史記 / 秦始皇本紀
後使者至,上問,對曰:「群盜,郡守尉方逐捕,今盡得,不足憂。」上悅。武臣自立為趙王,魏咎為魏王,田儋為齊王。沛公起沛。項梁舉兵會稽郡。二年冬,陳涉所遣周章等將西至戲,兵數十萬。二世大驚,與群臣謀曰:「柰何?」少府章邯曰:「盜已至,眾彊,今發近縣不及矣。酈山徒多,請赦之,授兵以擊之。」二世乃大赦天下,使章邯將,擊破周章軍而走,遂殺章曹陽。二世益遣長史司馬欣、董翳佐章邯擊盜,殺陳勝城父,破項梁定陶,滅魏咎臨濟。楚地盜名將已死,章邯乃北渡河,擊趙王歇等於鉅鹿。趙高說二世曰:「先帝臨制天下久,故群臣不敢為非,進邪說。今陛下富於春秋,初即位,柰何與公卿廷決事?事即有誤,示群臣短也。天子稱朕,固不聞聲。」於是二世常居禁中,與高決諸事。其後公卿希得朝見,盜賊益多,而關中卒發東擊盜者毋已。右丞相去疾、左丞相斯、將軍馮劫進諫曰:「關東群盜并起,秦發兵誅擊,所殺亡甚眾,然猶不止。盜多,皆以戌漕轉作事苦,賦稅大也。請且止阿房宮作者,減省四邊戍轉。」二世曰:「吾聞之韓子曰:『堯舜采椽不刮,茅茨不翦,飯土塯,啜土形,雖監門之養,不觳於此。
新字:後使者至,上問,対曰:「群盗,郡守尉方逐捕,今尽得,不足憂。」上悦。武臣自立為趙王,魏咎為魏王,田儋為斉王。沛公起沛。項梁舉兵会稽郡。二年冬,陳渉所遣周章等将西至戯,兵数十万。二世大驚,与群臣謀曰:「柰何?」少府章邯曰:「盗已至,衆彊,今発近県不及矣。酈山徒多,請赦之,授兵以撃之。」二世乃大赦天下,使章邯将,撃破周章軍而走,遂殺章曹陽。二世益遣長史司馬欣、董翳佐章邯撃盗,殺陳勝城父,破項梁定陶,滅魏咎臨済。楚地盗名将已死,章邯乃北渡河,撃趙王歇等於鉅鹿。趙高説二世曰:「先帝臨制天下久,故群臣不敢為非,進邪説。今陛下富於春秋,初即位,柰何与公卿廷決事?事即有誤,示群臣短也。天子称朕,固不聞声。」於是二世常居禁中,与高決諸事。其後公卿希得朝見,盗賊益多,而関中卒発東撃盗者毋已。右丞相去疾、左丞相斯、将軍馮劫進諫曰:「関東群盗并起,秦発兵誅撃,所殺亡甚衆,然猶不止。盗多,皆以戌漕転作事苦,賦税大也。請且止阿房宮作者,減省四辺戍転。」二世曰:「吾聞之韓子曰:『堯舜采椽不刮,茅茨不翦,飯土塯,啜土形,雖監門之養,不觳於此。
書き下し
後の使者至る。上問ふ。対へて曰く、「群盗は、郡守尉方に逐捕し、今尽く得たり、憂ふるに足らず」と。上悦ぶ。武臣自ら立ちて趙王と為り、魏咎魏王と為り、田儋斉王と為る。沛公沛に起こる。項梁兵を会稽郡に挙ぐ。二年冬、陳渉の遣はす所の周章等将として西のかた戯に至る。兵数十万。二世大いに驚き、群臣と謀りて曰く、「柰何せん」と。少府章邯曰く、「盗已に至り、衆くして彊し。今近県を発するも及ばず。酈山の徒多し。請ふ之を赦し、兵を授けて以て之を撃たしめん」と。二世乃ち大いに天下に赦し、章邯をして将たらしめ、周章の軍を撃破して走らせ、遂に章を曹陽に殺す。二世益長史司馬欣・董翳を遣はして章邯を佐けて盗を撃たしむ。陳勝を城父に殺し、項梁を定陶に破り、魏咎を臨済に滅ぼす。楚の地の盗の名将已に死し、章邯乃ち北のかた河を渡り、趙王歇等を鉅鹿に撃つ。趙高二世に説きて曰く、「先帝天下を臨制すること久し。故に群臣敢へて非を為し、邪説を進めず。今陛下春秋に富み、初めて位に即く。柰何ぞ公卿と廷に事を決せん。事即し誤り有らば、群臣に短を示すなり。天子は朕と称し、固より声を聞かしめず」と。是に於て二世常に禁中に居り、高と諸事を決す。其の後公卿朝見するを得ること希にして、盗賊益多く、而して関中の卒発して東のかた盗を撃つ者已むこと毋し。右丞相去疾・左丞相斯・将軍馮劫進みて諫めて曰く、「関東の群盗并び起こり、秦兵を発して誅撃し、殺亡する所甚だ衆し。然れども猶ほ止まず。盗の多きは、皆戍漕転作の事苦しく、賦税大なるを以てなり。請ふ且く阿房宮の作者を止め、四辺の戍転を減省せんことを」と。二世曰く、「吾之を韓子に聞く、曰く、『堯舜は采椽刮らず、茅茨翦らず、土塯に飯し、土形に啜る。監門の養と雖も、此より觳ならず。
現代語訳
その後に来た使者が到着した。皇帝が尋ねると、使者は答えた。「盗賊どもは、郡の太守や尉がちょうど追って捕らえているところで、今やすべて捕らえた。心配するほどのことはない。」皇帝は喜んだ。武臣が自ら趙王を名乗り、魏咎が魏王となり、田儋が斉王となった。沛公(劉邦)が沛で兵を起こした。項梁が会稽郡で兵を挙げた。二年の冬、陳渉が派遣した周章らが将として西へ進み、戯に至った。その兵は数十万であった。二世皇帝は大いに驚き、群臣と相談して言った。「どうしたらよいか。」少府の章邯は言った。「盗賊はすでに迫っており、数が多く強い。今から近くの県の兵を徴発しても間に合わない。驪山で労役をしている囚人が多いので、どうか彼らを赦し、武器を与えて迎え撃たせてほしい。」二世皇帝はそこで天下に大赦を行い、章邯を将として、周章の軍を撃ち破って敗走させ、ついに周章を曹陽で殺した。二世皇帝はさらに長史の司馬欣と董翳を遣わして章邯を助けて盗賊を討たせた。陳勝を城父で殺し、項梁を定陶で破り、魏咎を臨済で滅ぼした。楚の地の盗賊の名将たちはすでに死んだので、章邯は北へ黄河を渡り、趙王歇らを鉅鹿で攻めた。趙高は二世皇帝に説いて言った。「先帝は長く天下に臨んで治めていたので、群臣はあえて悪いことをしたり、よこしまな意見を進めたりしなかった。今、陛下はまだお若く、即位されたばかりである。どうして公卿と朝廷で事を決める必要があろうか。もし事に誤りがあれば、群臣に短所を見せることになる。天子が『朕』と称するのは、もともと声を聞かせない(姿を見せない)ためである。」そこで二世皇帝はいつも宮中の奥にいて、趙高と諸事を決めるようになった。その後、公卿が朝見できることはまれになり、盗賊はますます増え、関中の兵を徴発して東へ盗賊を討ちに行かせることが絶えなかった。右丞相の馮去疾、左丞相の李斯、将軍の馮劫が進み出て諫めた。「関東では盗賊が一斉に起こり、秦は兵を出して討ち、殺したり逃げさせたりした者は非常に多い。それでもなおやまない。盗賊が多いのは、みな辺境の守備や物資の運搬、土木工事の苦しさと、税の重さのためである。どうかしばらく阿房宮の工事をやめ、四方の辺境の守備と運搬を減らしていただきたい。」二世皇帝は言った。「私は韓非子からこう聞いている。『堯や舜は、屋根のたる木を削らず、茅葺きの屋根の端も切りそろえず、土の器で食事をし、土の器で汁をすすった。門番の暮らしでさえ、これより粗末ではない。
解説
関連する章句
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史記 秦始皇本紀乃ち大臣及び諸公子を行誅し、罪過を以て少近の官の三郎を連逮し、立つを得る者無し。而して六公子杜に戮死す。公子将閭の昆弟三人内宮に囚はれ、其の罪を議すること独り後る。二世使ひをして将閭に令せしめて曰く、「公子臣たらず、罪死に当たる。吏法を致さん」と。将閭曰く、「闕廷の礼、吾未だ嘗て敢へて賓賛に従はずんばあらず。廊廟の位、吾未だ嘗て敢へて節を失はず。命を受けて応対するに、吾未だ嘗て敢へて辞を失はず。何をか臣たらずと謂ふ。願はくは罪を聞きて死せん」と。使者曰く、「臣は謀に与るを得ず、書を奉じて事に従ふのみ」と。将閭乃ち天を仰ぎて大いに天を呼ぶこと三たび、曰く、「天か、吾罪無し」と。昆弟三人皆流涕して剣を抜きて自殺す。宗室振恐す。群臣の諫むる者は以て誹謗と為す。大吏は禄を持して容を取り、黔首は振恐す。四月、二世還りて咸陽に至りて曰く、「先帝は咸陽の朝廷小なるが為に、故に阿房宮を営みて室堂と為す。未だ就らざるに、会上崩じ、其の作る者を罷め、土を酈山に復せり。酈山の事大いに畢はる。今阿房宮を釈きて就さずんば、則ち是れ先帝の挙事の過ちを章らかにするなり」と。復た阿房宮を作る。外は四夷を撫すること、始皇の計の如し。尽く其の材士五万人を徴して咸陽に屯衛と為し、射・狗馬・禽獣を教へしむ。食に当たる者多く、度るに足らず。下して郡県に調して菽粟芻稿を転輸せしめ、皆自ら糧食を齎さしめ、咸陽三百里内は其の穀を食ふを得ず。法を用ゐること益刻深なり。七月、戍卒陳勝等故の荊の地に反き、「張楚」と為す。勝自ら立ちて楚王と為り、陳に居り、諸将を遣はして地を徇へしむ。山東の郡県の少年秦の吏に苦しみ、皆其の守尉令丞を殺して反き、以て陳渉に応じ、相立ちて侯王と為り、合従して西に郷ひ、名づけて秦を伐つと為す者、勝げて数ふ可からざるなり。謁者使ひして東方より来たり、反者を以て二世に聞す。二世怒り、吏に下す。
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史記 秦始皇本紀高前に数「関東の盗は能く為す毋し」と言ふ。項羽の秦の将王離等を鉅鹿の下に虜にして前むに及び、章邯等の軍数却き、上書して益助を請ふ。燕・趙・斉・楚・韓・魏皆立ちて王と為る。関より以東、大氐尽く秦の吏に畔きて諸侯に応じ、諸侯咸其の衆を率ゐて西に郷ふ。沛公数万人を将ゐて已に武関を屠り、人をして私かに高に通ぜしむ。高二世の怒りて、誅其の身に及ばんことを恐れ、乃ち病と謝して朝見せず。二世夢に白虎其の左驂の馬を齧みて之を殺す。心楽しまず、怪しみて占夢に問ふ。卜して曰く、「涇水祟りを為す」と。二世乃ち望夷宮に斎し、涇を祠りて、四白馬を沈めんと欲す。使ひをして高を責譲するに盗賊の事を以てせしむ。高懼れ、乃ち陰かに其の婿の咸陽令閻楽・其の弟趙成と謀りて曰く、「上諫めを聴かず。今事急にして、禍を吾が宗に帰せんと欲す。吾上を易置して、更に公子嬰を立てんと欲す。子嬰は仁倹にして、百姓皆其の言を載く」と。郎中令をして内応を為さしめ、詐りて大賊有りと為し、楽をして吏を召し卒を発せしめ、追ひて楽の母を劫して高の舎に置く。楽をして吏卒千余人を将ゐて望夷宮の殿門に至らしめ、衛令僕射を縛りて、曰く、「賊此に入る、何ぞ止めざる」と。衛令曰く、「周廬に卒を設くること甚だ謹めり、安んぞ賊の敢へて宮に入るを得ん」と。楽遂に衛令を斬り、直ちに吏を将ゐて入り、行きながら射る。郎・宦者大いに驚き、或いは走り或いは格ふ。格ふ者は輒ち死し、死する者数十人。郎中令楽と倶に入り、上の幄坐の幃を射る。二世怒り、左右を召すも、左右皆惶擾して闘はず。旁らに宦者一人有り、侍して敢へて去らず。二世内に入り、謂ひて曰く、「公何ぞ蚤く我に告げざる。乃ち此に至る」と。宦者曰く、「臣敢へて言はず、故に全きを得たり。臣をして蚤く言はしめば、皆已に誅せられん。安んぞ今に至るを得ん」と。閻楽前みて二世に即きて数めて曰く、「足下驕恣にして、誅殺無道なり。天下共に足下に畔く。足下其れ自ら計を為せ」と。
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史記 秦始皇本紀二世曰く、「丞相見るを得可きや否や」と。楽曰く、「不可なり」と。二世曰く、「吾願はくは一郡を得て王と為らん」と。許さず。又曰く、「願はくは万戸侯と為らん」と。許さず。曰く、「願はくは妻子と黔首と為り、諸公子に比せん」と。閻楽曰く、「臣命を丞相に受け、天下の為に足下を誅す。足下多言すと雖も、臣敢へて報ぜず」と。其の兵を麾きて進む。二世自殺す。閻楽帰りて趙高に報ず。趙高乃ち悉く諸大臣公子を召し、告ぐるに二世を誅せし状を以てす。曰く、「秦は故王国なり。始皇天下に君たり、故に帝と称す。今六国復た自ら立ち、秦の地益小なり。乃ち空名を以て帝と為すは、不可なり。宜しく王と為ること故の如くすべし、便なり」と。二世の兄の子公子嬰を立てて秦王と為す。黔首を以て二世を杜南の宜春苑中に葬る。子嬰をして斎し、当に廟見して、王璽を受けしめんとす。斎すること五日、子嬰其の子二人と謀りて曰く、「丞相高二世を望夷宮に殺し、群臣の之を誅せんことを恐れ、乃ち詳りて義を以て我を立つ。我聞く、趙高乃ち楚と約し、秦の宗室を滅ぼして関中に王たらんとすと。今我をして斎して廟に見えしむるは、此れ廟中に因りて我を殺さんと欲するなり。我病と称して行かずんば、丞相必ず自ら来たらん。来たらば則ち之を殺さん」と。高人をして子嬰を請はしむること数輩、子嬰行かず。高果たして自ら往きて、曰く、「宗廟は重事なり、王柰何ぞ行かざる」と。子嬰遂に高を斎宮に刺殺し、高の家を三族して以て咸陽に徇ふ。子嬰秦王為ること四十六日、楚の将沛公秦の軍を破りて武関に入り、遂に霸上に至り、人をして子嬰に降を約せしむ。子嬰即ち頸に系くるに組を以てし、白馬素車にて、天子の璽符を奉じて、軹道の旁らに降る。沛公遂に咸陽に入り、宮室府庫を封じ、還りて霸上に軍す。居ること月余にして、諸侯の兵至る。項籍従長と為り、子嬰及び秦の諸公子・宗族を殺す。遂に咸陽を屠り、其の宮室を焼き、其の子女を虜にし、其の珍宝貨財を収め、諸侯共に之を分かつ。
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史記 李斯列伝公子高奔らんと欲するも、収族を恐れ、乃ち書を上りて曰く、「先帝恙無き時、臣入れば則ち食を賜ひ、出づれば則ち輿に乗る。御府の衣、臣之を賜ふを得、中廄の宝馬、臣之を賜ふを得たり。臣当に死に従ふべくして能はず。人の子と為りて不孝、人の臣と為りて不忠なり。不忠なる者は名無くして以て世に立つ。臣請ふ死に従はん。願はくは酈山の足に葬られん。唯だ上幸ひに之を哀憐せよ」と。書上る。胡亥大いに説び、趙高を召して之を示して曰く、「此れ急と謂ふべきか」と。趙高曰く、「人臣死を憂へて暇あらず。何の変か之れ謀るを得ん」と。胡亥其の書を可とし、銭十万を賜ひて以て葬らしむ。法令誅罰日に益々刻深にして、群臣人人自ら危ぶみ、畔かんと欲する者衆し。又阿房の宮を作り、直・馳道を治め、賦斂愈々重く、戍徭已む無し。是に於て楚の戍卒陳勝・呉広等乃ち乱を作し、山東に起こる。傑俊相立ち、自ら置きて侯王と為り、秦に叛き、兵鴻門に至りて卻く。李斯数々間を請ひて諫めんと欲するも、二世許さず。而して二世李斯を責問して曰く、「吾に私議有りて韓子に聞く所有り。曰く『堯の天下を有つや、堂の高さ三尺、采椽斲らず、茅茨翦らず、逆旅の宿と雖も此より勤めざるなり。冬日は鹿裘、夏日は葛衣、粢糲の食、藜藿の羹、土匭に飯し、土鉶に啜る。監門の養と雖も此より觳ならざるなり。禹は竜門を鑿ち、大夏に通じ、九河を疏し、九防を曲げ、渟水を決して之を海に致す。而して股に胈無く、脛に毛無く、手足胼胝し、面目黎黒にして、遂に以て外に死し、会稽に葬らる。臣虜の労も此より烈しからず』と。然らば則ち夫の天下を有つを貴ぶ所の者は、豈に形を苦しめ神を労し、身は逆旅の宿に処り、口は監門の養を食ひ、手は臣虜の作を持たんと欲せんや。此れ不肖の人の勉むる所なり。賢者の務むる所に非ざるなり。
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史記 秦始皇本紀禹龍門を鑿ち、大夏に通じ、河を決して水を亭め、之を海に放ち、身自ら築臿を持し、脛に毛毋し。臣虜の労も此より烈しからず』と。凡そ天下を有つことを貴ぶ所以の者は、意を肆にし欲を極むることを得、主は明法を重んじ、下は敢へて非を為さず、以て海内を制御すればなり。夫れ虞・夏の主は、貴きこと天子為るも、親ら窮苦の実に処りて、以て百姓に徇ふ。尚ほ何ぞ法に於てせん。朕は万乗を尊ぶも、其の実毋し。吾千乗の駕、万乗の属を造り、吾が号名を充たさんと欲す。且つ先帝は諸侯より起こり、天下を兼ね、天下已に定まり、外は四夷を攘ひて以て辺竟を安んじ、宮室を作りて以て意を得たるを章らかにす。而して君は先帝の功業の緒有るを観る。今朕位に即きて二年の間、群盗并び起こるも、君禁ずる能はず、又先帝の為す所を罷めんと欲す。是れ上は以て先帝に報ゆる毋く、次は朕の為に忠力を尽くさず。何を以て位に在らんや」と。去疾・斯・劫を吏に下し、他罪を案責す。去疾・劫曰く、「将相は辱められず」と。自殺す。斯卒に囚はれ、五刑に就く。三年、章邯等其の卒を将ゐて鉅鹿を囲む。楚の上将軍項羽楚の卒を将ゐて往きて鉅鹿を救ふ。冬、趙高丞相と為り、竟に李斯を案じて之を殺す。夏、章邯等戦ひて数却く。二世人をして邯を譲めしむ。邯恐れ、長史欣をして事を請はしむ。趙高見ず、又信ぜず。欣恐れ、亡げ去る。高人をして捕追せしむるも及ばず。欣邯に見えて曰く、「趙高中に事を用ゐる。将軍功有るも亦誅せられ、功無きも亦誅せられん」と。項羽急に秦の軍を撃ち、王離を虜にす。邯等遂に兵を以て諸侯に降る。八月己亥、趙高乱を為さんと欲するも、群臣の聴かざらんことを恐れ、乃ち先づ験を設け、鹿を持ちて二世に献じ、曰く、「馬なり」と。二世笑ひて曰く、「丞相誤れるか、鹿を謂ひて馬と為す」と。左右に問ふ。左右或いは默し、或いは馬と言ひて以て趙高に阿順す。或いは鹿と言ふ。高因りて陰かに諸の鹿と言ふ者を中つるに法を以てす。後群臣皆高を畏る。
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史記 高祖本紀人乃ち嫗を以て誠ならずと為し、之を告げんと欲す、嫗因りて忽ち見えず。後人至る、高祖覚む。後人高祖に告ぐ、高祖乃ち心に独り喜び、自ら負む。諸々の従者日に益々之を畏る。秦の始皇帝常て曰く「東南に天子の気有り」と、是に於て因りて東游して以て之を厭(おさ)ふ。高祖即ち自ら疑ひ、亡匿し、芒・碭の山沢巌石の間に隠る。呂后人と倶に求むるに、常に之を得たり。高祖怪しみて之に問ふ。呂后曰く、「季の居る所の上常に雲気有り、故に従ひ往きて常に季を得たり。」と。高祖心に喜ぶ。沛中の子弟或いは之を聞き、附かんと欲する者多し。秦の二世元年秋、陳勝等蘄に起こり、陳に至りて王たり、号して「張楚」と為す。諸郡県皆多く其の長吏を殺して以て陳渉に応ず。沛の令恐れ、沛を以て渉に応ぜんと欲す。掾・主吏の蕭何・曹参乃ち曰く、「君は秦の吏為り、今之に背き、沛の子弟を率ゐんと欲するも、恐らくは聴かざらん。願はくは君諸々の亡げて外に在る者を召せ、数百人を得べし、因りて衆を劫かさば、衆敢へて聴かずんばあらず。」と。乃ち樊噲をして劉季を召さしむ。劉季の衆已に数十百人なり。是に於て樊噲劉季に従ひて来る。沛の令後に悔い、其の変有らんことを恐れ、乃ち城を閉ぢて城守し、蕭・曹を誅せんと欲す。蕭・曹恐れ、城を踰えて劉季に保(たよ)る。劉季乃ち帛に書きて城上に射、沛の父老に謂ひて曰く、「天下秦に苦しむこと久し。今父老沛の令の為に守ると雖も、諸侯並び起こり、今に沛を屠らん。沛今共に令を誅し、子弟の立つべき者を択びて之を立て、以て諸侯に応ぜば、則ち家室完からん。然らずんば、父子倶に屠られん、為す無きなり。」と。父老乃ち子弟を率ゐて共に沛の令を殺し、城門を開きて劉季を迎へ、以て沛の令と為さんと欲す。劉季曰く、「天下方に擾れ、諸侯並び起こる、今将を置くこと善からずんば、壹たび敗れて地に塗れん。吾敢へて自ら愛するに非ず、能の薄くして、父兄子弟を完うする能はざらんことを恐る。此れ大事なり、願はくは更に相推して可なる者を択べ。」と。
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