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留魂録 / 第八条

何トナレハ人壽ハ定リナシ、禾稼ノ必ズ四時ヲ經ル如キニ非ズ、十歲ニシテ死スル者ハ十歲中自ラ四時アリ、二十ハ自ラ二十ノ四時アリ、三十ハ自ラ三十ノ四時、五十、百ハ自ラ五十、百ノ四時アリ、十歲ヲ以テ短トスルハ蟪ヲシテ靈椿タラシメント欲スルナリ、百歲ヲ以テ長シトスルハ靈椿ヲシテ蟪蛄タラシメント欲スルナリ、斉シク命ニ達セストス、義卿三十、四時已備、亦秀亦実、其秕タルト其粟タルト吾ガ知ル所ニ非ス、若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ、乃チ後來ノ種子未タ絕ヘズ、自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ、同志其是ヲ考思セヨ、

新字:何トナレハ人寿ハ定リナシ、禾稼ノ必ズ四時ヲ経ル如キニ非ズ、十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ、二十ハ自ラ二十ノ四時アリ、三十ハ自ラ三十ノ四時、五十、百ハ自ラ五十、百ノ四時アリ、十歳ヲ以テ短トスルハ蟪ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ、百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ蟪蛄タラシメント欲スルナリ、斉シク命ニ達セストス、義卿三十、四時已備、亦秀亦実、其秕タルト其粟タルト吾ガ知ル所ニ非ス、若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ、乃チ後来ノ種子未タ絶ヘズ、自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ、同志其是ヲ考思セヨ、

書き下し

何となれば人寿は定まりなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり、三十は自ら三十の四時あり、五十・百は自ら五十・百の四時あり。十歳を以て短しとするは、蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは、霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る。其の秕たると其の粟たると、吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を憐み、継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ。

現代語訳

なぜなら、人の寿命には定まりがなく、穀物が必ず四季を経るようなものではないからである。十歳で死ぬ者には十歳の中におのずから四季がある。二十歳には二十歳の四季があり、三十歳には三十歳の四季があり、五十歳、百歳にはそれぞれ五十歳、百歳の四季がある。十歳を短いとするのは、夏の間しか生きない蝉を、長寿の霊木の椿にしようとするようなものだ。百歳を長いとするのは、霊椿を蝉にしようとするようなものだ。どちらも天命を悟っていない。私は三十歳で、四季はすでに備わり、穂も出て実もついた。それが中身のない籾殻なのか、よく実った粟なのかは、私の知るところではない。もし同志の中に私のささやかな真心を憐れみ、この志を受け継ぐ人がいるならば、後に続く種子は絶えず、おのずから豊かな実りの年に恥じないものとなるだろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

解説

四時の説の後半では、寿命の長短という物差しそのものが退けられます。蟪蛄(夏蝉)と霊椿は、『荘子』逍遥遊の、春秋を知らない蝉と八千年を一つの春とする大椿の対比にもとづき、どちらを基準にしても天命を見誤ると言うのです。底本は最初の「蟪蛄」を「蟪」一字に書いていますが、意味はこのとおりです。そして結びで、自分の実りが籾殻か粟かは後に続く者が決めると託します。松陰の死後、門下からは高杉晋作や伊藤博文らが出ました。命の長さではなく、何を手渡したかで生を測る視点がここにあります。

この章句が説くこと

天命寿命継承死生観後進

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