史記 / 秦始皇本紀
其元年,彗星見。懷公從晉來。享國四年。葬櫟圉氏。生靈公。諸臣圍懷公,懷公自殺。肅靈公,昭子子也。居涇陽。享國十年。葬悼公西。生簡公。簡公從晉來。享國十五年。葬僖公西。生惠公。其七年。百姓初帶劍。惠公享國十三年。葬陵圉。生出公。出公享國二年。出公自殺,葬雍。獻公享國二十三年。葬囂圉。生孝公。孝公享國二十四年。葬弟圉。生惠文王。其十三年,始都咸陽。惠文王享國二十七年。葬公陵。生悼武王。悼武王享國四年,葬永陵。昭襄王享國五十六年。葬茝陽。生孝文王。孝文王享國一年。葬壽陵。生莊襄王。莊襄王享國三年。葬茝陽。生始皇帝。呂不韋相。獻公立七年,初行為市。十年,為戶籍相伍。孝公立十六年。時桃李冬華。惠文王生十九年而立。立二年,初行錢。有新生嬰兒曰「秦且王」。悼武王生十九年而立。立三年,渭水赤三日。昭襄王生十九年而立。立四年,初為田開阡陌。孝文王生五十三年而立。莊襄王生三十二年而立。立二年,取太原地。莊襄王元年,大赦,修先王功臣,施德厚骨肉,布惠於民。東周與諸侯謀秦,秦使相國不韋誅之,盡入其國。秦不絕其祀,以陽人地賜周君,奉其祭祀。始皇享國三十七年。葬酈邑。生二世皇帝。始皇生十三年而立。二世皇帝享國三年。葬宜春。趙高為丞相安武侯。二世生十二年而立。右秦襄公至二世,六百一十歲。
新字:其元年,彗星見。懐公従晋来。享国四年。葬櫟圉氏。生霊公。諸臣囲懐公,懐公自殺。粛霊公,昭子子也。居涇陽。享国十年。葬悼公西。生簡公。簡公従晋来。享国十五年。葬僖公西。生恵公。其七年。百姓初帯剣。恵公享国十三年。葬陵圉。生出公。出公享国二年。出公自殺,葬雍。献公享国二十三年。葬囂圉。生孝公。孝公享国二十四年。葬弟圉。生恵文王。其十三年,始都咸陽。恵文王享国二十七年。葬公陵。生悼武王。悼武王享国四年,葬永陵。昭襄王享国五十六年。葬茝陽。生孝文王。孝文王享国一年。葬寿陵。生荘襄王。荘襄王享国三年。葬茝陽。生始皇帝。呂不韋相。献公立七年,初行為市。十年,為戸籍相伍。孝公立十六年。時桃李冬華。恵文王生十九年而立。立二年,初行銭。有新生嬰児曰「秦且王」。悼武王生十九年而立。立三年,渭水赤三日。昭襄王生十九年而立。立四年,初為田開阡陌。孝文王生五十三年而立。荘襄王生三十二年而立。立二年,取太原地。荘襄王元年,大赦,修先王功臣,施徳厚骨肉,布恵於民。東周与諸侯謀秦,秦使相国不韋誅之,尽入其国。秦不絶其祀,以陽人地賜周君,奉其祭祀。始皇享国三十七年。葬酈邑。生二世皇帝。始皇生十三年而立。二世皇帝享国三年。葬宜春。趙高為丞相安武侯。二世生十二年而立。右秦襄公至二世,六百一十歳。
書き下し
其の元年、彗星見る。懐公晋より来たる。国を享くること四年。櫟圉氏に葬る。霊公を生む。諸臣懐公を囲み、懐公自殺す。粛霊公は、昭子の子なり。涇陽に居る。国を享くること十年。悼公の西に葬る。簡公を生む。簡公晋より来たる。国を享くること十五年。僖公の西に葬る。恵公を生む。其の七年、百姓初めて剣を帯ぶ。恵公国を享くること十三年。陵圉に葬る。出公を生む。出公国を享くること二年。出公自殺し、雍に葬る。献公国を享くること二十三年。囂圉に葬る。孝公を生む。孝公国を享くること二十四年。弟圉に葬る。恵文王を生む。其の十三年、始めて咸陽に都す。恵文王国を享くること二十七年。公陵に葬る。悼武王を生む。悼武王国を享くること四年、永陵に葬る。昭襄王国を享くること五十六年。茝陽に葬る。孝文王を生む。孝文王国を享くること一年。寿陵に葬る。荘襄王を生む。荘襄王国を享くること三年。茝陽に葬る。始皇帝を生む。呂不韋相たり。献公立ちて七年、初めて市を為すを行ふ。十年、戸籍を為して相伍す。孝公立ちて十六年、時に桃李冬に華さく。恵文王生まれて十九年にして立つ。立ちて二年、初めて銭を行ふ。新生の嬰児有りて曰く「秦且に王たらんとす」と。悼武王生まれて十九年にして立つ。立ちて三年、渭水赤きこと三日。昭襄王生まれて十九年にして立つ。立ちて四年、初めて田を為めて阡陌を開く。孝文王生まれて五十三年にして立つ。荘襄王生まれて三十二年にして立つ。立ちて二年、太原の地を取る。荘襄王の元年、大いに赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くし、恵を民に布く。東周諸侯と秦を謀る。秦相国不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。始皇国を享くること三十七年。酈邑に葬る。二世皇帝を生む。始皇生まれて十三年にして立つ。二世皇帝国を享くること三年。宜春に葬る。趙高丞相安武侯と為る。二世生まれて十二年にして立つ。右秦の襄公より二世に至るまで、六百一十歳なり。
現代語訳
(懐公の)元年、彗星が現れた。懐公は晋から来て即位した。在位四年。櫟圉氏に葬られた。霊公を生んだ。臣下たちが懐公を包囲し、懐公は自殺した。粛霊公は昭子の子である。涇陽に住んだ。在位十年。悼公の西に葬られた。簡公を生んだ。簡公は晋から来て即位した。在位十五年。僖公の西に葬られた。恵公を生んだ。その七年、民がはじめて剣を帯びるようになった。恵公は在位十三年。陵圉に葬られた。出公を生んだ。出公は在位二年。出公は自殺し、雍に葬られた。献公は在位二十三年。囂圉に葬られた。孝公を生んだ。孝公は在位二十四年。弟圉に葬られた。恵文王を生んだ。その十三年、はじめて咸陽に都を置いた。恵文王は在位二十七年。公陵に葬られた。悼武王を生んだ。悼武王は在位四年、永陵に葬られた。昭襄王は在位五十六年。茝陽に葬られた。孝文王を生んだ。孝文王は在位一年。寿陵に葬られた。荘襄王を生んだ。荘襄王は在位三年。茝陽に葬られた。始皇帝を生んだ。呂不韋が宰相であった。献公は即位して七年に、はじめて市場の制度を行った。十年、戸籍を作って五家ずつの組にした。孝公が即位して十六年、桃や李の花が冬に咲いた。恵文王は十九歳で即位した。即位して二年、はじめて銭を流通させた。生まれたばかりの赤ん坊が「秦はやがて天下の王となる」と言った。悼武王は十九歳で即位した。即位して三年、渭水が三日間赤くなった。昭襄王は十九歳で即位した。即位して四年、はじめて田を区画して縦横の畦道を開いた。孝文王は五十三歳で即位した。荘襄王は三十二歳で即位した。即位して二年、太原の地を取った。荘襄王の元年、大赦を行い、先王の功臣を顕彰し、恩徳を施して親族を手厚く遇し、民に恵みを広く与えた。東周が諸侯と秦を攻める謀をめぐらした。秦は相国の呂不韋にこれを討たせ、その国をすべて取り上げた。秦は東周の祭祀を絶やさず、陽人の地を周君に与えて、その祭祀を続けさせた。始皇帝は在位三十七年。驪邑に葬られた。二世皇帝を生んだ。始皇帝は十三歳で即位した。二世皇帝は在位三年。宜春に葬られた。趙高が丞相となり、安武侯に封じられた。二世皇帝は十二歳で即位した。以上、秦の襄公から二世皇帝に至るまで、六百十年である。
解説
関連する章句
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史記 秦始皇本紀貴きこと天子為り、富は天下を有ち、身戮殺を免れざる者は、傾きを正すこと非なればなり。是れ二世の過ちなり。襄公立ち、国を享くること十二年。初めて西畤を為る。西垂に葬る。文公を生む。文公立ち、西垂宮に居る。五十年にして死し、西垂に葬る。静公を生む。静公国を享けずして死す。憲公を生む。憲公国を享くること十二年、西新邑に居る。死して、衙に葬る。武公・徳公・出子を生む。出子国を享くること六年、西陵に居る。庶長弗忌・威累・参父の三人、賊を率ゐて出子を鄙衍に賊し、衙に葬る。武公立つ。武公国を享くること二十年。平陽の封宮に居る。宣陽聚の東南に葬る。三庶長其の罪に伏す。徳公立つ。徳公国を享くること二年。雍の大鄭宮に居る。宣公・成公・繆公を生む。陽に葬る。初めて伏し、以て蠱を御ぐ。宣公国を享くること十二年。陽宮に居る。陽に葬る。初めて閏月を志す。成公国を享くること四年、雍の宮に居る。陽に葬る。斉山戎・孤竹を伐つ。繆公国を享くること三十九年。天子霸を致す。雍に葬る。繆公学びて人に著る。康公を生む。康公国を享くること十二年。雍の高寝に居る。竘社に葬る。共公を生む。共公国を享くること五年、雍の高寝に居る。康公の南に葬る。桓公を生む。桓公国を享くること二十七年。雍の太寝に居る。義里丘の北に葬る。景公を生む。景公国を享くること四十年。雍の高寝に居り、丘里の南に葬る。畢公を生む。畢公国を享くること三十六年。車里の北に葬る。夷公を生む。夷公国を享けず。死して、左宮に葬る。恵公を生む。恵公国を享くること十年。車里に葬る。悼公を生む。悼公国を享くること十五年。僖公の西に葬る。雍に城く。剌龔公を生む。剌龔公国を享くること三十四年。入里に葬る。躁公・懐公を生む。其の十年、彗星見る。躁公国を享くること十四年。受寝に居る。悼公の南に葬る。
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史記 秦本紀荘襄王の元年、大いに罪人を赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くして恵を民に布く。東周の君諸侯と秦を謀る。秦相国呂不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周の君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。蒙驁をして韓を伐たしむ。韓成皋・鞏を献ず。秦の界大梁に至り、初めて三川郡を置く。二年、蒙驁をして趙を攻めしめ、太原を定む。三年、蒙驁魏の高都・汲を攻め、之を抜く。趙の楡次・新城・狼孟を攻め、三十七城を取る。四月日食す。王齕上党を攻む。初めて太原郡を置く。魏の将無忌五国の兵を率ゐて秦を撃ち、秦河外に却く。蒙驁敗れ、解きて去る。五月丙午、荘襄王卒し、子政立つ。是を秦の始皇帝と為す。秦王政立ちて二十六年、初めて天下を并せて三十六郡と為し、号して始皇帝と為す。始皇帝立ちて十一年にして崩じ、子胡亥立つ。是を二世皇帝と為す。三年、諸侯并び起こりて秦に叛き、趙高二世を殺し、子嬰を立つ。子嬰立ちて月余にして、諸侯之を誅し、遂に秦を滅ぼす。其の語は始皇本紀の中に在り。太史公曰く、秦の先は嬴姓為り。其の後分封せられ、国を以て姓と為す。徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏有り。然れども秦は其の先の造父の趙城に封ぜらるるを以て、趙氏と為る。
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史記 秦始皇本紀秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子なり。荘襄王秦の為に趙に質子たりしとき、呂不韋の姫を見、悦びて之を取り、始皇を生む。秦の昭王の四十八年正月を以て邯鄲に生まる。生まるるに及び、名づけて政と為し、姓は趙氏なり。年十三歳にして、荘襄王死し、政代はりて立ちて秦王と為る。是の時に当たり、秦の地已に巴・蜀・漢中を并せ、宛を越えて郢を有ち、南郡を置けり。北は上郡以東を収め、河東・太原・上党郡を有つ。東は滎陽に至り、二周を滅ぼし、三川郡を置く。呂不韋相と為り、十万戸に封ぜられ、号して文信侯と曰ふ。賓客游士を招致し、以て天下を并せんと欲す。李斯舎人と為る。蒙驁・王齮・麃公等将軍と為る。王年少く、初めて位に即き、国事を大臣に委ぬ。晋陽反く。将軍蒙驁撃ちて之を定む。二年、麃公卒を将ゐて卷を攻め、首を斬ること三万。三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。王齮死す。十月、将軍蒙驁魏氏の暢・有詭を攻む。歳大いに饑う。四年、暢・有詭を抜く。三月、軍罷む。秦の質子趙より帰り、趙の太子出でて国に帰る。十月庚寅、蝗蟲東方より来たり、天を蔽ふ。天下疫す。百姓粟千石を内るれば、爵一級を拝す。五年、将軍驁魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を定め、皆之を抜き、二十城を取る。初めて東郡を置く。冬雷あり。六年、韓・魏・趙・衛・楚共に秦を撃ち、寿陵を取る。秦兵を出だし、五国の兵罷む。衛を抜き、東郡に迫る。其の君角其の支属を率ゐて徙りて野王に居り、其の山を阻みて以て魏の河内を保つ。七年、彗星先づ東方に出で、北方に見え、五月西方に見る。将軍驁死す。以て龍・孤・慶都を攻め、還りて兵もて汲を攻む。彗星復た西方に見ゆること十六日。夏太后死す。
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史記 秦本紀秦の悼公立つこと十四年にして卒し、子厲共公立つ。孔子悼公の十二年を以て卒す。厲共公の二年、蜀人来たりて賂す。十六年、河の旁らに塹す。兵二万を以て大荔を伐ち、其の王城を取る。二十一年、初めて頻陽を県とす。晋武成を取る。二十四年、晋乱れ、智伯を殺し、其の国を趙・韓・魏に分かつ。二十五年、智開邑人と来奔す。三十三年、義渠を伐ち、其の王を虜にす。三十四年、日食あり。厲共公卒し、子躁公立つ。躁公の二年、南鄭反く。十三年、義渠来たりて伐ち、渭南に至る。十四年、躁公卒し、其の弟懐公を立つ。懐公の四年、庶長朝大臣と懐公を囲む。懐公自殺す。懐公の太子を昭子と曰ふ、蚤く死す。大臣乃ち太子昭子の子を立つ。是を霊公と為す。霊公は、懐公の孫なり。霊公の六年、晋少梁に城く。秦之を撃つ。十三年、籍姑に城く。霊公卒し、子献公立つを得ず。霊公の季父悼子を立つ。是を簡公と為す。簡公は、昭子の弟にして懐公の子なり。簡公の六年、吏をして初めて剣を帯びしむ。洛に塹す。重泉に城く。十六年にして卒し、子恵公立つ。恵公の十二年、子出子生まる。十三年、蜀を伐ち、南鄭を取る。恵公卒し、出子立つ。出子の二年、庶長改霊公の子献公を河西に迎へて之を立つ。出子及び其の母を殺し、之を淵の旁らに沈む。秦往者数君を易へ、君臣乖乱するを以て、故に晋復た彊く、秦の河西の地を奪ふ。献公の元年、従死を止む。二年、櫟陽に城く。四年正月庚寅、孝公生まる。十一年、周の太史儋献公に見えて曰く、「周は故秦国と合して別る。別れて五百歳にして復た合し、合して十七歳にして霸王出でん」と。十六年、桃冬に花さく。十八年、金を櫟陽に雨らす。
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史記 秦始皇本紀秦王覚りて、固く止め、以て秦の国尉と為し、卒に其の計策を用ゐる。而して李斯事を用ゐる。十一年、王翦・桓齮・楊端和鄴を攻め、九城を取る。王翦閼与・橑楊を攻め、皆并せて一軍と為す。翦将たること十八日、軍の斗食以下を帰し、什より二人を推して軍に従はしめ、鄴・安陽を取る。桓齮将たり。十二年、文信侯不韋死し、竊かに葬る。其の舎人の臨む者、晋人なるは之を逐出し、秦人の六百石以上は爵を奪ひて、遷す。五百石以下にして臨まざるは、遷すも、爵を奪ふ勿かれ。今より以来、国事を操ること不道なること嫪毐・不韋の如き者は其の門を籍すること、此に視へ。秋、嫪毐の舎人の蜀に遷されし者を復す。是の時に当たり、天下大いに旱し、六月より八月に至りて乃ち雨ふる。十三年、桓齮趙の平陽を攻め、趙の将扈輒を殺し、首を斬ること十万。王河南に之く。正月、彗星東方に見る。十月、桓齮趙を攻む。十四年、趙の軍を平陽に攻め、宜安を取り、之を破り、其の将軍を殺す。桓齮平陽・武城を定む。韓非秦に使ひす。秦李斯の謀を用ゐ、非を留む。非雲陽に死す。韓王臣と為らんことを請ふ。十五年、大いに兵を興し、一軍は鄴に至り、一軍は太原に至り、狼孟を取る。地動く。十六年九月、卒を発して地を韓の南陽の仮守騰に受けしむ。初めて男子をして年を書せしむ。魏地を秦に献ず。秦麗邑を置く。十七年、内史騰韓を攻め、韓王安を得、尽く其の地を納れ、其の地を以て郡と為し、命じて潁川と曰ふ。地動く。華陽太后卒す。民大いに饑う。十八年、大いに兵を興して趙を攻む。王翦上地を将ゐ、井陘を下る。端和河内を将ゐ、羌瘣趙を伐ち、端和邯鄲城を囲む。十九年、王翦・羌瘣尽く趙の地東陽を定取し、趙王を得たり。兵を引きて燕を攻めんと欲し、中山に屯す。秦王邯鄲に之き、諸の嘗て王の趙に生まれし時に母家と仇怨有りしは、皆之を阬にす。
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史記 呂不韋列伝姫自ら身有るを匿し、大期の時に至りて、子政を生む。子楚遂に姫を立てて夫人と為す。秦の昭王の五十年、王齮をして邯鄲を囲ましむ。急にして、趙子楚を殺さんと欲す。子楚、呂不韋と謀り、金六百斤を行りて守者の吏に予へ、脱るるを得て、亡げて秦軍に赴き、遂に以て帰るを得たり。趙、子楚の妻子を殺さんと欲す。子楚の夫人は趙の豪家の女なり。匿るるを得、故を以て母子竟に活くるを得たり。秦の昭王の五十六年、薨ず。太子安国君立ちて王と為り、華陽夫人を王后と為し、子楚を太子と為す。趙も亦子楚の夫人及び子政を奉じて秦に帰す。秦王立つこと一年にして薨ず。謚して孝文王と為す。太子子楚代りて立つ。是を荘襄王と為す。荘襄王の母とする所の華陽后を華陽太后と為し、真の母夏姫を尊びて以て夏太后と為す。荘襄王の元年、呂不韋を以て丞相と為し、封じて文信侯と為し、河南洛陽の十万戸を食ましむ。
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