史記 / 高祖本紀
敗後乃獨得孝惠,六月,立為太子,大赦罪人。令太子守櫟陽,諸侯子在關中者皆集櫟陽為衛。引水灌廢丘,廢丘降,章邯自殺。更名廢丘為槐里。於是令祠官祀天地四方上帝山川,以時祀之。興關內卒乘塞。是時九江王布與龍且戰,不勝,與隨何閒行歸漢。漢王稍收士卒,與諸將及關中卒益出,是以兵大振滎陽,破楚京、索閒。三年,魏王豹謁歸視親疾,至即絕河津,反為楚。漢王使酈生說豹,豹不聽。漢王遣將軍韓信擊,大破之,虜豹。遂定魏地,置三郡,曰河東、太原、上黨。漢王乃令張耳與韓信遂東下井陘擊趙,斬陳餘、趙王歇。其明年,立張耳為趙王。漢王軍滎陽南,筑甬道屬之河,以取敖倉。與項羽相距歲餘。項羽數侵奪漢甬道,漢軍乏食,遂圍漢王。漢王請和,割滎陽以西者為漢。項王不聽。漢王患之,乃用陳平之計,予陳平金四萬斤,以閒疏楚君臣。於是項羽乃疑亞父。亞父是時勸項羽遂下滎陽,及其見疑,乃怒,辭老,願賜骸骨歸卒伍,未至彭城而死。漢軍絕食,乃夜出女子東門二千餘人,被甲,楚因四面擊之。將軍紀信乃乘王駕,詐為漢王,誑楚,楚皆呼萬歲,之城東觀,以故漢王得與數十騎出西門遁。
新字:敗後乃独得孝恵,六月,立為太子,大赦罪人。令太子守櫟陽,諸侯子在関中者皆集櫟陽為衛。引水灌廃丘,廃丘降,章邯自殺。更名廃丘為槐里。於是令祠官祀天地四方上帝山川,以時祀之。興関内卒乗塞。是時九江王布与竜且戦,不勝,与随何閒行帰漢。漢王稍収士卒,与諸将及関中卒益出,是以兵大振滎陽,破楚京、索閒。三年,魏王豹謁帰視親疾,至即絶河津,反為楚。漢王使酈生説豹,豹不聴。漢王遣将軍韓信撃,大破之,虜豹。遂定魏地,置三郡,曰河東、太原、上党。漢王乃令張耳与韓信遂東下井陘撃趙,斬陳余、趙王歇。其明年,立張耳為趙王。漢王軍滎陽南,筑甬道属之河,以取敖倉。与項羽相距歳余。項羽数侵奪漢甬道,漢軍乏食,遂囲漢王。漢王請和,割滎陽以西者為漢。項王不聴。漢王患之,乃用陳平之計,予陳平金四万斤,以閒疏楚君臣。於是項羽乃疑亜父。亜父是時勧項羽遂下滎陽,及其見疑,乃怒,辞老,願賜骸骨帰卒伍,未至彭城而死。漢軍絶食,乃夜出女子東門二千余人,被甲,楚因四面撃之。将軍紀信乃乗王駕,詐為漢王,誑楚,楚皆呼万歳,之城東観,以故漢王得与数十騎出西門遁。
書き下し
敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
現代語訳
敗れた後、ようやく孝恵だけを見つけ出すことができた。六月、孝恵を太子に立て、罪人たちに大赦を行った。太子に櫟陽を守らせ、関中にいる諸侯の子弟を皆櫟陽に集めて護衛とした。水を引いて廃丘を水攻めにすると、廃丘は降り、章邯は自殺した。廃丘の名を改めて槐里とした。そこで祭祀を担当する役人に命じて天地・四方・上帝・山川を祀らせ、季節ごとに祭祀を行わせた。関中の兵を動員して辺境の要塞を守らせた。このとき九江王黥布は龍且と戦って勝てず、随何とともに抜け道を通って漢に帰順した。漢王は少しずつ兵士を集め、将たちや関中の兵がますます加わったので、兵は滎陽で大いに勢いを盛り返し、楚を京と索の間で破った。三年(前204年)、魏王豹は親の病気を見舞うと言って帰国の許しを願い出たが、国に着くとすぐに黄河の渡し場を断ち切り、背いて楚の側についた。漢王は酈生(酈食其)に豹を説得させたが、豹は聞き入れなかった。漢王は将軍韓信を派遣して攻めさせ、大いにこれを破って豹を捕虜にした。こうして魏の地を平定し、河東・太原・上党の三郡を置いた。漢王はそこで張耳と韓信に、そのまま東へ進んで井陘を下り趙を攻めさせ、陳余と趙王歇を斬った。その翌年、張耳を趙王に立てた。漢王は滎陽の南に陣を置き、甬道を築いて黄河まで連ね、敖倉の穀物を取り入れた。項羽とにらみ合うこと一年余りに及んだ。項羽はたびたび漢の甬道を襲って奪ったので、漢の軍は食糧が乏しくなり、ついに項羽は漢王を包囲した。漢王は和睦を求め、滎陽より西を漢の領分にしたいと申し出たが、項王は聞き入れなかった。漢王はこれに頭を悩ませ、陳平の計略を用いて、陳平に黄金四万斤を与え、楚の君臣の仲を裂かせた。こうして項羽は亜父(范増)を疑うようになった。亜父はこのとき項羽に一気に滎陽を落とすよう勧めていたが、疑われていると知ると怒り、老齢を理由に辞職を申し出て、「この老骨をお返しいただき、一兵卒に戻りたい」と願い出た。そして彭城に着かないうちに死んだ。漢の軍は食糧が尽きたので、夜、女性二千余人に鎧を着せて東門から出した。楚はそこで四方からこれを攻撃した。将軍紀信は王の車に乗って漢王になりすまし、楚をだました。楚の兵は皆万歳を叫んで城の東へ見物に行った。そのすきに漢王は数十騎とともに西門から出て逃れることができた。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀御史大夫周苛・魏豹・樅公をして滎陽を守らしむ。諸将卒の従ふ能はざる者、尽く城中に在り。周苛・樅公相謂ひて曰く、「反国の王は、与に城を守り難し。」と。因りて魏豹を殺す。漢王の滎陽を出でて関に入るや、兵を収めて復た東せんと欲す。袁生漢王に説きて曰く、「漢楚と滎陽に相距ぐこと数歳、漢常に困しむ。願はくは君王武関を出でよ、項羽必ず兵を引きて南に走らん、王壁を深くし、滎陽・成皋の間をして且く休むを得しめよ。韓信等をして河北の趙の地を輯め、燕・斉に連ならしめ、君王乃ち復た滎陽に走るも、未だ晩からざるなり。此くの如くせば、則ち楚の備ふる所の者多く、力分かれ、漢休むを得て、復た之と戦はば、楚を破ること必せり。」と。漢王其の計に従ひ、軍を宛・葉の間に出だし、黥布と行くゆく兵を収む。項羽漢王の宛に在るを聞き、果たして兵を引きて南す。漢王壁を堅くして与に戦はず。是の時彭越睢水を渡り、項声・薛公と下邳に戦ひ、彭越大いに楚の軍を破る。項羽乃ち兵を引きて東のかた彭越を撃つ。漢王も亦兵を引きて北し成皋に軍す。項羽已に彭越を破り走らせ、漢王復た成皋に軍すと聞き、乃ち復た兵を引きて西し、滎陽を抜き、周苛・樅公を誅し、而して韓王信を虜にし、遂に成皋を囲む。漢王跳(のが)れ、独り滕公と車を共にして成皋の玉門を出で、北のかた河を渡り、馳せて修武に宿す。自ら使者と称し、晨に馳せて張耳・韓信の壁に入り、而して其の軍を奪ふ。乃ち張耳をして北のかた益々兵を趙の地に収めしめ、韓信をして東のかた斉を撃たしむ。漢王韓信の軍を得て、則ち復た振るふ。兵を引きて河に臨み、南のかた軍を小修武の南に饗し、復た戦はんと欲す。郎中鄭忠乃ち説きて漢王を止め、塁を高くし塹を深くして、与に戦ふ勿からしむ。漢王其の計を聴き、盧綰・劉賈をして卒二万人、騎数百を将ゐて、白馬津を渡り、楚の地に入らしむ、彭越と復た楚の軍を燕郭の西に撃破し、遂に復た梁の地十余城を下す。淮陰已に命を受けて東す、未だ平原を渡らず。
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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