史記 / 項羽本紀
項籍者,下相人也,字羽。初起時,年二十四。其季父項梁,梁父即楚將項燕,為秦將王翦所戮者也。項氏世世為楚將,封於項,故姓項氏。
新字:項籍者,下相人也,字羽。初起時,年二十四。其季父項梁,梁父即楚将項燕,為秦将王翦所戮者也。項氏世世為楚将,封於項,故姓項氏。
書き下し
項籍は、下相(かそう)の人なり、字(あざな)は羽。初め起こりし時、年二十四。其の季父は項梁、梁の父は即ち楚の将項燕にして、秦の将王翦(おうせん)の戮する所と為りし者なり。項氏は世世楚の将たり、項に封ぜらる、故に項氏を姓とす。
現代語訳
項籍は下相(今の江蘇省宿遷のあたり)の人で、字(あざな)を羽という。はじめて兵を挙げたとき、年は二十四であった。その叔父が項梁であり、項梁の父こそ楚の将軍項燕で、秦の将軍王翦(おうせん)に殺された人物である。項氏は代々楚の将軍の家柄で、項の地に封ぜられていたので、項を姓としたのである。
解説
項羽本紀の書き出しで、主人公項羽の出自を簡潔に示す段です。項籍(字は羽)は二十四歳で挙兵し、叔父項梁に育てられました。祖父の項燕は、秦の始皇帝が楚を滅ぼしたときに王翦と戦って敗れた楚の名将です。つまり項羽は、滅ぼされた国の将軍家の末裔として、秦への恨みと楚の誇りを背負って登場します。司馬遷は皇帝でない項羽を「本紀」に立てましたが、それは秦滅亡後の数年間、事実上天下の号令者だったからです。冒頭で家柄を強調するのは、この後の項羽の強さと脆さの両方が、この「名門の将」という自己像から出てくるからでしょう。組織でも、出自や看板は人を動かす力になりますが、それに頼る者の限界もまた示されます。
関連する章句
-
史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
-
史記 項羽本紀項籍少き時、書を学びて成らず、去りて剣を学ぶも、又成らず。項梁之を怒る。籍曰く、「書は以て名姓を記すに足るのみ。剣は一人の敵、学ぶに足らず、万人の敵を学ばん」と。是に於て項梁乃ち籍に兵法を教ふ、籍大いに喜ぶも、略ぼ其の意を知り、又肯へて学を竟へず。籍長八尺餘、力能く鼎を扛ぐ、才気人に過ぐ。
-
史記 項羽本紀太史公曰く、羽尺寸有るに非ず、勢に乗じて隴畝の中に起こり、三年、遂に五諸侯を将ゐて秦を滅ぼし、天下を分裂して、王侯を封じ、政羽より出づ、号して霸王と為る、位終らずと雖も、近古以来未だ嘗て有らざるなり。羽関を背き楚を懐ひ、義帝を放逐して自立し、王侯の己に叛くを怨むに及びては、難いかな。功伐を自矜し、其の私智を奮ひて古を師とせず、霸王の業と謂ひ、力征を以て天下を経営せんと欲す。五年卒に其の国を亡ぼし、身東城に死して、尚ほ覚寤せずして自ら責めず、過てり。乃ち「天我を亡ぼす、用兵の罪に非ざるなり」と引く、豈に謬らずや。
-
史記 項羽本紀項羽晨に上将軍宋義に朝し、即ち其の帳中にて宋義の頭を斬り、出でて軍中に令して曰く、「宋義斉と謀りて楚に反す、楚王陰かに羽をして之を誅せしむ。」と。是の時に当たりて、諸将皆慴服し、敢へて枝梧(しご)する莫し。皆曰く、「首めて楚を立てし者は、将軍の家なり。今将軍乱を誅す。」と。乃ち相与に共に羽を立てて仮の上将軍と為す。人をして宋義の子を追はしめ、之に斉に及びて、之を殺す。桓楚をして命を懐王に報ぜしむ。懐王因りて項羽をして上将軍たらしめ、当陽君・蒲将軍皆項羽に属す。項羽已に卿子冠軍を殺し、威楚国を震はせ、名諸侯に聞こゆ。乃ち当陽君・蒲将軍を遣はして卒二万を将ゐて河を渡り、鉅鹿を救はしむ。戦ひて少しく利あり、陳余復た兵を請ふ。
-
史記 項羽本紀其の後に最(あつ)まりて、郎中騎楊喜、騎司馬呂馬童、郎中呂勝・楊武各々其の一体を得たり。五人共に其の体を会するに、皆是なり。故に其の地を分かちて五と為し、呂馬童を封じて中水侯と為し、王翳を封じて杜衍侯と為し、楊喜を封じて赤泉侯と為し、楊武を封じて呉防侯と為し、呂勝を封じて涅陽侯と為す。項王已に死し、楚の地皆漢に降る、独り魯のみ下らず。漢乃ち天下の兵を引きて之を屠らんと欲す、其の礼義を守り、主の為に節に死するが為に、乃ち項王の頭を持ちて魯に視(しめ)す、魯の父兄乃ち降る。始め、楚の懐王初めて項籍を封じて魯公と為す、其の死するに及びて、魯最後に下る、故に魯公の礼を以て項王を穀城に葬る。漢王為に哀を発し、之に泣きて去る。諸々の項氏の枝属、漢王皆誅せず。乃ち項伯を封じて射陽侯と為す。桃侯・平皋侯・玄武侯は皆項氏なり、姓劉氏を賜ふ。太史公曰く、吾之を周生に聞く、曰く「舜の目は蓋し重瞳子なり」と、又聞く項羽も亦重瞳子なりと。羽豈に其の苗裔ならんや。何ぞ興ることの暴かなるや。夫れ秦其の政を失ひ、陳渉難を首め、豪傑蠭起し、相与に并び争ふこと、勝げて数ふべからず。
-
史記 高祖本紀或るひと沛公に説きて曰く、「秦の富は天下に十倍し、地形彊し。今聞く章邯項羽に降り、項羽乃ち号して雍王と為し、関中に王たらしむと。今則ち来らば、沛公恐らくは此を有つを得ざらん。急ぎ兵をして函谷関を守らしめ、諸侯の軍を内るる無く、稍々関中の兵を徴して以て自ら益し、之を距ぐべし。」と。沛公其の計を然りとし、之に従ふ。十一月中、項羽果たして諸侯の兵を率ゐて西し、関に入らんと欲す、関門閉づ。沛公已に関中を定むと聞き、大いに怒り、黥布等をして函谷関を攻め破らしむ。十二月中、遂に戯に至る。沛公の左司馬曹無傷項王の怒りて、沛公を攻めんと欲するを聞き、人をして項羽に言はしめて曰く、「沛公関中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍宝尽く之を有す。」と。以て封を求めんと欲す。亜父項羽に沛公を撃たんことを勧む。方に士を饗し、旦日合戦せんとす。是の時項羽の兵四十万、百万と号す。沛公の兵十万、二十万と号す、力敵せず。会々項伯張良を活かさんと欲し、夜往きて良に見ゆ、因りて文を以て項羽を諭す、項羽乃ち止む。沛公百余騎を従へ、之を鴻門に駆り、見えて項羽に謝す。項羽曰く、「此れ沛公の左司馬曹無傷之を言ふ。然らずんば、籍何を以て此を生ぜん。」と。沛公樊噲・張良の故を以て、解けて帰るを得たり。帰りて、立ちどころに曹無傷を誅す。項羽遂に西し、咸陽の秦の宮室を屠焼し、過ぐる所残破せざる無し。秦人大いに望みを失ふ、然れども恐れ、敢へて服せずんばあらざるのみ。項羽人をして還りて懐王に報ぜしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。項羽懐王の肯へて沛公と倶に西して関に入らしめずして、北のかた趙を救はしめ、天下の約に後れしめしを怨む。乃ち曰く、「懐王は、吾が家項梁の立てし所のみ、功伐有るに非ず、何を以てか約を主るを得ん。本天下を定むるは、諸将及び籍なり。」と。乃ち詳(いつは)りて懐王を尊びて義帝と為し、実は其の命を用ゐず。正月、項羽自ら立ちて西楚の霸王と為り、梁・楚の地九郡に王たり、彭城に都す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る