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史記 / 高祖本紀

或說沛公曰:「秦富十倍天下,地形彊。今聞章邯降項羽,項羽乃號為雍王,王關中。今則來,沛公恐不得有此。可急使兵守函谷關,無內諸侯軍,稍徵關中兵以自益,距之。」沛公然其計,從之。十一月中,項羽果率諸侯兵西,欲入關,關門閉。聞沛公已定關中,大怒,使黥布等攻破函谷關。十二月中,遂至戲。沛公左司馬曹無傷聞項王怒,欲攻沛公,使人言項羽曰:「沛公欲王關中,令子嬰為相,珍寶盡有之。」欲以求封。亞父勸項羽擊沛公。方饗士,旦日合戰。是時項羽兵四十萬,號百萬。沛公兵十萬,號二十萬,力不敵。會項伯欲活張良,夜往見良,因以文諭項羽,項羽乃止。沛公從百餘騎,驅之鴻門,見謝項羽。項羽曰:「此沛公左司馬曹無傷言之。不然,籍何以生此!」沛公以樊噲、張良故,得解歸。歸,立誅曹無傷。項羽遂西,屠燒咸陽秦宮室,所過無不殘破。秦人大失望,然恐,不敢不服耳。項羽使人還報懷王。懷王曰:「如約。」項羽怨懷王不肯令與沛公俱西入關,而北救趙,後天下約。乃曰:「懷王者,吾家項梁所立耳,非有功伐,何以得主約!本定天下,諸將及籍也。」乃詳尊懷王為義帝,實不用其命。正月,項羽自立為西楚霸王,王梁、楚地九郡,都彭城。

新字:或説沛公曰:「秦富十倍天下,地形彊。今聞章邯降項羽,項羽乃号為雍王,王関中。今則来,沛公恐不得有此。可急使兵守函谷関,無内諸侯軍,稍徴関中兵以自益,距之。」沛公然其計,従之。十一月中,項羽果率諸侯兵西,欲入関,関門閉。聞沛公已定関中,大怒,使黥布等攻破函谷関。十二月中,遂至戯。沛公左司馬曹無傷聞項王怒,欲攻沛公,使人言項羽曰:「沛公欲王関中,令子嬰為相,珍宝尽有之。」欲以求封。亜父勧項羽撃沛公。方饗士,旦日合戦。是時項羽兵四十万,号百万。沛公兵十万,号二十万,力不敵。会項伯欲活張良,夜往見良,因以文諭項羽,項羽乃止。沛公従百余騎,駆之鴻門,見謝項羽。項羽曰:「此沛公左司馬曹無傷言之。不然,籍何以生此!」沛公以樊噲、張良故,得解帰。帰,立誅曹無傷。項羽遂西,屠焼咸陽秦宮室,所過無不残破。秦人大失望,然恐,不敢不服耳。項羽使人還報懐王。懐王曰:「如約。」項羽怨懐王不肯令与沛公倶西入関,而北救趙,後天下約。乃曰:「懐王者,吾家項梁所立耳,非有功伐,何以得主約!本定天下,諸将及籍也。」乃詳尊懐王為義帝,実不用其命。正月,項羽自立為西楚覇王,王梁、楚地九郡,都彭城。

書き下し

或るひと沛公に説きて曰く、「秦の富は天下に十倍し、地形彊し。今聞く章邯項羽に降り、項羽乃ち号して雍王と為し、関中に王たらしむと。今則ち来らば、沛公恐らくは此を有つを得ざらん。急ぎ兵をして函谷関を守らしめ、諸侯の軍を内るる無く、稍々関中の兵を徴して以て自ら益し、之を距ぐべし。」と。沛公其の計を然りとし、之に従ふ。十一月中、項羽果たして諸侯の兵を率ゐて西し、関に入らんと欲す、関門閉づ。沛公已に関中を定むと聞き、大いに怒り、黥布等をして函谷関を攻め破らしむ。十二月中、遂に戯に至る。沛公の左司馬曹無傷項王の怒りて、沛公を攻めんと欲するを聞き、人をして項羽に言はしめて曰く、「沛公関中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍宝尽く之を有す。」と。以て封を求めんと欲す。亜父項羽に沛公を撃たんことを勧む。方に士を饗し、旦日合戦せんとす。是の時項羽の兵四十万、百万と号す。沛公の兵十万、二十万と号す、力敵せず。会々項伯張良を活かさんと欲し、夜往きて良に見ゆ、因りて文を以て項羽を諭す、項羽乃ち止む。沛公百余騎を従へ、之を鴻門に駆り、見えて項羽に謝す。項羽曰く、「此れ沛公の左司馬曹無傷之を言ふ。然らずんば、籍何を以て此を生ぜん。」と。沛公樊噲・張良の故を以て、解けて帰るを得たり。帰りて、立ちどころに曹無傷を誅す。項羽遂に西し、咸陽の秦の宮室を屠焼し、過ぐる所残破せざる無し。秦人大いに望みを失ふ、然れども恐れ、敢へて服せずんばあらざるのみ。項羽人をして還りて懐王に報ぜしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。項羽懐王の肯へて沛公と倶に西して関に入らしめずして、北のかた趙を救はしめ、天下の約に後れしめしを怨む。乃ち曰く、「懐王は、吾が家項梁の立てし所のみ、功伐有るに非ず、何を以てか約を主るを得ん。本天下を定むるは、諸将及び籍なり。」と。乃ち詳(いつは)りて懐王を尊びて義帝と為し、実は其の命を用ゐず。正月、項羽自ら立ちて西楚の霸王と為り、梁・楚の地九郡に王たり、彭城に都す。

現代語訳

ある人が沛公に説いた。「秦の富は天下の他の地の十倍もあり、地形も堅固だ。聞くところによれば、章邯が項羽に降り、項羽は章邯を雍王と名づけて関中の王にするという。いま彼らがやって来れば、沛公はおそらくここを保てないだろう。急いで兵に函谷関を守らせて諸侯の軍を入れず、少しずつ関中の兵を徴発して自軍を増強し、これを防ぐべきだ」。沛公はその計略をもっともだと思い、これに従った。十一月、項羽は果たして諸侯の兵を率いて西へ進み、関中に入ろうとしたが、関の門は閉ざされていた。沛公がすでに関中を平定したと聞くと、項羽は大いに怒り、黥布らに函谷関を攻め破らせた。十二月、ついに戯に至った。沛公の左司馬の曹無傷は、項王が怒って沛公を攻めようとしていると聞き、人をやって項羽に告げさせた。「沛公は関中の王になろうとして、子嬰を宰相にし、珍しい宝物を残らず自分のものにしている」。これによって項羽から領地をもらおうとしたのである。亜父(范増)は項羽に沛公を攻めるよう勧めた。兵士たちにご馳走を振る舞い、翌朝に決戦しようとしていた。このとき項羽の兵は四十万で、百万と号していた。沛公の兵は十万で、二十万と号していたが、力では到底かなわなかった。たまたま項伯が張良を救おうとして、夜に張良に会いに行ったことから、沛公の釈明の言葉を伝えて項羽を説得したので、項羽は攻撃を思いとどまった。沛公は百余騎を従えて鴻門へ馬を走らせ、項羽に会って謝罪した。項羽は言った。「これは沛公の左司馬曹無傷が言ったことだ。そうでなければ、この籍がどうしてこんなことを思いついただろうか」。沛公は樊噲と張良のおかげで、危機を解いて帰ることができた。帰ると、ただちに曹無傷を誅殺した。項羽はそのまま西へ進み、咸陽で虐殺を行って秦の宮殿を焼き、通過した所はどこも破壊された。秦の人々は大いに失望したが、恐れて服従しないわけにはいかなかった。項羽は人をやって懐王に報告させた。懐王は「約束の通りにせよ」と言った。項羽は、懐王が自分を沛公とともに西へ進ませて関中に入らせず、北の趙の救援に向かわせたために、天下の約束(先に関中に入った者を王とする)で後れを取らされたことを恨んでいた。そこで言った。「懐王は我が家の項梁が立てたにすぎず、何の手柄もない。どうして約束を取り仕切る資格があろうか。そもそも天下を平定したのは将たちとこの籍なのだ」。そこでうわべだけ懐王を尊んで義帝とし、実際にはその命令を用いなかった。正月、項羽は自ら立って西楚の覇王となり、梁と楚の地の九郡の王として彭城を都とした。

解説

高祖本紀の側から見た鴻門の会とその前後です。項羽本紀では劇的に描かれた場面が、ここでは要点だけに圧縮されています。発端は、ある人の進言で劉邦が函谷関を閉ざしたことでした。これが項羽を激怒させ、曹無傷の密告が火に油を注ぎます。兵力は四十万対十万で、劉邦に勝ち目はありませんでした。項伯の仲介と鴻門での謝罪、樊噲と張良の働きで劉邦は生き延び、戻るとすぐに内通者を斬ります。一方の項羽は咸陽を焼き、秦の民を失望させました。さらに項羽は、懐王の約束を「手柄のない者が取り仕切る資格はない」と否定し、名目だけ義帝に祭り上げます。約束を守らないトップは、自らが約束の上に立つ根拠をも崩すことになる、と司馬遷は示唆しています。

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