史記 / 封禅書
臣之師曰:『黃金可成,而河決可塞,不死之藥可得,僊人可致也。』然臣恐效文成,則方士皆奄口,惡敢言方哉!」上曰:「文成食馬肝死耳。子誠能修其方,我何愛乎!」大曰:「臣師非有求人,人者求之。陛下必欲致之,則貴其使者,令有親屬,以客禮待之,勿卑,使各佩其信印,乃可使通言於神人。神人尚肯邪不邪。致尊其使,然後可致也。」於是上使驗小方,鬬棋,棋自相觸擊。是時上方憂河決,而黃金不就,乃拜大為五利將軍。居月餘,得四印,佩天士將軍、地士將軍、大通將軍印。制詔御史:「昔禹疏九江,決四瀆。閒者河溢皋陸,隄繇不息。朕臨天下二十有八年,天若遺朕士而大通焉。乾稱『蜚龍』,『鴻漸于般』,朕意庶幾與焉。其以二千戶封地士將軍大為樂通侯。」賜列侯甲第,僮千人。乘轝斥車馬帷幄器物以充其家。又以衛長公主妻之,齎金萬斤,更命其邑曰當利公主。天子親如五利之第。使者存問供給,相屬於道。自大主將相以下,皆置酒其家,獻遺之。於是天子又刻玉印曰「天道將軍」,使使衣羽衣,夜立白茅上,五利將軍亦衣羽衣,夜立白茅上受印,以示不臣也。而佩「天道」者,且為天子道天神也。於是五利常夜祠其家,欲以下神。
新字:臣之師曰:『黄金可成,而河決可塞,不死之薬可得,僊人可致也。』然臣恐効文成,則方士皆奄口,悪敢言方哉!」上曰:「文成食馬肝死耳。子誠能修其方,我何愛乎!」大曰:「臣師非有求人,人者求之。陛下必欲致之,則貴其使者,令有親属,以客礼待之,勿卑,使各佩其信印,乃可使通言於神人。神人尚肯邪不邪。致尊其使,然後可致也。」於是上使験小方,闘棋,棋自相触撃。是時上方憂河決,而黄金不就,乃拝大為五利将軍。居月余,得四印,佩天士将軍、地士将軍、大通将軍印。制詔御史:「昔禹疏九江,決四瀆。閒者河溢皋陸,堤繇不息。朕臨天下二十有八年,天若遺朕士而大通焉。乾称『蜚竜』,『鴻漸于般』,朕意庶幾与焉。其以二千戸封地士将軍大為楽通侯。」賜列侯甲第,僮千人。乗轝斥車馬帷幄器物以充其家。又以衛長公主妻之,齎金万斤,更命其邑曰当利公主。天子親如五利之第。使者存問供給,相属於道。自大主将相以下,皆置酒其家,献遺之。於是天子又刻玉印曰「天道将軍」,使使衣羽衣,夜立白茅上,五利将軍亦衣羽衣,夜立白茅上受印,以示不臣也。而佩「天道」者,且為天子道天神也。於是五利常夜祠其家,欲以下神。
書き下し
臣の師曰く、『黄金は成す可く、而して河決は塞ぐ可く、不死の薬は得可く、僊人は致す可し』と。然れども臣、文成に効はんことを恐る。則ち方士皆口を奄はん、悪んぞ敢て方を言はんや」と。上曰く、「文成は馬肝を食ひて死せるのみ。子誠に能く其の方を修めば、我何をか愛しまんや」と。大曰く、「臣の師は人に求むること有るに非ず、人の者之を求む。陛下必ず之を致さんと欲せば、則ち其の使者を貴び、親属有らしめ、客礼を以て之を待し、卑しむる勿かれ。各々其の信印を佩びしめば、乃ち神人に言を通ぜしむ可し。神人尚ほ肯ずるや邪ずるや。其の使を尊ぶことを致して、然る後に致す可きなり」と。是に於て上、小方を験せしむるに、棋を闘はしむれば、棋自ら相触れ撃つ。是の時、上方に河決を憂ひ、而して黄金就らず。乃ち大を拝して五利将軍と為す。居ること月余にして、四印を得、天士将軍・地士将軍・大通将軍の印を佩ぶ。御史に制詔すらく、「昔、禹は九江を疏し、四瀆を決す。間者、河、皋陸に溢れ、隄繇息まず。朕、天下に臨むこと二十有八年、天若し朕に士を遺して大いに通ぜしめんか。乾に『蜚龍』と称し、『鴻、般に漸む』と。朕の意、庶幾くは焉に与らん。其れ二千戸を以て地士将軍大を封じて楽通侯と為せ」と。列侯の甲第、僮千人を賜ふ。乗轝・斥車馬・帷幄・器物、以て其の家に充つ。又衛の長公主を以て之に妻はせ、金万斤を齎し、更めて其の邑を命じて当利公主と曰ふ。天子親ら五利の第に如く。使者の存問・供給、道に相属す。大主・将相より以下、皆酒を其の家に置き、之に献遺す。是に於て天子又玉印を刻して「天道将軍」と曰ひ、使をして羽衣を衣て、夜白茅の上に立たしめ、五利将軍も亦羽衣を衣て、夜白茅の上に立ちて印を受け、以て臣とせざるを示す。而して「天道」を佩ぶる者は、且に天子の為に天神を道かんとするなり。是に於て五利常に夜其の家に祠り、以て神を下さんと欲す。
現代語訳
私の師は『黄金は作ることができ、黄河の決壊はふさぐことができ、不死の薬は手に入れることができ、仙人は招くことができる』と言っている。しかし私は、文成将軍と同じ目に遭うのではないかと恐れている。そうなれば方士たちはみな口を閉ざしてしまうだろう。どうして方術のことなど言えようか」。天子は言った。「文成は馬の肝を食べて死んだだけだ。そなたが本当にその方術を修められるなら、私は何も惜しみはしない」。欒大は言った。「私の師は人に何かを求める者ではなく、人の方が師を求めるのだ。陛下がどうしても招きたいのなら、その使者を尊び、皇帝の親族とし、客人の礼で待遇して、卑しめてはならない。それぞれに信任の印を帯びさせれば、神人に言葉を通じさせることができる。それでも神人が承知するかどうかは分からない。使者をこの上なく尊んで、そのうえで招くことができるのだ」。そこで天子が小さな方術を試させると、欒大は将棋の駒を戦わせ、駒はひとりでにぶつかり合った。このころ天子はちょうど黄河の決壊に心を痛めており、黄金作りもうまくいっていなかった。そこで欒大を五利将軍に任じた。一月余りのうちに四つの印を得て、天士将軍・地士将軍・大通将軍の印も帯びた。天子は御史に詔して言った。「昔、禹は九江の流れを通し、四瀆を開いた。近ごろ黄河が岸辺の陸地にあふれ、堤防の工事が休む間もない。私が天下に君臨して二十八年、天はあるいは私に人材を遣わして大いに通じさせようとしているのではないか。『易』の乾の卦には『飛龍』と言い、(漸の卦には)『鴻が岩に進む』と言う。私の思いは、どうかそれにあずかりたいということだ。二千戸をもって地士将軍欒大を封じて楽通侯とせよ」。列侯の最上の邸宅と召使い千人を賜った。天子の乗り物や使わなくなった車馬・幕・器物で、その家を満たした。さらに衛の長公主(武帝の娘)を妻として与え、黄金一万斤を持たせ、その領邑の名を改めて当利公主と呼んだ。天子は自ら五利将軍の邸宅に出向いた。見舞いや物資を届ける使者が道に絶えなかった。大主(武帝の叔母)や将軍・宰相以下、みな彼の家で酒宴を催し、贈り物をした。そこで天子はさらに玉印を刻んで「天道将軍」とし、使者に羽の衣を着せて夜に白い茅の上に立たせ、五利将軍もまた羽の衣を着て夜に白い茅の上に立って印を受け、臣下として扱わないことを示した。「天道」の印を帯びる者は、天子のために天の神を導くはずであった。こうして五利将軍はいつも夜に自宅で祭り、神を降ろそうとした。
解説
関連する章句
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史記 孝武本紀是の歳、天子始めて郡県を巡り、侵尋して泰山に於てす。其の春、楽成侯上書して欒大を言ふ。欒大は、膠東の宮人なり、故嘗て文成将軍と師を同じくし、已にして膠東王の尚方と為る。而して楽成侯の姉は康王の后為り、子毋し。康王死し、他姫の子立ちて王と為る。而して康后淫行有り、王と相中(得)らず、相危ふくするに法を以てす。康后文成の已に死せるを聞き、而して自ら上に媚びんと欲し、乃ち欒大を遣はして楽成侯に因りて見えんことを求めて方を言はしむ。天子既に文成を誅し、後に其の早く死せしを悔恨し、其の方の尽くさざりしを惜しむ、欒大を見るに及び、大いに悦ぶ。大人と為り長美、言に方略多く、而して敢へて大言を為し、之に処して疑はず。大言して曰く、「臣嘗て海中を往来し、安期・羨門の属を見る。顧(おも)ふに以為へらく臣賤しと、臣を信ぜず。又以為へらく康王は諸侯なるのみ、方を予ふるに足らずと。臣数(しばしば)康王に言ふ、康王又臣を用ゐず。臣の師曰く、『黄金成すべく、而して河決塞ぐべく、不死の薬得べく、僊人致すべきなり。』と。臣文成に効はんことを恐る、則ち方士皆口を掩ふ、悪んぞ敢へて方を言はんや。」と。上曰く、「文成は馬肝を食ひて死せしのみ。子誠に能く其の方を修めば、我何ぞ愛しまんや。」と。大曰く、「臣の師は人に求むること有るに非ず、人の者之を求む。陛下必ず之を致さんと欲せば、則ち其の使者を貴くし、親属有らしめ、客礼を以て之を待し、卑しむ勿く、各々其の信印を佩びしめば、乃ち神人に通言せしむべし。神人尚ほ肯んずるや不や。其の使を尊ぶを致し、然る後に致すべきなり。」と。是に於て上先づ小方を験せしむ、旗を鬬はしむるに、旗自ら相触撃す。是の時上方に河決を憂へ、而して黄金就らず、乃ち大を拝して五利将軍と為す。居ること月余、四金印を得、天士将軍・地土将軍・大通将軍・天道将軍の印を佩ぶ。御史に制詔すらく、「昔禹九江を疏し、四瀆を決す。
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史記 孝武本紀間者(このごろ)河皋陸に溢れ、隄繇息まず。朕天下に臨むこと二十有八年、天若し朕に士を遺りて大いに通ぜしむ。乾に『蜚龍』と称し、『鴻般に漸む』と、意ふに庶幾くは焉に与らん。其れ二千戸を以て地士将軍大を封じて楽通侯と為せ。」と。列侯の甲第、僮千人を賜ふ。乗輿の斥けし車馬帷帳器物を以て其の家に充つ。又衛長公主を以て之に妻はせ、金万斤を齎し、更めて其の邑を名づけて当利公主と曰ふ。天子親ら五利の第に如く。使者の存問して給する所、道に連属す。大主将相より以下、皆其の家に置酒し、之に献遺す。是に於て天子又玉印を刻して「天道将軍」と曰ひ、使をして羽衣を衣て、夜白茅の上に立たしめ、五利将軍も亦羽衣を衣て、白茅の上に立ちて印を受く、以て臣とせざるを示すなり。而して「天道」を佩ぶる者は、且に天子の為に天神を道(みちび)かんとするなり。是に於て五利常に夜其の家に祠り、以て神を下さんと欲す。神未だ至らずして百鬼集まる、然れども頗る能く之を使ふ。其の後装を治めて行き、東して海に入り、其の師を求むと云ふ。大見えて数月、六印を佩び、貴きこと天下を振るはす、而して海上燕斉の間、搤捥(やくわん)して自ら禁方有り、能く神僊すと言はざる莫し。其の夏六月中、汾陰の巫錦民の為に魏脽の后土の営の旁に祠る、地の鉤の状の如きを見、掊(ほ)りて視るに鼎を得たり。鼎大いに衆鼎に異なり、文鏤ありて款識毋し、之を怪しみ、吏に言ふ。吏河東の太守勝に告ぐ、勝以て聞す。天子使をして巫錦の鼎を得るに姦詐無きを験問せしめ、乃ち礼を以て祠り、鼎を迎へて甘泉に至らしめ、行に従ひて、上之を薦めんとす。中山に至る、晏温にして、黄雲有りて蓋ふ。麃過ぐる有り、上自ら之を射、因りて以て祭る云。長安に至る、公卿大夫皆議して宝鼎を尊ばんことを請ふ。天子曰く、「間者河溢れ、歳数(しばしば)登らず、故に巡りて后土を祭り、百姓の為に穀を育まんことを祈る。
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史記 封禅書神未だ至らずして百鬼集まる。然れども頗る能く之を使ふ。其の後、装して行を治め、東して海に入り、其の師を求むと云ふ。大、見えて数月にして、六印を佩び、貴きこと天下を震はす。而して海上の燕・斉の間、捥を搤りて自ら禁方有り、能く神僊すと言はざる莫し。其の夏六月中、汾陰の巫錦、民の為に魏脽の后土の営の旁に祠り、地の鉤の状の如きを見る。掊ちて視れば鼎を得たり。鼎、衆鼎に大いに異なり、文鏤ありて款識無し。之を怪しみ、吏に言ふ。吏、河東太守勝に告げ、勝以聞す。天子、使をして巫の鼎を得たるに姦詐無きかを験問せしめ、乃ち礼を以て祠り、鼎を迎へて甘泉に至らしめ、従行して、上之を薦む。中山に至る。曣温にして、黄雲有りて焉を蓋ふ。麃の過ぐる有り、上自ら之を射、因りて以て祭ると云ふ。長安に至り、公卿大夫皆議して宝鼎を尊ばんことを請ふ。天子曰く、「間者、河溢れ、歳数々登らず、故に后土を巡祭し、百姓の為に穀を育まんことを祈る。今歳豊廡なるも未だ報いず、鼎曷為れぞ出でたるや」と。有司皆曰く、「聞く、昔泰帝、神鼎一を興す。一は壹統、天地万物の係りて終る所なり。黄帝、宝鼎三を作り、天地人に象る。禹、九牧の金を収め、九鼎を鋳る。皆嘗て上帝鬼神に亨鬺す。聖に遭へば則ち興り、鼎は夏・商に遷る。周の徳衰へ、宋の社亡び、鼎乃ち淪没し、伏して見はれず。頌に云ふ、『堂より基に徂き、羊より牛に徂く。鼐鼎及び鼒、呉ならず驁らず、胡考の休』と。今、鼎甘泉に至り、光潤龍変し、休を承くること疆り無し。茲の中山に合して、黄白雲の降りて蓋ふ有り、獣の若きは符と為り、路弓乗矢、集ひて壇下に獲、報祠大いに享く。唯命を受けて帝たる者のみ、心に其の意を知りて徳に合す。鼎は宜しく祖禰に見はし、帝廷に蔵して、以て明応に合すべし」と。制して曰く、「可なり」と。海に入りて蓬萊を求むる者、蓬萊遠からざるも、能く至らざる者は、殆ど其の気を見ざればなりと言ふ。上乃ち望気の佐を遣はして其の気を候はしむと云ふ。
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史記 封禅書其の事秘にして、世知る莫きなり。其の後三年、有司言ふ、元は宜しく天瑞を以て命ずべし、宜しく一二を以て数ふべからずと。一元を「建」と曰ひ、二元は長星を以て「光」と曰ひ、三元は郊して一角の獣を得たるを以て「狩」と曰ふと云ふ。其の明年冬、天子雍に郊し、議して曰く、「今、上帝は朕親ら郊するも、后土には祀無し。則ち礼答へざるなり」と。有司、太史公・祠官寛舒と議すらく、「天地の牲は角繭栗。今陛下親ら后土を祠らんとす。后土は宜しく沢中の圜丘に於て五壇を為り、壇ごとに一黄犢の太牢の具、已に祠れば尽く瘞め、而して従祠の衣は黄を上ぶべし」と。是に於て天子遂に東し、始めて后土の祠を汾陰の脽丘に立つること、寛舒等の議の如し。上親ら望拝すること、上帝の礼の如し。礼畢りて、天子遂に滎陽に至りて還る。雒陽を過ぎ、詔を下して曰く、「三代は邈絶し、遠くして存し難し。其れ三十里の地を以て周の後を封じて周子南君と為し、以て其の先祀を奉ぜしめよ」と。是の歳、天子始めて郡県を巡り、侵尋として泰山に於てす。其の春、楽成侯上書して欒大を言ふ。欒大は膠東の宮人にして、故嘗て文成将軍と師を同じくし、已にして膠東王の尚方と為る。而して楽成侯の姉は康王の后たり、子無し。康王死し、他姫の子立ちて王と為る。而して康后淫行有り、王と相中らず、相危ぶむに法を以てす。康后、文成の已に死せるを聞き、自ら上に媚びんと欲し、乃ち欒大を遣はして楽成侯に因りて見えて方を言はんことを求めしむ。天子既に文成を誅し、後に其の蚤く死せるを悔い、其の方の尽くさざるを惜しむ。欒大を見るに及び、大いに説ぶ。大、人と為り長美にして、言に方略多く、而して敢て大言を為して之に処して疑はず。大言ひて曰く、「臣常に海中を往来し、安期・羨門の属を見る。顧ふに臣を以て賤しと為し、臣を信ぜず。又以為へらく康王は諸侯のみ、与に方するに足らずと。臣数々康王に言ふも、康王又臣を用ひず。
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史記 封禅書是に於て天子既に出でて名無し。乃ち万里沙に禱り、過ぎて泰山を祠る。還りて瓠子に至り、自ら臨みて決河を塞ぎ、留まること二日、沈祠して去る。二卿をして卒を将ゐて決河を塞がしめ、二渠を徙し、禹の故跡に復す。是の時既に両越を滅す。越人勇之乃ち言ふ、「越人は鬼を俗とし、而して其の祠皆鬼を見、数々効有り。昔、東甌王、鬼を敬ひ、寿百六十歳。後世怠慢し、故に衰秏す」と。乃ち越巫をして越祝の祠を立てしめ、台を安んじて壇無く、亦天神・上帝・百鬼を祠り、而して鶏を以て卜す。上之を信じ、越祠・鶏卜始めて用ひらる。公孫卿曰く、「僊人は見る可し。而るに上往くこと常に遽かなり、故を以て見えず。今陛下、観を為ること緱城の如くし、脯棗を置けば、神人宜しく致す可し。且つ僊人は楼居を好む」と。是に於て上、長安には則ち蜚廉桂観を作り、甘泉には則ち益延寿観を作らしめ、卿をして節を持して具を設けて神人を候はしむ。乃ち通天茎台を作り、祠具を其の下に置き、将に僊神人の属を招来せんとす。是に於て甘泉に更に前殿を置き、始めて諸々の宮室を広む。夏、芝の殿房の内中に生ずる有り。天子、河を塞ぎ、通天台を興すが為に、光有るを見るが若しと云ふ。乃ち詔を下す、「甘泉の房中に芝九茎を生ず。天下に赦し、復作有る毋からしめよ」と。其の明年、朝鮮を伐つ。夏、旱す。公孫卿曰く、「黄帝の時、封ずれば則ち天旱し、封を乾かすこと三年なり」と。上乃ち詔を下して曰く、「天旱す、意ふに封を乾かすか。其れ天下をして霊星を尊祠せしめよ」と。其の明年、上、雍に郊し、回中の道を通じ、之を巡る。春、鳴沢に至り、西河より帰る。其の明年冬、上、南郡を巡り、江陵に至りて東す。灊の天柱山に登礼し、号して南岳と曰ふ。江に浮かび、尋陽より樅陽に出で、彭蠡を過ぎ、其の名山川を礼す。北のかた瑯邪に至り、海上に并ふ。四月中、奉高に至りて封を修む。
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史記 封禅書上に幸する所の王夫人有り。夫人卒す。少翁、方を以て蓋し夜に王夫人及び灶鬼の貌を致すと云ふ。天子、帷中より望み見る。是に於て乃ち少翁を拝して文成将軍と為し、賞賜甚だ多く、客礼を以て之を礼す。文成言ひて曰く、「上即し神と通ぜんと欲するも、宮室・被服、神に象るに非ざれば、神物至らず」と。乃ち画雲気の車を作り、及び各々勝日を以て車に駕して悪鬼を辟く。又甘泉宮を作り、中に台室を為り、天・地・太一の諸鬼神を画き、而して祭具を置きて以て天神を致す。居ること歳余にして、其の方益々衰へ、神至らず。乃ち帛書を為りて以て牛に飯はせ、詳りて知らずとして、言ひて曰く、此の牛の腹中に奇有りと。殺して視れば書を得、書の言甚だ怪し。天子其の手書を識り、其の人に問へば、果して是れ偽書なり。是に於て文成将軍を誅し、之を隠す。其の後則ち又柏梁・銅柱・承露僊人掌の属を作る。文成死して明年、天子鼎湖に病むこと甚だしく、巫医致さざる所無きも、愈えず。游水発根、上郡に巫有り、病みて鬼神之に下ると言ふ。上召して之を甘泉に置きて祠る。病むに及び、人をして神君に問はしむ。神君言ひて曰く、「天子、病を憂ふる無かれ。病少しく愈えなば、彊ひて我と甘泉に会せよ」と。是に於て病愈え、遂に起ちて甘泉に幸し、病良に已ゆ。大赦し、寿宮の神君を置く。寿宮の神君の最も貴き者は太一、其の佐を大禁・司命の属と曰ひ、皆之に従ふ。得て見る可きに非ず、其の言を聞くに、言は人の音と等し。時に去り時に来り、来れば則ち風粛然たり。室の帷中に居る。時に昼に言ふも、然れども常に夜を以てす。天子祓ひて、然る後に入る。巫に因りて主人と為し、飲食を関る。言ふ所は、行ひて下す。又寿宮・北宮を置き、羽旗を張り、供具を設けて、以て神君を礼す。神君の言ふ所は、上人をして其の言を受書せしめ、之を命じて「画法」と曰ふ。其の語る所は、世俗の知る所にして、絶殊なる者無し。而るに天子の心独り喜ぶ。
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