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史記 / 封禅書

於是管仲睹桓公不可窮以辭,因設之以事,曰:「古之封禪,鄗上之黍,北里之禾,所以為盛;江淮之閒,一茅三脊,所以為藉也。東海致比目之魚,西海致比翼之鳥,然後物有不召而自至者十有五焉。今鳳皇麒麟不來,嘉穀不生,而蓬蒿藜莠茂,鴟梟數至,而欲封禪,毋乃不可乎?」於是桓公乃止。是歲,秦繆公內晉君夷吾。其後三置晉國之君,平其亂。繆公立三十九年而卒。其後百有餘年,而孔子論述六藝,傳略言易姓而王,封泰山禪乎梁父者七十餘王矣,其俎豆之禮不章,蓋難言之。或問禘之說,孔子曰:「不知。知禘之說,其於天下也視其掌。」詩云紂在位,文王受命,政不及泰山。武王克殷二年,天下未寧而崩。爰周德之洽維成王,成王之封禪則近之矣。及後陪臣執政,季氏旅於泰山,仲尼譏之。是時萇弘以方事周靈王,諸侯莫朝周,周力少,萇弘乃明鬼神事,設射貍首。貍首者,諸侯之不來者。依物怪欲以致諸侯。諸侯不從,而晉人執殺萇弘。周人之言方怪者自萇弘。其後百餘年,秦靈公作吳陽上畤,祭黃帝;作下畤,祭炎帝。後四十八年,周太史儋見秦獻公曰:「秦始與周合,合而離,五百歲當復合,合十七年而霸王出焉。」

新字:於是管仲睹桓公不可窮以辞,因設之以事,曰:「古之封禅,鄗上之黍,北里之禾,所以為盛;江淮之閒,一茅三脊,所以為藉也。東海致比目之魚,西海致比翼之鳥,然後物有不召而自至者十有五焉。今鳳皇麒麟不来,嘉穀不生,而蓬蒿藜莠茂,鴟梟数至,而欲封禅,毋乃不可乎?」於是桓公乃止。是歳,秦繆公内晋君夷吾。其後三置晋国之君,平其乱。繆公立三十九年而卒。其後百有余年,而孔子論述六芸,伝略言易姓而王,封泰山禅乎梁父者七十余王矣,其俎豆之礼不章,蓋難言之。或問禘之説,孔子曰:「不知。知禘之説,其於天下也視其掌。」詩云紂在位,文王受命,政不及泰山。武王克殷二年,天下未寧而崩。爰周徳之洽維成王,成王之封禅則近之矣。及後陪臣執政,季氏旅於泰山,仲尼譏之。是時萇弘以方事周霊王,諸侯莫朝周,周力少,萇弘乃明鬼神事,設射貍首。貍首者,諸侯之不来者。依物怪欲以致諸侯。諸侯不従,而晋人執殺萇弘。周人之言方怪者自萇弘。其後百余年,秦霊公作呉陽上畤,祭黄帝;作下畤,祭炎帝。後四十八年,周太史儋見秦献公曰:「秦始与周合,合而離,五百歳当復合,合十七年而覇王出焉。」

書き下し

是に於て管仲、桓公の辞を以て窮む可からざるを睹て、因りて之に設くるに事を以てして、曰く、「古の封禅には、鄗上の黍、北里の禾、盛と為す所以なり。江淮の間、一茅三脊、藉と為す所以なり。東海は比目の魚を致し、西海は比翼の鳥を致し、然る後に物の召さずして自ら至る者十有五有り。今、鳳皇・麒麟来らず、嘉穀生ぜずして、蓬蒿・藜莠茂り、鴟梟数々至る。而るに封禅せんと欲するは、毋乃ち不可ならんか」と。是に於て桓公乃ち止む。是の歳、秦の繆公、晋の君夷吾を内る。其の後三たび晋国の君を置き、其の乱を平ぐ。繆公立ちて三十九年にして卒す。其の後百有余年にして、孔子六芸を論述し、伝に略々言ふ、姓を易へて王たり、泰山に封じ梁父に禅する者七十余王、其の俎豆の礼章らかならず、蓋し之を言ひ難し、と。或ひと禘の説を問ふ。孔子曰く、「知らず。禘の説を知る者の天下に於けるや、其れ掌を視るがごとし」と。詩に云ふ、紂位に在り、文王命を受くるも、政泰山に及ばず。武王殷に克ちて二年、天下未だ寧からずして崩ず。爰に周の徳の洽きは維れ成王、成王の封禅は則ち之に近し。後に陪臣政を執るに及び、季氏泰山に旅す、仲尼之を譏る。是の時、萇弘、方を以て周の霊王に事ふ。諸侯周に朝する莫く、周の力少なし。萇弘乃ち鬼神の事を明らかにし、貍首を射ることを設く。貍首とは、諸侯の来らざる者なり。物怪に依りて以て諸侯を致さんと欲す。諸侯従はず、而して晋人、萇弘を執へて殺す。周人の方怪を言ふ者は萇弘よりす。其の後百余年、秦の霊公、呉陽の上畤を作りて黄帝を祭り、下畤を作りて炎帝を祭る。後四十八年、周の太史儋、秦の献公に見えて曰く、「秦は始め周と合ひ、合ひて離れ、五百歳にして当に復た合ふべし。合ひて十七年にして覇王出でん」と。

現代語訳

そこで管仲は、桓公を言葉で説き伏せることはできないと見て取り、具体的な事物を持ち出して言った。「古の封禅では、鄗上(こうじょう)の黍と北里の稲を供物の盛り物とし、長江と淮水の間に生える一本の茎に三つの筋がある茅を敷物にしました。東の海からは比目魚が、西の海からは比翼の鳥が届けられ、そのうえ呼ばずとも自然にやって来た瑞祥が十五もありました。今、鳳凰も麒麟も来ず、めでたい穀物も生えず、よもぎやあかざなどの雑草がはびこり、ふくろうのような不吉な鳥がしきりにやって来るありさま。それなのに封禅を行おうとなさるのは、よろしくないのではありませんか」。こうして桓公は思いとどまった。この年、秦の繆公は晋の君主夷吾(恵公)を晋に送り込んで即位させた。その後も三度晋の君主を立て、その内乱を平定した。繆公は即位して三十九年で死んだ。その百年余り後、孔子は六芸(六経)を論じ述べ、伝にはおおよそ、姓を変えて王となり泰山に封じ梁父に禅した王は七十余りいたが、その祭器や礼の次第は明らかでなく、おそらく語るのが難しいのだと記されている。ある人が禘(てい、天子の大祭)の意義を尋ねると、孔子は「知らない。禘の意義を知っている人が天下を治めるのは、手のひらを見るように容易だろう」と答えた。『詩』によれば、紂が王位にあり文王が天命を受けたが、その政治は泰山にまで及ばなかった。武王は殷に勝って二年、天下がまだ安定しないうちに死んだ。周の徳が天下に行き渡ったのは成王のときであり、成王の封禅なら(資格として)それに近かった。後に陪臣(諸侯の家臣)が政権を握るようになると、季氏(魯の家老)が泰山で旅(りょ、山の祭)を行い、仲尼(孔子)はこれを非難した。このころ萇弘(ちょうこう)は方術によって周の霊王に仕えていた。諸侯は周に朝見しなくなり、周の力は弱かった。そこで萇弘は鬼神の事を明らかにし、貍首(りしゅ)を射る儀式を設けた。貍首とは、来朝しない諸侯を象ったものである。怪異の力によって諸侯を呼び寄せようとしたのである。しかし諸侯は従わず、晋の人々が萇弘を捕らえて殺した。周の人で方術や怪異を説く者は萇弘に始まる。その百年余り後、秦の霊公は呉陽に上畤を作って黄帝を祭り、下畤を作って炎帝を祭った。その四十八年後、周の太史儋(たん)が秦の献公に会って言った。「秦は初め周と一つであったが、一つになってから離れた。五百年たてば再び一つになるはずで、一つになって十七年後に覇王が現れるでしょう」。

解説

管仲の諫め方が見事な段です。理屈で説いても通じないと見るや、「鳳凰も麒麟も来ず、雑草と不吉な鳥ばかりだ」と目に見える事実を並べ、桓公に自分で気づかせて封禅をやめさせました。相手を論破するより、判断の材料を差し出すほうが人は動くという好例です。後半は孔子が登場し、封禅の礼は明らかでないと述べ、身分を越えて泰山を祭った季氏を批判したことが紹介されます。反対に周の萇弘は、衰えた王室の力を怪異の儀式で補おうとして失敗し、殺されました。司馬遷はここで「方術・怪異を説く者の始まり」を萇弘に置いており、後の方士たちの系譜を示しています。実力が衰えたときに演出で補おうとする危うさは、今の組織にもそのまま当てはまります。

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