史記 / 秦始皇本紀
貴為天子,富有天下,身不免於戮殺者,正傾非也。是二世之過也。襄公立,享國十二年。初為西畤。葬西垂。生文公。文公立,居西垂宮。五十年死,葬西垂。生靜公。靜公不享國而死。生憲公。憲公享國十二年,居西新邑。死,葬衙。生武公、德公、出子。出子享國六年,居西陵。庶長弗忌、威累、參父三人,率賊賊出子鄙衍,葬衙。武公立。武公享國二十年。居平陽封宮。葬宣陽聚東南。三庶長伏其罪。德公立。德公享國二年。居雍大鄭宮。生宣公、成公、繆公。葬陽。初伏,以御蠱。宣公享國十二年。居陽宮。葬陽。初志閏月。成公享國四年,居雍之宮。葬陽。齊伐山戎、孤竹。繆公享國三十九年。天子致霸。葬雍。繆公學著人。生康公。康公享國十二年。居雍高寢。葬竘社。生共公。共公享國五年,居雍高寢。葬康公南。生桓公。桓公享國二十七年。居雍太寢。葬義裏丘北。生景公。景公享國四十年。居雍高寢,葬丘裏南。生畢公。畢公享國三十六年。葬車裏北。生夷公。夷公不享國。死,葬左宮。生惠公。惠公享國十年。葬車里。生悼公。悼公享國十五年。葬僖公西。城雍。生剌龔公。剌龔公享國三十四年。葬入里。生躁公、懷公。其十年,彗星見。躁公享國十四年。居受寢。葬悼公南。
新字:貴為天子,富有天下,身不免於戮殺者,正傾非也。是二世之過也。襄公立,享国十二年。初為西畤。葬西垂。生文公。文公立,居西垂宮。五十年死,葬西垂。生静公。静公不享国而死。生憲公。憲公享国十二年,居西新邑。死,葬衙。生武公、徳公、出子。出子享国六年,居西陵。庶長弗忌、威累、参父三人,率賊賊出子鄙衍,葬衙。武公立。武公享国二十年。居平陽封宮。葬宣陽聚東南。三庶長伏其罪。徳公立。徳公享国二年。居雍大鄭宮。生宣公、成公、繆公。葬陽。初伏,以御蠱。宣公享国十二年。居陽宮。葬陽。初志閏月。成公享国四年,居雍之宮。葬陽。斉伐山戎、孤竹。繆公享国三十九年。天子致覇。葬雍。繆公学著人。生康公。康公享国十二年。居雍高寝。葬竘社。生共公。共公享国五年,居雍高寝。葬康公南。生桓公。桓公享国二十七年。居雍太寝。葬義裏丘北。生景公。景公享国四十年。居雍高寝,葬丘裏南。生畢公。畢公享国三十六年。葬車裏北。生夷公。夷公不享国。死,葬左宮。生恵公。恵公享国十年。葬車里。生悼公。悼公享国十五年。葬僖公西。城雍。生剌龔公。剌龔公享国三十四年。葬入里。生躁公、懐公。其十年,彗星見。躁公享国十四年。居受寝。葬悼公南。
書き下し
貴きこと天子為り、富は天下を有ち、身戮殺を免れざる者は、傾きを正すこと非なればなり。是れ二世の過ちなり。襄公立ち、国を享くること十二年。初めて西畤を為る。西垂に葬る。文公を生む。文公立ち、西垂宮に居る。五十年にして死し、西垂に葬る。静公を生む。静公国を享けずして死す。憲公を生む。憲公国を享くること十二年、西新邑に居る。死して、衙に葬る。武公・徳公・出子を生む。出子国を享くること六年、西陵に居る。庶長弗忌・威累・参父の三人、賊を率ゐて出子を鄙衍に賊し、衙に葬る。武公立つ。武公国を享くること二十年。平陽の封宮に居る。宣陽聚の東南に葬る。三庶長其の罪に伏す。徳公立つ。徳公国を享くること二年。雍の大鄭宮に居る。宣公・成公・繆公を生む。陽に葬る。初めて伏し、以て蠱を御ぐ。宣公国を享くること十二年。陽宮に居る。陽に葬る。初めて閏月を志す。成公国を享くること四年、雍の宮に居る。陽に葬る。斉山戎・孤竹を伐つ。繆公国を享くること三十九年。天子霸を致す。雍に葬る。繆公学びて人に著る。康公を生む。康公国を享くること十二年。雍の高寝に居る。竘社に葬る。共公を生む。共公国を享くること五年、雍の高寝に居る。康公の南に葬る。桓公を生む。桓公国を享くること二十七年。雍の太寝に居る。義里丘の北に葬る。景公を生む。景公国を享くること四十年。雍の高寝に居り、丘里の南に葬る。畢公を生む。畢公国を享くること三十六年。車里の北に葬る。夷公を生む。夷公国を享けず。死して、左宮に葬る。恵公を生む。恵公国を享くること十年。車里に葬る。悼公を生む。悼公国を享くること十五年。僖公の西に葬る。雍に城く。剌龔公を生む。剌龔公国を享くること三十四年。入里に葬る。躁公・懐公を生む。其の十年、彗星見る。躁公国を享くること十四年。受寝に居る。悼公の南に葬る。
現代語訳
天子という尊い身分にあり、天下を所有するほど富んでいながら、その身が殺されることを免れなかったのは、傾いた国を立て直す方法が誤っていたからである。これが二世皇帝の過ちである。(以下は秦の君主の系譜である。)襄公が立ち、在位十二年。はじめて西畤を造った。西垂に葬られた。文公を生んだ。文公が立ち、西垂宮に住んだ。五十年で亡くなり、西垂に葬られた。静公を生んだ。静公は即位しないまま亡くなった。憲公を生んだ。憲公は在位十二年、西新邑に住んだ。亡くなって衙に葬られた。武公・徳公・出子を生んだ。出子は在位六年、西陵に住んだ。庶長の弗忌・威累・参父の三人が刺客を率いて出子を鄙衍で殺し、衙に葬った。武公が立った。武公は在位二十年。平陽の封宮に住んだ。宣陽聚の東南に葬られた。三人の庶長はその罪で処刑された。徳公が立った。徳公は在位二年。雍の大鄭宮に住んだ。宣公・成公・穆公を生んだ。陽に葬られた。はじめて伏日を定め、犬を殺して毒虫の害を防いだ。宣公は在位十二年。陽宮に住んだ。陽に葬られた。はじめて閏月を記録した。成公は在位四年、雍の宮に住んだ。陽に葬られた。(その時代に)斉が山戎と孤竹を討った。穆公は在位三十九年。天子が覇者の称号を与えた。雍に葬られた。穆公は学問によって人に知られた。康公を生んだ。康公は在位十二年。雍の高寝に住んだ。竘社に葬られた。共公を生んだ。共公は在位五年、雍の高寝に住んだ。康公の南に葬られた。桓公を生んだ。桓公は在位二十七年。雍の太寝に住んだ。義里丘の北に葬られた。景公を生んだ。景公は在位四十年。雍の高寝に住み、丘里の南に葬られた。畢公を生んだ。畢公は在位三十六年。車里の北に葬られた。夷公を生んだ。夷公は即位しなかった。亡くなって左宮に葬られた。恵公を生んだ。恵公は在位十年。車里に葬られた。悼公を生んだ。悼公は在位十五年。僖公の西に葬られた。雍に城壁を築いた。剌龔公(厲共公)を生んだ。剌龔公は在位三十四年。入里に葬られた。躁公・懐公を生んだ。その十年に彗星が現れた。躁公は在位十四年。受寝に住んだ。悼公の南に葬られた。
解説
関連する章句
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史記 秦始皇本紀其の元年、彗星見る。懐公晋より来たる。国を享くること四年。櫟圉氏に葬る。霊公を生む。諸臣懐公を囲み、懐公自殺す。粛霊公は、昭子の子なり。涇陽に居る。国を享くること十年。悼公の西に葬る。簡公を生む。簡公晋より来たる。国を享くること十五年。僖公の西に葬る。恵公を生む。其の七年、百姓初めて剣を帯ぶ。恵公国を享くること十三年。陵圉に葬る。出公を生む。出公国を享くること二年。出公自殺し、雍に葬る。献公国を享くること二十三年。囂圉に葬る。孝公を生む。孝公国を享くること二十四年。弟圉に葬る。恵文王を生む。其の十三年、始めて咸陽に都す。恵文王国を享くること二十七年。公陵に葬る。悼武王を生む。悼武王国を享くること四年、永陵に葬る。昭襄王国を享くること五十六年。茝陽に葬る。孝文王を生む。孝文王国を享くること一年。寿陵に葬る。荘襄王を生む。荘襄王国を享くること三年。茝陽に葬る。始皇帝を生む。呂不韋相たり。献公立ちて七年、初めて市を為すを行ふ。十年、戸籍を為して相伍す。孝公立ちて十六年、時に桃李冬に華さく。恵文王生まれて十九年にして立つ。立ちて二年、初めて銭を行ふ。新生の嬰児有りて曰く「秦且に王たらんとす」と。悼武王生まれて十九年にして立つ。立ちて三年、渭水赤きこと三日。昭襄王生まれて十九年にして立つ。立ちて四年、初めて田を為めて阡陌を開く。孝文王生まれて五十三年にして立つ。荘襄王生まれて三十二年にして立つ。立ちて二年、太原の地を取る。荘襄王の元年、大いに赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くし、恵を民に布く。東周諸侯と秦を謀る。秦相国不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。始皇国を享くること三十七年。酈邑に葬る。二世皇帝を生む。始皇生まれて十三年にして立つ。二世皇帝国を享くること三年。宜春に葬る。趙高丞相安武侯と為る。二世生まれて十二年にして立つ。右秦の襄公より二世に至るまで、六百一十歳なり。
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史記 秦本紀荘襄王の元年、大いに罪人を赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くして恵を民に布く。東周の君諸侯と秦を謀る。秦相国呂不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周の君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。蒙驁をして韓を伐たしむ。韓成皋・鞏を献ず。秦の界大梁に至り、初めて三川郡を置く。二年、蒙驁をして趙を攻めしめ、太原を定む。三年、蒙驁魏の高都・汲を攻め、之を抜く。趙の楡次・新城・狼孟を攻め、三十七城を取る。四月日食す。王齕上党を攻む。初めて太原郡を置く。魏の将無忌五国の兵を率ゐて秦を撃ち、秦河外に却く。蒙驁敗れ、解きて去る。五月丙午、荘襄王卒し、子政立つ。是を秦の始皇帝と為す。秦王政立ちて二十六年、初めて天下を并せて三十六郡と為し、号して始皇帝と為す。始皇帝立ちて十一年にして崩じ、子胡亥立つ。是を二世皇帝と為す。三年、諸侯并び起こりて秦に叛き、趙高二世を殺し、子嬰を立つ。子嬰立ちて月余にして、諸侯之を誅し、遂に秦を滅ぼす。其の語は始皇本紀の中に在り。太史公曰く、秦の先は嬴姓為り。其の後分封せられ、国を以て姓と為す。徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏有り。然れども秦は其の先の造父の趙城に封ぜらるるを以て、趙氏と為る。
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史記 秦本紀秦の悼公立つこと十四年にして卒し、子厲共公立つ。孔子悼公の十二年を以て卒す。厲共公の二年、蜀人来たりて賂す。十六年、河の旁らに塹す。兵二万を以て大荔を伐ち、其の王城を取る。二十一年、初めて頻陽を県とす。晋武成を取る。二十四年、晋乱れ、智伯を殺し、其の国を趙・韓・魏に分かつ。二十五年、智開邑人と来奔す。三十三年、義渠を伐ち、其の王を虜にす。三十四年、日食あり。厲共公卒し、子躁公立つ。躁公の二年、南鄭反く。十三年、義渠来たりて伐ち、渭南に至る。十四年、躁公卒し、其の弟懐公を立つ。懐公の四年、庶長朝大臣と懐公を囲む。懐公自殺す。懐公の太子を昭子と曰ふ、蚤く死す。大臣乃ち太子昭子の子を立つ。是を霊公と為す。霊公は、懐公の孫なり。霊公の六年、晋少梁に城く。秦之を撃つ。十三年、籍姑に城く。霊公卒し、子献公立つを得ず。霊公の季父悼子を立つ。是を簡公と為す。簡公は、昭子の弟にして懐公の子なり。簡公の六年、吏をして初めて剣を帯びしむ。洛に塹す。重泉に城く。十六年にして卒し、子恵公立つ。恵公の十二年、子出子生まる。十三年、蜀を伐ち、南鄭を取る。恵公卒し、出子立つ。出子の二年、庶長改霊公の子献公を河西に迎へて之を立つ。出子及び其の母を殺し、之を淵の旁らに沈む。秦往者数君を易へ、君臣乖乱するを以て、故に晋復た彊く、秦の河西の地を奪ふ。献公の元年、従死を止む。二年、櫟陽に城く。四年正月庚寅、孝公生まる。十一年、周の太史儋献公に見えて曰く、「周は故秦国と合して別る。別れて五百歳にして復た合し、合して十七歳にして霸王出でん」と。十六年、桃冬に花さく。十八年、金を櫟陽に雨らす。
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史記 秦本紀是に於て文公遂に周の余民を収めて之を有ち、地岐に至り、岐以東は之を周に献ず。十九年、陳宝を得。二十年、法に初めて三族の罪有り。二十七年、南山の大梓を伐ち、豊大特あり。四十八年、文公の太子卒す。謚を賜ひて竫公と為す。竫公の長子を太子と為す。是れ文公の孫なり。五十年、文公卒し、西山に葬る。竫公の子立つ。是を寧公と為す。寧公の二年、公徙りて平陽に居る。兵を遣はして蕩社を伐つ。三年、亳と戦ふ。亳王戎に奔り、遂に蕩社を滅ぼす。四年、魯の公子翬其の君隠公を弒す。十二年、蕩氏を伐ちて、之を取る。寧公生まれて十歳にして立ち、立つこと十二年にして卒し、西山に葬る。子三人を生む。長男武公太子と為る。武公の弟徳公は、同母にして魯姫の子なり。出子を生む。寧公卒し、大庶長弗忌・威塁・三父太子を廃して出子を立てて君と為す。出子の六年、三父等復た共に人をして出子を賊殺せしむ。出子生まれて五歳にして立ち、立つこと六年にして卒す。三父等乃ち復た故の太子武公を立つ。武公の元年、彭戯氏を伐ち、華山の下に至り、平陽の封宮に居る。三年、三父等を誅して三族を夷す、其の出子を殺せしを以てなり。鄭の高渠瞇其の君昭公を殺す。十年、邽・冀の戎を伐ち、初めて之を県とす。十一年、初めて杜・鄭を県とす。小虢を滅ぼす。十三年、斉人管至父・連称等其の君襄公を殺して公孫無知を立つ。晋霍・魏・耿を滅ぼす。斉の雍廩無知・管至父等を殺して斉の桓公を立つ。斉・晋彊国と為る。十九年、晋の曲沃始めて晋侯と為る。斉の桓公鄄に伯たり。二十年、武公卒し、雍の平陽に葬る。初めて人を以て死に従はしむ。死に従ふ者六十六人。子一人有り、名を白と曰ふ。白立たず、平陽に封ず。其の弟徳公を立つ。
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史記 秦始皇本紀秦海内を并せ、諸侯を兼ね、南面して帝と称し、以て四海を養ふ。天下の士斐然として風に郷ふ。是の若きは何ぞや。曰く、近古の王無きこと久し。周室卑微にして、五霸既に歿し、令天下に行はれず。是を以て諸侯力政し、彊は弱を侵し、衆は寡を暴し、兵革休まず、士民罷敝す。今秦南面して天下に王たり、是れ上に天子有るなり。既に元元の民其の性命を安んずるを得んことを冀ひ、心を虚しくして上を仰がざる莫し。此の時に当たり、威を守り功を定むるは、安危の本此に在り。秦王貪鄙の心を懐き、自奮の智を行ひ、功臣を信ぜず、士民に親しまず、王道を廃し、私権を立て、文書を禁じて刑法を酷にし、詐力を先にして仁義を後にし、暴虐を以て天下の始めと為す。夫れ并兼する者は詐力を高び、安定する者は順権を貴ぶ。此れ取ると守ると術を同じくせざるを言ふなり。秦戦国を離れて天下に王たるも、其の道易へず、其の政改めず。是れ其の之を取る所以と之を守る所以と異なる無きなり。孤独にして之を有つ、故に其の亡ぶこと立ちて待つ可し。借使秦王上世の事を計り、殷周の跡を并せ、以て其の政を制御せば、後に淫驕の主有りと雖も、未だ傾危の患ひ有らざるなり。故に三王の天下を建つるや、名号顕美にして、功業長久なり。今秦の二世立つや、天下領を引きて其の政を観ざる莫し。夫れ寒ゆる者は裋褐を利とし、饑うる者は糟糠を甘しとす。天下の嗷嗷たるは、新主の資なり。此れ労民の仁を為し易きを言ふなり。
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史記 秦本紀周の宣王乃ち荘公の昆弟五人を召し、兵七千人を与へ、西戎を伐たしむ。之を破る。是に於て復た秦仲の後に予へ、及び其の先の大駱の地犬丘并せて之を有たしめ、西垂の大夫と為す。荘公其の故の西犬丘に居り、子三人を生む。其の長男は世父なり。世父曰く、「戎我が大父仲を殺す。我戎王を殺すに非ずんば則ち敢へて邑に入らず」と。遂に将として戎を撃ち、其の弟襄公に譲る。襄公太子と為る。荘公立つこと四十四年にして卒し、太子襄公代はりて立つ。襄公の元年、女弟繆嬴を以て豊王の妻と為す。襄公の二年、戎犬丘を囲む。世父之を撃ち、戎人の虜とする所と為る。歳余にして、復た世父を帰す。七年春、周の幽王褒姒を用ゐて太子を廃し、褒姒の子を立てて適と為し、数諸侯を欺く。諸侯之に叛く。西戎の犬戎申侯と周を伐ち、幽王を酈山の下に殺す。而して秦の襄公兵を将ゐて周を救ひ、戦ふこと甚だ力め、功有り。周犬戎の難を避け、東のかた雒邑に徙る。襄公兵を以て周の平王を送る。平王襄公を封じて諸侯と為し、之に岐以西の地を賜ふ。曰く、「戎無道にして、我が岐・豊の地を侵奪す。秦能く戎を攻め逐はば、即ち其の地を有たん」と。与に誓ひ、之を封爵す。襄公是に於て始めて国し、諸侯と使を通じ聘享の礼をす。乃ち騮駒・黄牛・羝羊各三を用ゐて、上帝を西畤に祠る。十二年、戎を伐ちて岐に至りて卒す。文公を生む。文公の元年、西垂宮に居る。三年、文公兵七百人を以て東に猟す。四年、汧渭の会に至る。曰く、「昔周我が先の秦嬴を此に邑し、後卒に諸侯と為るを獲たり」と。乃ち之に居ることを卜するに、占に吉と曰ふ。即ち之に邑を営む。十年、初めて鄜畤を為り、三牢を用ゐる。十三年、初めて史有りて以て事を紀し、民多く化す。十六年、文公兵を以て戎を伐ち、戎敗走す。
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