史記 / 高祖本紀
沛令善公,求之不與,何自妄許與劉季?」呂公曰:「此非兒女子所知也。」卒與劉季。呂公女乃呂后也,生孝惠帝、魯元公主。高祖為亭長時,常告歸之田。呂后與兩子居田中耨,有一老父過請飲,呂后因餔之。老父相呂后曰:「夫人天下貴人。」令相兩子,見孝惠,曰:「夫人所以貴者,乃此男也。」相魯元,亦皆貴。老父已去,高祖適從旁舍來,呂后具言客有過,相我子母皆大貴。高祖問,曰:「未遠。」乃追及,問老父。老父曰:「鄉者夫人嬰兒皆似君,君相貴不可言。」高祖乃謝曰:「誠如父言,不敢忘德。」及高祖貴,遂不知老父處。高祖為亭長,乃以竹皮為冠,令求盜之薛治之,時時冠之,及貴常冠,所謂「劉氏冠」乃是也。高祖以亭長為縣送徒酈山,徒多道亡。自度比至皆亡之,到豐西澤中,止飲,夜乃解縱所送徒。曰:「公等皆去,吾亦從此逝矣!」徒中壯士願從者十餘人。高祖被酒,夜徑澤中,令一人行前。行前者還報曰:「前有大蛇當徑,願還。」高祖醉,曰:「壯士行,何畏!」乃前,拔劍擊斬蛇。蛇遂分為兩,徑開。行數里,醉,因臥。後人來至蛇所,有一老嫗夜哭。人問何哭,嫗曰:「人殺吾子,故哭之。」人曰:「嫗子何為見殺?」嫗曰:「吾,白帝子也,化為蛇,當道,今為赤帝子斬之,故哭。」
新字:沛令善公,求之不与,何自妄許与劉季?」呂公曰:「此非児女子所知也。」卒与劉季。呂公女乃呂后也,生孝恵帝、魯元公主。高祖為亭長時,常告帰之田。呂后与両子居田中耨,有一老父過請飲,呂后因餔之。老父相呂后曰:「夫人天下貴人。」令相両子,見孝恵,曰:「夫人所以貴者,乃此男也。」相魯元,亦皆貴。老父已去,高祖適従旁舎来,呂后具言客有過,相我子母皆大貴。高祖問,曰:「未遠。」乃追及,問老父。老父曰:「郷者夫人嬰児皆似君,君相貴不可言。」高祖乃謝曰:「誠如父言,不敢忘徳。」及高祖貴,遂不知老父処。高祖為亭長,乃以竹皮為冠,令求盗之薛治之,時時冠之,及貴常冠,所謂「劉氏冠」乃是也。高祖以亭長為県送徒酈山,徒多道亡。自度比至皆亡之,到豊西沢中,止飲,夜乃解縦所送徒。曰:「公等皆去,吾亦従此逝矣!」徒中壮士願従者十余人。高祖被酒,夜径沢中,令一人行前。行前者還報曰:「前有大蛇当径,願還。」高祖酔,曰:「壮士行,何畏!」乃前,抜剣撃斬蛇。蛇遂分為両,径開。行数里,酔,因臥。後人来至蛇所,有一老嫗夜哭。人問何哭,嫗曰:「人殺吾子,故哭之。」人曰:「嫗子何為見殺?」嫗曰:「吾,白帝子也,化為蛇,当道,今為赤帝子斬之,故哭。」
書き下し
沛の令公に善し、之を求むるも与へず、何ぞ自ら妄りに許して劉季に与ふる。」と。呂公曰く、「此れ児女子の知る所に非ざるなり。」と。卒に劉季に与ふ。呂公の女は乃ち呂后なり、孝恵帝・魯元公主を生む。高祖亭長為りし時、常て告帰して田に之く。呂后両子と田中に居りて耨る、一老父有り過ぎりて飲を請ふ、呂后因りて之に餔(くら)はす。老父呂后を相して曰く、「夫人は天下の貴人なり。」と。両子を相せしむるに、孝恵を見て、曰く、「夫人の貴き所以の者は、乃ち此の男なり。」と。魯元を相するに、亦皆貴し。老父已に去る、高祖適々旁舎より来る、呂后具に客の過ぎる有り、我が子母を相して皆大いに貴しと言ふ。高祖問ふ、曰く、「未だ遠からず。」と。乃ち追ひ及びて、老父に問ふ。老父曰く、「郷者(さきごろ)の夫人嬰児皆君に似たり、君の相は貴きこと言ふべからず。」と。高祖乃ち謝して曰く、「誠に父の言の如くんば、敢へて徳を忘れず。」と。高祖の貴きに及びて、遂に老父の処を知らず。高祖亭長為りしとき、乃ち竹皮を以て冠と為し、求盗をして薛に之きて之を治めしめ、時時之を冠す、貴きに及びて常に冠す、所謂「劉氏冠」とは乃ち是なり。高祖亭長を以て県の為に徒を酈山に送る、徒多く道に亡ぐ。自ら度るに至るに比びて皆之を亡はん、豊の西の沢中に到り、止まりて飲み、夜乃ち送る所の徒を解き縦つ。曰く、「公等皆去れ、吾も亦此より逝かん。」と。徒中の壮士従はんと願ふ者十余人。高祖酒を被り、夜沢中を径し、一人をして前に行かしむ。前に行く者還りて報じて曰く、「前に大蛇有りて径に当たる、願はくは還らん。」と。高祖酔ひて、曰く、「壮士行く、何ぞ畏れん。」と。乃ち前み、剣を抜きて撃ちて蛇を斬る。蛇遂に分かれて両と為り、径開く。行くこと数里、酔ひて、因りて臥す。後人来りて蛇の所に至る、一老嫗有り夜哭す。人何ぞ哭すると問ふ、嫗曰く、「人吾が子を殺す、故に之を哭す。」と。人曰く、「嫗の子何為れぞ殺さるる。」と。嫗曰く、「吾が子は、白帝の子なり、化して蛇と為り、道に当たる、今赤帝の子の為に之を斬らる、故に哭す。」と。
現代語訳
(呂媼は続けた。)「沛の県令はあなたと親しく、この娘を求めたのにあなたは与えなかった。それなのにどうして勝手に劉季なんかにやる約束をしたのか」。呂公は「これは女子どもの分かることではない」と言った。そしてとうとう劉季に嫁がせた。呂公の娘こそ呂后であり、孝恵帝と魯元公主を生んだ。高祖が亭長だった頃、休暇をもらって田舎の家に帰っていたことがあった。呂后が二人の子と田で草取りをしていると、一人の老人が通りかかって飲み物を求めたので、呂后は食事を与えた。老人は呂后の人相を見て、「奥方は天下の貴人になられる」と言った。二人の子の相を見てもらうと、孝恵を見て、「奥方が貴くなられるのは、この男の子のおかげだ」と言った。魯元の相を見ても、やはり貴い相であった。老人が去ったあと、高祖がちょうど隣の家からやってきた。呂后は、旅の客が通りかかって、私たち母子の相を見て皆たいへん貴いと言ったと詳しく話した。高祖がその人はどこかと尋ねると、呂后は「まだ遠くへは行っていない」と言った。そこで高祖は追いかけて老人に尋ねた。老人は言った。「先ほどの奥方とお子たちは皆あなたに似ている。あなたの相は言葉にできないほど貴い」。高祖は礼を言って、「本当にご老人の言う通りになったら、ご恩は決して忘れない」と言った。高祖が貴い身分になったとき、老人の居所はとうとう分からなかった。高祖は亭長だった頃、竹の皮で冠を作ろうと思い、求盗(盗賊を捕らえる役人)を薛にやって作らせ、時々これをかぶっていた。貴くなってからもいつもかぶっていた。いわゆる「劉氏冠」とはこれのことである。高祖は亭長として、県のために労役の囚人を酈山(始皇帝陵の工事現場)に送ることになったが、囚人の多くが途中で逃げた。自分で考えるに、着く頃には全員に逃げられてしまうだろうと思い、豊の西の沼沢地まで来ると、立ち止まって酒を飲み、夜になると送っていた囚人たちを縄から解き放った。そして言った。「お前たちは皆行け。私もここから姿をくらます」。囚人の中の勇士で付いて行きたいと願い出た者が十余人いた。高祖は酒に酔ったまま、夜に沼沢地の小道を進み、一人を先に行かせた。先に行った者が戻ってきて報告した。「前に大蛇がいて道をふさいでいる。どうか引き返したい」。高祖は酔っていて、「勇士が行くのに何を恐れることがあるか」と言った。そして進み出て、剣を抜いて蛇を斬った。蛇は二つに断ち切られ、道が開けた。数里進むと、酔いが回ってそこで寝てしまった。後から来た人が蛇のいた所に着くと、一人の老婆が夜に泣いていた。人がなぜ泣いているのかと尋ねると、老婆は言った。「人が私の子を殺したので、泣いているのだ」。人は言った。「おばあさんの子はどうして殺されたのか」。老婆は言った。「私の子は白帝の子で、蛇に姿を変えて道にいたところ、いま赤帝の子に斬られてしまった。だから泣いているのだ」。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀高祖は、沛の豊邑中陽里の人、姓は劉氏、字は季。父を太公と曰ひ、母を劉媼と曰ふ。其の先劉媼嘗て大沢の陂に息ひ、夢に神と遇ふ。是の時雷電晦冥、太公往きて視れば、則ち蛟龍を其の上に見る。已にして身有り、遂に高祖を産む。高祖の人と為り、隆準にして龍顔、美しき須髯あり、左股に七十二の黒子有り。仁にして人を愛し、施しを喜び、意豁如たり。常に大度有り、家人の生産作業を事とせず。壮に及び、試みられて吏と為り、泗水の亭長と為る、廷中の吏狎侮せざる所無く、酒及び色を好む。常に王媼・武負に従ひて酒を貰(か)り、酔ひて臥す、武負・王媼其の上に常に龍有るを見て、之を怪しむ。高祖酤ひて留飲する毎に、酒の讎(う)るること数倍す。怪を見るに及びて、歳竟はれば、此の両家常に券を折りて責(さい)を棄つ。高祖常て咸陽に繇(えき)し、縦観して、秦の皇帝を観る、喟然として太息して曰く、「嗟乎、大丈夫当に此くの如くなるべきなり。」と。単父の人呂公沛の令に善し、仇を避けて之に従ひて客となり、因りて沛に家す。沛中の豪桀吏令に重客有りと聞き、皆往きて賀す。蕭何主吏と為り、進を主る、諸大夫に令して曰く、「進千銭に満たざるは、之を堂下に坐せしめよ。」と。高祖亭長為り、素より諸吏を易(あなど)る、乃ち紿(いつは)りて謁を為りて「賀銭万」と曰ふ、実は一銭をも持たず。謁入る、呂公大いに驚き、起ちて、之を門に迎ふ。呂公は、好んで人を相す、高祖の状貌を見、因りて之を重敬し、引きて入りて坐せしむ。蕭何曰く、「劉季は固より大言多く、事を成すこと少なし。」と。高祖因りて諸客を狎侮し、遂に上坐に坐して、詘する所無し。酒闌にして、呂公因りて目して固く高祖を留む。高祖酒を竟へて、後る。呂公曰く、「臣少くして好んで人を相す、人を相すること多し、季の相に如くは無し、願はくは季自愛せよ。臣に息女有り、願はくは季の箕帚の妾と為さん。」と。酒罷む、呂媼呂公を怒りて曰く、「公始め常に此の女を奇とし、貴人に与へんと欲す。
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史記 呂太后本紀呂太后は、高祖の微なりし時の妃なり、孝恵帝・女の魯元太后を生む。高祖の漢王と為るに及び、定陶の戚姫を得て、愛幸し、趙の隠王如意を生む。孝恵人と為り仁弱なり、高祖以為へらく我に類せずと、常に太子を廃して、戚姫の子如意を立てんと欲す、如意我に類すと。戚姫幸せられ、常に上に従ひて関東に之き、日夜啼泣し、其の子を立てて太子に代へんと欲す。呂后年長じ、常に留守し、上に見ゆること希にして、益々疏し。如意立ちて趙王と為りし後、幾ど太子に代はらんとする者数(しばしば)なり、大臣の之を争ひ、及び留侯の策に頼りて、太子廃せらるる毋きを得たり。呂后人と為り剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む、誅する所の大臣多く呂后の力なり。呂后の兄二人、皆将と為る。長兄周呂侯事に死し、其の子呂台を封じて酈侯と為し、子産を交侯と為す。次兄呂釈之を建成侯と為す。高祖十二年四月甲辰、長楽宮に崩ず、太子号を襲ひて帝と為る。是の時高祖の八子、長男肥は、孝恵の兄なり、母を異にす、肥は斉王為り。余は皆孝恵の弟なり、戚姫の子如意は趙王為り、薄夫人の子恒は代王為り、諸姫の子子恢は梁王為り、子友は淮陽王為り、子長は淮南王為り、子建は燕王為り。高祖の弟交は楚王為り、兄の子濞は呉王為り。劉氏に非ざる功臣番君呉芮の子臣は長沙王為り。呂后最も戚夫人及び其の子趙王を怨み、乃ち永巷をして戚夫人を囚へしめ、而して趙王を召す。使者三たび反る、趙の相建平侯周昌使者に謂ひて曰く、「高帝臣に趙王を属す、趙王年少なり。竊かに聞く太后戚夫人を怨み、趙王を召して并せて之を誅せんと欲すと、臣敢へて王を遣はさず。王も且つ亦病めり、詔を奉ずる能はず。」と。呂后大いに怒り、乃ち人をして趙の相を召さしむ。趙の相徴されて長安に至る、乃ち人をして復た趙王を召さしむ。王来たるも、未だ到らず。
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史記 外戚世家大臣之を征し、天其の統を誘き、卒に呂氏を滅ぼす。唯独り孝恵皇后を置きて北宮に居らしむ。代王を迎立す、是れを孝文帝と為し、漢の宗廟を奉ず。此れ豈に天に非ずや。天命に非ずんば孰か能く之に当たらん。薄太后は、父は呉人、姓は薄氏、秦の時に故の魏王の宗家の女魏媼と通じ、薄姫を生む、而して薄父山陰に死し、因りて焉に葬る。諸侯の秦に畔くに及び、魏豹立ちて魏王と為る、而して魏媼其の女を魏の宮に内る。媼の許負の所に之きて相せしむ、薄姫を相して、当に天子を生むべしと云ふ。是の時項羽方に漢王と滎陽に相距ぎ、天下未だ定まる所有らず。豹初め漢と楚を撃つ、許負の言を聞くに及び、心に独り喜び、因りて漢に背きて畔き、中立し、更に楚と連和す。漢、曹参等をして魏王豹を撃虜せしめ、其の国を以て郡と為す、而して薄姫は織室に輸さる。豹已に死す、漢王織室に入り、薄姫の色有るを見て、詔して後宮に内る、歳余幸を得ず。始め姫少き時、管夫人・趙子児と相愛し、約して曰く、「先に貴くならば相忘るること無からん」と。已にして管夫人・趙子児先に漢王に幸せらる。漢王河南宮の成皋台に坐す、此の両美人相与に薄姫の初時の約を笑ふ。漢王之を聞き、其の故を問ふ、両人具に実を以て漢王に告ぐ。漢王心惨然として、薄姫を憐れみ、是の日召して之を幸す。薄姫曰く、「昨暮夜、妾夢みるに蒼龍吾が腹に拠る」と。高帝曰く、「此れ貴徴なり、吾女の為に遂に之を成さん」と。一たび幸せられて男を生む、是れを代王と為す。其の後薄姫希に高祖に見ゆ。高祖崩じ、諸々の御幸の姫戚夫人の属、呂太后怒りて、皆之を幽し、宮を出づるを得ず。而して薄姫は希に見ゆるの故を以て、出づるを得、子に従ひて代に之き、代王の太后と為る。太后の弟薄昭従ひて代に如く。代王立ちて十七年、高后崩ず。
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史記 高祖本紀人乃ち嫗を以て誠ならずと為し、之を告げんと欲す、嫗因りて忽ち見えず。後人至る、高祖覚む。後人高祖に告ぐ、高祖乃ち心に独り喜び、自ら負む。諸々の従者日に益々之を畏る。秦の始皇帝常て曰く「東南に天子の気有り」と、是に於て因りて東游して以て之を厭(おさ)ふ。高祖即ち自ら疑ひ、亡匿し、芒・碭の山沢巌石の間に隠る。呂后人と倶に求むるに、常に之を得たり。高祖怪しみて之に問ふ。呂后曰く、「季の居る所の上常に雲気有り、故に従ひ往きて常に季を得たり。」と。高祖心に喜ぶ。沛中の子弟或いは之を聞き、附かんと欲する者多し。秦の二世元年秋、陳勝等蘄に起こり、陳に至りて王たり、号して「張楚」と為す。諸郡県皆多く其の長吏を殺して以て陳渉に応ず。沛の令恐れ、沛を以て渉に応ぜんと欲す。掾・主吏の蕭何・曹参乃ち曰く、「君は秦の吏為り、今之に背き、沛の子弟を率ゐんと欲するも、恐らくは聴かざらん。願はくは君諸々の亡げて外に在る者を召せ、数百人を得べし、因りて衆を劫かさば、衆敢へて聴かずんばあらず。」と。乃ち樊噲をして劉季を召さしむ。劉季の衆已に数十百人なり。是に於て樊噲劉季に従ひて来る。沛の令後に悔い、其の変有らんことを恐れ、乃ち城を閉ぢて城守し、蕭・曹を誅せんと欲す。蕭・曹恐れ、城を踰えて劉季に保(たよ)る。劉季乃ち帛に書きて城上に射、沛の父老に謂ひて曰く、「天下秦に苦しむこと久し。今父老沛の令の為に守ると雖も、諸侯並び起こり、今に沛を屠らん。沛今共に令を誅し、子弟の立つべき者を択びて之を立て、以て諸侯に応ぜば、則ち家室完からん。然らずんば、父子倶に屠られん、為す無きなり。」と。父老乃ち子弟を率ゐて共に沛の令を殺し、城門を開きて劉季を迎へ、以て沛の令と為さんと欲す。劉季曰く、「天下方に擾れ、諸侯並び起こる、今将を置くこと善からずんば、壹たび敗れて地に塗れん。吾敢へて自ら愛するに非ず、能の薄くして、父兄子弟を完うする能はざらんことを恐る。此れ大事なり、願はくは更に相推して可なる者を択べ。」と。
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史記 高祖本紀蕭・曹等は皆文吏にして、自ら愛し、事の就らずして、後に秦其の家を種族せんことを恐れ、尽く劉季に譲る。諸父老皆曰く、「平生聞く所の劉季の諸々の珍怪、当に貴かるべし、且つ之を卜筮するに、劉季の最も吉なるに如くは莫し。」と。是に於て劉季数(しばしば)譲る。衆敢へて為す莫し、乃ち季を立てて沛公と為す。黄帝を祠り、蚩尤を沛の庭に祭りて、鼓旗に釁(ちぬ)る、幟は皆赤し。殺す所の蛇は白帝の子、殺す者は赤帝の子なるに由る、故に赤を上ぶ。是に於て少年豪吏蕭・曹・樊噲等の如き皆為に沛の子弟二三千人を収め、胡陵・方与を攻め、還りて豊を守る。秦の二世二年、陳渉の将周章の軍西して戯に至りて還る。燕・趙・斉・魏皆自ら立ちて王と為る。項氏呉に起こる。秦の泗川の監平兵を将ゐて豊を囲む、二日にして、出でて与に戦ひ、之を破る。雍歯に命じて豊を守らしめ、兵を引きて薛に之く。泗州の守壮薛に敗れ、走りて戚に至る、沛公の左司馬泗川の守壮を得て、之を殺す。沛公軍を亢父に還し、方与に至る、(周市来りて方与を攻む)未だ戦はず。陳王魏人周市をして地を略せしむ。周市人をして雍歯に謂はしめて曰く、「豊は、故の梁の徙なり。今魏の地已に定まる者数十城。歯今魏に下らば、魏歯を以て侯と為して豊を守らしめん。下らずんば、且に豊を屠らんとす。」と。雍歯雅より沛公に属するを欲せず、魏の之を招くに及び、即ち反きて魏の為に豊を守る。沛公兵を引きて豊を攻むるも、取る能はず。沛公病み、還りて沛に之く。沛公雍歯と豊の子弟の之に叛くを怨み、東陽の甯君・秦嘉景駒を立てて仮王と為し、留に在りと聞き、乃ち往きて之に従ひ、兵を請ひて以て豊を攻めんと欲す。是の時秦の将章邯陳を従(お)ひ、別将司馬夷兵を将ゐて北のかた楚の地を定め、相を屠り、碭に至る。東陽の甯君・沛公兵を引きて西し、与に蕭の西に戦ひ、利あらず。還りて兵を収めて留に聚め、兵を引きて碭を攻め、三日にして乃ち碭を取る。因りて碭の兵を収め、五六千人を得たり。
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