史記 / 漢興以来諸侯王年表
天子觀於上古,然後加惠,使諸侯得推恩分子弟國邑,故齊分為七,趙分為六,梁分為五,淮南分三,及天子支庶子為王,王子支庶為侯,百有餘焉。吳楚時,前后諸侯或以適削地,是以燕、代無北邊郡,吳、淮南、長沙無南邊郡,齊、趙、梁、楚支郡名山陂海咸納於漢。諸侯稍微,大國不過十餘城,小侯不過數十里,上足以奉貢職,下足以供養祭祀,以蕃輔京師。而漢郡八九十,形錯諸侯閒,犬牙相臨,秉其阸塞地利,彊本干,弱枝葉之勢,尊卑明而萬事各得其所矣。臣遷謹記高祖以來至太初諸侯,譜其下益損之時,令時世得覽。形勢雖彊,要之以仁義為本。
新字:天子観於上古,然後加恵,使諸侯得推恩分子弟国邑,故斉分為七,趙分為六,梁分為五,淮南分三,及天子支庶子為王,王子支庶為侯,百有余焉。呉楚時,前后諸侯或以適削地,是以燕、代無北辺郡,呉、淮南、長沙無南辺郡,斉、趙、梁、楚支郡名山陂海咸納於漢。諸侯稍微,大国不過十余城,小侯不過数十里,上足以奉貢職,下足以供養祭祀,以蕃輔京師。而漢郡八九十,形錯諸侯閒,犬牙相臨,秉其阸塞地利,彊本干,弱枝葉之勢,尊卑明而万事各得其所矣。臣遷謹記高祖以来至太初諸侯,譜其下益損之時,令時世得覧。形勢雖彊,要之以仁義為本。
書き下し
天子、上古を観て、然る後に恵みを加へ、諸侯をして恩を推して子弟に国邑を分かつことを得しむ。故に斉は分かれて七と為り、趙は分かれて六と為り、梁は分かれて五と為り、淮南は三に分かれ、天子の支庶子の王と為り、王子の支庶の侯と為る者に及ぶまで、百有余なり。呉楚の時、前後の諸侯或いは適を以て地を削らる、是を以て燕・代に北辺の郡無く、呉・淮南・長沙に南辺の郡無く、斉・趙・梁・楚の支郡名山陂海は咸漢に納めらる。諸侯稍く微にして、大国は十余城に過ぎず、小侯は数十里に過ぎず、上は以て貢職を奉ずるに足り、下は以て祭祀を供養するに足り、以て京師に蕃輔たり。而して漢の郡は八九十、形は諸侯の間に錯はり、犬牙相臨み、其の阨塞の地の利を秉り、本幹を彊くし、枝葉を弱くするの勢ひ、尊卑明らかにして万事各々其の所を得たり。臣遷謹んで高祖以来太初に至るまでの諸侯を記し、其の下の益損の時を譜し、時世をして覧るを得しむ。形勢彊しと雖も、之を要するに仁義を以て本と為す。
現代語訳
天子(武帝)は上古の制度を考えたうえで恩恵を加え、諸侯が恩を推し広めて子弟に国や邑を分け与えることができるようにした(推恩の令)。そのため斉は七つに、趙は六つに、梁は五つに、淮南は三つに分かれ、天子の庶子で王となった者や、王の庶子で侯となった者を合わせると、百余りにのぼった。呉楚の乱の頃、前後して諸侯の中には罪によって領地を削られる者がいた。そのため燕・代には北辺の郡がなくなり、呉・淮南・長沙には南辺の郡がなくなり、斉・趙・梁・楚の支郡や名山・湖沼・海浜はみな漢に収められた。諸侯はしだいに弱くなり、大国でも十余りの城にすぎず、小さな侯は数十里にすぎず、上には貢ぎ物と務めを奉じるに足り、下には祖先の祭祀を営むに足る程度で、都を守る藩屏となった。一方、漢の郡は八、九十に及び、その配置は諸侯の間に入り組み、犬の牙のように互いに向き合って、要害の地の利を押さえ、幹を強くして枝葉を弱くする形勢となり、尊卑の別が明らかになって、万事がそれぞれ所を得た。臣司馬遷は、謹んで高祖以来太初年間までの諸侯を記し、その後の増減の時期を系譜にして、世の人が見られるようにした。形勢がいかに強くても、要するに仁義を根本とするのである。
解説
関連する章句
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史記 建元以来王子侯者年表御史に制詔す、「諸侯王或いは私恩を推して子弟に邑を分かたんと欲する者は、各々条上せしめよ、朕且に臨みて其の号名を定めんとす」と。太史公曰く、盛んなるかな、天子の徳。一人慶有れば、天下之に頼る。
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史記 漢興以来諸侯王年表太史公曰く、殷より以前は尚し。周は五等を封ず、公・侯・伯・子・男。然れども伯禽・康叔を魯・衛に封じ、地各々四百里、親を親しむの義にして、有徳を褒むるなり。太公を斉に封じ、五侯の地を兼ぬるは、勤労を尊ぶなり。武王・成・康の封ずる所数百、而して同姓五十五、地は上は百里に過ぎず、下は三十里、以て王室を輔衛す。管・蔡・康叔・曹・鄭は、或いは過ぎ或いは損ず。厲・幽の後、王室欠け、侯伯の彊国興り、天子微にして、正す能はず。徳の純ならざるに非ず、形勢弱きなり。漢興りて、二等を序す。高祖の末年、劉氏に非ずして王たる者、若しくは功無くして上の置かざる所にして侯たる者は、天下共に之を誅せよとす。高祖の子弟同姓にして王たる者九国、独り長沙のみ異姓なりと雖も、而して功臣の侯たる者百有余人。雁門・太原より以東、遼陽に至るまでを燕・代国と為し、常山より以南、大行を左に転じ、河・済を度り、阿・甄より以東海に薄るまでを斉・趙国と為し、陳より以西、南は九疑に至り、東は江・淮・穀・泗を帯び、会稽に薄るまでを梁・楚・淮南・長沙国と為す。皆外は胡・越に接す。而して内地は北は山を距てて以東は尽く諸侯の地、大なる者は或いは五六郡、城を連ぬること数十、百官宮観を置き、天子に僭す。漢は独り三河・東郡・潁川・南陽、江陵より以西蜀に至るまで、北は雲中より隴西に至るまで、内史と凡そ十五郡を有し、而して公主列侯頗る其の中に食邑す。何となれば、天下初めて定まり、骨肉同姓少なし、故に広く庶孽を彊くし、以て四海を鎮撫し、用て天子を承衛するなり。漢定まりて百年の間、親属益々疏く、諸侯或いは驕奢にして、邪臣の計謀に忕れて淫乱を為し、大なる者は叛逆し、小なる者は法に軌はず、以て其の命を危ふくし、身を殞し国を亡ぼす。
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史記 建元以来侯者年表太史公曰く、匈奴和親を絶ち、当路の塞を攻む。閩越擅に伐ち、東甌降を請ふ。二夷交々侵し、盛漢の隆に当たる、此を以て功臣の封を受くること祖考に侔しきを知る。何となれば、詩書に三代を称して「戎狄是れ膺ち、荊荼是れ徴す」と言ふより、太史公曰く、斉桓は燕を越えて山戎を伐ち、武霊王は区区たる趙を以て単于を服し、秦繆は百里を用ひて西戎に霸たり、呉楚の君は諸侯を以て百越を役す。況んや乃ち中国の一統を以て、明天子上に在り、文武を兼ね、四海を席巻し、内は億万の衆を輯むるをや、豈に晏然として辺境の征伐を為さざるを以てせんや。是より後、遂に師を出だして北のかた彊胡を討ち、南のかた勁越を誅し、将卒次を以て封ぜらる。右は太史公の本表。右は孝武の封国名。後進の好事の儒者褚先生曰く、太史公の事を記すこと孝武の事に尽く、故に復た孝昭以来の功臣侯者を修記し、左方に編み、後の好事者をして成敗長短絶世の適を覧観するを得しめ、以て自ら戒むるを得しむ。当世の君子、権を行ひ変に合し、時を度りて宜しきを施し、世に希ひて事を用ひ、以て功を建てて土有り侯に封ぜられ、名を当世に立つ、豈に盛んならずや。其の満を持し成るを守るの道を観るに、皆謙譲せず、驕蹇にして権を争ひ、声誉を揚ぐるを喜び、進むを知りて退くを知らず、終に以て身を殺し国を滅ぼす。三を以て之を得、身に及んで之を失ひ、功を後世に伝へ、恩徳をして子孫に流れしむる能はず、豈に悲しからずや。夫の龍雒侯は曽て前将軍為り、世俗順善にして、厚重謹信、政事に与らず、退譲して人を愛す。其の先は晋の六卿の世に起こる。土有りて国に君たりしより以来、王侯と為り、子孫相承けて絶えず、年を歴世を経て、以て今に至る、凡そ百余歳、豈に功臣の身に及んで之を失ふ者と日を同じくして語るべけんや。悲しいかな、後世其れ之を誡めよ。右は孝昭の時の封ずる所の国名。右は孝宣の時の封ずる所。
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史記 恵景間侯者年表太史公、列封を読みて便侯に至りて曰く、以有るかな。長沙王は、令甲に著して、其の忠を称す。昔高祖天下を定め、功臣の同姓に非ずして疆土ありて王たる者八国。孝恵の時に至りて、唯独り長江のみ全く、禅ること五世、禅ること五世、嗣無きを以て絶ゆ、意ふに過ち無く、藩と為りて職を守る、信なり。故に其の沢枝庶に流れ、功無くして侯たる者数人。孝恵より孝景に訖るまでの間五十載に及び、高祖の時の遺りたる功臣、及び代より従ひ来たる、呉楚の労、諸侯の子弟の肺腑の若き、外国の義に帰するを追修し、封ずる者九十有余。咸始終を表す、当世の仁義成功の著しき者なり。右は孝恵の時三。右は高后の時三十一。右は孝文の時二十九。右は孝景の時三十。
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史記 高祖功臣侯者年表太史公曰く、古者人臣の功に五品有り。徳を以て宗廟を立て社稷を定むるを勲と曰ひ、言を以てするを労と曰ひ、力を用ふるを功と曰ひ、其の等を明らかにするを伐と曰ひ、日を積むを閲と曰ふ。封爵の誓ひに曰く、「河をして帯の如く、泰山をして厲の若くならしむとも、国以て永く寧く、爰に苗裔に及ばん」と。始め未だ嘗て其の根本を固めんと欲せずんばあらず、而して枝葉稍く陵夷衰微す。余、高祖の侯功臣を読み、其の首封と、之を失ふ所以の者とを察して、曰く、異なるかな新たに聞く所と。書に曰く「万国を協和す」と、夏商に遷りて、或いは数千歳。蓋し周は八百を封じ、幽厲の後も春秋に見はる。尚書に唐虞の侯伯有り、三代を歴て千有余載、自ら全うして以て天子に蕃衛す、豈に仁義に篤く、上の法を奉ずるに非ずや。漢興りて、功臣の封を受くる者百有余人。天下初めて定まる、故に大城名都散亡し、戸口の得て数ふべき者十に二三、是を以て大侯も万家に過ぎず、小なる者は五六百戸。後数世、民咸郷里に帰り、戸益々息し、蕭・曹・絳・灌の属は或いは四万に至り、小侯も自ら倍し、富厚之の如し。子孫驕溢し、其の先を忘れ、淫嬖す。太初に至るまで百年の間、見侯五、余は皆法に坐して命を隕し国を亡ぼし、秏す。罔も亦少しく密なり、然れども皆身に当世の禁に兢兢たること無しと云ふ。今の世に居りて、古の道を志すは、自ら鏡みる所以なり、未だ必ずしも尽くは同じからず。帝王は各々礼を殊にし務めを異にす、要は成功を以て統紀と為す、豈に緄すべけんや。尊寵を得る所以及び廃辱せらるる所以を観れば、亦当世の得失の林なり、何ぞ必ずしも旧聞ならん。是に於いて其の終始を謹み、其の文を表し、頗る本末を尽くさざる所有り。其の明らかなるを著し、疑はしき者は之を闕く。後に君子有りて、推して之を列せんと欲すれば、以て覧るを得ん。
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史記 平津侯主父列伝今郡守の権は、特に六卿の重きのみに非ざるなり。地幾千里、特に閭巷の資のみに非ざるなり。甲兵器械、特に棘矜の用のみに非ざるなり。以て万世の変に遭はば、則ち称諱すべからざるなり。書天子に奏せられ、天子三人を召見し、謂ひて曰く、「公等皆安くにか在りし。何ぞ相見ることの晩きや」と。是に於て上乃ち主父偃・徐楽・厳安を拝して郎中と為す。偃数々見え、疏を上りて事を言ふ、詔して偃を拝して謁者と為し、遷して中大夫と為す。一歳中に偃を四遷す。偃上に説きて曰く、「古者諸侯は百里に過ぎず、彊弱の形制し易し。今諸侯或いは城を連ぬること数十、地方千里、緩なれば則ち驕奢にして淫乱を為し易く、急なれば則ち其の彊きを阻みて合従して以て京師に逆ふ。今法を以て之を割削せば、則ち逆節萌起す、前日の晁錯是れなり。今諸侯の子弟或いは十数、而して適嗣代はりて立ち、余は骨肉と雖も、尺寸の地の封無し、則ち仁孝の道宣べず。願はくは陛下諸侯をして恩を推して子弟に分かち、地を以て之を侯とするを得しめよ。彼人人願ふ所を得るを喜び、上は徳を以て施し、実は其の国を分かち、削らずして稍々弱からん」と。是に於て上其の計に従ふ。又上に説きて曰く、「茂陵初めて立つ、天下の豪桀并兼の家、衆を乱すの民、皆茂陵に徙すべし、内は京師を実たし、外は姦猾を銷す、此れ所謂誅せずして害除くなり」と。上又其の計に従ふ。衛皇后を尊立し、及び燕王定国の陰事を発するは、蓋し偃功有り。
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