祠は、泰一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の泰一及び三一・冥羊・馬行・赤星、五つ、寛舒の祠官歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祀り、去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終はれば則ち已む、祠官主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五嶽・四瀆に徧し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるは、終に験有る無し。
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史記 封禅書其の来年冬、上議して曰く、「古は先づ兵を振ひ旅を沢し、然る後に封禅す」と。乃ち遂に北のかた朔方を巡り、兵十余万を勒し、還りて黄帝の冢を橋山に祭り、兵を須如に釈く。上曰く、「吾聞く、黄帝は死せずと。今冢有るは、何ぞや」と。或ひと対へて曰く、「黄帝已に僊して天に上り、群臣其の衣冠を葬る」と。既に甘泉に至り、且に泰山に事を用ひんとするが為に、先づ太一に類祠す。宝鼎を得しより、上、公卿諸生と封禅を議す。封禅は用ふること希にして曠絶し、其の儀礼を知る莫し。而して群儒、封禅・尚書・周官・王制の望祀・射牛の事を采る。斉人丁公、年九十余、曰く、「封禅とは、不死の名に合するなり。秦の皇帝は上りて封ずるを得ず。陛下必ず上らんと欲せば、稍く上れば即ち風雨無く、遂に上りて封ぜん」と。上是に於て乃ち諸儒をして射牛を習はしめ、封禅の儀を草せしむ。数年にして、且に行はんとするに至る。天子既に公孫卿及び方士の言を聞くに、黄帝以上の封禅は、皆怪物を致して神と通ず。黄帝以上に放ひて神僊人・蓬萊の士に接し、世に高くして徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既已に封禅の事を辨明する能はず、又詩書の古文に牽拘せられて騁する能はず。上、封禅の祠器を為りて群儒に示す。群儒或いは曰く「古と同じからず」と。徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふは魯の善きに如かず」と。周霸、属りて封禅の事を図る。是に於て上、偃・霸を絀け、而して尽く諸儒を罷めて用ひず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、中岳の太室に礼登す。従官山下に在りて、「万歳」と言ふ有るが若きを聞くと云ふ。上に問へば、上は言はず。下に問へば、下は言はず。是に於て三百戸を以て太室の奉祠に封じ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る。泰山の草木、葉未だ生ぜず。乃ち人をして石を上げて之を泰山の巓に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、八神を礼祠す。
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史記 封禅書太一を修祠するに、象景光有るが若く、屑如として望む有るが如く、怪物に震ひ、止めんと欲するも敢てせず、遂に太山に登封し、梁父に至りて、而る後に粛然に禅す。自ら新たにし、嘉して士大夫と更始せん。民に百戸ごとに牛一・酒十石を賜ひ、年八十の孤寡に布帛二匹を加ふ。博・奉高・蛇丘・歴城を復し、今年の租税を出す無からしむ。其れ天下に大赦すること、乙卯の赦令の如くせよ。行きて過ぐる所は復作有る毋からしむ。事の二年の前に在るは、皆聴治する勿かれ」と。又詔を下して曰く、「古は天子五載に一たび巡狩し、泰山に事を用ひ、諸侯に朝宿の地有り。其れ諸侯をして各々邸を泰山の下に治めしめよ」と。天子既已に泰山に封じ、風雨の災無し。而して方士更々蓬萊の諸神将に得可きが若しと言ふ。是に於て上欣然として之に遇はんことを庶幾ひ、乃ち復た東のかた海上に至りて望み、蓬萊に遇はんことを冀ふ。奉車の子侯暴に病み、一日にして死す。上乃ち遂に去り、海上に并ひ、北のかた碣石に至り、遼西より巡り、北辺を歴て九原に至る。五月、反りて甘泉に至る。有司言ふ、宝鼎の出でしを元鼎と為し、今年を以て元封元年と為さんと。其の秋、星有りて東井に茀す。後十余日、星有りて三能に茀す。望気の王朔言ふ、「候ふに独り填星の出づること瓜の如く、食頃にして復た入るを見る」と。有司皆曰く、「陛下漢家の封禅を建つ。天其れ徳星を報ずと云ふ」と。其の来年冬、雍の五帝に郊す。還りて、拝して太一を祝祠す。賛饗に曰く、「徳星昭衍し、厥れ維れ休祥なり。寿星仍りに出で、淵耀光明なり。信星昭見す。皇帝、太祝の享を敬拝す」と。其の春、公孫卿、神人を東萊山に見る、「天子に見えんと欲す」と云ふが若しと言ふ。天子是に於て緱氏城に幸し、卿を拝して中大夫と為す。遂に東萊に至り、宿留すること之を数日、見る所無く、大人の跡を見ると云ふ。復た方士を遣はして神怪を求め芝薬を采らしむること千を以て数ふ。是の歳旱す。
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史記 封禅書勇之乃ち曰く、「越の俗に火災有れば、復た屋を起すに必ず大を以てし、用て之に勝服す」と。是に於て建章宮を作り、度りて千門万戸と為す。前殿は度り未央より高し。其の東は則ち鳳闕、高さ二十余丈。其の西は則ち唐中、数十里の虎圏。其の北は大池を治め、漸台の高さ二十余丈、命じて太液池と曰ひ、中に蓬萊・方丈・瀛洲・壺梁有りて、海中の神山・亀魚の属に象る。其の南に玉堂・璧門・大鳥の属有り。乃ち神明台・井幹楼を立て、度り五十丈、輦道相属す。夏、漢、歴を改め、正月を以て歳首と為し、而して色は黄を上び、官名は更めて印章を五字を以てし、太初元年と為す。是の歳、西のかた大宛を伐つ。蝗大いに起る。丁夫人・雒陽の虞初等、方を以て匈奴・大宛を祠詛す。其の明年、有司上言す、雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官をして畤に犢の牢具を進めしめ、色は勝つ所を食はしめ、而して木禺馬を以て駒に代ふ。独り五月の嘗駒と、行きて親ら郊するときは駒を用ふ。及び諸々の名山川の駒を用ふる者は、悉く木禺馬を以て代ふ。行き過ぐれば、乃ち駒を用ふ。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り、「黄帝の時、五城十二楼を為り、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ること方の如くするを許し、命じて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠す。公玊帯曰く、「黄帝の時、泰山に封ずと雖も、然れども風后・封巨・岐伯、黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅し、符を合せしめ、然る後に死せず」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至るに、東泰山は卑小にして、其の声に称はず。乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後、帯をして奉祠して神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くして、加ふるに石閭に禅祠するを以てす。
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