史記 / 孝文本紀
令中尉亞夫為車騎將軍,屬國悍為將屯將軍,郎中令武為復土將軍,發近縣見卒萬六千人,發內史卒萬五千人,藏郭穿復土屬將軍武。乙巳,群臣皆頓首上尊號曰孝文皇帝。太子即位于高廟。丁未,襲號曰皇帝。孝景皇帝元年十月,制詔御史:「蓋聞古者祖有功而宗有德,制禮樂各有由。聞歌者,所以發德也;舞者,所以明功也。高廟酎,奏武德、文始、五行之舞。孝惠廟酎,奏文始、五行之舞。孝文皇帝臨天下,通關梁,不異遠方。除誹謗,去肉刑,賞賜長老,收恤孤獨,以育群生。減嗜欲,不受獻,不私其利也。罪人不帑,不誅無罪。除宮刑,出美人,重絕人之世。朕既不敏,不能識。此皆上古之所不及,而孝文皇帝親行之。德厚侔天地,利澤施四海,靡不獲福焉。明象乎日月,而廟樂不稱。朕甚懼焉。其為孝文皇帝廟為昭德之舞,以明休德。然後祖宗之功德著於竹帛,施于萬世,永永無窮,朕甚嘉之。其與丞相、列侯、中二千石、禮官具為禮儀奏。」丞相臣嘉等言:「陛下永思孝道,立昭德之舞以明孝文皇帝之盛德。皆臣嘉等愚所不及。臣謹議:世功莫大於高皇帝,德莫盛於孝文皇帝,高皇廟宜為帝者太祖之廟,孝文皇帝廟宜為帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟。郡國諸侯宜各為孝文皇帝立太宗之廟。諸侯王列侯使者侍祠天子,歲獻祖宗之廟。請著之竹帛,宣布天下。」制曰:「可。」
新字:令中尉亜夫為車騎将軍,属国悍為将屯将軍,郎中令武為復土将軍,発近県見卒万六千人,発内史卒万五千人,蔵郭穿復土属将軍武。乙巳,群臣皆頓首上尊号曰孝文皇帝。太子即位于高廟。丁未,襲号曰皇帝。孝景皇帝元年十月,制詔御史:「蓋聞古者祖有功而宗有徳,制礼楽各有由。聞歌者,所以発徳也;舞者,所以明功也。高廟酎,奏武徳、文始、五行之舞。孝恵廟酎,奏文始、五行之舞。孝文皇帝臨天下,通関梁,不異遠方。除誹謗,去肉刑,賞賜長老,収恤孤独,以育群生。減嗜欲,不受献,不私其利也。罪人不帑,不誅無罪。除宮刑,出美人,重絶人之世。朕既不敏,不能識。此皆上古之所不及,而孝文皇帝親行之。徳厚侔天地,利沢施四海,靡不獲福焉。明象乎日月,而廟楽不称。朕甚懼焉。其為孝文皇帝廟為昭徳之舞,以明休徳。然後祖宗之功徳著於竹帛,施于万世,永永無窮,朕甚嘉之。其与丞相、列侯、中二千石、礼官具為礼儀奏。」丞相臣嘉等言:「陛下永思孝道,立昭徳之舞以明孝文皇帝之盛徳。皆臣嘉等愚所不及。臣謹議:世功莫大於高皇帝,徳莫盛於孝文皇帝,高皇廟宜為帝者太祖之廟,孝文皇帝廟宜為帝者太宗之廟。天子宜世世献祖宗之廟。郡国諸侯宜各為孝文皇帝立太宗之廟。諸侯王列侯使者侍祠天子,歳献祖宗之廟。請著之竹帛,宣布天下。」制曰:「可。」
書き下し
中尉亜夫をして車騎将軍と為し、属国悍を将屯将軍と為し、郎中令武を復土将軍と為し、近県の見卒万六千人を発し、内史の卒万五千人を発し、郭を蔵め穿ちて土を復すことを将軍武に属せしむ。乙巳、群臣皆頓首して尊号を上りて孝文皇帝と曰ふ。太子高廟に即位す。丁未、号を襲ひて皇帝と曰ふ。孝景皇帝の元年十月、御史に制詔すらく、「蓋し聞く古者祖は功有りて宗は徳有り、礼楽を制するに各々由有りと。聞く歌は、徳を発する所以なり。舞は、功を明らかにする所以なりと。高廟の酎には、武徳・文始・五行の舞を奏す。孝恵廟の酎には、文始・五行の舞を奏す。孝文皇帝天下に臨み、関梁を通じ、遠方を異にせず。誹謗を除き、肉刑を去り、長老に賞賜し、孤独を収恤し、以て群生を育む。嗜欲を減じ、献を受けず、其の利を私せざるなり。罪人は帑せず、無罪を誅せず。(肉)[宮]刑を除き、美人を出だし、人の世を絶つことを重んず。朕既に不敏にして、識る能はず。此れ皆上古の及ばざる所にして、孝文皇帝親ら之を行ふ。徳の厚きこと天地に侔しく、利沢四海に施し、福を獲ざる靡し。明は日月に象るも、廟楽称はず。朕甚だ懼る。其れ孝文皇帝の廟の為に昭徳の舞を為りて、以て休徳を明らかにせよ。然る後に祖宗の功徳竹帛に著れ、万世に施し、永永窮まり無し、朕甚だ之を嘉す。其れ丞相・列侯・中二千石・礼官と具に礼儀を為りて奏せよ。」と。丞相臣嘉等言ふ、「陛下永く孝道を思ひ、昭徳の舞を立てて以て孝文皇帝の盛徳を明らかにす。皆臣嘉等の愚の及ばざる所なり。臣謹みて議す、世功は高皇帝より大なるは莫く、徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、高皇の廟は宜しく帝者の太祖の廟と為すべく、孝文皇帝の廟は宜しく帝者の太宗の廟と為すべし。天子宜しく世世祖宗の廟に献ずべし。郡国の諸侯は宜しく各々孝文皇帝の為に太宗の廟を立つべし。諸侯王列侯の使者天子に侍祠し、歳ごとに祖宗の廟に献ぜん。請ふ之を竹帛に著し、天下に宣布せん。」と。制して曰く、「可なり。」と。
現代語訳
(遺詔により)中尉の周亜夫を車騎将軍、典属国の悍を将屯将軍、郎中令の張武を復土将軍(墓の埋め戻しを担う将軍)とし、近くの県の現役兵一万六千人と、内史(都の地方長官)の兵一万五千人を動員して、棺を納める墓穴を掘り土を戻す作業を張武将軍に担当させた。乙巳の日、群臣は皆頭を地につけて尊号を奉り、孝文皇帝とした。太子は高祖の廟で即位した。丁未の日、帝号を継いで皇帝と称した。孝景皇帝の元年(前156年)十月、御史に詔を下した。「聞くところでは、昔は功績のあった者を祖とし、徳のあった者を宗として祀り、礼や音楽を定めるにはそれぞれ由来があったという。歌は徳を表すためのもの、舞は功績を明らかにするためのものだと聞く。高祖の廟の祭りの酒の儀式では、武徳・文始・五行の舞を奏している。孝恵帝の廟の儀式では、文始・五行の舞を奏している。孝文皇帝は天下に君臨して、関所や橋を自由に通れるようにし、遠方の地も分け隔てしなかった。誹謗の罪を除き、肉刑を廃止し、老人に褒美を与え、孤独な者を引き取っていたわり、多くの民を育てた。自らの欲を減らし、献上品を受けず、利益を私しなかった。罪人の妻子を奴婢として没収せず、罪のない者を罰しなかった。宮刑を廃止し、後宮の女性を実家に帰し、人の家系を絶つことを重大に考えた。朕は聡明でなく、そのすべてを知ることはできないが、これらは皆上古の聖王も及ばなかったことで、孝文皇帝が自ら行われたことである。その徳の厚さは天地に等しく、恵みは四方の海にまで及び、福を受けない者はなかった。その明らかさは日月にかたどるほどなのに、廟の音楽がそれにふさわしくない。朕はたいへん恐れ多く思う。孝文皇帝の廟のために昭徳の舞を作り、そのすぐれた徳を明らかにせよ。そうしてこそ祖宗の功徳は竹簡や絹に記され、万世に伝わって永遠に尽きることがない。朕はこれをたいへんよいことと思う。丞相・列侯・中二千石の高官・礼官とともに礼儀を詳しく定めて奏上せよ」。丞相の申屠嘉らは言った。「陛下は長く孝の道を思い、昭徳の舞を立てて孝文皇帝の盛んな徳を明らかにされる。いずれも私ども愚か者の及ばないところだ。謹んで議したところ、代々の功績では高皇帝より大きい者はなく、徳では孝文皇帝より盛んな者はない。高皇帝の廟は帝王の太祖の廟とし、孝文皇帝の廟は帝王の太宗の廟とするのがよい。天子は代々、祖宗の廟に供え物を献じるべきである。郡や国の諸侯はそれぞれ孝文皇帝のために太宗の廟を建てるべきである。諸侯王や列侯の使者は天子の祭祀に侍し、毎年祖宗の廟に供え物を献じる。どうかこれを竹簡や絹に記し、天下に広く布告していただきたい」。景帝は詔して「よろしい」と言った。
解説
関連する章句
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史記 孝文本紀淮南王は、弟なり、徳を秉りて以て朕に陪す。豈に豫めせずと為さんや。諸侯王宗室昆弟に功臣有り、多く賢及び徳義有る者なり、若し有徳を挙げて以て朕の終ふる能はざるに陪せしめば、是れ社稷の霊、天下の福なり。今選挙せずして、必ず子と曰はば、人其れ朕を以て賢有徳の者を忘れて子に専らにすと為さん、天下を憂ふる所以に非ざるなり。朕甚だ取らざるなり。」と。有司皆固く請ひて曰く、「古者殷周国を有ち、治安なること皆千余歳、古の天下を有つ者焉より長きは莫し、此の道を用ゐればなり。嗣を立つるに必ず子とするは、従りて来たる所遠し。高帝親ら士大夫を率ゐ、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝者の太祖と為る。諸侯王及び列侯の始めて国を受くる者も皆亦其の国の祖と為る。子孫嗣を継ぎ、世世絶えざるは、天下の大義なり、故に高帝之を設けて以て海内を撫す。今宜しく建つべきを釈きて更に諸侯及び宗室に選ぶは、高帝の志に非ざるなり。更に議するは宜しからず。子某最も長じ、純厚慈仁なり、請ふ建てて以て太子と為さん。」と。上乃ち之を許す。因りて天下の民の当に父の後に代はるべき者に爵各々一級を賜ひ、将軍薄昭を封じて軹侯と為す。三月、有司皇后を立てんことを請ふ。薄太后曰く、「諸侯皆同姓なり、太子の母を立てて皇后と為せ。」と。皇后は姓竇氏なり。上后を立つるが故を為して、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十已上、孤児九歳已下に布帛米肉を賜ふこと各々数有り。上代より来り、初めて位に即き、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩ぶ、乃ち代より来たる功臣を循(ねぎら)ふ。上曰く、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎ふるや、朕狐疑し、皆朕を止む、唯だ中尉宋昌のみ朕に勧む、朕以て宗廟を保ち奉ずるを得たり。已に昌を尊びて衛将軍と為す、其れ昌を封じて壮武侯と為せ。諸々の朕に従ひし六人、官皆九卿に至らしめよ。」と。
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史記 孝文本紀太尉身ら襄平侯通を率ゐて節を持ちて詔を承けて北軍に入る。典客劉掲身ら趙王呂禄の印を奪ふ。太尉勃に封を益すこと万戸、金五千斤を賜ふ。丞相陳平・灌将軍嬰に邑各々三千戸、金二千斤。朱虚侯劉章・襄平侯通・東牟侯劉興居に邑各々二千戸、金千斤。典客掲を封じて陽信侯と為し、金千斤を賜ふ。」と。十二月、上曰く、「法は、治の正なり、暴を禁じて善人を率ゐる所以なり。今法を犯して已に論ぜらるるに、而して罪毋き父母妻子同産をして之に坐せしめ、及び収帑と為す、朕甚だ取らず。其れ之を議せよ。」と。有司皆曰く、「民自ら治むる能はず、故に法を為りて以て之を禁ず。相坐し坐して収むるは、其の心を累して、法を犯すことを重んぜしむる所以なり、従りて来たる所遠し。故の如くするが便なり。」と。上曰く、「朕聞く法正しければ則ち民愨(つつし)み、罪当たれば則ち民従ふと。且つ夫れ民を牧して之を善に導く者は、吏なり。其れ既に導く能はず、又不正の法を以て之を罪す、是れ反つて民を害して暴を為す者なり。何を以て之を禁ぜん。朕未だ其の便なるを見ず、其れ孰(つらつら)之を計れ。」と。有司皆曰く、「陛下大恵を加ふ、徳甚だ盛んなり、臣等の及ぶ所に非ざるなり。請ふ詔書を奉じて、収帑諸相坐の律令を除かん。」と。正月、有司言ひて曰く、「蚤く太子を建つるは、宗廟を尊ぶ所以なり。請ふ太子を立てん。」と。上曰く、「朕既に不徳なり、上帝神明未だ歆享せず、天下の人民未だ嗛志有らず。今縦ひ博く天下の賢聖有徳の人を求めて天下を禅(ゆづ)る能はずとも、而して豫め太子を建つと曰ふは、是れ吾が不徳を重ぬるなり。天下を何と謂はん。其れ之を安んぜよ。」と。有司曰く、「豫め太子を建つるは、宗廟社稷を重んじて、天下を忘れざる所以なり。」と。上曰く、「楚王は、季父なり、春秋高く、天下の義理を閲すること多し、国家の大体に明らかなり。呉王は朕に於て、兄なり、恵仁にして以て徳を好む。
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史記 高祖本紀呂后審食其と謀りて曰く、「諸将帝と編戸の民為り、今北面して臣と為る、此れ常に怏怏たり、今乃ち少主に事ふ、尽く族せざれば、天下安からず。」と。人或いは之を聞き、酈将軍に語る。酈将軍往きて審食其に見えて、曰く、「吾聞く帝已に崩じ、四日喪を発せず、諸将を誅せんと欲すと。誠に此くの如くならば、天下危ふし。陳平・灌嬰十万を将ゐて滎陽を守り、樊噲・周勃二十万を将ゐて燕・代を定む、此れ帝崩じ、諸将皆誅せらるると聞かば、必ず兵を連ねて郷に還りて以て関中を攻めん。大臣内に叛き、諸侯外に反せば、亡ぶること足を翹(つまだ)てて待つべきなり。」と。審食其入りて之を言ふ、乃ち丁未を以て喪を発し、天下に大赦す。盧綰高祖の崩ずるを聞き、遂に亡げて匈奴に入る。丙寅、葬る。己巳、太子を立て、太上皇の廟に至る。群臣皆曰く、「高祖微細より起こり、乱世を撥めて之を正に反し、天下を平定し、漢の太祖と為る、功最も高し。」と。尊号を上りて高皇帝と為す。太子号を襲ひて皇帝と為る、孝恵帝なり。郡国の諸侯をして各々高祖の廟を立て、歳時を以て祠らしむ。孝恵の五年に及び、高祖の沛を悲楽せしを思ひ、沛宮を以て高祖の原廟と為す。高祖の教へし所の歌児百二十人、皆吹楽を為さしめ、後に欠くる有れば、輒ち之を補ふ。高帝の八男、長は庶の斉の悼恵王肥。次は孝恵、呂后の子なり。次は戚夫人の子趙の隠王如意。次は代王恒、已に立ちて孝文帝と為る、薄太后の子なり。次は梁王恢、呂太后の時徙りて趙の共王と為る。次は淮陽王友、呂太后の時徙りて趙の幽王と為る。次は淮南の厲王長。次は燕王建。太史公曰く、夏の政は忠なり。忠の敝は、小人以て野なり、故に殷人之を承くるに敬を以てす。敬の敝は、小人以て鬼なり、故に周人之を承くるに文を以てす。文の敝は、小人以て僿(し)なり、故に僿を救ふは忠を以てするに若くは莫し。
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史記 封禅書其の梁巫は、天・地・天社・天水・房中・堂上の属を祠る。晋巫は、五帝・東君・雲中・司命・巫社・巫祠・族人・先炊の属を祠る。秦巫は、社主・巫保・族纍の属を祠る。荊巫は、堂下・巫先・司命・施糜の属を祠る。九天巫は、九天を祠る。皆歳時を以て宮中に祠る。其の河巫は河を臨晋に祠り、而して南山巫は南山・秦中を祠る。秦中とは二世皇帝なり。各々時月有り。其の後二歳、或ひと曰く、周興りて邰に邑し、后稷の祠を立て、今に至るまで天下に血食すと。是に於て高祖、御史に制詔すらく、「其れ郡国県をして霊星の祠を立て、常に歳時を以て祠るに牛を以てせしめよ」と。高祖十年春、有司請ふ、県をして常に春三月及び時の臘を以て社稷を祠るに羊豕を以てし、民の里社は各々自ら財して以て祠らしめんと。制して曰く、「可なり」と。其の後十八年、孝文帝即位す。即位して十三年、詔を下して曰く、「今、秘祝の過ちを下に移すは、朕甚だ取らず。今より之を除け」と。始め名山大川の諸侯に在るは、諸侯の祝各々自ら奉祠し、天子の官は領せず。斉・淮南国の廃するに及び、太祝をして尽く歳時を以て礼を致すこと故の如くせしむ。是の歳、制して曰く、「朕即位して十三年、今に于て、宗廟の霊、社稷の福に頼り、方内艾安にして、民人疾靡し。間者比年登る。朕の不徳、何を以てか此を饗けん。皆上帝諸神の賜なり。蓋し聞く、古は其の徳を饗くれば必ず其の功に報ゆと。諸神の祠を増すこと有らんと欲す」と。有司議して、雍の五畤に路車各一乗、駕被具を増し、西畤・畦畤に禺車各一乗、禺馬四匹、駕被具を増し、其の河・湫・漢水には玉各二を加へ、及び諸祠、各々壇場を増広し、珪幣俎豆は差を以て之を加ふ。而して祝の秘する者は福を朕に帰し、百姓は与らず。「今より祝は敬を致し、祈る所有る毋かれ」と。
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史記 孝文本紀願はくは楚王に請ひて宜しき者を計れ、寡人敢へて当たらず。」と。群臣皆伏して固く請ふ。代王西郷して譲る者三たび、南郷して譲る者再びす。丞相平等皆曰く、「臣伏して之を計るに、大王高帝の宗廟を奉ずること最も宜しく称ふ、天下の諸侯万民と雖も以て宜しと為す。臣等宗廟社稷の為に計る、敢へて忽せにせず。願はくは大王幸ひに臣等に聴け。臣謹みて天子の璽符を奉じて再拝して上る。」と。代王曰く、「宗室将相王列侯以為へらく寡人に宜しきは莫しと、寡人敢へて辞せず。」と。遂に天子の位に即く。群臣礼を以て次して侍す。乃ち太僕嬰と東牟侯興居とをして宮を清めしめ、天子の法駕を奉じて、代邸に迎ふ。皇帝即日夕に未央宮に入る。乃ち夜宋昌を拝して衛将軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。張武を以て郎中令と為し、殿中を行(めぐ)らしむ。還りて前殿に坐す。是に於て夜詔書を下して曰く、「間者(このごろ)諸呂事を用ゐて権を擅にし、大逆を為さんと謀り、以て劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す、将相列侯宗室大臣の之を誅するに頼りて、皆其の辜に伏す。朕初めて位に即く、其れ天下に赦し、民に爵一級を賜ひ、女子百戸に牛酒、酺すること五日。」と。孝文皇帝の元年十月庚戌、故の琅邪王沢を徙し立てて燕王と為す。辛亥、皇帝阼に即き、高廟に謁す。右丞相平徙りて左丞相と為り、太尉勃を右丞相と為し、大将軍灌嬰を太尉と為す。諸呂の奪ひし所の斉楚の故地は、皆復た之を与ふ。壬子、車騎将軍薄昭を遣はして皇太后を代に迎ふ。皇帝曰く、「呂産自ら置きて相国と為り、呂禄上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍嬰を遣はして兵を将ゐて斉を撃たしめ、劉氏に代はらんと欲す、嬰滎陽に留まりて撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産不善を為さんと欲す、丞相陳平太尉周勃と謀りて呂産等の軍を奪ふ。朱虚侯劉章首め先づ呂産等を捕ふ。
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