史記 / 高祖本紀
人乃以嫗為不誠,欲告之,嫗因忽不見。後人至,高祖覺。後人告高祖,高祖乃心獨喜,自負。諸從者日益畏之。秦始皇帝常曰「東南有天子氣」,於是因東游以厭之。高祖即自疑,亡匿,隱於芒、碭山澤巖石之閒。呂后與人俱求,常得之。高祖怪問之。呂后曰:「季所居上常有雲氣,故從往常得季。」高祖心喜。沛中子弟或聞之,多欲附者矣。秦二世元年秋,陳勝等起蘄,至陳而王,號為「張楚」。諸郡縣皆多殺其長吏以應陳涉。沛令恐,欲以沛應涉。掾、主吏蕭何、曹參乃曰:「君為秦吏,今欲背之,率沛子弟,恐不聽。願君召諸亡在外者,可得數百人,因劫眾,眾不敢不聽。」乃令樊噲召劉季。劉季之眾已數十百人矣。於是樊噲從劉季來。沛令後悔,恐其有變,乃閉城城守,欲誅蕭、曹。蕭、曹恐,踰城保劉季。劉季乃書帛射城上,謂沛父老曰:「天下苦秦久矣。今父老雖為沛令守,諸侯并起,今屠沛。沛今共誅令,擇子弟可立者立之,以應諸侯,則家室完。不然,父子俱屠,無為也。」父老乃率子弟共殺沛令,開城門迎劉季,欲以為沛令。劉季曰:「天下方擾,諸侯并起,今置將不善,壹敗塗地。吾非敢自愛,恐能薄,不能完父兄子弟。此大事,願更相推擇可者。」
新字:人乃以嫗為不誠,欲告之,嫗因忽不見。後人至,高祖覚。後人告高祖,高祖乃心独喜,自負。諸従者日益畏之。秦始皇帝常曰「東南有天子気」,於是因東游以厭之。高祖即自疑,亡匿,隠於芒、碭山沢巖石之閒。呂后与人倶求,常得之。高祖怪問之。呂后曰:「季所居上常有雲気,故従往常得季。」高祖心喜。沛中子弟或聞之,多欲附者矣。秦二世元年秋,陳勝等起蘄,至陳而王,号為「張楚」。諸郡県皆多殺其長吏以応陳渉。沛令恐,欲以沛応渉。掾、主吏蕭何、曹参乃曰:「君為秦吏,今欲背之,率沛子弟,恐不聴。願君召諸亡在外者,可得数百人,因劫衆,衆不敢不聴。」乃令樊噲召劉季。劉季之衆已数十百人矣。於是樊噲従劉季来。沛令後悔,恐其有変,乃閉城城守,欲誅蕭、曹。蕭、曹恐,踰城保劉季。劉季乃書帛射城上,謂沛父老曰:「天下苦秦久矣。今父老雖為沛令守,諸侯并起,今屠沛。沛今共誅令,択子弟可立者立之,以応諸侯,則家室完。不然,父子倶屠,無為也。」父老乃率子弟共殺沛令,開城門迎劉季,欲以為沛令。劉季曰:「天下方擾,諸侯并起,今置将不善,壱敗塗地。吾非敢自愛,恐能薄,不能完父兄子弟。此大事,願更相推択可者。」
書き下し
人乃ち嫗を以て誠ならずと為し、之を告げんと欲す、嫗因りて忽ち見えず。後人至る、高祖覚む。後人高祖に告ぐ、高祖乃ち心に独り喜び、自ら負む。諸々の従者日に益々之を畏る。秦の始皇帝常て曰く「東南に天子の気有り」と、是に於て因りて東游して以て之を厭(おさ)ふ。高祖即ち自ら疑ひ、亡匿し、芒・碭の山沢巌石の間に隠る。呂后人と倶に求むるに、常に之を得たり。高祖怪しみて之に問ふ。呂后曰く、「季の居る所の上常に雲気有り、故に従ひ往きて常に季を得たり。」と。高祖心に喜ぶ。沛中の子弟或いは之を聞き、附かんと欲する者多し。秦の二世元年秋、陳勝等蘄に起こり、陳に至りて王たり、号して「張楚」と為す。諸郡県皆多く其の長吏を殺して以て陳渉に応ず。沛の令恐れ、沛を以て渉に応ぜんと欲す。掾・主吏の蕭何・曹参乃ち曰く、「君は秦の吏為り、今之に背き、沛の子弟を率ゐんと欲するも、恐らくは聴かざらん。願はくは君諸々の亡げて外に在る者を召せ、数百人を得べし、因りて衆を劫かさば、衆敢へて聴かずんばあらず。」と。乃ち樊噲をして劉季を召さしむ。劉季の衆已に数十百人なり。是に於て樊噲劉季に従ひて来る。沛の令後に悔い、其の変有らんことを恐れ、乃ち城を閉ぢて城守し、蕭・曹を誅せんと欲す。蕭・曹恐れ、城を踰えて劉季に保(たよ)る。劉季乃ち帛に書きて城上に射、沛の父老に謂ひて曰く、「天下秦に苦しむこと久し。今父老沛の令の為に守ると雖も、諸侯並び起こり、今に沛を屠らん。沛今共に令を誅し、子弟の立つべき者を択びて之を立て、以て諸侯に応ぜば、則ち家室完からん。然らずんば、父子倶に屠られん、為す無きなり。」と。父老乃ち子弟を率ゐて共に沛の令を殺し、城門を開きて劉季を迎へ、以て沛の令と為さんと欲す。劉季曰く、「天下方に擾れ、諸侯並び起こる、今将を置くこと善からずんば、壹たび敗れて地に塗れん。吾敢へて自ら愛するに非ず、能の薄くして、父兄子弟を完うする能はざらんことを恐る。此れ大事なり、願はくは更に相推して可なる者を択べ。」と。
現代語訳
人々は老婆がでたらめを言っていると思い、懲らしめようとしたが、老婆はふっと姿を消してしまった。後から来た人たちが追いついたとき、高祖は目を覚ました。後から来た人たちがこのことを告げると、高祖は内心ひそかに喜び、自負を抱いた。従う者たちは日ごとにますます高祖を畏れ敬うようになった。秦の始皇帝はかねてから「東南に天子の気がある」と言っており、そこで東方に巡行してその気を抑えようとした。高祖は自分のことではないかと疑い、逃げて身を隠し、芒山・碭山の山や沼地の岩の間に潜んだ。呂后が人と一緒に探すと、いつも見つけることができた。高祖が不思議に思って尋ねると、呂后は言った。「あなたのいる所の上には、いつも雲気がかかっている。だからそれを頼りに行くと、いつもあなたが見つかるのだ」。高祖は内心喜んだ。沛の若者たちの中にはこれを聞いて、高祖に付き従いたいと思う者が多かった。秦の二世皇帝の元年(前209年)秋、陳勝らが蘄で反乱を起こし、陳に至って王となり、国号を「張楚」とした。諸郡の県では多くの人々が長官を殺して陳渉に呼応した。沛の県令は恐れ、沛ごと陳渉に呼応しようとした。県の属官の蕭何と主吏の曹参が言った。「あなたは秦の役人だ。いま秦に背いて沛の若者を率いようとしても、おそらく従わないだろう。どうか、県外に逃亡している者たちを呼び戻してほしい。数百人は集まるだろう。その力で人々を脅せば、人々は従わないわけにはいかない」。そこで樊噲に劉季を呼びに行かせた。劉季の配下はすでに数十から百人になっていた。こうして樊噲は劉季を連れて戻ってきた。ところが沛の県令は後になって悔やみ、変事が起こるのを恐れて、城門を閉ざして城を守り、蕭何と曹参を殺そうとした。蕭何と曹参は恐れて、城壁を越えて逃げ出し、劉季を頼った。劉季は帛(絹布)に手紙を書いて城壁の上へ矢で射込み、沛の父老たちに呼びかけた。「天下は長らく秦に苦しんできた。いま父老の皆さんは沛の県令のために城を守っているが、諸侯が次々に立ち上がっており、いずれ沛は皆殺しにされるだろう。いま沛の人々がともに県令を殺し、若者の中から立てるにふさわしい者を選んで立て、諸侯に呼応すれば、家族は無事でいられる。そうしなければ、親子ともども皆殺しにされ、どうにもならない」。父老たちはそこで若者を率いてともに沛の県令を殺し、城門を開いて劉季を迎え、沛の県令にしようとした。劉季は言った。「天下はいま乱れ、諸侯が次々に立ち上がっている。いま将を立てるのに適任でなければ、一度敗れれば皆が泥にまみれることになる。私は我が身を惜しんでいるのではない。能力が乏しく、父兄や子弟を守り抜けないことを恐れるのだ。これは大事だ。どうかもう一度互いに推し合って、ふさわしい者を選んでほしい」。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀蕭・曹等は皆文吏にして、自ら愛し、事の就らずして、後に秦其の家を種族せんことを恐れ、尽く劉季に譲る。諸父老皆曰く、「平生聞く所の劉季の諸々の珍怪、当に貴かるべし、且つ之を卜筮するに、劉季の最も吉なるに如くは莫し。」と。是に於て劉季数(しばしば)譲る。衆敢へて為す莫し、乃ち季を立てて沛公と為す。黄帝を祠り、蚩尤を沛の庭に祭りて、鼓旗に釁(ちぬ)る、幟は皆赤し。殺す所の蛇は白帝の子、殺す者は赤帝の子なるに由る、故に赤を上ぶ。是に於て少年豪吏蕭・曹・樊噲等の如き皆為に沛の子弟二三千人を収め、胡陵・方与を攻め、還りて豊を守る。秦の二世二年、陳渉の将周章の軍西して戯に至りて還る。燕・趙・斉・魏皆自ら立ちて王と為る。項氏呉に起こる。秦の泗川の監平兵を将ゐて豊を囲む、二日にして、出でて与に戦ひ、之を破る。雍歯に命じて豊を守らしめ、兵を引きて薛に之く。泗州の守壮薛に敗れ、走りて戚に至る、沛公の左司馬泗川の守壮を得て、之を殺す。沛公軍を亢父に還し、方与に至る、(周市来りて方与を攻む)未だ戦はず。陳王魏人周市をして地を略せしむ。周市人をして雍歯に謂はしめて曰く、「豊は、故の梁の徙なり。今魏の地已に定まる者数十城。歯今魏に下らば、魏歯を以て侯と為して豊を守らしめん。下らずんば、且に豊を屠らんとす。」と。雍歯雅より沛公に属するを欲せず、魏の之を招くに及び、即ち反きて魏の為に豊を守る。沛公兵を引きて豊を攻むるも、取る能はず。沛公病み、還りて沛に之く。沛公雍歯と豊の子弟の之に叛くを怨み、東陽の甯君・秦嘉景駒を立てて仮王と為し、留に在りと聞き、乃ち往きて之に従ひ、兵を請ひて以て豊を攻めんと欲す。是の時秦の将章邯陳を従(お)ひ、別将司馬夷兵を将ゐて北のかた楚の地を定め、相を屠り、碭に至る。東陽の甯君・沛公兵を引きて西し、与に蕭の西に戦ひ、利あらず。還りて兵を収めて留に聚め、兵を引きて碭を攻め、三日にして乃ち碭を取る。因りて碭の兵を収め、五六千人を得たり。
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史記 秦始皇本紀後の使者至る。上問ふ。対へて曰く、「群盗は、郡守尉方に逐捕し、今尽く得たり、憂ふるに足らず」と。上悦ぶ。武臣自ら立ちて趙王と為り、魏咎魏王と為り、田儋斉王と為る。沛公沛に起こる。項梁兵を会稽郡に挙ぐ。二年冬、陳渉の遣はす所の周章等将として西のかた戯に至る。兵数十万。二世大いに驚き、群臣と謀りて曰く、「柰何せん」と。少府章邯曰く、「盗已に至り、衆くして彊し。今近県を発するも及ばず。酈山の徒多し。請ふ之を赦し、兵を授けて以て之を撃たしめん」と。二世乃ち大いに天下に赦し、章邯をして将たらしめ、周章の軍を撃破して走らせ、遂に章を曹陽に殺す。二世益長史司馬欣・董翳を遣はして章邯を佐けて盗を撃たしむ。陳勝を城父に殺し、項梁を定陶に破り、魏咎を臨済に滅ぼす。楚の地の盗の名将已に死し、章邯乃ち北のかた河を渡り、趙王歇等を鉅鹿に撃つ。趙高二世に説きて曰く、「先帝天下を臨制すること久し。故に群臣敢へて非を為し、邪説を進めず。今陛下春秋に富み、初めて位に即く。柰何ぞ公卿と廷に事を決せん。事即し誤り有らば、群臣に短を示すなり。天子は朕と称し、固より声を聞かしめず」と。是に於て二世常に禁中に居り、高と諸事を決す。其の後公卿朝見するを得ること希にして、盗賊益多く、而して関中の卒発して東のかた盗を撃つ者已むこと毋し。右丞相去疾・左丞相斯・将軍馮劫進みて諫めて曰く、「関東の群盗并び起こり、秦兵を発して誅撃し、殺亡する所甚だ衆し。然れども猶ほ止まず。盗の多きは、皆戍漕転作の事苦しく、賦税大なるを以てなり。請ふ且く阿房宮の作者を止め、四辺の戍転を減省せんことを」と。二世曰く、「吾之を韓子に聞く、曰く、『堯舜は采椽刮らず、茅茨翦らず、土塯に飯し、土形に啜る。監門の養と雖も、此より觳ならず。
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史記 留侯世家項伯嘗て人を殺し、良に従ひて匿る。後十年、陳渉等兵を起こす、良も亦た少年百余人を聚む。景駒自ら立ちて楚の仮王と為り、留に在り。良往きて之に従はんと欲し、道にして沛公に還ふ。沛公数千人を将ゐ、地を下邳の西に略す、遂に焉に属す。沛公良を拝して廄将と為す。良数々太公兵法を以て沛公に説く、沛公之を善しとし、常に其の策を用ふ。良他人の為にする者は、皆省みず。良曰く、「沛公は殆ど天授なり」と。故に遂に之に従ひ、去りて景駒に見えず。沛公の薛に之きて、項梁に見ゆるに及び、項梁楚の懐王を立つ。良乃ち項梁に説きて曰く、「君已に楚の後を立つ、而して韓の諸公子横陽君成は賢なり、立てて王と為すべし、益々党を樹てん」と。項梁良をして韓成を求めしめ、立てて以て韓王と為す。良を以て韓の申徒と為し、韓王と千余人を将ゐて西のかた韓の地を略し、数城を得るも、秦輒ち復た之を取る、往来して游兵を潁川に為す。沛公の雒陽より南のかた轘轅に出づるや、良兵を引きて沛公に従ひ、韓の十余城を下し、楊熊の軍を撃破す。沛公乃ち韓王成をして陽翟に留守せしめ、良と倶に南し、宛を攻め下し、西のかた武関に入る。沛公兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す、良説きて曰く、「秦の兵尚ほ強し、未だ軽んずべからず。臣聞く、其の将は屠者の子なりと、賈豎は動かすに利を以てし易し。願はくは沛公且く留まりて壁し、人をして先行せしめ、五万人の為に食を具へ、益々為に旗幟を諸山の上に張り、疑兵と為し、酈食其をして重宝を持して秦の将に啗はしめよ」と。秦の将果たして叛き、連和して倶に西のかた咸陽を襲はんと欲す、沛公之を聴かんと欲す。良曰く、「此れ独り其の将叛かんと欲するのみ、恐らくは士卒従はざらん。従はずんば必ず危ふし、其の解くるに因りて之を撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引きて秦軍を撃ち、大いに之を破る。遂に北のかた藍田に至り、再び戦ひ、秦の兵竟に敗る。遂に咸陽に至り、秦王子嬰沛公に降る。
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史記 高祖本紀沛公をして西のかた地を略して関に入らしむ。諸将と約す、先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと。是の時に当たりて、秦の兵彊く、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ふ、諸将先づ関に入るを利とする莫し。独り項羽秦の項梁の軍を破りしを怨み、奮ひて、沛公と西のかた関に入らんことを願ふ。懐王の諸老将皆曰く、「項羽の人と為り彊悍猾賊なり。項羽嘗て襄城を攻め、襄城に遺類無く、皆之を阬にす、諸々の過ぐる所残滅せざる無し。且つ楚数(しばしば)進み取らんとし、前の陳王・項梁皆敗る。更に長者を遣はして義に扶りて西し、秦の父兄に告諭するに如かず。秦の父兄其の主に苦しむこと久し、今誠に長者を得て往き、侵暴する毋くんば、宜しく下すべし。今項羽は彊悍なり、今遣はすべからず。独り沛公素より寛大の長者なり、遣はすべし。」と。卒に項羽を許さずして、沛公を遣はして西のかた地を略し、陳王・項梁の散卒を収めしむ。乃ち碭に道して成陽に至り、杠里の秦の軍と壁を夾み、(魏)[秦]の二軍を破る。楚の軍兵を出して王離を撃ち、大いに之を破る。沛公兵を引きて西し、彭越に昌邑に遇ひ、因りて与に倶に秦の軍を攻む、戦ひて利あらず。還りて栗に至り、剛武侯に遇ひ、其の軍を奪ふ、四千余人可り、之を并す。魏の将皇欣・魏の申徒武蒲の軍と并せて昌邑を攻む、昌邑未だ抜けず。西のかた高陽を過ぐ。酈食其監門為り、曰く、「諸将の此を過ぐる者多し、吾沛公を視るに大人長者なり。」と。乃ち見えんことを求めて沛公に説く。沛公方に牀に踞し、両女子をして足を洗はしむ。酈生拝せず、長揖して、曰く、「足下必ず無道の秦を誅せんと欲せば、宜しく踞して長者に見ゆべからず。」と。是に於て沛公起ち、衣を摂めて之に謝し、延きて上坐せしむ。食其沛公に説きて陳留を襲はしめ、秦の積粟を得たり。乃ち酈食其を以て広野君と為し、酈商を将と為し、陳留の兵に将たらしめ、与に偕に開封を攻む、開封未だ抜けず。西のかた秦の将楊熊と白馬に戦ひ、又曲遇の東に戦ひ、大いに之を破る。
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史記 高祖本紀高祖は、沛の豊邑中陽里の人、姓は劉氏、字は季。父を太公と曰ひ、母を劉媼と曰ふ。其の先劉媼嘗て大沢の陂に息ひ、夢に神と遇ふ。是の時雷電晦冥、太公往きて視れば、則ち蛟龍を其の上に見る。已にして身有り、遂に高祖を産む。高祖の人と為り、隆準にして龍顔、美しき須髯あり、左股に七十二の黒子有り。仁にして人を愛し、施しを喜び、意豁如たり。常に大度有り、家人の生産作業を事とせず。壮に及び、試みられて吏と為り、泗水の亭長と為る、廷中の吏狎侮せざる所無く、酒及び色を好む。常に王媼・武負に従ひて酒を貰(か)り、酔ひて臥す、武負・王媼其の上に常に龍有るを見て、之を怪しむ。高祖酤ひて留飲する毎に、酒の讎(う)るること数倍す。怪を見るに及びて、歳竟はれば、此の両家常に券を折りて責(さい)を棄つ。高祖常て咸陽に繇(えき)し、縦観して、秦の皇帝を観る、喟然として太息して曰く、「嗟乎、大丈夫当に此くの如くなるべきなり。」と。単父の人呂公沛の令に善し、仇を避けて之に従ひて客となり、因りて沛に家す。沛中の豪桀吏令に重客有りと聞き、皆往きて賀す。蕭何主吏と為り、進を主る、諸大夫に令して曰く、「進千銭に満たざるは、之を堂下に坐せしめよ。」と。高祖亭長為り、素より諸吏を易(あなど)る、乃ち紿(いつは)りて謁を為りて「賀銭万」と曰ふ、実は一銭をも持たず。謁入る、呂公大いに驚き、起ちて、之を門に迎ふ。呂公は、好んで人を相す、高祖の状貌を見、因りて之を重敬し、引きて入りて坐せしむ。蕭何曰く、「劉季は固より大言多く、事を成すこと少なし。」と。高祖因りて諸客を狎侮し、遂に上坐に坐して、詘する所無し。酒闌にして、呂公因りて目して固く高祖を留む。高祖酒を竟へて、後る。呂公曰く、「臣少くして好んで人を相す、人を相すること多し、季の相に如くは無し、願はくは季自愛せよ。臣に息女有り、願はくは季の箕帚の妾と為さん。」と。酒罷む、呂媼呂公を怒りて曰く、「公始め常に此の女を奇とし、貴人に与へんと欲す。
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史記 高祖本紀初め、項羽宋義と北のかた趙を救ふ、項羽の宋義を殺し、代はりて上将軍と為るに及び、諸将黥布皆属し、秦の将王離の軍を破り、章邯を降し、諸侯皆附く。趙高已に二世を殺すに及び、人をして来らしめ、約して関中に分王せんと欲す。沛公以て詐りと為し、乃ち張良の計を用ゐ、酈生・陸賈をして往きて秦の将に説き、啗はすに利を以てせしめ、因りて武関を襲攻し、之を破る。又秦の軍と藍田の南に戦ひ、益々疑兵の旗幟を張り、諸々の過ぐる所掠鹵するを得る毋からしむ、秦人喜び、秦の軍解く、因りて大いに之を破る。又其の北に戦ひ、大いに之を破る。勝ちに乗じて、遂に之を破る。漢の元年十月、沛公の兵遂に諸侯に先んじて霸上に至る。
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